不妊列島

ツジセイゴウ

第1話 不妊列島

一 宣告


東都大学病院産婦人科不妊外来診察室。

「やはり難しいですね。これは……」

 医師は眉間にしわを寄せながら一輝に向って言った。山本一輝、33歳、報日新聞の駆け出し記者として日々忙しい毎日を送っていた。結婚して3年、特に計画しているわけでもないのに一向に子供が出来ないため、今日は大学病院の不妊外来を訪れていた。

「精子数は500万、それに運動率も極端に悪いです。このままでは自然受精はまず無理と考えます。」

 医師は検査結果を見ながら気の毒そうに説明を続ける。説明を聞く一輝の肩は小刻みに震えていた。最近男性の不妊が増えているという記事はしばしば週刊誌などでも目にはしていたが、まさか自分がそれと宣告されるとは思ってもみなかった。

「お子さんをお望みでしたら、AIH(夫の精子による人工受精)か顕微受精が必要です。ただ、この精子の数や運動率を見ますと、AID(他人の精子による人工受精)でないとダメかもしれません。どちらもまだ保険適用外のですのでかなり高くつきますが。」

 判断がつきかねている一輝の様子を見て、医師はさらに付け加えた。AIH、精液洗浄、顕微受精……、医師の口からは初めて聞く言葉が次々と発せられる。一輝はそれらの言葉の意味もよく判らぬまま黙って医師の告知を聞いていた。

「今日のところはこれまでにしておきましょう。奥様ともよくお話し合いして下さい。とても大切なことですから、十分時間を掛けてご検討下さい。」

 もう多くの患者を看ているのであろう、医師は決して慌てず、この種の説明には手慣れた感じであった。どの男性も不妊と言われるとまず大きなショックを受ける。何故自分がと悩み抜き、時間を掛けてそれを乗り越えて行くのである。一輝は力なくカウンセリングルームを後にした。 

 先程と同じはずの廊下の待合所が今の一輝には随分と違って見えた。明るく照明されているはずなのに、灰色のもやがかかっているように見え、行き交う人の顔もぼんやりして見えた。もうこのまま子供は出来ないのだろうか。茜にはどう説明したらいいのだろう。そんなことをつらつら考えているうちに、一輝は何時の間にか茜の前に立っていた。

「どうだったの?」

 茜は心配そうに尋ねた。一輝より2つ年下の茜は愛くるしい目をさらに大きく見開いて尋ねた。童顔の茜は年齢よりはかなり若く見えた。一輝が取材に行った保育所で保母さんをしていた彼女にいわば一目惚れしてしまったというところである。

 一輝の顔色が冴えないので、茜はもう覚悟を決めているような風であった。

「うん、やっぱり俺が原因だった。精子の数が極端に少ないって。このままじゃ、子供できないだろうって。」

 一輝は力なく医師から言われたままのことを茜に告げた。しばらく沈鬱な表情で押し黙っていた茜は、やがて満面に笑みを浮かべて言葉を返した。

「い、いいんじゃない。最近生活も苦しいし、無理しなくても。きっと2人きりの方が幸せだわ。いつまでも新婚気分で。それに私もまだしばらくは保母さんの仕事を続け……。」

 茜は落込んでいる一輝を何とか励まそうとするが、しゃべっている間にも茜の声は次第にかすれ、円らな瞳にはいつしかキラリと光るものが溢れていた。


同じ頃、東都大学薬学部篠原教授の部屋。

「いやー、津山君。久しぶりだな。元気そうじゃないか。」

 篠原教授は、笑顔で恵子を部屋に迎え入れた。

「いえ、こちらこそすっかりご無沙汰してしまいまして、大変失礼致しました。」

 恵子は、少し伏目がちに申し訳なさそうに、奨められるままソファに座った。津山恵子、32歳、8年前に同大学の薬学部を卒業し、今は都内の大手製薬会社武沢薬品の研究所に勤めていた。

「いやいや、君も忙しいんだろう。噂はよく耳にしているよ。不妊治療薬の研究では、今じゃ押しも押されぬ第一人者だ。本当に育ての親としても鼻が高いよ。」

 篠原教授は、すっかり白くなった頭に手をやりながら目を細めた。

「まあ、先生、相変わらす、お世辞がお上手だこと。」

「いや、お世辞なんかじゃない。これからは、君らのような若い世代に頑張ってもらわんといかん。わしのような年寄りはそろそろ引退だよ。」

「また、ご冗談を。そう言えば、先生、この度臨床科学研究所の所長に就任されるとか。おめでとうございます。」

「何がめでたいもんか。あそこは教授陣の上がりのポスト。いわばご苦労さんポストだ。まあ、それだけ退官か近くなったっていうことだな。」

 教授は少し寂しげに呟いた。恵子もどう答えていいのか言葉が思い当たらず、少し視線をそらした。

「で、今日君に来てもらったのは、それとも関係するんだか。」

 教授は、少し身を前に乗り出して、修也剣な表情で切り出した。

「君、うちの研究所に来る気はないか。」

 恵子は、突然の話に言葉を呑んだ。東都大学薬学部臨床科学研究所と言えば、国内でも屈指の研究所で、その擁する研究者の数は百名を超え、かつてはノーベル賞学者まで輩出した名門である。いくら不妊治療薬の研究で名を馳せているとはいえ、そんなところで自分のような若輩者が勤まるのかどうか、全くの自信がなかった。

「悪い話じゃないと思うんだが。」

 教授は、恵子が黙ったままでいるので、少し間をおいてから念を押した。

「お、お話は、有難いんですが、私のような者で勤まるんでしょうか。」

 恵子も一度は大学に残ろうかと考えたこともある身である。嬉しくないはずはない。ただ、院生時代の成績が今一歩で、それで仕方なく民間行きを希望した経緯がある。

「さっきも言ったが、私ももうこの歳だ。誰か右腕になって働いてくれる人材が欲しい。」

「それなら、研究所にだって優秀な方はたくさんいらっしゃるのでは。例えば・・、一色さんとか。」

 恵子の頭に咄嗟に一色修也の名が浮かんだ。恵子の一年上で、院生時代にはともに篠原教授に師事した。当時、その優秀さは群を抜いており、薬学部を首席で卒業後は迷わず研究所に残る道を選んだ。

「彼か。彼はダメだ。」

 教授は、大きなため息を漏らしながら、どっぷりとソファに背をもたれかけさせた。

「君の言うとおり、確かに彼は優秀だ。ただ切れる刀ほど時には危険な刃になる。」

「危険な刃?」

「そう、彼は研究者としての道を外してしまった。彼の研究には正直もう着いて行けん。」

「何かあったんですか。」

「ああ、丁度今、学内の倫理委員会でもめているところだ。」

 教授は少し言い難そうにお茶を濁した。恵子は、それ以上聞くまいと口をつぐんだ。

「先生、研究所のお話ですが、少しお時間をいただけませんか。丁度今、武沢薬品の方で重要なプロジェクトを担当していて。他のチームのメンバーの人たちにあまり迷惑をかけたくないんです。」

 恵子は、武沢薬品で担当している極秘プロジェクトのことを頭に思い浮かべていた。今、自分があのプロジェクトを抜ければ、武沢薬品のみならずこの日本国の将来にとっても多大の影響を及ぼす可能性が予想された。

「そうか、そうだろうな。武沢薬品の方も、いま君を抜かれたらさぞ大変だろう。いやすまなかった、無理を言って。」

 教授は、残念そうに肩を落とした。

「でも、困ったことがあったらいつでも声を掛けてくれ。研究所の方は、いつでも大歓迎だ。」

「ご期待に沿えなくて申し訳ありませんでした。でも、一段落したら必ず。」

恵子は申し訳なさそうに深々と頭を下げた。


1年後の正月、一輝のアパート。

「へえー、鈴木さん家、赤ちゃん出来たんだ。」

 年賀状の差出人は茜の高校時代の友人だった。昨年の結婚式に招待されたばかりで、まだ一年も経っていなかったが、年賀状には若い夫婦に抱かれて笑顔を振り撒く赤ん坊の写真がプリントされていた。茜は目を細めて年賀状を見ていたが、一輝が部屋に入ってくるのに気付くと、静かに葉書を伏せた。

「なあ茜、今年こそ顕微受精を試さないか。AIHじゃだめだよ。いくらやっても出来ないよ。」

 部屋に入ってきた一輝は茜の隣に座るや否や、いきなり口を開いた。不妊治療を初めて一年、人工受精を受けた回数は既に10回を超えていた。病院から帰る都度、今度こそはと期待を膨らませてみるものの、いつも茜の生理が始まることで一輝の期待は裏切られていた。一輝は焦っていた。結婚して間もなく5年、田舎の両親も孫の誕生を今か今かと待ち望んでいた。一輝は不妊のことはまだ両親に話していなかった。孫を手に抱くことを何よりも楽しみにしている両親の期待を裏切ることは出来ないという思いであった。

「私はいいわ、そこまでしなくても。こうやって一輝と一緒にいるだけで十分幸せ。」

 茜はそっと一輝の手を握った。しかし、一輝はそんな茜の手を振り払うように続ける。

「いや、そういうわけにもゆかない。早く作らないと2人ともどんどん年を取ってゆく。」

「でも、私怖いわ。顕微受精って。だって卵子の中に無理やり精子を入れて受精させるんでしょう。そんなことしたら神様のお怒りに触れて、きっと良くないことが起きるわ。」

 茜は不安そうに言い返す。そんな茜に対し一輝はさらに説得を試みる。

「大丈夫だよ。今の医学をもってすれば、出来ないことなんてないよ。なっ、茜。」

「嫌よ、私は嫌。絶対嫌。」

 一輝のしつこさに、茜はムッとしたようにそっぽを向いた。一輝は茜に無視されたことで、急に険しい表情になって声を荒げた。

「頼むよ、茜。俺はもう嫌なんだ。毎週毎週、病院に行っては自分で精子を取る、こんな生活はもうたくさんだ。狭いトイレで、ポルノ雑誌を広げてゴシゴシとあれを擦るんだ。出るものも出ないさ。それがどんなに惨めか、君には分からないだろう。」

 一輝は肩を打ち震わせてうな垂れた。AIHは、週一回病院に出向いて自慰行為により精子を採取し、洗浄後それを冷凍保存するところから始まる。4~5回分溜まると妻の排卵日前後にまとめて膣内に注射器で精子の注入が行われる。しかし、人の手が加えられるのはそこまで、そこから先は神の手に委ねられる。これにより受精の確率は上がるが、妊娠が100パーセント保証されるものではない。5パーセントしか望みのないものが、せいぜい20パーセントに上がるかどうかというレベルの話であった。

「やめて、私だって頑張ってきたわ。知らない人の前で、見せたくないものまで見せて。最初は顔から火が出る思いだったわ。痛いのに、無理やり太い注射器を奥底まで差し込まれて。女にとってそれがどんなに惨めか、あなたに分かって?」

 茜は両手で顔を覆って、大声で泣き伏した。茜は一輝以上に辛抱強く耐えてきた。人工受精の辛さもさることながら、この2年間は夜の夫婦事もずっとセーブしてきていた。精子の濃度を上げるため、一輝が病院に精子採取に行く週はセックスを避ける必要がある。新婚当時は優しく抱いてくれた一輝も、今では子作りに血眼になって茜のことはすっかり忘れているようであった。

「す、済まない。少し僕も言い過ぎた。」

 さめざめと泣く茜を前に、一輝は大きな嘆息をもらした。しかし、子供が欲しいという気持ちだけは全くの揺るぎようもなかった。


その半年後、大手製薬会社武沢薬品のボードルーム。

「こ、これは一体どういうことかね、君。」

 文京区本郷にある本社ビルの最上階のボードルームには明るい陽光が差込み、眼下には遠く上野公園の緑が一望できた。そんな美しい景色を掻き消すかのように部屋の中には重苦しい空気が漂っていた。中央に置かれた大きな楕円形のテーブルには社長以下11人の取締役全員が打ち揃い、役員会議が開かれていた。

「私たちの研究チームは過去5年間わが国の不妊の実態を研究してきましたが、予想以上に深刻な状況にあります。結論から申しますと、このまま放置していますと近い将来わが国は深刻な人口減少に見舞われる可能性があります。」

 スクリーンの前では、研究開発担当の岡田常務がパワーポイントを使って説明を続けていた。役員たちの目は、スクリーンに表示された「出生率の推移」というグラフに注がれていた。過去30年間、わが国の平均出生率は緩やかな右肩下がりの線を描いており、最近のところは1.3に近いレベルにまで落ち込んでいた。

「厚生労働省の人口統計によりますと、直近の合計特殊出生率は1.3、つまり1組の成人カップルが平均1.3人の子供しか産んでいないという結果が出ております。単純計算しますと一世代後には日本の人口は現在の70パーセント以下にまで減少するということになります。その後も出生率の改善が期待出来なければ、次の世代にはさらに70パーセント、その次の世代というように、日本の人口はどんどん減っていく可能性があります。」

 岡田常務がさらに説明を続けようとした時、それを遮るように武沢社長が質問を発した。

「ちょっと待った。わが国の少子化は、晩婚化、非婚化など社会的要因が原因じゃないのか。であれば、社会情勢が変化すれば出生率がいつまでも1.3ということはなかろう。いずれ反転して回復するんじゃ。」

 武沢喜平。武沢薬品の15代目当主として長らく社長の椅子に君臨してきた。製薬会社によく見られる典型的な同族経営者で、極めて保守的な采配が会社の安定的な発展を支えてきたが、役員の中にはぬるま湯に浸かったような経営を歯痒いと思う向きも少なくはなかった。

「はい、確かに白書等では若者のライフスタイルの変化が少子化の最大の要因として指摘しております。ですが、私たちの研究ではそうした社会的要因に加えて、不妊という医学的要因の方も無視できないほど大きいのではないかと思わせる結果が出ております。もしそうであるとすれば、はっきりとした原因を究明しない限り出生率の回復は容易でないと考えます。」

 岡田常務はそう付け加えながら、パワーポインタを前に進める。スクリーンの色が変わり、今度は「成人男性の平均精子数」という棒グラフが現れた。

「我々のサンプル調査では、成人男性の精子数に明らかな異常が見られております。この異常は特に若年層で顕著で、25歳以下の層に限って言いますと、10人中4人までが重度の乏精子症つまり精液中に精子がほとんどないという状況であります。この精子数では自然受精はまず無理で、人工受精が必要です。」

 成人男性の精液1CCの中には平均して1億の精子が含まれる。グラフの一番右端にある20~25歳の覧は、極端にグラフの高さが低く、平均精子数は3千万そこそこのレベルしかなかった。平均値がこれであるから、乏精子症の水準にある男性の数は推して知るべしである。

「今はまだ平均寿命が伸びていますので人口の減少は見られませんが、あと数年もすればわが国の人口増加はピークアウトし、やがて減少に向います。そしてその後は出生率の低下に合わせて急激な人口減少が起き、我々の試算では50年後くらいには日本の人口は最大5千万人を切る水準まで減少し、さらに精子減少の原因が解明されない場合……。」

 やがて、ボードルームは役員たちの動揺した声でざわつき始めた。

「このままじゃ日本が滅んでしまうぞ。神代の時代から続いてきたこの国が、それもわずか1世紀ほどの間にだ。」

 役員の1人の呟き声に一同が深いため息をついた。

「このようなわが国の一大事、早急に国民の前に明らかにすべきと考えます。」

 岡田常務はそう締めくくると静かに席に戻った。それから暫くボードルームには重苦しい沈黙が続いた。役員全員がこの問題をどう受け止め、どう取扱うべきなのか一様に考えあぐねている風であった。やがてその沈黙を破ったのは武沢社長であった。

「まずは、厚生労働省ですかな。これほどの一大事、一民間企業の手に負えるものではない。とにかく厚生労働省に研究結果を報告し、あとは国に任せよう。どうですかな皆さん。」

 社長の言葉に何人かの役員が同調するように頷いて見せた。

「政府にはもう期待出来ません。わが国の少子化の問題はもう10年も前から専門家の間でも指摘されていましたが、厚生労働省はいつも経済的、社会的理由を指摘するだけで、科学的な検証は何一つなされて来ませんでした。手後れにならない内に、国民の前に全てを明らかにし、警告を発すべきです。」

 岡田常務がさらに具申する。

「岡田君。気持ちは分かるがね、役所を敵に回したんじゃうちの商売はおしまいなんだよ。現にいくつも新薬の認可申請も出ている。そういうことは、国の研究機関に任せておけばいい。ここは一つ穏便に事を運んでくれたまえ。」

 社長は丸い眼鏡越しに、威圧するような鋭い視線を常務に向けた。それもそうである。製薬会社の運命など厚生労働省の薬事行政の匙加減で如何様にでもなる。製薬会社は国民の健康を預かるという重要な使命を有する以前に、利益も上げなくてはならない私企業なのである。

「とにかく、本件は極秘扱いとして下さい。いいですね皆さん。」

 最後に社長の甥子で販売担当の武沢専務が出席役員全員の顔を睨め付けるように念押しした。唯一人岡田常務だけがいつまでも不満気な視線を経営陣に投げかけていた。


二 再会


その一週間後、恵子のマンション。

 恵子は眠い目を擦りながら、ベッドの中からテレビのスイッチを入れた。

「ハイ。こちら武沢薬品本社前です。ご覧のように朝からたくさんの報道陣が詰めかけています。今日発売されました週刊文秀の記事について、会社側からはまだ正式なコメントはありません。時折出社して来る社員は報道陣のカメラを避けるように通用口から中へと消えてゆきます。」

 画面には恵子が見慣れた本社ビルの正面玄関が映し出されていた。恵子も週に一度は報告のために本社を訪れる。いつもは静かな本社ビルの前は、黒山の人盛りとなっていた。

「一体、どうしたんだろう。」

 先ほどのまでの眠気もどこかに吹っ飛び、恵子は食い入るように画面に見入った。丁度その時、目覚し時計のように携帯電話の呼び鈴が室内に鳴り響いた。反射的に取り上げた受話器の向こうには聞きなれた青山チーフの声があった。

「ああ、津山君か。よかった、連絡がついた。」

 恵子は、チーフの声の調子から只ならぬ気配を感じた。

「例のレポートだよ。誰かがリークしたらしい。」

 恵子は咄嗟に自分たちのチームが手掛けたあの報告のことを思い出た。先日の役員会議の後、レポートの内容については極秘扱いとするよう本社の上層部からかん口令が出されていた。そのレポートが社外に流出したとなると只事では済まない。

「とにかくすぐ出勤してくれ。それと分かっていると思うが、報道陣に何を聞かれても一切ノーコメントだから。いいね。」

 恵子が返事をする間もなく、電話はもう切れていた。

 恵子は慌てて身支度を済ませると、マンションを出て駅へと向った。研究所はJR京葉線浦安駅からバスで十分程の工業団地の中にあった。新しく開発されたその一帯には、東京から数多くのエレクトロニクス、バイオ関係のベンチャー企業が進出して来ていた。武沢製薬も、最近工場と研究所をその一角に移転していた。バスは駅を出るとスピードを増しながら工業団地を目指す。恵子はこの先どうなるのだろうと考えながら行き過ぎる車窓をボンヤリ眺めていた。やがてバスはいつも曲がる角を直進すると、すぐに停車した。

「申し訳ありません。塩浜一丁目で降りられる方、今日はここで降りて頂けますか。」

 運転手のアナウンスを聞いて慌ててバスを降りると、研究所へと通じる道は二台のパトカーが封鎖していた。研究所のゲート前には、報道関係と思われる車が十数台と百人を超えると思われるカメラマンや記者たちが人垣を作っていた。恵子は朝チーフから電話をもらっておいてよかったと思った。少なくとも心の準備は出来ていた。

 恵子がゲートに近づいたその時、後ろから黒塗りの乗用車がモーターケードをすり抜けて入って来た。所長車のようである。マイクを手にした記者達が車の方へと走る。体と体が激しくぶつかり合ったと思うと、一人の記者が道路に弾き飛ばされた。

「ちくしょー。」

 記者は罵りながら立ち上がろうとしたが、カグリとして座り込んでしまった。どうやら足を挫いたらしい。足首を抑える記者の顔は激痛に引き攣っていた。その間にも、所長車は記者たちを振り払うようにゲートの中へと消えていった。

「大丈夫ですか。」

 近づいて声を掛けた恵子は、その記者に手を貸そうとして思わず声を上げた。

「先輩、一輝先輩じゃないですか。こんなところで何を。」

 まだ痛そうに足を抱えていた一輝は、最初相手が誰か分からない様子であったが、しばらくしてようやく思い出したのか、大声で叫んだ。

「恵ちゃん、恵ちゃんじゃないか。君こそここで何を。」

「私、ここに勤めてるの。」

 恵子は研究所を指差しながら言った。そう言いながら、恵子は立ち上がろうとする一輝に手を貸した。とても真っ直ぐには歩けそうもない。恵子はとりあえず人垣を離れて、バス停のベンチに一輝を座らせると、自分もその隣に座った。一頻り肩で息をしていた一輝はようやく落ち着きを取り戻した。

「久しぶりだな。何年ぶりだろう。」

「そうね、卒業以来だから10年ぶりかしら。」

恵子と一輝は東都大学時代ともに陸上部に所属していた。一輝の方が二年先輩で短距離走の選手だった。一方の恵子は長距離を得意としていた。いつも同じグラウンドで練習していた二人は、大学時代は先輩・後輩以上の関係になりかけたこともあった。しかし、卒業後は全く別々の道を歩み始めたこともあり、その後は音信が途絶えていたのである。

「そうか、恵ちゃんは薬学部だったんだよな。武沢薬品に勤めてたなんて知らなかったよ。ゴメン。それにしても、すごいな、恵ちゃんは。こんなところで難しい研究をしてんだ。」

「ううん、大したことはないわよ。明けても暮れても小学校の理科の実験のようなことばっかり。薬を混ぜたりとか。」

 恵子は謙遜するように声を落としながらも、一輝が学生時代に比べて随分とやつれたことに気付いた。肩は落ち、頬が痩せて目だけがギョロリとして見える。10年の歳月がこうまで人を変えてしまうものなのだろうか。法学部を卒業した後、マスコミ関係に就職が決まったと聞かされた時、一輝の目は輝いていた。世の不正を正し、社会のために大衆を啓蒙していく、それがマスコミの務めだと胸を張って見せた一輝の姿が昨日のことのように思い出された。

 しかし、今目の前にいる一輝は、その時の一輝ではなかった。一体この10年間に一輝の身に何があったというのか。学生時代の一輝は本当に輝いて見えた。自分が苦しい時、スランプの時、いつも一輝は励ましてくれた。そんな自信に満ちた頼り甲斐のある先輩の姿はもうそこにはなかった。

「それで、先輩は、どうしてここに?」

「取材だよ。おれ今、社会部の記者やってんだ。朝一番、叩き起こされて。家からここに直行。準備運動もせずに走ったから、このザマだ。」

 一輝は痛めた足をさすりながら苦笑いをして見せた。

「ご、ごめんなさい。私のせいで。」

「恵ちゃんが謝ることはないだろう。つまずいた俺が悪いんだ。」

「で、でも。あの記事のせいで・・」

 恵子は、リークされた週刊文秀の研究レポートは、自分たちが手掛けていたものだと言いかけて、思わずゴクリと飲み込んだ。マスコミに何を聞かれても一切「ノーコメント」というチーフの言葉が頭の中をよぎったからである。

「俺のことはいいから早く行けよ。今日は大変なんだろう。」

 恵子は、ハッと我に返って、周囲を見回した。先程所長車が通り抜けていったゲートは黒山の人盛りとなっていた。

「ご、ごめんなさい。落ち着いたらまた連絡するから。」

 恵子は、バス停のベンチに座った一輝の方を何度となく振り返りながらゲートへと急いだ。


 一週間後。一輝はまだ治りきらない足を引き摺りながら、寒風の中取材を続けていた。例の記事の発表後、騒ぎは一気に全国に広まっていた。一輝は新橋駅に近いそば屋で昼食をとっていた。こういう寒い日は熱いそばに限る。一輝はそばつゆで暖を取りながら、ボンヤリと流れてくるテレビの音声に耳を傾けていた。

「今、私は聖マリアンナ病院の不妊外来に来ています。ご覧のように診療時間をとっくに過ぎているというのに、まだ大勢の患者さんが診察の順番を待っています。」

 小太りの記者が病院の待合所から立ちレポートを続けている。患者のことを気にしてか、後ろを行き交う人の顔にはモザイクがかけられていた。

「それでは、ここで不妊外来の高田先生にお話をお伺いします。先生、今日はどうもお忙しいところ、有り難うございます。それにしても大変な状況ですね。」

 レポーターがマイクを向けた先には、疲れた表情の白衣姿の医師が立っていた。

「ええ、あの日以来、日増しに患者さんの数が増えています。特別に診療時間を延長して対応していますが、とても間に合いません。これまでは結婚して三年ほど子供が出来ないといって初めて来院される方が多かったのですが、最近では結婚もしていない若い男性の患者が多くなりました。中には、婚約者に付き添われて無理やり連れて来られた方もいらっしゃいますよ。」

 医師は少し苦笑しながら説明する。10人中4人といえば、もはや他人事ではない。日本人男性すべての間にパニックが広がりつつあった。

「それで、結果はどうなんでしょう。やはり不妊の方が多いのでしょうか。」

「そうですね、結果は武沢薬品のあのレポートと似たようなものです。特に若い人に重度の乏精子症が見られます。全く精子の発見できない人もかなりの数に上ります。私もここにもう15年近く勤めておりますが、こんなことは初めてです。やはり異常ですね。」

「先生、どうも有り難うございました。病院では予約制をとって新しい患者さんを受け付けていくとのことですが、今日現在順番待ちは三千人、一ヶ月先まで埋まっているとのことです。以上、聖マリア病院からのリポートでした。」

 マイクを戻したレポーターは、興奮気味にレポートを終えた。

「全くとんだことになりやしたねえ。あっしんところも息子が二人なんですがねえ、もう心配で、心配で。」

 そば屋のおやじが居ても立ってもいられないという口調で一輝に話し掛けてきた。

「そうですね。」

一輝はそっと一言つぶやくと、百円玉を5個静かにテーブルの上に置いた。


 同日午後7時半。霞ヶ関記者クラブ。

「遅いな、総理は。」

 数十人の記者たちが、山中総理を今か今かと待ち受けていた。記者席にはテレビカメラがしつらえられ、数多くのカメラマンがシャッターチャンスを逃すまいとカメラを構えている。照明用の強烈なスポットライトに照らされ、中は熱気でムンムンしていた。記者席の最前列には一輝の姿もあった。

 程なく記者クラブのドアが開き、山中総理が小走りに入ってきた。先ほどまでざわついていた会見場は一瞬水を打ったように静まり返ったが、次の瞬間シャッターを切る音とまばゆいばかりのフラッシュの光が走った。演台の前に立った総理は少し間を置いて、フラッシュの嵐が静まるのを確認すると、徐に口を開いた。記者たちは総理の一言一句を聞き漏らすまいとペンを構えた。

「えー、詳しくはもう皆様ご存知と思いますが、先週の週刊文秀にわが国の少子化についての記事が発表されました。深刻な不妊が原因でわが国の人口が近い将来劇的に減少するという内容でございます。私も早々に厚生労働大臣に事実関係の調査を命じましたが、私どもの知る限りそのような問題はございません。この調査は一民間研究機関によるものであり、政府としては公式にコメントする立場にはありません。国民の皆様に置かれましては、どうかパニックにならないよう、冷静に行動して頂くようお願い申し上げます。」

 わずか二分ほどの説明であった。これほどの一大事を説明するにはあまりにもお粗末な内容であり、記者たちは唖然とした。

「質問、質問。」

 記者席から一斉に手が上がり、記者たちの怒声が飛ぶ。総理はゆっくりと最前列の女性記者に指を向けた。ピンクのスーツに身を固めた若い記者はその細身の体に似合わない大きな声でハッキリと尋ねた。

「総理、今回のレポートの内容は政府として事前に承知しておられたのでしょうか。」

「ご説明申し上げました通り、政府は一切関知しておりません。」

 総理は落ち着き払って答えたが、記者はさらに質問を浴びせる。

「このような重大事、知らぬでは済まされないのでは。」

「ですから、政府としては、そもそもあの記事の内容が事実ではないと申し上げているわけで、取り立てて大騒ぎする必要は全くありません。」

 畳み掛けるような記者の質問に、総理は少しムッとしたような表情で回答する。

「質問、質問。」

 今度は中ほどに座っていた大柄の男性記者が立ち上がった。

「仮に、仮に、ですよ、これが事実であったとしたら、政府としてどう対応されるおつもりですか。」

「仮定の質問にはお答えできません。政府としましてはそういう事実はないとの理解です。」

 その後も似たような応酬が延々と続く。総理は噴き出て来る額の汗をハンカチでぬぐいながらひたすら応接を続けた。一輝は一向に質問の機会が回ってこないことに少し苛立ちを覚え始めていた。一輝にとって、この問題は一新聞記者としてではなく、自分自身の問題でもあった。

 一輝は2年前に医師から受けた告知の瞬間を思い出しながら、何としてもこの問題を看過させるまいと身構えていた。そして質問が少し途切れた間隙を狙って一輝は一際大きい声で叫んだ。

「総理、確か少子化白書でも不妊の問題は取り上げられていますよね。ということは政府としても、我が国の出生率の低下に不妊が関係しているとの認識はあるんじゃないですか。」

「確かに白書にそういう記述があるかもしれません。しかし、政府としましては少子化の原因は社会的、経済的なものであって、国民の生殖機能の異常が原因とは考えておりません。」

「ですがね、総理。現に不妊に苦しむ男性が全国には数多くいるんですよ。少しでも不安があれば徹底的に調査すべきではないですか。それを放置するのは国を預かる立場として怠慢とは思われないのですか。」

 一輝の畳み掛けるような質問に総理の堪忍袋の緒はついに切れた。演台を右手で激しく平打ちすると同時に、大声で罵声を浴びせた。

「君は一体どこの記者かね、名前も名乗らずに。失礼じゃないか。私たちが若い頃にはこんな馬鹿げた話はなかった。こんなところで文句を言っている閑があったら、バイアグラでも食らって少しは夜のお勤めに精を出したらどうだ。大体君たち若いもんが女の扱い方も知らんから子供も出来んのだよ。」

 その一言に場内は一瞬水を打ったようにシーンと静まり返った。重苦しい沈黙がしばらく続いた後、最初に質問に立った女性記者が無言のまま立ち上がった。その後を追うように記者たちは一人また一人とドアの外に消えていった。

『山中総理、記者会見でまた失態』

『危機管理意識の欠如、日本破滅の淵へ』

 翌朝の新聞各紙は一斉に総理の失言を報じることとなった。


 三週間後、お台場ベイホテルのスカイレストラン。

「ご注文は何になさいますか。」

「Aコースにして下さい。ワインはブルゴーニュの白で。」

 恵子は手慣れた調子で注文を済ませる。

 再会の日からあっという間に三週間が過ぎていた。一輝は一輝で取材に走り回り、恵子は恵子でマスコミ対応に追われる日々が続いていた。その忙しい合間を縫って二人はようやく夕食を共にする時間を作った。

恵子は淡いブルーのワンピース姿、昔に比べて大人の女性らしさが増していた。学生時代は陸上の練習でいつも真っ黒に日焼けしていた顔も、今では透き通るように白くなり、微かに朱のさした頬が仄かな色気を醸し出していた。

「お、俺も同じもので。」

 対する一輝の方は、スーツ姿にネクタイは締めていたものの、学生時代に見られた硬派のイメージはすっかり消え失せ、どこか内気な裏寂れたサラリーマンという風に見えた。このような場所にはおよそ縁がないように見えた一輝は、恭しくお辞儀をして下がって行くウェイターの後ろ姿を見ると、ホッとしたような表情で口を開いた。

「そうか、恵ちゃんがあのレポートを担当していたなんて驚きだな。」

「私も最初は驚いたわ。数字が間違っているんじゃないかって、何度も計算し直したわ。でも何度やっても答えは同じ。理屈上、日本の人口はわずか数十年の間に5千万人を切る水準になってしまうの。」

 しばらく重苦しい沈黙が続いた後、一輝は意を決したように口を切った。

「実は、三年前俺も男性不妊を宣告されてね。」

「えっ?」

 恵子は一瞬何と言っていいのかわからずに言葉を失った。

「ご、ごめんなさい。し、知らなかったわ。」

「いや、いいんだ。それより僕の方こそお礼を言わなきゃ。三年前のあの日以来、随分と悩んだ。何度も医者に通った。何で俺がって自分を責めて、生きる気力すら失いかけていた。でも、恵ちゃんのレポートを見て本当に驚いたよ。この問題が自分だけではなくもっともっと苦しんでいる人がたくさんいるんだってね。いや、それどころか日本の将来にとっても大変なことが起きているっていうこともね。」

 恵子は、今ようやく一輝の疲れ切った様子の原因を知った。先輩は、きっと自らの不妊に悩み、苦しみ、それで生気を失してしまったのだろう。あの学生時代の快活で逞しい先輩の姿はもうそこにはなかった。

しかし、本当にそれだけだろうか。無論、男にとって子供を作れないという屈辱がどんなものか、女である自分には理解し難いものがある。ただ。それにしてもこの先輩の萎れ方は尋常ではなかった。先輩は、まだ何かを隠している、そしてそのために心底から苦しんでいる。そう思わないではいられなかった。

恵子が、次の言葉を探している間にも、タイミングよくウエイターがメインコースの皿をもって現われた。恵子は、ようやく話題を変えるチャンスを得た。

「ねえ先輩、実は先輩にお願いがあるの。この問題は一研究所の力ではどうにもならない。政府もあの調子じゃ当てにならないし。問題を解決するためには、国民の勇気と協力が欠かせない。そして、そのためにマスコミの力がどうしても必要なの。」

 話を続ける恵子の目が輝いた。

しかし、一方の一輝はというと、まだ恵子の真意を測りかねていた。自分のようなくたびれ三文記者に一体何が出来るというのか。今の自分は、精根尽き果てたダメ男の烙印を押されても仕様のない状況にあった。一輝は、半信半疑で尋ねた。

「それで、原因は分かっているの。」

「残念ながら私たちにも分からないの。環境ホルモンが関係しているのだろうと推定されるんだけど、その数があまりにも多いし、それに目に見えて影響が測れるものでもないし。全然見当もつかない状態だわ。」

 恵子は大きくため息をついた。

「環境ホルモン?」

 一輝は耳慣れない言葉に思わず聞き返した。

「そう、別名、外因性内分泌撹乱物質、少し難しい言い方だけど、つまり私たちの体のホルモンバランスを狂わせる化学物質のことね。先輩もダイオキシンの名前くらいは聞いたことあるでしょう。プラスチックを燃やしたときに出る猛毒の化学物質よ。ごく微量でも体内に蓄積されると、ガンを発生させたり、生殖機能に影響が出たりするの。この他にもいろいろな環境ホルモンの候補が指摘されていて、その数は数千もあるという学者もいるわ。でも、どの物質がどの程度ヒトに影響するのか実証するのはとても難しいの。因果関係が分からないから。」

 一輝は、驚いた様子で恵子の説明に聞き入っていた。ひょっとすると、自分の不妊の原因もそうした化学物質の影響だったのかもしれない。一輝の冷え切った心のうちに、微かに新聞記者特有の好奇心と探求心の灯火が点り始めた。

「これだけ、広範かつ大規模な不妊は、間違いなく何らかの環境ホルモンが原因だと思うわ。それも日本全国に万遍なく広まっているかなり身近なものね。例えばこの水。」

 恵子はテーブルに置かれたグラスにそっと手を触れた。透き通った水がグラスの中で微かに揺れた。

「えっ、この水が。」

 一輝は信じられないという表情で、グラスに目をやった。

「ダイオキシンは煙とともに空気中に放出される。それはやがて雨とともに地上に降り注いでくる。勿論、色も匂いもない。ピコグラムという極小さい単位で測られるの。ピコグラムっていうのは一兆分の一グラム、といっても見当もつかないわね。ただ、そんな極微量でも毎日飲んでいると少しずつ体の中に蓄積されて、私たちの知らない間にホルモンバランスを崩していく。」

「でも、そんな恐ろしい物、国は何で規制しないのかな。」

「いいえ、ダイオキシンはもう規制されているわ。WHO(世界保健機関)がガイドラインを定めていて、今では排出量が厳しく監視されている。でも、環境ホルモンはこれだけじゃないの。野菜を作るときに使う農薬、食器や衣服を洗う洗剤、数え切れない程の物質がその候補になりうるわ。そのどれが、どのくらい人体に影響するのか、誰にも分からないし、仮に分かったとしてもその時は手遅れになっているかもしれない。」

 自分たちの知らない間に我々の体を虫食んで行く毒物が身の回りにたくさんある。恵子の話に一輝は背筋が凍りつく思いであった。人類は科学の発達のおかげで、いろいろなものを手にした。虫一つ食っていないキャベツ、お腹を壊すことなく飲める牛乳、とろけるような霜降りの牛肉……、これらの豊かな食文化は全て科学との危ういバランスの上に成り立っていた。

「ごめんなさいね。折角の料理が台無しね。いつもこんなことばかり考えていると、本当に何も食べられなくなっちゃうわね。」

 恵子は済まなさそうに下を向いた。

「いや、こっちこそ有り難う。とても面白かったよ。こんな問題があるなんて、今まで知らなかった。ジャーナリストとして失格だな。」

 一輝は自戒するように呟いた。恵子はそんな一輝の姿にまた暗い影を見たような気がした。「ねえ、先輩。先輩は今でも陸上の練習を?」

「いや、もう何年も走っていない。だから。この間も・・・。」

 唐突に聞かれて一輝は一瞬戸惑ったような表情をして見せたが、すぐさま痛めた右足首をちらりと見やった。

「そ、そう。ごめんなさい。」

 恵子はまた余計なことを聞いてしまったとばかりにうな垂れた。再びどちらからともなく長い沈黙が流れた。昔は、こんなではなかった。どんな苦しい時も、どんなスランプの時も、いつも多弁であった先輩が、なぜ。恵子は10年という時間の隔たりを痛感していた。

その長い沈黙を破ったのは、今度は一輝の方であった。

「恵ちゃん、悪いけど俺はもう昔の俺じゃないんだ。先輩と呼ばれる資格なんかないどうしようもない男なんだ。見れば分かるだろう。これを限りにもう会わない方がいい。」

「どうして、どうしてなの。先輩。この前会ったばかりなのに。何があったの。私に出来ることがあれば、何でも言って。」

「いや、いいんだ。今日はありがとう。誘ってくれて。」

 これ以上話すことはないと言わんばかりに、一輝は食後のコーヒーにも口を付けずさっさと席から立ち上がった。恵子も慌てて席を立つと一輝の後を追う。ロビーに出た恵子が声を掛けようとした時、一輝の姿は既にロビーの雑踏の中に見え隠れしていた。恵子は一輝の歩みを止める術もなく、ただ黙ってその背中が小さくなっていくのを見送った。







3 倫理


 午後10時過ぎ、恵子は一人寂しく自宅のマンションに戻った。楽しくなるはずのディナータイムが暗く鬱屈したものとなってしまった。人気のない真っ暗な部屋に一人で入るのがこれほど侘びしく感じたことはなかった。恵子は、一輝との再会をある意味とても楽しみにしていた。あんなに胸が躍ったのは一体何年ぶりのことであろうか。そんな恵子の期待は、いとも簡単に裏切られた。

 恵子は、大きなため息とともにテレビのリモコンスイッチをオンにした。

「とうとう来るところまで来たという感じですね、これは…。」

 画面にはニュースワイドですっかりお馴染みの小池キャスターの顔が現れた。勿論ニュースの話題は例の件であった。

「でも、まだ真面目に子供を作ろうという人はいいですよ。こっちはもっとひどいことが起きています。インターネットを通じた精子売買です。『1CC10万円より』ですか。値段はまだ釣り上がっているようですよ。それも大学教授やお医者さんのものは数倍の値段が付いているとか。もう倫理も何もあったもんじゃないですね。一体政府はどうするつもりなんでしょうか。」

 テレビ画面にはインターネットのホームページの画面がアップで映し出されていた。秘密厳守という大きな赤い文字がことさら強調されて見える。その文字の下には、「不妊でお悩みの方、今すぐご登録を」と、まるでカタログ販売でもするかのような気安さで、購入のための手続きが記されていた。

「先生、これは法律的に見て大丈夫なんですか。」

 小池キャスターはすぐ隣に控えていたゲストの弁護士へと矛先を向けた。見るからに生真面目そうな顔つきの弁護士は襟を正すように座り直すと、一気に自説をまくし立て始めた。

「ひどい話ですなー、これは。私も5年ほど前から、人工受精や代理母といった不妊治療に関係する法律相談を手掛けてきましたが、こんなことは初めてですね。まあ、法律的には、他人の精子を使った人工受精は、本人の同意さえあれば問題ありません。ただ、精子の有償売買となると、これは倫理の観点からかなり問題でしょうな。そもそもこうした問題は顕微受精が普及し始めからずっと議論されてきたことなんです。もっと早くに政府が法整備を進めておくべきだったんですよね。」

 スタジオに居合わせた他のゲストは皆一様に真剣な表情で頷いて見せた。

「精子売買は遺伝子選別の温床にもなりかねません。つまり、優秀な遺伝子だけが選択され、病気や障害を持つ遺伝子は世の中から排除されていく、そういった危険を孕んでいるのです。不妊治療の名の下に遺伝子差別が公然と行われることになるのです。」

 恵子はまた暗い気持ちでテレビに見入ってしまった。自らが手掛けた不妊研究が予想外の形で社会に大きなインパクトを与えるとことになってしまった。パニックは想像を絶する速さと大きさで拡散していた。レポート自体は確かに一民間企業の研究所のものであったが、その後の政府の対応のまずさが国民の不安に拍車を掛けた。と同時に、不妊に悩む人々がいかに大勢いるかという事実が奇しくも明らかになってしまった。

 その時である、臨時ニュースを伝えるチャイムが鳴った。

「ここで只今入ってきたニュースをお伝えします。」

 キャスターの前に脇からレポートが差し入れられるのがチラリと画面の片隅に見えた。

「3日前、さいたま市の産婦人科医院から連れ去れた新生児が先程宇都宮市内で無事保護されました。新生児は怪我もなく元気だということです。宇都宮警察署からの報告では、新生児を連れ去ったのは栃木県に住む30台の夫婦で、以前から不妊治療を受けていたとのことです。繰り返します、3日前から行方不明になっておりましたさいたま市の新生児が先程無事保護されました。このニュースの詳細は、続報が入り次第改めてお伝えします。」

 プチリ。恵子はウンザリという気持ちでテレビを切った。今度は新生児泥棒である。子供が欲しいという親の気持ちは誰も同じである。その衝動を抑え切れず、新生児を盗むという暴挙に出た夫婦を誰が責められようか。今この日本で一体どのくらいの夫婦が同じような悩み、苦しみを抱えているのであろうか。あのニュースはほんの氷山の一角に過ぎないのかもしれない。

 恵子はその日眠れぬ夜を過ごした。あの陰鬱な表情の一輝の顔、そしてテレビから伝えられる驚愕のニュースの数々が、嫌がおうにも恵子の目を冴えさせた。日本人の2人に1人が不妊症になる時代がやってくるかもしれない。もう、倫理だの、法律だのと言っていられなくなる日が目前に迫っているような気がした。これから日本は一体どうなってしまうのだろう、そしてその行き着く先は…。悶々とする中で、恵子の胸のうちには言い知れぬ悪い予感に覆われ始めていた。


 2週間後、武沢薬品浦安研究所。

「おーい、津山君、聞いたか。近く臨時株主総会があるらしい。」

「あっ、チーフ。臨時株主総会?、ですか。」

「ああ、そうだ。」

 チーフは白衣の裾をたなびかせながら恵子に追い着いてきた。2人は研究所の廊下を足早に歩きながら言葉を交わした。チーフの顔にはいつになく陰鬱な表情で覆われ、眼鏡の奥の目は輝きを失っていた。

 あのレポートがリークされて後、恵子のチームの周辺では何かとよからぬ噂が立っていた。別に功を焦ったわけでもない、本当にわが国の将来のことを思うとあれが最善の選択だったかもしれない。しかし、世の中にはそうは見ない人も数多くいる。

「役員人事があるんじゃないかって。岡田常務が退任するっていう専らの噂だ。」

 チーフは声を落として恵子に耳打ちした。

「じょ、常務が。信じられない。だって、常務は今回のプロジェクトの責任者でしょう。それが、こんな大事な時にどうして。」

 恵子は目を丸くした。

「例の記事だよ。週間文秀の。あれ、常務がリークしたんじゃないかって。役員会では極秘裏に扱うということになったらしいんだが、常務は人一倍正義感が強いからな。自らが手掛けた報告が役員会で揉み消しにされそうになったんで、それで、恐らく。」

「そ、それで、私たちはどうなるんでしょうか。」

 恵子は不安を隠し切れないという様子で尋ねた。

「俺にも分からない。恐らく株主総会の後に何らかの発令があるだろう。」

 チーフは一言ボソリと言い残すと、クルリと背を向けてその場から立去った。恵子はその後姿に暗い敗北の陰を見たような気がした。


 三日後、報日新聞本社近くの喫茶店。

 恵子から電話をもらった一輝は、約束の時間の少し前に喫茶店に着いた。この前ベイホテルで食事をした時に、「もう会わない方がいい。」と言ったものの、恵子からどうしても頼みたい事があると言われると放ってもおけなかった。

 オーダーしたコーヒーにミルクを入れゆっくりとかき混ぜた後、タバコに火を点けようとしたその時、喫茶店のドアが開き恵子が入ってきた。一輝はライターを仕舞い込むと、軽く右手を差し上げた。恵子はすぐに気が付いてテーブルに近づいて来た。

「ごめんなさい、待った?」

「いや、俺も今来たところさ。」

 今日の恵子はおよそ製薬会社の研究所員らしからぬ淡いグリーンのスーツに身を固め、一見すると商社か銀行のOLのようであった。長身の恵子はスーツ姿もよく似合う。汗臭いよれよれのスーツを着ていた一輝は、思わずそれを脱ぎ捨てて脇の椅子に引っかけた。

 席に着くやいなや、恵子はすぐに話し始めた。少し前かがみに勢い込んでいる恵子の様子に一輝は只ならぬものを感じた。

「大変なことになったの。今朝、人事異動の通達が出て、例の研究が打ち切りとなったわ。私たちのチームは解散、青山チーフは静岡の工場に転勤、担当の岡田常務も関連の販売子会社に移籍することになったの。」

「まっ、まさか。あんな大事なプロジェクトがどうして。」

 一輝は目を丸くして尋ねた。

「恐らく厚生労働省ね。あの記事がリークされたことでかなり厳しい指導があったようなの。それで岡田常務が詰め腹を切らされるハメに。それに認可申請していた不妊治療薬の方も却下されるし、ホントもう散々だわ。」

 恵子はプーッと頬を膨らませて見せた。武沢社長の判断は正しかった。製薬会社の運命など薬事行政の匙加減でどうにでもなる。これだけ世間を騒がせたとなると、たとえそれが事実の報告であろうと許されるものではない。ものには手順というものがある。手順を踏まなかったことで会社は国から手痛いしっぺ返しを受けた。

「そうか、大変だったな。それで恵ちゃんの方は大丈夫なのか。」

 一輝は恵子の進退を思いやった。恵子は少し俯き加減になって答える。

「係替えにはなったけど、とりあえず担当者だったので、何とか。」

「そうか。」

 一輝は一言だけボソリとつぶやいた。恵子は少しがっかりした。昔のように優しい慰めの言葉が返ってくることを期待していたが、結局その言葉はなかった。一瞬重苦しい空気が漂ったが、恵子は気を取り直して用件を切り出した。

「実は、先輩に頼みたいことがあったの。問題の環境ホルモンを特定するにはもっとたくさんのサンプルが必要なの。私たちの研究はわずか5百人程のサンプルで調査したもの、しかもこれらのサンプルは首都圏の病院や診療所の協力を得て集めたものだから、かなり偏りがあると思うの。不妊の実態を本当にきちんと調べようと思ったら、サンプル数は最低でも5千は欲しいわ。それも日本全国から隈なく無作為に抽出したものでなくてはならない。」

 5千人のサンプルと聞いて一輝は驚いた。ちょっと聞いただけでは5千という数字の見当もつかない。ただ、研究のために精液を提供してくれる人となると並大抵のことではないだろうなということだけは漠然と理解できた。

「そんなにか。でも数を多くしても結果は大体同じようなものなんだろう。もう不妊の実態は火を見るより明らかだし。」

 一輝は、恵子がサンプル数を増やして調査をやり直そうとしている意図を測りかねていた。

しかし、恵子も負けてはいない。

「そうかもしれない。でもサンプル数を多くすることで何か違った新しい事実が分かる場合もあるかもしれないの。例えば、ある特定の地域の人だけ、あるいはある特定の年齢の人だけ平均から大きく違った結果が出ることもありうるわ。その人達に共通なものは何かを調べれば原因が特定出来るかも知れない。」

「そうか分かった。それで、そのサンプルを集めるのに新聞の力を借りようというわけか。よーし、そっちは任せてくれ。編集長に掛け合ってみる。」

 先程まで青白かった一輝の顔にようやく微かな朱がさしたように見えた。恵子は、久しぶりに聞く一輝の力強い声に笑顔を浮かべた。


 一週間後、東都大学薬学部臨床科学研究所、所長室。

「そうか、ついに決心してくれたか。」

 篠原教授は、嬉しそうに微笑んだ。

「も、申し訳ありません。一年前、勝手なことを申し上げておきながら。」

 恵子は、深々と頭を下げた。クビにはならなかったとはいえ、例のプロジェクトチームが解散した後、恵子は営業企画部に転勤を命ぜられた。恵子にとって、もはや武沢薬品に留まる理由はなかった。

「いや、君が気にすることじゃない。前にも言っただろう。うちはいつでも大歓迎だ。あんな大切な研究を闇から闇に葬り去ろうなんて、考える方が馬鹿げている。所詮、民間は民間だな。人の命より利益の方が優先するんだろう。」

「それで、早速なんですが、お願いがあるんです。」

 恵子は、早々に身を前に乗り出すと、先日一輝に話した精液のサンプル調査の計画について詳しく説明した。

「新聞広告の方は、もう報日新聞の方にお願いしてあります。後は、サンプル調査のための精液採取キットと、送られてくる精液の検査の方です。」

「それは、うちに任せてくれ。キットの方は山のようにある。何しろこのところの不妊騒ぎだ。大学病院の方で大量発注済だ。それと精液検査の方も、必要ならうちのスタッフを使ってくれ。検査室長にも私から説明しておこう。」

 篠原教授は快く恵子の計画へのサポートを約束してくれた。恵子は、心の中で手を合わせた。本当のところは、武沢薬品での研究が頓挫し、途方に暮れていたところであったのだ。

「何から何まで済みません。有り難うございます。」

「なーに、遠慮することはないさ。君の母校だろう。教え子が困っている時はいつでも助け舟を出すのが道理というものだ。但し、もう武沢の方に戻るというのは、なしだ。明日からは、一歩もこの研究所から外には出さんぞ。寝袋持参だ。それでいいかな。」

「ええ勿論。私もそのつもりです。」

 所長室に、篠原教授の高らかな笑い声が響いた。

 三日後、報日新聞全国版の朝刊に「男性不妊研究への協力者の募集について」と題する広告が掲載された。広告には募集の趣旨とボランティアがなすべき手続きが簡記されていた。


 一ヶ月後、報日新聞社会部。

「山本君、山本君はいるか。」

 編集長の甲高い声がオフィスの中に響いた。週間文秀に例の記事が発表されて後、一輝の所属していた社会部は毎日が戦場であった。引っ切りなしに鳴る電話、刻々と入る情報の数々、それらを瞬時に判別して、取材と記事原稿の執筆をこなしていかなければならない。一輝は自らの沈鬱な気分を紛らわすかのようにその忙しさの中に敢えて身を投じていた。

「はい、編集長。」

「霞ヶ関記者クラブからだ。午後3時厚生労働省の緊急記者会見だ。何か重大発表があるらしい。君、行けるか。」

「ええ、何とかやりくりします。」

 緊急記者会見と聞いて一輝の目が輝いた。そろそろ政府が何らかの対策を講じてくるのではと思っていた矢先であった。それにしても「重大発表」とは何であろう。一輝の胸は、期待と不安で高鳴った。

 午後3時、霞ヶ関記者クラブ。

 2ヶ月ほど前、首相が緊急記者会見で失態を演じたのがつい昨日のことのように思える。それほど毎日が慌ただしく過ぎていた。今日もこの前と同じように多くの記者団が詰め掛け、厚生労働大臣の到着を今か今かと待ち構えていた。あれから2ヶ月、政府はどのような秘策を用意したのであろうか。

 3時を少し過ぎた頃会見場のドアが開き、厚生労働大臣が入ってきた。いつもテレビで見慣れている顔に比べると少しやつれた感じであった。腫れぼったい瞼が、徹夜で会見準備をしていたことを想起させた。フラッシュの嵐が収まるのを待つこともなく、大臣は会見原稿を開いた。

「えー、先日来全国で騒ぎとなっております日本人男性の不妊の問題に対処するため、政府は本日の閣議で政府として正式に『精子バンク』を設立することを決定いたしました。全国のボランティアの方にドナーとなって頂き、ご提供頂いた精子を国が指定する病院で凍結保存し、希望される方に無償で提供するという内容でございます。併せて、不妊治療に一定の範囲で国民健康保険を適用していくことも検討して参ります。政府としましては、今回の一連の措置によりわが国の不妊問題、ひいては人口問題が恒久的に解決されることを期待しております。今後関連法案の整備を進め、遅くとも来春までには精子バンクの設立に漕ぎ着けたいと考えております。」

 大臣の発表が終わるのを待つ間もなく、記者席にはざわざわと声が立ち始めた。記者たちは皆一様に今回の政府の決定の意味とそれが国民生活にもたらす影響を推し量っていた。

「質問、質問。」

 やがて記者席からいつものように怒声が飛ぶ。トップを切ったのは、この前と同じ女性記者であった。

「ドナーにはどういう人が選ばれるのですか。」

「健康な成人男性であればどなたでもドナーになれます。もちろんドナーの方のお名前は一切公表されません。またあくまでボランティアが原則ですので、精子をご提供頂いた方にも一切対価が支払われるといったことはございません。一言で申し上げれば、献血と同じような取扱いになるとお考え頂ければと思います。」

 「献血と同じ」という答弁に一瞬場が静まり返った。精子は人の命そのものである。人体の一部である血液を提供するのとは訳が違う。もちろん献血も人の命を救うための大切な営みである。しかし、命を丸々一個差出す精子提供と同列に論じられたことで、記者団は大臣の見識を疑った。

「倫理の面で問題はないのですか。例えば遺伝的に問題のある精子はバンクに登録できないとか。」

 鋭い質問だと一輝は思った。自分が不妊治療を受けていた時も何度がAID(ドナーの精子による人工受精)を奨められたことがあった。しかし、提供される精子の中味に不安がありついに決断できなかった。一体どんな人が提供者で、どんな顔をした子供が生まれてくるのか、そして何よりも遺伝病の心配はないのか等々、考えれば切りがなかった。

「その点につきましては、バンク内に倫理委員会を設立して、遺伝子差別に結びつくような精子の選別は排除するように努めます。ただ、国民が安心して精子バンクを利用できるよう、最低限深刻な遺伝性の病気に対するスクリーニングは実施させて頂く予定にしております。」

 大臣は非常に微妙な言い回しで答弁した。「スクリーニング」とはどういう意味合いを持っているのか。精査して問題があれば取り除くということではないのか。

「質問、質問。」

 大臣の答弁を咀嚼する間もなく、どんどん新たな質問が飛び出す。

「大臣、精子バンクに十分な数のドナーが集まると思われますか。医学的に見れば、自分の子供以外に自分と同じ遺伝子を持つ人間がこの世のどこかに大勢いるという状況がうまれる訳です。そんなことを望む人がいるのでしょうか。」

 またも難解な質問である。恐らくドナーとなった人は、街を歩いていて自分とよく似た人とすれ違う度に、ひょっとしてという思いに駆られるようになるのかもしれない。全く赤の他人と思っても、自分と同じ遺伝子の持ち主がうじゃうじゃといるということに果たして耐えられるのであろうか。一輝のそんな思いを裏切るかのように、大臣の口から驚愕の言葉が飛び出した。

「確かに精子不足という問題は想定しておく必要があるかもしれません。提供された精子は大変貴重なものですから、出来る限り多くの患者に平等に使われるようにしたいと考えております。理論的には一個の卵子に一個の精子があればいいわけですから、最も効率的な方法は顕微鏡による人工受精ということになりましょうか。ドナーの集まり具合にもよりますが、政府としましては顕微受精も想定して準備を進めてまいるつもり…。」

 『顕微受精』という言葉を聞いた瞬間、一輝の頭の中に衝撃が走った。額から頭頂に向けてクワッーと駆け上るようなショックが波状的に襲ってきた。頭痛などではなかった。何故か目の前がグルグル回り、胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。何とかコントロールしようと試みるが一向に収まる気配はない。

その瞬間、一輝の脳裏には、今眼前に見えている光景とは別のある光景が繰り返し浮び上がっていた。決して忘れることの出来ない恐ろしい光景。一輝は、怒涛のごとく打ち寄せる動悸とめまいのせいで、記者席の片隅にうずくまった。

 しかし、大臣の言葉で騒然となった記者会見場の中にあっては、誰一人として一輝の異変に気付く者はなかった。飛び交う怒声とまばゆいフラッシュの光が点滅する中、一輝は次第に意識が薄らいでいくのを感じた。そして、一輝がようやく我に返った時、広い記者会見場の中にポツリと1人残された自分を発見した。



4 クローン


 その3日後、お台場海浜公園。

「ごめん、呼び出したりして。」

「ううん、いいのよ。私の方はちっとも。」

 潮風が吹く中、恵子は一輝と並んで歩いた。日曜日とあって多くの家族連れや若いカップルが浜辺に繰り出し、沖合いでは少し気の早いウインドサーファーたちが色とりどりの帆を浮かべていた。そんな華やいだ景色の中でも、一輝の顔には相変わらず暗い影がのぞいていた。

 「もう会わない方が…」という一輝の一言が何となく頭の中に引っ掛って、恵子の方から声を掛けづらい雰囲気があった。しかし、今日は一輝の方から誘いがあった。何かある、何かあったに違いないという予感がしたが、敢えて聞くことはせず、恵子は一輝の少し後ろに控えて歩いた。恵子は春らしいピンク色の半袖のワンピース姿、見ているだけで長く沈鬱だった冬を忘れさせてくれるような軽快な服装であった。一方の一輝はというと、グレーのトレーナーにジーパン姿、まるで心の内を映すかのような暗い雰囲気は、この前会った時と少しも変わっていなかった。

「どう、その後精液調査の方は順調?」

「ええ、昨日研究所の先生のところに問い合わせしたら、もう2千件近く集まってるって。やっぱり新聞の威力ね。もちろん不妊問題に対する国民の関心が高まっているということはあるのかもしれないけれど、この前の研究のときはわずか5百件のデータを集めるのに半年も掛かったわ。それも薬品の納入先の病院や診療所を通じてのことだったからデータにもかなりの偏りか見られた。でも今度は大丈夫そう。」

「そうか、それはよかった。」

 一輝は一言ポツリと感想を述べた。この前から、2人の会話は恵子の9に対し一輝は1ほどの割合であった。一輝の発する言葉と言えば、短い質問と返事くらいである。大学時代はどちらかというと一輝の方が雄弁だった。スランプに陥った恵子を先輩の一輝が励ますというのがいつものパターンであった。それが今ではすっかり攻守が逆転してしまった。

 また、長い沈黙が続いた。一輝は海に面したテラスに両の手をついたまま、じっと遠くの方を見つめていた。恵子はゆっくりとそんな一輝の傍に並んだ。

「なあ恵ちゃん、子供って何だろう。子供って。」

 一輝は、恵子の方を振り向きもせず、独り言を呟くように尋ねた。

「子供?」

 恵子は突然唐突な質問を投げかけられ、思わず言葉を返した。

「ああ、子供だよ。そう、まさにいま日本国中が、揃いも揃って、子供、子供って大騒ぎをして。子供って一体何だろう。」

 恵子は何と答えていいのかすぐには返事が思い当たらず、口を噤んだ。子供の定義を求められても一口に言えるものではない。ましてや不妊の患者を目の前にして、子供のことと言われても答えようにも言葉に窮する。再び沈黙が続いた。その間にもカモメが2羽3羽と2人の眼前をかすめて何回も優雅に飛び過ぎて行った。

「そ、そうね。生物学的に言えば、子供は親と孫の間を繋ぐブリッジのようなものかも。」

「ブリッジ?」

 恵子は、回答を迫られて、専門家としての立場から学術的解答をした。

「そう、ブリッジ。橋のことね。最近の生物学会で注目されている説の一つにDNA支配説というのがあるの。」

「DNA支配説?」

「そう、全ての生命はDNAに支配されている、あるいはもっと言うとDNAに生かされているという仮説。人は自らの意思で自らが生きていると思っている。でも本当はDNAに生かされている。先輩の身体の中にも、私の身体の中にもDNAは無数にあるわ。そう人の身体を構成する細胞の一つ一つにDNAは存在している。そのDNAは太古の世界、この地球に生命が誕生してから何十億年という歳月を掛けて今日まで延々と受け継がれてきた。親から子へ、子から孫へ、そしてさらにその子へと、いうようにね。」

 一輝はなるほどと思った。かなり専門的な内容であったが、一輝も人の身体がDNAという設計図に基づいて造られていることくらいは一般常識として聞き知っていた。しかし、そのDNAが人の身体を支配しているとは一体どういうことなのか。

「DNAは自らが永遠に存在し続けるために私たちの身体を利用しているというのがDNA支配説。DNAは古くなった身体を乗り捨てて若く活力ある身体に乗り移るために、子孫を作るというプラグラムを自らの中に組み込んだの。DNAにとっては私たちの身体は仮の宿、親から子供に自らを運ばせるブリッジのようなものね。DNAはこのブリッジを通って、未来へと確実に運ばれていく。そして役目の終わった個体は滅び死んでゆく。」

 一輝はようやく恵子の言っていることが理解できたような気がした。

 生きているものは必ず死ぬ。人だけではない、犬や猫も、鳥や魚も、小さな虫けらだって、凡そ命あるものは遅かれ早かれ必ず寿命というものがやって来る。だからこそ全ての生き物は自らの命が尽きる前に子孫を残そうと必死になる。そうすれば、例え自らの身体が滅んで消え去ろうとも、DNAだけは確実に子孫に受け継がれていく。DNAが主で、我々の身体が従と考えると全ての辻褄が合ってくる。

「ふーん、面白い話だね。本当に恵ちゃんは博識だなー。」

 一輝は目から鱗か落ちる思いで恵子の話に聞き入っていた。

「ううん、大学の生物学の授業の受け売り。薬学や医学を志す人なら誰でも知ってるわ。」

 恵子は謙遜した。自分が特別偉いわけでもない。ただ住んでいる分野が違うだけのことである。

「答えになったかしら。子供って、自分のDNAを受け継いで、さらに遠い未来へと運んでくれる存在。」

 恵子がそこまで話を進めた時、一輝の脳裏に再びあの恐ろしい光景が浮かび上がっていた。その瞬間、一輝の鼓動は一気に高まり、背筋に冷や汗が噴き出るのを覚えた。仮に、仮に恵子の言うことが正しいとしたら、子孫を残せない自分の存在とは一体何なのか。少なくとも自分はブリッジの役目を果たしていない。橋が通せなければ、DNAはその橋を渡ることもできない。だとすれば、そもそも自分が存在している意義すらなくなるのではないか。DNAというバトンを次の世代に渡すことの出来ない自分はもはや無用なのではないか。

「先輩、先輩、どうしたの。大丈夫?」

 一輝がはっと気がついた時、すぐ傍らには恵子の顔があった。どのくらいの時間であったであろうか。ほんの1~2分であったかもしれない。しかし、一輝はその間のことを全く覚えていなかった。

「ああ、大丈夫だ。」

 ようやく我に返った一輝は雑念を払うかのように頭を左右に振った。

「ごめん、誘っておいて。どうも体調がよくなくて。悪いけど今日はもう帰ろう。」

 一輝は一言そう言うと、くるりと恵子に背を向けた。恵子は突然帰ろうと言われて驚いた。自分の話したことが先輩の気分を害したのではないか。しかし、先程の先輩の様子にはそんな単純なことでは済まされないような何かがあった。もっと奥の深い何かが。

しかし、恵子がそれを詮索する間もなく、一輝の足はゆりかもめの駅の方に向かっていた。


 それから数日後のことである。日本列島を衝撃的なニュースが駆け抜けた。一輝も、恵子も、いや彼らだけではない、日本国中の何千万という人の目がテレビに釘付けになった。

「つい先程とんでもないニュースが飛び込んでまいりました。」

 いつになく紅潮した顔つきでニュースを読み上げる小池キャスターの声がテレビ画面から流れてきた。

「今日午後七時頃、民間の不妊治療団体である『日本クローン技術研究所』は日本初のクローンベビーの妊娠を確認したと発表しました。同研究所では5年前から重度の不妊症患者に対し、クローン技術を使った不妊治療の臨床研究を続けてきましたが、このたび30台の無精子症の患者の骨髄から採取した細胞から作られた胚性幹細胞を、同じく30台の妻の子宮に戻したところ、先日着床が確認されたということです。」

 ついに恐れていた事態が起きてしまった。武沢薬品の研究がリークされて後、パニックは留まるところを知らず拡大していた。精子を全く作ることのできない、いわゆる無精子症の患者の場合、どうしても自分と血の繋がりのある子供が欲しければ、自身の体細胞から作られるES細胞を利用するしか手は残されていない。不妊という現実を目の当たりにして、倫理という壁はもろくも崩れ去ろうとしていた。

「今夜は、急遽『日本クローン技術研究所』の所長である一色修也さんにスタジオにお越しいただきました。早速、お話をお伺いしていきたいと思います。」

 恵子は、思わず身を乗り出してテレビ画面に食い入った。『切れる刀ほど時には危険な刃になる』、恵子の頭の中をいつぞやの篠原教授の言葉が何度となく駆け巡った。

「先生がおっしゃっていたのは、このことだったんだわ。」

 一色修也。恵子の脳裏に院生時代の彼の姿が鮮明に蘇った。細面ですらりとした長身の人物は院生時代から比べると少し老けて見えたが、眼鏡の奥で光る目はむしろ輝きを増していた。

「早速ですが、一色さん、クローンベビーの誕生とはまた大胆な挑戦ですね。現在、ヒトクローンは法律で禁止されていますが、その辺りのことは大丈夫なんでしょうか。」

 ヒトクローン規制法、2001年に施行されたこの法律により、胎児に成長する可能性のある胚細胞をヒトの子宮に戻すことは厳しく禁じられている。修也の行為は、当然法に抵触する。

 いきなりの核心に迫る質問に対して修也はどう答えるのか。恵子は息を殺し、聞き耳を立てて回答を待った。しかし、当の修也は平然と、そしてあたかも想定問答を用意していたかのように持論を述べ始めた。

「まず誤解があるといけませんので最初に申し上げておきます。この問題は法で禁止するとか、倫理がどうとかいう類の問題ではないということです。わが日本国の、いえそれだけではありません、恐らく人類の未来にとっても、この問題は真剣に議論されるべき時が来たということです。今から20年ほど前、既にデンマークの研究者が男性の精子数の減少について警鐘を鳴らす報告を発表していました。しかし、誰もその意味するところを理解できず、いや正確には理解していたにもかかわらず、宗教や倫理の方が前面に押し出され、この問題を議論することすらタブーとして葬り去ってしまったのです。」

 修也の言うことは正しかった。世界の男性の平均的な精子の数が長期間にわたって減少し続けているという事実は、既に広く専門家たちの間では知られていた。しかし、その原因がはっきりと証明されていない以上、対策の打ちようもなく、今日まで放置されてきた。それが、くしくも日本の一民間企業が行った研究により、明確な問題として議論の俎上に上がってしまったのである。

「お言葉ですが、不妊治療が目的であれば何もいきなりクローンまで飛躍しなくても、通常の人工受精で十分ではないですか。日本人男性の精子が全くなくなってしまったわけでもなし、顕微授精でも、ドナーによる精子提供でも、いくらでも別の方法はあると思いますが。政府も既に精子バンクの設立を発表しましたし……。」

 小池キャスターはさらに突っ込んで質問する。

「確かに今の段階ではそう言えるかもしれません。でも、日本人男性の精子数の減少は我々の予想をはるかに超えるスピードで進んでいます。そう、まさに地球温暖化問題と同じなのです。今すぐ適切な対策を行わないと、近い将来取り返しのつかない事態になるかもしれません。あの武沢薬品の研究報告よりもさらに速いスピードでわが国の人口減少が進むかもしれないです。

 もし、政府の設立する精子バンクに十分なドナーの数が集まらず、同じ人の精子が何百、何千という不妊症患者に使われたとしたら、将来遺伝子の同質性という深刻な問題を引き起こす可能性があります。」

「い、遺伝子の同質性? ですか。」

 小池キャスターは、いきなり難しい専門用語を持ち出されたので、少しひるむように尋ね返した。

「はい、遺伝子の同質性です。仮に1人の人間が提供した精子を10人が貰い受けたとします。この10人の遺伝子はその50パーセントが全く同じ形質を供えたものとなります。もしこれらの人が新たな遺伝子の提供者になれば同質性はどんどん進んでいきます。やがて、いつかはハッキリとは分かりませんが、遠い将来私たちの遺伝子は全てが似通ったものとなってしまう。それが遺伝子の同質化なのです。」

「そうしたことが起きると何かまずいのでしょうか。」

「遺伝子の同質化が起きると遺伝病に罹患する確率が高くなります。そればかりか、様々な外部環境の変化、気候変動、病原菌、化学物質、数え上げれば切りがありませんが、これらに対する抵抗力が落ちていきます。

これまで、日本が豊かに繁栄してこれたのは遺伝子の多様性のお陰なのです。一億人の人間がいれば一億通りの遺伝子が存在します。これだけ多様であるが故に、早死にする人もいれば長生きする人もいる、ガンに罹りやすい人もいれば罹り難い人もいる、いろいろな人が混じりあって生きているからこそ日本人という人種が生き延びてこられたのです。政府は、今精子バンクの設立でそうした遺伝子の多様性を奪おうとしているのです。」

 恐らく修也の言うことは正しいであろう。恵子は直感的にそう思った。日本人の気質から言っても、献血ならともかく、献精子となると二の足を踏む人は多いであろう。血筋にこだわる日本人が、法律的には赤の他人でも、自分と同じ遺伝子をもつ人間が多数いるという状況に果たして耐えられるのであろうか。恵子の脳裏に先日の記者会見の模様が鮮明に蘇った。もし十分なドナーが集まらない場合、同じドナーの精子が大勢の患者に使われ…。恵子は、その恐ろしい帰結を振り払おうと目を閉じて耳を塞いだ。

しかし、テレビ画面の方は、恵子の意に反して最悪の結論へと進んでいく。

「そ、それでは、一色さんは、クローンの方がまだましだと。」

「その通りです。クローンであれば親の形質がそのまま子に受け継がれます。1人の人の精子が多数の人に使われるわけではないので遺伝子の多様性は維持されます。少なくとも1億通りの遺伝子はそのまま子孫に受け継がれていきます。

そして、全ての人に自分と同じ血が通う子供が生まれるのです。誰しも、人の子ならば、どこの馬の骨か分からないドナーの精子を使うくらいなら、自身と血の繋がった子供を持ちたいと思うのは当然の道理です。そんな人々の夢を実現できる技術を手にしておきながら、それを使わないというのは、それこそが人道に外れます。

精子バンクの制度は間違いなく失敗すると思います。そして、皆さんは、いえ実際は皆さんではありません、私たちの子孫になる人たちは、です。遠い将来、私の選択が間違いでなかったことを知ることになるのです。」

 修也は、自信たっぷりに自説を締めくくった。不妊による民族の衰退か、クローンによる繁栄か。この国は、いま大きな岐路に立たされていることを、恵子は改めて実感した。


 翌日。東都大学薬学部臨床科学研究所。

「津山君、えらいことになってしまったよ。」

 篠原教授は、恵子を前にして頭を抱え込んだ。

「以前先生がおっしゃっていたのは、このことだったんですね。『切れる刀ほど時には危険な刃になる』というのは。」

「ああ、やはり彼はとてつもない野心家だった。薬学者としての使命を忘れ、21世紀のフランケンシュタインになろうとしたんだ。1年前、彼は私の反対を押し切って、ある男性不妊患者の体細胞から培養したES細胞をその奥さんの子宮に戻そうとした。学内の倫理委員会でも大きな問題となり、あの時は寸でのところで着床を制止した。

そのすぐ後だったよ。彼の方から辞表を提出して。その後、どこでどうしていたのか。風の噂で、不妊患者たちで結成するNPO団体の後援を受けて研究を続けているらしいことは耳にしていたんだか、まさか、こんな大それたことを考えるなんて。」

「す、すみませんでした。私たちがあんな研究報告をしてしまったばっかりに。」

 恵子は、篠原教授に向かって深々と頭を下げた。

「いや、君が悪いわけじゃない。あの武沢薬品の報告は、日本の男性不妊の実態を明らかにし、世に警告を発していくという点でとても意義深いものだった。それをヒトのクローン造りの口実にしようなどと、全く馬鹿げている。何としても止めさせなければ。」

 教授は、大きなため息とともに、ソファに背をもたれかけさせた。

一方、恵子の心の内は複雑に揺れ動いていた。倫理を犯してクローンベビーの誕生に挑戦した修也の行為は当然に許されるものではない。しかし、先日来、不妊に苦しむ一輝の姿を見てきた恵子にとって、「自身と血の繋がった子供を持ちたいと思うのは当然の道理」と主張する修也の行為を一途に責める気持ちにもなれなかった。

2人の間に重苦しい沈黙の空気が流れた。

「ところで例の研究の方は、その後どうなった。何かわかりそうか。」

 教授は、その沈黙を破るかのように話題を変えた。

「ええ、お陰さまで、サンプル数は3千件を超えました。まだ中間集計の段階ですが、不妊に地域的な偏りはなさそうです。北海道から沖縄まで、ほぼ同じような割合で精子数の減少が起きています。問題は年齢別の方ですね。武沢薬品での調査と同様、若い層ほど精子の数が少ないという結果になりました。特に25歳以下の層で顕著な乏精子症が見られました。」

「そうか、25歳以下ねえ。」

 教授は、考え込むようにあごに右手を当てた。

「まず地域的な偏りがないという点から考えると、少なくとも不妊の原因物質は全国に万遍なく広がっているものということになるな。水か、それとも主食である米、が怪しいか。だとすれば、残留農薬の可能性が高い。工場排水とかだとその地域に限定されるからな。」

 恵子は、なるほどとばかりに頷いた。

「でも先生、農薬は農水省が厳しく基準値を決めていて、危ない可能性のあるものは全て使用禁止になっているのでは。」

「確かに君の言うとおりだ。ただ、基準値といってもそれは現時点で安全と思われるレベルだ。君も知ってのとおり残留農薬の中には何年もかかって人の体の中に蓄積して影響を及ぼすものもある。その基準値が本当に安全かなんて誰にも確信を持って言えるものではない。」

 恵子は、すぐに先日一輝にも説明したダイオキシンのことを頭に思い浮かべた。色も匂いもなく何年もかかって人のホルモンバランスを崩していく物質、それはダイオキシンに限ったものでもない。候補となる物質は無数にある。恵子は途方にくれた。

「とにかくカギは25歳という点にありそうだな。人の生殖機能が最も発達しやすいのは10歳から15歳くらいだ。25歳の人が丁度その年齢に当たっていたのは今から10年から15年くらい前、その頃に新たに認可された農薬はないか。それと水道水への添加薬剤も調べた方がいい。塩素系の消毒剤に変更はなかったか。調べることは山ほどありそうだな。」

「はい、とにかく可能性の高そうなところから調べてみます。アドバイス、ありがとうございました。」 

 恵子は、ようやく調査の糸口が掴めたことで勢い込んで立ち上がった。しかし、この後恵子の調査は予想以上に難航することになることを、恵子はまだ認知していなかった。



5 挑戦状


「1995年、水、米…、か。」

夜10時過ぎ、恵子は灯りの消えた研究所でただ一人パソコン画面に向かっていた。インターネットに次から次へと表示される膨大な数の記事を一つまた一つと開いては閉じていく。その間にも恵子の脳裏にはこの1年余りの出来事が次々とよぎっていった。

あの武沢薬品のレポートのリークを皮切りに様々なことがあった。政府による精子バンクの設立、一色修也による大胆なクローン実験、そして山本一輝との劇的な再開、全てが自身の手掛けたあのレポートから始まっていた。恵子は焦っていた。世の中の流れがあまりに速すぎて、この先どうなっていくのか恵子にも全く予想すら出来なかった。

このままなし崩し的に倫理の壁は破られていくのか。そして不妊の原因物質は果たして見つかるのか。そんなことを考えるだけで、恵子の目はますます冴え渡っていった。

「ひょっとして…」

夜が白み始める頃、ようやくある言葉が恵子の目に留まった。

「MA米」、別名ミニマム・アクセス米。多角的貿易交渉、いわゆるウルグアイラウンドで、わが国が輸入を義務付けられた米である。MA米の輸入が始まったのは1995年、あの篠原教授のヒントにも合致する。

歴史的にわが国政府は国内の農家を保護するため、様々な農産物の輸入を制限してきた。それがある意味、わが国の『食の安全』のバリヤーともなってきた。しかし、ウルグアイラウンドはそうした食糧鎖国を打ち破り、農産物貿易を自由化した結果、食の安全に対する大きな脅威が生じた。

ウルグアイラウンドでは、わが国が最低限輸入すべき米の量(ミニマムアクセス)が国内総生産量の8パーセント程度と定められた。農水省は、それでも国内の米農家を保護するため、MA米を主食として流通させず、主として加工食品用や工業用として卸していた。

「たった8パーセント? それも加工食品用か。」

恵子はパソコンを閉じながら大きな嘆息を漏らした。あまたの優秀な研究員が長年探し続けて見つからなかった不妊原因物質、それがわずか一夜で見つかると考える方が無理である。恵子は腫れぼったい目をさすりながら研究室を後にした。

いつしか外の廊下は出勤してくる職員で溢れていた。恵子はフラフラとエントランスに向かって歩みを進めていた、その時。

「あれ、あの人…」

恵子はその顔に見覚えがあった。スラッとした長身に少し面長な顔、縁のない眼鏡の奥に輝く冷徹な目は紛れもなくあの時の人であった。恵子はその人に近づいて声をかけた。

「一色さん、一色修也さんですよね。」

その声に付近にいた数人が一斉に振り返った。あの一色修也がいまここにいる。修也は徐に立ち止まった。あっという間に周囲に人垣が出来た。そんな中、恵子と修也はにらみ合ったまま対峙した。

「あなたは?」

修也は右手を軽く眼鏡に触れながら静かに尋ねた。

「わ、私、津山恵子って言います。先月からここの研究員として…」

「津山? 恵子…」

修也は少し考える仕草をした後、フッという不遜な笑みを浮かべた。

「君か。武沢薬品から移籍した不妊研究の第一人者っていうのは。」

恵子は先手を打たれて言葉に窮した。まさか自身のことが修也の口から出てくるとは思ってもみなかったからである。

「一体何をしにここへ。」

恵子はつい詰問口調になって尋ね返した。

「いや、ちょっと篠原先生にご挨拶と思ってね。」

篠原先生と聞いて恵子は即座に教授のあの言葉を思い出した。『切れる刀ほど時として危険な刃にもなりうる』その危険な刃が何をしにここへ。

「あなたにここに入る資格なんてないわ、第一先生がお会いにならない。」

「さあ、それはどうかな。」

修也は再び不遜な笑みを浮かべた。

「2年前、くしくも私が予言した通りになった。」

「予言?」

「そう予言さ。私は、いつかこんな日が来ると思っていた。だからクローン技術の研究を進めてきた。でも、先生はその重要性を理解してくださらなかった。いや、それどころか学内の倫理委員会に諮って、私の実験を中止させた。」

「そ、それは違うわ。あなたは間違ってる。絶対に。」

「フン、どうして君にそんなことが言えるんだい。不妊に苦しむ人達の気持ちも分からすによくそんなことが言えるな。いいかい、人々は一日も早いクローンベビーの誕生を待ち望んでいる。現にうちの研究所には3千人を超える人達が既に登録を済ませた。この人達の思いが君に分かるか。」

3千人と聞いて恵子は思わず頭がクラリとした。自身の血が、そして民族の血が絶えようとする時、倫理の壁は無残にも破られていく。恵子が返す言葉を失して茫然と立ち尽くす中、突然人垣がサッと割れた。そこには篠原教授の姿があった。

「おや、篠原先生じゃないですか。丁度よかった。いま所長室の方へお邪魔しようと思ってたところですよ。これは手間が省けた。」

修也は恵子には目もくれず、づかづかと教授の方へと歩みを進めた。篠原教授は一瞬驚いたような表情を見せたが、相手が誰かと分かると急に険しい表情になった。

「帰ってくれ。君のような人間に会う気はない。」

「おやおや、これはまた。会うなりいきなり帰れ、ですか。折角先生のお役に立ちそうな研究結果をお伝えしようと思って参りましたのに。」

「何が研究結果だ。あんな馬鹿げた研究なんぞに聞く耳は持たん。」

「相変わらずですね、先生。じゃあ先生はこの日本国の将来がどうなってもいいと。このまま不妊がドンドン拡大して日本人の血がこの世界から消えてなくなってもいいと。」

「わしは何もそんなことは言っておらん。何の努力もせず、短絡的にクローン技術を使おうとすることが問題だと言っとるんだ。」

 篠原教授は声を荒げた。周囲を取り囲む大勢の職員や研究員たちが2人の会話の行方を固唾を呑んで見守った。

「ほう、じゃあ先生、何か当てがおありなんてすか。この不妊の原因が何なのか。」

修也は勝ち誇ったようにニヤリと笑ってみせた。

「ああ、今そこにいる津山君が調べてくれている。必ずいい結果が出ると思っている。」

2人を取り囲んでいた人々の視線か一斉に恵子の方へと注がれた。恵子は突然名指しされたことで狼狽した。調べるといっても恵子の研究はまだその端緒に着いたばかり、この先何年掛かるかさえ分からない。そんな恵子の狼狽を見透かしたかのように、修也は自信たっぷりに言い切った。

「彼女が? ですか。いくら不妊研究の第一人者といっても、これまであまたの研究者たちが探し続けてきた不妊の原因物質ですよ。そう簡単に見つかるとは思えませんが…」

修也は鼻先でせせら笑った。図星である。修也の言葉は、つい先ほど恵子自身が実感したことをそのまま代弁していた。恵子は反論する言葉もなく目を伏せた。修也は勝ち誇ったように、衆目の前で挑戦状を叩きつけた。

「まあ折角ですから一度だけチャンスを差し上げましょう。もし、そこの津山さんでしたか、彼女が不妊の原因物質を解明できたら、クローンベビーは中絶させましょう。但し、人工的に中絶が認められるのは妊娠22週目まで、それを過ぎれば、先日お話しましたように世界初のクローンベビー誕生ということになります。今妊娠12週目ですから、残り時間はあと2ヶ月と少し。いいですか、私が伝えたかったのはそれだけです。それじゃあ朗報をお待ちしていますよ。」

修也は一方的に言い残すと、スーツの裾を翻した。


 薬学研究所、所長室。

「先生、私…」

 恵子は篠原教授の前で泣き崩れた。昨晩徹夜した疲れもあったが、何よりあんな大勢の前で屈辱的な侮辱を受けたのは初めてであった。

「気にすることはない。一色とは、ああいう男だ。」

 教授は、困ったという表情で大きな嘆息を漏らした。

「それで、その後、何か分かったかね。」

 教授の言葉でようやく正気を取り戻した恵子は、昨晩のいきさつを説明した。

「そうか、MA米か。なるほど、可能性はあるかもしれんな。」

「でも、先生、MA米の輸入量はわずか8パーセント、それもほとんどが加工食品や工業用とかで。」

「確かに君の言うとおりだ。だが、あれは1999年頃だったかな。中国から輸入されているMA米から基準を大幅に超える残留農薬が発見されてね。」

「ざ、残留農薬ですって。」

 その一言で、恵子の睡魔は一気に吹き飛んだ。

「ああ、確かメタミドホスだったかな。日本じゃとっくの昔に禁止されているが、あちらじゃ今でも簡単に手に入るそうだ。お国柄なのかね。自分たちさえよければ、後は野となれ山となれっていうことか。」

「それで、その問題は、どうなったんですか。」

「農水省は、これ幸いとばかりに中国からのMA米の輸入禁止に踏み切ろうとしたんだが、外務省が待ったをかけた。当時、中国は日本の重要な貿易相手国として台頭していたし、何よりあの国とは戦後処理の問題も抱えている。当時、残留農薬で健康被害が出たという事実も報告されていなかったこともあり、結局、主食としては使用しないということを条件に輸入は続行されることになった。」

 恵子は、ああとばかりに額に手を当てた。これこそ、まさに環境ホルモンの典型例かもしれない。一度に大量に摂取すれば中毒症状を起こす猛毒も、薄められて広く浅く食品の中に紛れ込んでしまえば、もはや誰にも何も分からない。MA米に残留していた農薬が何十年も後になって不妊という問題を引き起こしたとしても不思議ではなかった。

「先生、ありがとうございました。早速、農薬を当たってみます。」

 恵子は勢い込んで立ち上がろうとした。

「おいおい、君、少し休んだらどうだ。昨晩は寝てないんだろう。顔にそう書いてあるぞ。」

「いえ、寝てなんかいられません。後2ヶ月ですから。」

 恵子の脳裏には、あの一色修也の挑戦状のことしかなかった。教授は、やれやれとばかり苦笑いをしながら、走り去る恵子の後姿を見やっていた。


 一方、その頃、一輝はある事件について調べていた。

 不妊騒動が持ち上がって後、世の中はその犯人探しで話題が持ち切りとなっていた。報日新聞でも『食の安全』と題して特集記事を組むこととなり、一輝もその取材で忙しい日々を送っていた。

「そ、それって、偽装ってことじゃ。」

 一輝の目が釣り上がった。

「ああ、結果的にはそういうことになるかもな。でも、当時はどこでもやっていたし、逆にやらないと競争に負けて会社が駄目になっちまう。必要悪ってとこかな。」

 男は悪びれる様子もなく、ぼそぼそと話した。

 一輝が、匿名を条件に取材を申し込んだのは、米の卸売業者の元役員という男性。歳は60台半ば、もう引退して10年近くになるという。男が勤めていた会社の社長は、戦後のヤミ米の売買からのし上がってきた辣腕者で、農水省にも太いパイプがあるとの噂があった。

「社長命令だから仕方がなかったんだよ。断ればコレだしな。」

 男は、右手で喉元を切る仕草をして見せた。

「やり方は簡単さ。ラベルを張り替えるだけのことだ。当時は、国内の農協から仕入れる国産米に、農水省から下される輸入米をブレンドしていた。役所の方からの仕入れはノルマだからな、断るわけにも行かない。どこもぼやいてたよ。工業用限定だとか言われても、真面目にやってたんじゃ大赤字だしな。皆、多かれ少なかれ流通米に混ぜて出荷していたよ。『純国産コシヒカリ100%』なんて堂々と書いてね。」

 ペンを持つ一輝の手は怒りのためにプルプルと震えた。もしこれが取材でなかったら、その場で男を張り倒していたかもしれない。

「でも、もしその米に毒物とか混ざっていたら。」

「そりゃあ、まずいだろうな。でも、皆、バレようがないと思ってた。混ぜるのはほんの数パーセントだし、色も匂いも見た目は大して違わない。素人じゃまず見分けがつかない。いや業者ですら、一旦混ぜてしまえば、それこそ今はやりのDNA検査ってのでもやらない限り、産地はまず分かりっこない。それに、それ食って腹こわしたなんて話も聞いたこともなかったし。」

 男は、まるで他人事のように淡々と話し終えた。

 一輝の頭に、今恵子のあの言葉が蘇っていた。環境ホルモンは色も匂いもない。ピコグラムという極小単位でしか測れない。もし、そのブレンド米が汚染されていたとしたら、それはただの食品偽装では済まない話になる。

「おいおい、文屋さんよ。そろそろいいかな。俺も、今頃になってから、手、後ろに回りたくもないし。どうか一つ、内密に頼みやすよ。」

 男が立ち去った後、一輝はしばらく放心状態で座っていた。やがて、一輝は、ゆっくりと携帯電話を取り出すと発信ボタンを押した。


「では、津山さん、こちらに今日の日付と印鑑を。」

 恵子は薬剤部の受付で薬品の持ち出し手続きをしていた。メタミドホスは劇薬物に指定されているため、その持ち出しには厳格な手続きが必要であった。恵子は、素早く署名と捺印を済ませると、小さな茶色のガラス瓶を受け取った。ラベルには、高純度メタミドホス5グラムと記されてあった。わずか5グラム、我々が普段コーヒー1杯に入れる砂糖ほどの量である。しかし、この量でも30人の人間に中毒症状を起こさせるには十分であった。

 研究室に戻った恵子は、早速マウスを使った実験に取り掛かった。マウスの平均体重は25グラム、成人男性の約二千分の1である。平均寿命も約2年と短い。薬品の効果を調べるのに最適の実験用小動物である。

 恵子は、マウス10匹ずつを3つのグループに分けた。A群には、一日の最低許容量の100倍、B群には10倍、そしてC群には何も入れない通常のエサを与えるようにセットする。

「早ければ2週間ほどで何か分かるかもしれない。」

 実験の準備を終えた恵子が、ようやく一息ついてコーヒーカップに口をつけようとした、その時、携帯電話が鳴った。

「もしもし、恵ちゃん。俺だ。」

「せ、先輩。先輩なの。」

 恵子は、すぐに一輝と分かった。この前、あのような不自然な別れ方をして以来、恵子はずっと一輝のことが気にはなっていたが、なかなか連絡を取るきっかけがなかった。その一輝から電話が入ったのである。先ほどまでの疲れも忘れて、恵子の気持ちは一気に高揚した。

しかし、そんな恵子の心のときめきは一瞬にして凍りついた。

「えっ、そ、それってどういうこと?」

 電話の向こうの声に耳を傾ける恵子の表情は、次第に硬く険しくなっていった。

「そ、それじゃ、私たち、メタミドホスが入っていたかもしれない米を長年それと知らずに食べさせられてたってこと。」

「メ、メタ…、何? それ。」

「あっ、ごめんなさい。メ・タ・ミ・ド・ホ・ス、農薬の成分で、大量に摂取すると中毒症状を引き起こすの。それがMA米に含まれていたことが分かって…」

 恵子は、興奮した口調で矢継ぎ早に話した。

「ちょ、ちょっと待って。それと不妊とどういう関係が。俺、専門外だから、何が何だか。」

 電話の向こうに、困惑した一輝の声が聞こえた。恵子は、少しイラッとしたが、これまでの経緯を一輝の耳元で一気にまくし立てた。

そしてついに、一輝にとって決定的な最後通告の言葉が発せられた。

「だから、私たち、知らない間に環境ホルモン入りの米を長年食べさせられてきた可能性があるっていうことよ。」

 その言葉を最後に、電話の向こうに長い、長い沈黙が流れた。一輝は放心状態で携帯電話を握り締めていた。『ありとあらゆるものが環境ホルモンの候補になりうる』、一輝の頭の中に以前聞いた恵子の言葉が何度となくこだました。

「ね、ねえ、先輩、聞いてるの。」

プッ。その言葉と同時に電話の切れる音が恵子の耳に届いた。

「先輩、先輩ったら。」

 恵子は、すぐに一輝の携帯に折り返しの電話を入れるが、いつまでも呼び鈴の音だけが聞こえていた。メタミドホス入りの汚染米が流通していた可能性がある。それも主食用として。恵子の心を覆っていた深い霧の向こうに、微かに希望の光が見えたような気がした。

何も知らない、マウスだけが与えられたエサをポリポリと貪り食っていた。


2週間後、恵子の研究室。

恵子は震える手でマウスの下腹部にメスを差し入れた。クロロホルムによる麻酔が効いていてマウスはピクリともしない。マウスの精巣はわずか数ミリ。傷付けずにそれを摘出するのは、至難の作業であった。恵子は、頭に拡大鏡を装着し、器用にピンセットを動かす。

「これも随分小さくなってるわ。これも…。」

恵子は額の汗を拭いながら、根気よくこの微細なオペを続けた。

そして、その翌日。

「先生、結果が出ました。A群の被験体全てに精巣の萎縮が見られました。精子の数も30パーセント程減っています。明らかにメタミドホスの作用と思われる変異が出ています。」

「そうか、やはり。」

篠原教授は、額に手を当てて、大きく頭を横に振った。しばらく重苦しい沈黙が続いた後、教授は大きく長いため息を漏らした。

「先生、これは一刻も早く公にして、詳しい調査をした方が。」

「ああ、そうしたいところだが、これが原因だと確信を持っていうためには、もっと他の被験体でも調べてみないとな。」

恵子は意外であった。よもや教授の口からこのような慎重な言葉が飛び出すとは思ってもみなかったからである。

「でも、先生、もう時間があまりありません。クローンベビー誕生まで後1ヶ月半しか…」

「津山君、君の気持ちは分からないでもない。ただ、君も知っての通り、科学の世界じゃ推測でものをいうのは危険だ。何事も裏付けの検証が必要だ。」

「でも、先生、今度ばかりは間違いないと思います。実験でも明らかな違いが出ています。間違いなくメタミドホスが原因物質です。」

「いつも慎重な君にしては珍しいな。ただ、当時メタミドホス入りの汚染米は、全て工業用にされたと聞いている。だとしたら最近の不妊問題とは無関係ということになる。」

教授はあくまで慎重であった。事はこの国の将来を左右しかねない一大事、慎重の上にも慎重を期さないと、再びとんでもないパニックを引き起こしかねない。教授独特の勘、あるいは歳の功とでも言うべきか、この問題はそう簡単に答えか出るはずはないという思いがあった。

しかし、そんな教授の慎重さも、恵子の次の一言で一気に吹き飛んだ。

「何? そ、それって本当か。」

「ええ、大学時代の陸上部の先輩で、今、報日新聞の記者をしてます。信頼出来る人です。」

 恵子は、一輝から聞いた話を教授に伝えた。

「そうか、それは知らなかった。初耳だ。あの米が密かに流通していたなんて。もしそれが事実だとしたら、そしてそれが原因でこの国が大変な危機に陥れられたとしたら、その米業者は、いや米業者だけじゃない、農水省もだ、万死に値する国賊だ。」

教授は、怒りで、握り締めた拳を震わせた。もう。二人を迷わせるものは何もなかった。

「津山君、記者発表の準備をしたまえ。」

教授は、静かに自らの決断を指示した。


6 拙速


それから3日後。

「何だ、これは。」

山中総理は、出勤するなり官邸の執務室で、テーブルの上に朝刊を叩きつけた。

『汚染米から不妊原因物質』

報日新聞の一面トップにデカデカとした見出しが踊っていた。

『中国産のMA米に基準を超える残留農薬』

『汚染米が密かに流通、農水省黙認か』

一輝らの手掛かけた特集記事が発表されたのである。

残留農薬の入った汚染米を農水省が工業用として業者に卸し、落札した業者が密かにその汚染米を食用として流通させていた。しかも、その汚染米に含まれていたメタミドホスが東都大学臨床薬学研究所の実験により、マウスの精巣を萎縮させ、精子の数を減らす作用のあることが明らかにされた。

この前の不妊のリーク記事とは比較にならないほどの衝撃が日本列島を駆け巡った。

「とにかく早急に善後策を打たねば。政権基盤にかかわりますぞ。」

傍らから官房長官が呻き声を上げた。

総理執務室の会議テーブルには、総理以下、官房長官、農林水産大臣、厚生労働大臣、それに外務大臣らの顔も見えた。とにかく関係する省庁が多すぎた。米の流通は農水省管轄、薬害は厚生労働省、中国関係は外務省…、何からどう手をつければいいのか全く収拾がつかない状況になっていた。

「すぐに、記者会見の準備…」

総理が口を開こうとした瞬間、執務室の電話がけたたましい音をたてた。

「ちっ。」

総理は舌打ちしながら、キャッチボタンを押す。

「総理、中国の駐日大使から至急面会の要請が。例の記事の件です。」

「ええい、待たせておけ。今大事な会議中だ。」

プッ、総理は忌々しげに電話を切った。しかし、電話は鳴り止まない。

「総理、そこに農水大臣はおられますか?」

「今会議中だと言っとるだろう。」

「それが、農水次官からです。至急大臣に取次願いたいとのことで。朝から省内の電話が鳴り止まないとのことですが。」

「適当にあしらっておけ。今、会議中と言っとるだろ。電話は全て断れ。」

総理は秘書をどやしつけると、電話回線を根元から引っこ抜いた。ようやく静けさを取り戻した執務室の中で、総理は居合わせた閣僚全員の顔を次々と嘗め回すように睨み付けた。

「やはり今回は、記者会見はなしにしよう。」

前回の記者会見での失態が総理の脳裏をかすめた。今の状況では国民の前で何を言っても無駄である。政府の危機管理能力の無さを衆目に曝すだけである。事ここに至っては、むしろ『沈黙は金なり』である。

「しかし、総理、今回は東都大学臨床薬学研究所のお墨付きですよ。この前の武沢の時とはインパクトの大きさが比較になりません。このままでは次の総選挙は到底…」

「ええい、そんなことは、いちいち言われんでも分かっとる。」

結局、朝からの密談は、お昼を過ぎても延々と続き、何の結論も見出せないまま三時過ぎに終了した。


 しかし、その夜、政府にとって思わぬ救世主が現れた。それはくしくも、政府公約の精子バンクに真っ向から異を唱えたあの人物であった。

「それでは、一色さんは、メタミドホスが不妊原因物質ではないと。」

 興奮と緊張のため、小池キャスターの声は微かに震えていた。

 テレビカメラの前には、篠原教授と一色修也が対峙するように座っていた。

「MA米が不妊の原因だなんて馬鹿げてますよ。東都大学薬学研究所も地に堕ちたものです。」

「し、失礼な。当研究所の動物実験でハッキリと精巣の萎縮が確認された。何よりの物証だ。」

 温厚な篠原教授が、珍しく声を荒げた。

 恵子は、手の平に噴出してくる汗を握り締めながら、教授と修也の対決の行方を見守っていた。本来なら、今日のニュースワイドには、今朝の報日新聞の記事を受けて篠原教授一人が出演する予定なっていた。それが番組の直前になって急遽修也の割込みが決定したのである。一体何があったのか。

 恵子は、慌しいテレビ局側の動きに一抹の不安を抱きながらも、教授のディベートに確信を持っていた。あれだけハッキリとした実験結果が出たのである。日本中の薬学関係者をもってしても否定しようのない事実であった。

「確認されたといっても、どうせマウスか何かでしょう。高等動物での実験はまだですよね。それに、仮にメタミドホスに環境ホルモン作用があったとしても、今回の不妊騒動との因果関係までハッキリと証明されたわけではない。」

「確かにまだ調べるべきことは残っているかもしれない。しかし、汚染米が密かに流通して我々の食卓に載っていたのは事実だ。我々はあらゆる可能性を排除すべきではない。」

 篠原教授の応接は、どこか歯切れが悪かった。

 恵子は、研究所で慎重な姿勢を示した教授の言葉を思い出していた。『科学の世界では推測でものを言うのは危険だ』、確かに修也の言うとおり因果関係と言われると、恵子にも確たる自信があったわけではない。やはり教授の言葉の通り、自身は少し功を焦りすぎたのか。

 そして、恵子のその不安は、次の修也の一言で的中した。

「私は、確信を持って、ここにメタミドホスが今回の不妊騒動の原因物質ではないと断言します。理由は、ここにその生き証人がいるからです。」

「い、生き証人? ですか。それは一体誰…」

 一呼吸も二呼吸も置いて、修也は静かに告白した。

「それは、私自身です。私自身が男性不妊患者だからです。」

 スタジオの中に一瞬ざわめきが響いた。恵子も、思わずエッという声を上げた。

「もう5年も前のことです。しかも私のケースは無精子症、つまり全く精子が見つからないほどの重症でした。」

「一色さんが、む、無精子症。」

 恵子は息を呑んだ。スタジオ内も水を打ったようにシーンと静まり返った。教授は腕組みをしたまま天井を仰いだ。小池キャスターも次の言葉を考えあぐねている。

 恵子は、一色修也がなぜあれほどまでにクローン技術に拘ったのか、今その理由を知ったような気がした。『自身と同じDNAを持つ子孫を残すことが出来ない、その苦しみが君にわかるか』、修也の切ない言葉が何度となく恵子の頭の中を掛け巡った。

「まあ、それはいいとしまして…」

 重苦しい沈黙を最初に破ったのは修也だった。

「ここからが本題ですが、実は私の実家は農家でした。ですから少年時代には、家で獲れた米以外口にしたことがないんです。」

 スタジオの中が再び騒然となった。恵子の頭の中にも金槌で殴られたような衝撃が走った。

「父は化学肥料を使うのが嫌いで、野菜はおろか米もいつも有機農法で作っていました。ウソだとお思いでしたら私の生まれ故郷に行って調べていただいてもかまいません。その私が不妊症になった。私が何を言いたいか、もうお分かりでしょう。不妊の原因はコメじゃない。もっと別の何かがあるはずです。」

 修也は、恵子の出した結論を見事に喝破してみせた。やはり教授の勘が当たっていた。恵子は、功を焦るあまり、結論を急ぎすぎたのである。

「一色君、私の負けだ。済まなかったね。話したくないことまで話させてしまったようだ。」

 教授は、大きな嘆息を漏らしながら、修也に向かって深々と頭を下げた。その額には、敗北を示す深いしわが刻まれていた。

「いえ、いいんです。隠しても仕方のないことですから。」

 修也は、恨み言を言うこともなく、静かに教授に向かって一礼した。

『篠原教授、薬研所長を引責辞任』

『薬研、拙速な研究報告で名声に傷』

 翌日の各紙は、昨日の出来事を一斉に報じていた。


 あの夜から三日がたった。

 恵子は、うつ状態のどん底にあった。自身の手掛けた研究報告がとんだ勇み足であったことが判明したばかりか、それが原因で篠原教授が研究所を去ることを余儀なくされた。とても顔を上げて研究所に出られたものではない。

 あの一色修也の話にウソ偽りはなかった。仮にメタミドホスに不妊効果があるとしても、汚染米が北海道から沖縄に至るまで全国津々浦々まで行き渡っていた可能性は極めて低い。なぜそんな単純な事に思いが至らなかったのか。

MA米、メタミドホス、食品偽装…、一連の話があまりに都合よく次々と表沙汰になった。恵子でなくても、疑いをもってもおかしくはなかった。しかし、肝心の因果関係は実証されていなかった。不十分な調査による拙速と言われても仕様のない内容であった。

恵子は、学生時代を思い出していた。あの時は、常に一輝の笑顔が傍にあった。どんな苦しい時も、どんなスランプに陥った時も、一輝の声を聞けば勇気が沸いてきた。しかし、今はそれもない。もう、どうにでもなれ、自分が走らなくても、自分が走ることを止めてしまっても、誰も困らない。不妊が原因でこの国がどうなろうと、自分の知ったことではない。恵子の心の中にそんな捨て鉢な気持ちが芽生え始めていた。

「ピンポーン」

 その時、玄関チャイムが鳴った。今頃、誰? どうせ面白半分、興味半分のマスコミ取材であろう。世間を騒がせたおバカな研究者、不妊研究第一人者の転落人生、記事にするには恰好の材料であった。しかし…。

「せ、先輩、一輝先輩なの。」

 インターフォンのモニター画面には、あの懐かしい顔があった。

「もう三日も研究所に出ていないって聞いて、心配で。」

 恵子は、大慌てでエントランスの開錠ボタンを押した。そして、すぐさま玄関の扉を開けて、一輝が上がってくるのを待った。エレベーターの扉が開いて、一輝の姿が現れた。恵子は、一輝の胸に飛び込んで大声で泣き崩れた。一輝は、そんな恵子の肩をそっと抱いた。

「ひどい顔だな。」

 一輝の笑う顔が、涙でかすむ恵子の目に映った。そう言えば、この三日間、ろくに化粧もせず、風呂にも入っていなかった。とても人に会えたものではなかったが、恵子は、そんなことも忘れて再び一輝の胸の中に泣き崩れた。

「まあ、とりあえず生きててよかった。」

 一輝は、今度はしっかりと恵子を抱きしめた。

 落ち着きを取り戻した恵子は、ようやく一輝を部屋と招き入れた。ワンルームマンションの一室は、とても独身女性のものとは思えないほど乱れに乱れていた。敷きっ放しの布団、食べかけのインスタントラーメン、ゴミ箱からはみ出したティッシュの山。座る場所どころか、足の踏み場すらない。2人は顔を見合わせて、思わず吹き出した。

「やっと、笑ってくれたね。」

 一輝はやれやれという表情で、ようやく恵子の顔を直視した。一輝には、この酷い顔に見覚えがあった。学生時代、グラウンドで見たあの顔、スランプに陥った恵子は救いようのないこんな顔をしていた。それが今の一輝には妙に懐かしかった。

「恵ちゃん、まだ諦めるのは早いぞ。」

 一輝は、12年前に大学のグランドで掛けたのと同じ言葉を掛けた。

「恵ちゃん、例のサンプル調査の結果はキチンと分析したのか。」

「サンプル調査?」 

 そう言われれば、ここしばらく汚染米のことで頭が一杯で精液のサンプル調査のことなどすっかり忘れていた。恐らく、もう5千件は集まっているはずである。

「そうだ。君自身が言い出したことだろう。それを放ったらかしにしておくなんて、一体どういうつもりなんだ。君らしくないな。」

 一輝は、今度は厳しい表情に変わった。ある時は優しく、ある時は厳しく、そうやって一輝は恵子の成長をサポートしてきた。

「でも、中間集計段階で大体のことは。年齢が25歳以下という点を除けば、不妊症患者に地域的偏りもなかったし。それ以上のことは調べても時間の無駄…」

「果たしてそうかな。本当に自信を持ってそういい切れる。」

 恵子は、渋々パソコンを開くと、研究所のデータベースにアクセスした。

 膨大な数のサンプルデータが表示された。年齢、主な生育地に続き、精液1CC中に含まれる精子の数がランダムに表示される。一輝は、エクセルに表示されたデータを素早くソーティングに掛けた。傍らから恵子がパソコンを覗き込む。

「先輩、一体何を調べてるの。」

「正常値に近い人のデータだよ。」

「正常な人のデータ? 私たちはいま不妊症患者の調査をしてるのよ。正常な人のデータを調べて一体何になるの。」

 恵子は怪訝そうに尋ね返した。

「押しても駄目なら、引いてみなっていうことさ。俺は薬学の知識はないけど、統計学なら少しはかじったことがある。新聞社の方じゃよく世論調査とかやっていたからね。世論調査では、結果を集計する際に、よく上位5パーセントと下位5パーセントを切り捨てる。これは調査結果を歪ませる異常値を排除し、統計の信頼性を高めるためだ。でも、その捨て去った5パーセントに大きな意味がある場合もある。」

 恵子は、そんな一輝の声に昔の先輩の声を聞いたような気がした。その声には、自信に満ちた響きがあった。一輝はソーティングした結果を、精子数の多い順に並べてみた。1CC中の精子数1億5千、1億4千…、1億以上であればまず全く問題ない完全な健常者である。

「ほら、これを見てごらん。問題はこの正常な人たちの出身地だ。」

 恵子は『主たる生育地』の欄に目をやった。そこには一輝の言わんとしている文字が並んでいた。『群』、『村』、『字』。

「どこも、かなり田舎のようね。」

「その通り。答えのカギは『田舎』。それも、普通の田舎じゃない、かなり山奥だ。」

「でも、当然の結果じゃない。都市部に比べたら、田舎の方が環境ホルモンに晒されるリスクも低いし。それにこれだけじゃ、何の脈絡もない。答えになってないわ。」

 恵子は途方に暮れたようにため息を漏らした。一輝はしばらく考えるしぐさをしていたが、やがてポツリと口を開いた。

「一度、この場所に行ってみないか。何か分かるかもしれない。」

 一輝は、いま新聞記者独特の嗅覚を働かせていた。社会部の記者はデスクに座っていては記事は集められない。「足で稼げ」と常々ハッパを掛けられてきた一輝にとって、まず現場に足を踏み入れることが全ての第一歩であった。記者になって8年、最近ようやくその意味するところが分かりかけていた。

「でも、どこへ行けばいいの。対象先はこんなにたくさんあるのよ。闇雲に走り回っても時間の無駄かもしれない。」

 これまであまり研究所から外に出たことのなかった恵子には一輝の言葉が唐突に思えた。今日では欲しい情報は大抵インターネットを通じてオフィスに居ながらにして手に入る。汗をかいて自分の足で歩き回るなんて一昔前のことのように思えた。

「どこでもいいさ。とにかく行ってみよう。きっと何か手掛かりになるものが見つかるよ。」

 一輝にも確信があるわけではなかった。でも、ここでこうやって座っていても進展はなさそうであった。一輝は、画面をスクロールさせると、適当にストップさせた。

「ここはどうかな。ここなら東京からも近そうだし。」

 一輝が指し示した欄には、「群馬県奥敷郡神谷村字落合」という住所が示されていた。被験者の年齢は23歳、精子数は1億1千万となっているから正常の範囲内である。

 一輝は、インターネットの地図帳にアクセスする。地名を入れるとすぐさまその場所は画面に表示された。神谷村は群馬県の東の端、栃木県との県境に近い奥地にあった。ハイキングで有名な尾瀬沼の登山口にも近いあたりである。

「随分と山奥ね。」

 恵子は一輝の傍らから地図を覗き込みながら呟いた。

「よーし。じゃあ出発は明日だ。少し早いけど朝7時に迎えに来るから。いいかな。」

 半信半疑のまま、恵子は、ようやく重い足を上げてグランドを走り始めた。今の恵子には、一輝の言葉を信じるほかに道はなかった。


7 旅


 翌日、関越自動車道を走る車の中に恵子と一輝はいた。2人でドライブに出かけるなど学生時代以来であった。あの頃、一輝は先輩としてだけでなく、一人の男性としてもよく恵子を誘った。恵子も、一輝には先輩以上の気持ちを抱いていた。今でもその気持ちは変わっていない。

 一輝は無言のまま車を走らせる。車の中に、男が一人と女が一人、普通なら楽しい会話が弾むはずのところである。しかし、今の2人にそれを求めるのは無理であった。一輝は一輝で、他人には言えない暗い過去を背負っていたし、恵子は恵子で、先日の研究発表の傷痕がまだ癒え切らずに疼いていた。2人が、本当の昔の2人に戻るには、まだまだ道程は遠かった。

 車は、いつしか前橋を過ぎ、一輝は渋川インターで高速を降りた。後はカーナビの仕事である。次第に高度を上げていく峠道を一輝は慎重に車を走らせる。尾瀬沼登山口まで後10キロという表示が見えたところで、カーナビは左折の指示を出した。

道は、さらに険しい峠道へと変わる。車は、センターラインもない細い道を何回もうねりながら上っていく。時折道の上に覆い被さるようにはみ出した熊笹の葉が車窓に当りバサバサと音を立てる。その時、車は急停車した。対向車である。こんな細い道でどうやって交わすのであろうかと見ていると、対向車はゆっくりとバックして待避所に下がってくれた。互いに一礼しながらすれ違う。どうやら相手は地元の人のようであった。物珍しそうに2人の乗った車を覗き込みながら過ぎ去って行った。

 峠道に入って30分も走ったであろうか、車はようやく神谷村に着いた。ある程度覚悟はしていたが、想像以上の山奥であった。一輝は狭い路地のような道を慎重に車を走らせる。やがて、2人は村役場の前に着いた。3階建ての役場の建物は、庁舎というには程遠い存在であったが、それでもこの村にあっては一際目立つ建物であった。

2人は、車を降りるとすぐさま3階の水道課に向った。受付で事情を説明すると、50過ぎの男性職員が現れた。胸に「神谷村水道課」とプリントされた作業着を身につけたその人は、一瞬怪訝そうな顔をして見せたが、今全国で大騒ぎになっている不妊の調査だと説明すると、嫌な顔一つせず説明してくれた。

「うーん、水道水の方は、厚生労働省で定められたとおりの薬剤を、定められたとおりに毎日添加しているだ。こりが、その記録だが、全国どこも同じだと思うがのー。」

 恵子は、見せられた記録に目を通した。そこには、塩素系の消毒剤を始め、東京でも見慣れた薬品の名がずらりと並んでいた。どこまでページを繰っても、同じ記録がずーっと記されている。やはり水ではないのであろうか。

「井戸水、あるいは湧き水を使ってらっしゃる家庭はありませんか。」

「あーんと、昔はそんな家もあったかも知んねえなあ。だども、最近はねえんじゃないかな。水汲みって結構大変だしな。水道なら蛇口ひねるだけだもんな。」

 職員の答えはつれないものであった。2人は仕方なく、井戸水か湧き水を使っていそうな家を探し求めて村中を歩き始めた。とは言うものの、それは簡単な作業ではなかった。集落のほとんどは、山の中腹の斜面にへばりつくように一軒、二軒と散らばって建っている。10軒訪ねるだけでも、ちょっとしたハイキング並みであった。

 2人は噴き出してくる汗を拭いながら山道を歩いた。既に村役場の建物ははるか下の方に去り、鬱蒼と茂る木立の間に見え隠れしていた。いつしか道は急な上り坂となり、どこからともなく水音が谷を渡る風に乗って聞こえてくる。初夏の陽光に照らされた山々の緑がまぶしいほどに輝く。そこには環境ホルモンのかけらすら存在していないかのように見えた。

 やがて、2人は大きな門構えのある旧家の前で、庭木の手入れをしている村人を見かけた。近寄って声を掛ける。

「済みません、この辺りで湧き水を飲料水に使っているお家はないですか。」

「はあー、どちら様で。」

 もう80過ぎと思われるその老婆は、耳が遠いのか大きな声で尋ね返した。一輝は自分たちが東京から来た者で、今不妊に関する調査をしていることを説明する。分かっているのかいないのか、逐一頷きながら聞いていた老婆は、また大きな声で尋ねてきた。

「フニン? フニンって何の話ですかいの。」

 恵子は、ああとばかり額に手をやった。

「不妊です。だから子供が出来ない人が今日本全国にたくさんいて…」

「ほう、そりゃ大変なことで。じゃが、こん上の源爺さん家は、去年ひ孫さ生まれましたども。」

 どうやら、このご老人にとっては、今世間を騒がせている不妊のニュースなど全く別世界の出来事のようである。

「それで、お婆ちゃん家は、沸き水を飲み水に使っておられますか。」

 恵子は、再び老婆の耳元で大きな声を出した。

「ああ、使ってたよ。」

 老婆の返事に2人の心は躍った。見つかった。ついに湧き水を飲料水に使っていた家が見つかった。

「そ、その水は、どこですか。」

「すぐそこの谷ですわ。あそこから毎朝水を汲んでくるのはそりゃ大仕事でしたわな。戦時中は水道もよう止まってましたでな。」

「戦時中?」

 今度は、一輝がピシャリと額に手をやった。2人にもう話すことは何もなかった。2人は早々にその家を後にした。その後も、何軒か回ってみるが、ついに井戸水や湧き水を飲料水に使っていたとする確たる証拠は見つからなかった。

 いつしか、日は山の西側に回り、山の斜面に黒々とした影が落ち始めた。谷間の集落は日暮れも早い。2人はやむなくその日の調査を打ち切った。


「いらっしゃいませ。」

 女将らしき初老の女性が恭しく2人を出迎えた。麓に戻った2人は、その日は奥敷温泉に宿泊することにした。奥敷温泉郷は秘境ともいうべき山あいにあり、湯治場のような小さな温泉宿が数軒谷川沿いに並ぶように建っていた。シーズン外れということもあるのであろうか、あまり客の姿を見かけない。

2人が案内された部屋は、質素で昔風の造りであった。川面に面しているのであろう、微かに聞こえるせせらぎの音が静けさを一層増していた。ここは都会の喧騒とは別世界である。今、日本を揺るがす大騒動が起きていることなど想像もつかない。

「失礼ですが、ご夫婦でらっしゃいますか。」

 女将はゆっくりと急須を傾けながら2人に話し掛けた。咄嗟のことで何と返事をしてよいやらわからず、顔を見合わせている2人を見で、すぐに女将は苦笑した。

「あーら、ごめんなさい。あんまり仲がよさそうに見えたので、てっきり新婚さんかと。昔からここのお湯に浸かると子供を授かるって言われてましてね。新婚さんなら丁度よかったのにねー。」

 2人は思わず大笑いした。やはり、商売柄なのかあるいは年の功であろうか、女将は人を楽しませるのに長けた人のようであった。その後、一旦奥へ下がった女将が、よいしょと言わんばかりに分厚いアルバムを重そうに運んできた。

恵子は、ゆっくりとアルバムを開く。アルバムの中には、無邪気に笑う赤ん坊のアップの写真や、赤ん坊を抱いて嬉しそうに微笑む夫婦の写真が、所狭しと散りばめられていた。所々に礼状と思われる手紙も入っている。

「ここの湯に浸かって子供を授かった人達からのお礼状なんです。私が特に何かをして差し上げた訳ではないんですけど、皆さん余程嬉しかったのでしょうね。ご丁寧なことで。」

 どうやら女将は、こうした礼状の一枚一枚を丁寧にアルバムにスクラップしているようであった。縁もゆかりもない一見の泊まり客である。その一人一人に子供が出来ることを、まるで自分の事のように喜んで迎える。恵子は女将の誠実な人柄の一旦を垣間見たような気がした。

 一頻りアルバムのページを繰っていた恵子がふと顔を上げると、どうも一輝の様子が変である。いつぞやと同じであった。顔面が蒼白になり、息遣いも荒くなっている。先程までは全くそういう素振りすらなかったものが、わずか2・3分の間に急変した。

「どうしたの、先輩。」

「いや、何でもない。何でも…。」

 一輝は苦しそうな息遣いの中、目を閉じてじっと何かに耐える素振りをしてみせた。肩が小刻みに震え、額にはうっすらと汗が滲み出ている。

「どうかなさいましたか。」

 女将が心配そうに一輝の顔を覗き込む。一輝は気付かれまいと顔を反らすが、もう自制の効く状況ではなかった。恵子は必死になって一輝の肩を擦るが、一向に震えは止まりそうにない。

「あなた、ひょっとして何かを隠してらっしゃいませんか。そのことがあなたの心に大きな負担となっている。そうじゃありません?」

 女将は一瞬にして一輝の心のうちを見透かした。恵子はハッとした。「心の傷」、そう一輝は何か人には言えない深い心の傷を負っている。それでこの前の時も、そしてその前も、同じように。

「よかったら、全部お話しになられたらいかがです。そうすればきっと楽になりますよ。ここへ来られる人は皆そうやって私の前で悩みを打ち明けられ、涙し、そして新たな人生に旅立ってゆかれたんです。このアルバムはそんな人達の記録なのですよ。」

 女将は、一輝に救いの手を差し伸べるかのように、すっと背筋を伸ばして座り直した。しかし、一輝の口は硬い貝殻のように閉じたまま開くことはなかった。長い、長い沈黙が流れた。一輝はこれまでの長い苦しみの時間を振り返るかのように苦悶していたが、やがて泣き叫ぶような声を上げた。

「すべては俺が悪いんだ。許してくれ、茜。俺のせいだ。俺があんなことを言い出しさえしなければ…。」

 一輝は再び苦しそうに口をつぐんだ。そしてその苦しみを吐き出すかのように、話を続けた。

「1年前のことだった。それまで何回人工受精をやっても失敗の連続で。男のプライドも何もかもかなぐり捨てて病院通いした。惨めだった。情けなかった。それで、それで、俺は顕微受精にトライしようと誘ったんだ。嫌がる茜を無理やり病院に連れていって、卵子を採取して。3度目のトライで妊娠が確認された。あの時は本当に嬉しかった。茜と2人で大きなケーキを買ってきてお祝いもした。でも、その日の夜のことだった。茜が突然苦しみ出して。」

 そこまで話すと一輝のテンションはさらに高まった。息遣いが一段と高くなり、こめかみのあたりには血管が青筋を立てているのがはっきりと見えた。その後、恵子と女将は一輝の口から世にも残酷な話を耳にすることになった。

「子宮外妊娠だった。出血がひどくて、救急車が家に着く頃には、もう茜のスカートが真っ赤に染まるほどで。救急車の中で俺は必死に茜の名前を呼んだ。でも、茜の顔色はどんどん白くなっていく。病院に着く頃には、もう意識すらはっきりしない程だった。」

 そこまで話した一輝はほとんど錯乱状態になり、汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて留めの言葉を口にした。

「茜は、薄れ行く意識の中で、最後に『ありがとう、楽しかった』って。最後の最後まで、恨み言は一言も口にしなかった。俺の、俺のわがままのせいで、俺は人生で一番大切な人を失ってしまったー。」

 一輝は、そのまま座敷机の上に突っ伏して号泣した。返す言葉を失った恵子と女将は、ひたすらハンカチを口に当てるだけで精一杯であった。恵子は今ようやく一輝の胸のうちを知った。何とあわれな運命であろうか。一輝はこの一年、深い、深い罪の意識に苛まれ続けてきたに違いない。この傷は、到底拭い去れるものではなかった。

どれほど時間が経ったであろうか。その沈黙を破ったのは女将であった。

「子供って何なのかしら。自分の分身? それとも…。」

 女将は、いつか一輝が口にしたのと同じ問いかけをした。あの時、恵子は生物学的回答をした。子供は、DNAを親から孫へとつないでゆくブリッジのようなものだと。しかし、今日の女将の答えは意外なものであった。

「人は自分の果たせなかった夢を子供に託すために子供を作ろうとするんじゃないかしら。」

「夢を、託す?」

 恵子は、つぶやくように言葉を返した。

「そう、どんなに丈夫で長生きする人でもいつかは寿命がやってくる。どんなに精一杯生きても必ずやり残したことは出来てしまう。それを果たせるのは子供しかいないのよね。自分に出来なかったこと、それを子供に実現して欲しい、それが故に人は子供を産み、そして苦労して子供を育てるんじゃないかしら。」

 恵子は、なるほどとばかりにうなずいた。見れば、一輝の息遣いも次第に落ち着きを取り戻し始めていた。

「でも本当にそうかしら。本当に。それは親の身勝手かもしれない。子供は血が繋がっていても所詮は赤の他人。自分の分身であるように見えて、実際は別人なのよね。それを自分の思いのままに動かして自分の夢を託そうとするのは親のエゴなのかもしれない。それじゃ子供がかわいそう。子供には子供の人生があるはずよね。それを自らの身勝手によりコントロールしようとするから、子育てに失敗する。ちょっと待って、お見せしたいものがあるわ。」

 そう言うと、女将は、もう一冊のアルバムを持ち上げた。

「実は、こっちのアルバムに入っている手紙はここの湯に浸かっても子供が出来なかった人達からのものなんです。自分で言うのも変なのですが、『子宝の湯』なんていうのは、やっぱりただの言い伝えなんです。だから、湯に浸かっても子供の出来ない人もいる。いや、実際のところはそんな人の方が多いのかもしれません。」

 恵子は、促されるままにアルバムを開いてみた。そこには、便箋に几帳面にしたためられた手紙が丁寧にスクラップされていた。

「女将様へ。先日は大変お世話になりました。ありがとうございました。残念ながら『子宝の湯』の効用はなかったようです。温泉から戻って半年が経ちましたが、まだ子供が出来る気配はありません。でもあの湯に浸かったことで私たち夫婦は忘れかけていた別のものを取り戻すことが出来たような気がしています。

あの頃の私たちは子供、子供一辺倒でした。とにかく一日も早く自分たちの子供が作りたかった。子供が全てで、私たち自身の生きる目標を失いかけていました。女将さんに頂いたあの言葉、今でも忘れていません。『夢は自分たち自身の手で実現するもの。子供にそれを託そうとするのは親の身勝手です。』おっしゃるとおりだと思いました。自分で努力もせず、最初から子供に期待する、それってどこか間違っている。そう思えるようになりました。

今、主人は弁護士になるべく日夜勉学に励んでいます。私も、介護士の資格を取り老人ホームで働き始めました。毎日が信じられないぐらい充実しています。これも全て女将様のおかげです。女将様は、私たちに子供以上に大切なものを授けてくださいました。本当にありがとうございました。 かしこ」

 手紙を読む一輝の目には光るものがあった。恵子も目頭を押さえている。子供に固執するあまり一番大切なものを失ってしまった。長らく一輝を苦しめ続けた心の傷は、今ようやく癒やしの端緒についた。

 その夜、2人はどちらからともなく唇を重ねていた。学生時代から実に10年ぶりのことであった。甘酸っぱい青春のひと時の思い出が2人の脳裏に蘇った。人が人を愛する。それは、子供を作るためだけのものではない。2人はいまようやく固い絆で結び直された。


 翌朝。

「昨夜はよくお眠りになられましたか。」

 朝食を配膳する女将の顔は笑顔に溢れていた。昨晩、旅館に着いたときのあの一輝の陰鬱な表情が消えていたからである。一方の恵子はというと、今ひとつ冴えない顔をしていた。この地に来て、まだ不妊の手掛かりになるようなものは何一つとして見つかっていなかったからである。そんな恵子の心を見透かすかのように、女将の口が開いた。

「今日は、一度学校に行ってみられてはいかがです。神谷村には分校がありましてね。あそこの子供たちは皆、元気ですよ。きっと何か分かりますわ。」

 別に女将に確信があったわけではない。しかし、旅立つ人に少しでも期待と希望を抱かせて送り出すのが自らの役目と心得ているようであった。

「ええ。そうしてみます。」

恵子は、半信半疑で生半可な返事をした。しかし、この女将の勘が後になって思わぬ結果をもたらすことになる。

 2人は再び、同じ峠道に車を走らせた。学校は役場とは反対側の少し小高い場所にあった。一見して古そうに見える木造の校舎が過疎の進み具合を象徴しているようであった。

 校門をくぐると、すぐに2人は熱心に校庭の花壇の手入れをしている男の人を見つけた。麦ワラ帽子を被って、両手に軍手をはめたその人は、すっかり日焼けした顔に汗を浮かべながら花壇の草むしりをしていた。2人が来訪の目的を告げ、校長との面会を求めた。男は軍手に付いた土を両手で払い落とすと、丁重に2人を校舎の中に案内した。

校舎の中は外見以上に年代を感じさせるものがあった。ところどころ色褪せた木の廊下に、凹んだ壁、天井には雨漏りを思わせる染みもあった。その廊下を真っ直ぐに進むと、やがて男は「校長室」というプレートの掲げられた部屋にいとも簡単にスタスタと入って行った。2人がおやっと思う間もなく、男は振り向きざまに名乗りを上げた。

「校長の田原といいます。」

 この人が校長先生? 2人は拍子抜けして顔を見合わせた。凡そ威厳とは程遠い人のよさそうなおじさんである。田原校長は目を丸くしている2人に笑いながら話かけた。

「アッハハハ、驚かれたようですな。ご覧の通り、ここは分校でしてね。校長とは名ばかりで、用務員兼掃除夫兼教師、要するに何でも屋ですよ。生徒数も全校で17人。若い人がどんどん都会に出てしまって、数は減る一方ですわ。」

 2人は、今日本中を巻き込んで大騒ぎとなっている男性不妊の原因物質を突き止めようとしていること、そしてその手掛かりになると思われる男性がこの土地で生まれ育ったこと等を手短に話した。逐一頷きながら話を聞いていた校長は、2人が話し終わると嬉しそうに微笑んだ。自らの教え子と思われる人物が立派に成人し、そして今日本の危急を救うために重要な役割を担おうしていることを誇らしく思っている様子であった。

「そうですか、そんなことがあったんですか。でも、何が良かったんでしょうかね。うちじゃ特別なことは何もしていませんよ。まあ東京に比べれば、空気もきれいし生活環境だけは間違いなくいいとは思いますが。でも、それだけでそんなに大きな違いが出るものなんでしょうか。」

 2人は校長に案内されて学校の中を見て回った。丁度音楽の時間であろうか、どこからともなくピアノの音に合わせて合唱する声が聞こえて来る。見る限り何の変哲もない普通の小学校であった。とてもここから不妊の原因の手掛かりになりそうなものが得られるようには見えなかった。やはりここもだめか。

3人はゆっくりと校舎から運動場に出た。空は青く澄み、初夏のさわやかな風が山から吹き下りて来た。こんな環境で育てば誰だって健康に育つ、特別な要因なんて結局にどこにもなかったのかもしれない。恵子の顔にはハッキリと落胆の色が滲み出ていた。2人は案内してくれた校長にお礼の言葉を伝え、校門の方へ足を向けようとしたその時、校庭にチャイムの音が響き渡った。

「わーい。」

元気のいい声が校庭に響き、子供たちが次々と運動場に走り出してきた。どうやら午前の授業が終わったようである。この元気な子供たちが日本の明日の運命を握っている。どうか無事に健康に育って欲しいと願わずにいられなかった。2人が目を細めて子供たちの様子を見ていた、その時、恵子の目にある物が留まった。

「あれは何かしら。」

 恵子の視線は子供たちが皆、手に手に持っている小さな包みに注がれていた。赤や白の布に包まれた小さな箱状のものを全員が下げていた。

「あっ、あれですか。あれはお弁当ですよ。今日は天気がいいんで外で食べさせるよう指示したところです。」

「お、お弁当? きゅ、給食じゃないんですか。」

 恵子は、驚いたように聞き返した。

「ええ。生徒数が17人の分校じゃ給食サービスなんか無理ですよ。一番近い給食センターからでも2時間くらいはかかりますから。それにこの村じゃ、ほとんどの家が農家だし、自家製の弁当の方が子供たちも喜びますよ。」

 校長が説明している間にも、子供たちはめいめいの場所を陣取ってお弁当を広げ始めた。しばらくその様子を見ていた恵子は、あっと叫んだ。

「給食、そう給食だわ。どうして今まで気が付かなかったのかしら。」

 一輝と校長は恵子の声に驚いて、一瞬顔を見合わせた。

「給食よ。原因物質は給食にあるかもしれない。給食は全国のほとんどの小中学校に普及している。でも、こんな山奥では非効率だからお弁当なのよね。ひょっとすると他の所もそうかもしれないわ。」

 恵子の説明を聞いてようやく校長は納得したように頷いたが、一輝はこれに反論した。

「でも、給食は厚生労働省が世界でも一番厳しいと言われる基準を決めて指導している。俺も以前O157騒ぎの時に給食センターを取材に行ったことがあるけど、衛生面は徹底的に管理されていた。まさかあの給食が原因だなんて考えられない。」

 一輝は、5年前に取材に行った埼玉の某給食センターのことを思い出していた。子供の健康を預かる給食センターの衛生管理は極めて厳しい。一輝には恵子の言葉が俄かには信じられなかった。

「その衛生管理が曲者よ。殺菌のためにいろいろな薬剤を使っているわ。そのどれかが環境ホルモンになりうる。小中学生の頃はヒトの生殖機能が最も成長するの。子供たちが毎日食べる給食の影響はかなり大きいはずだわ。」

 恵子は確信をもってそう言い切ると、お礼の言葉もそこそこに一目散に駆け出した。一輝は校長に軽く会釈をすると、大慌てで恵子の後を追った。1人残された校長だけが、ニコニコと笑いながら2人の後姿を見送っていた。



8 食の安全


 東京に戻った恵子と一輝は、早速健常者の生育地の村役場や町役場に電話を架けて、給食の有無を調べ始めた。

「やはり、ここも分校は、お弁当だったわ。」

 結果は恵子の予想通りであった。生殖機能に異常の見られなかった男性の多くは小学生時代をお弁当で過ごしていた。2人はもはや給食を疑わざるを得なかった。

「でも給食の何が問題なの。先輩の言うように、給食は厚生労働省の厳しい基準で監視されている。とにかく一度給食センターに行ってみないと。」

 一色修也の挑戦状の期限まで後3週間、それを過ぎればもう後戻りは適わなくなる。

「所長、お願しますよ。日本の将来が掛かっているんです。」

 一輝は深々と頭を垂れた。2人は一輝が以前取材に行ったことのあるという埼玉の給食センターを訪ねていた。このセンターは衛生管理のモデルセンターとして何度も厚生労働省から表彰を受けていた。数年前、出血性大腸菌O157の騒動があった時に、給食センターがどのようにして食中毒を防止しているのかを調査した。調査結果は報日新聞でも大きく採り上げられ、全国的に話題となったセンターである。

「と言われましてもねー。今回は事情も違うし、それに役所の許可も無いんじゃ。」

 所長は渋い表情だった。今時珍しい黒縁の眼鏡を掛けた所長は神経質そうな顔をさらに歪めた。それもそのはずである。モデルセンターと言われる給食センターが、今世間を大騒ぎさせている環境ホルモンを混入させていたと分かれば、それこそ一大事である。

「ですから。これは新聞記者としての取材じゃなくて、我々は真実を知りたいんですよ。それにもし何らかの環境ホルモンが原因だとしたら、それはここだけの話じゃなくて全国全ての給食センターに当てはまるんです。子供たちの、いえこの国の将来が掛かっているんです。絶対ご迷惑はお掛けしませんから。」

「でも、うちは厚生労働省の厳しい基準を守ってやってますからねー。そんなことは絶対にないと思いますよ。」

 一輝が必死になって説得を続けるが、所長はなかなか折れようとしない。管理者としての自信と責任感が一層ガードを固くしているようであった。

「その厚生労働省の基準が怪しいからこうやって確かめに来ているんです。私も自分が不妊症患者でなければ、何もここまでしませんよ。」

 一輝が声を荒げたその瞬間、所長の態度がガラリと変わった。

「えっ。あ、あなたが。そ、それは、知らなかった。」

 所長は、済まなさそうに目を伏せるとそのまま考え込んでしまった。しばらくして所長はようやく思い腰を上げた。

「少しだけですよ。それと新聞沙汰だけは絶対なしですよ。」

「あ、有り難うございます。」

 2人は大慌てて立ち上がると、声をそろえて頭を下げた。

その後、2人は所長の案内で調理場に向った。入り口の手前で白衣と白帽を着け、さらに専用のゴム長靴に履き替えさせられた。まるでこれから手術室に入っていく外科医のような恰好である。何千、何万という子供たちの健康を預かっているのである。いくら厳重にしても過ぎることはない。

 ガッシャン、ガラガラ。2人が調理場の入り口に立った時、凄まじい音がこだました。体育館ほどあると思われる広い調理場は、さながら工場のようであった。中央に据えられた巨大な洗浄装置には、今使い終わったばかりの無数の食器が流し込まれていく。やはり同じように白衣を付けた大勢の職員が忙しく立ち働いている。その内の1人が機械のスイッチを入れた。ブーンという音とともに洗浄機が回転を始めた。

「うちのセンターは東地区の11の小学校と4つの中学校を担当しています。毎日1万5千食余りの給食を供給しています。」

 所長が声を大にして説明を始めるが、洗浄機の音がうるさくて良く聞こえない。そのうち、3人の見ている前で、職員の1人が重そうなポリ容器を抱えると、ドクドクと緑色の液体を洗浄機に流し込み始めた。

「あれは、何ですか。」

「洗浄液ですよ。殺菌作用を高めるために塩素系の消毒薬が入っています。注入量は厚生労働省の基準で決められています。」

 所長はそう言いながら半透明のポリ容器に付された目盛りを指差した。その間にも、先ほどの職員は管理日誌にポンとスタンプを押すと、そそくさと次の作業場へと向っていった。2人が日誌を見ると、毎日欠かさず洗浄液を注入した日付と時間そして注入量が記録されていた。

このようにして毎日決められた量の洗浄液が間違いなく洗浄装置に注がれているのである。薬液の注入し忘れが食中毒など思わぬ大事故を引き起こしかねない。作業は慎重の上にも慎重を期して進められていた。恵子は、ポリ容器に記された薬品名を素早くメモに取った。

 3人は洗浄室を後にすると続いて隣の調理室へと入った。調理室では既に明日の献立の準備が始っていた。毎日午前11時に管轄内の全ての小中学校に1万5千食分の給食を遅れることなく配達するのは並大抵のことではない。山のように積まれた人参が流し込まれるように裁断機に吸い込まれていく。機械の向こう側には巨大なポリバケツが細かく刻まれて出てくる人参を受け止めていた。恵子は自分達が普段何も考えずに食べていた給食が、こうした大きな舞台裏で作られていたことを知って大変驚いていた。

「このファイルは何かしら。」

 恵子は調理台の脇の棚に並べられたA4サイズ程のバインダーに目をやった。

「あっ、これね。これは毎日の献立毎に投与された添加物と調味料の記録ですよ。これを見れば、いつ、誰が、どの献立に何をどれだけ入れたかが分かるようになっています。食中毒の防止が主目的ですが、子供たちの成長や栄養状態を管理する目的でもデータは使われています。もちろん添加物の量なども全て厚生労働省の基準で定められています。」

 冊子の各ページには、カレー、ハンバーグ、野菜旨煮、ポテトサラダ等々の献立名とともにその日に供給された食数や添加物や調味料の投入量が記され、担当者と責任者の印が押されていた。どこまでページを繰っても、もれ一つなく記録は取られていた。

 2人はこの水も漏らさぬ徹底的な管理にとても驚いた。もちろん食中毒など絶対にあってはならないものではあるが、まるで養鶏所の鶏のように均一に規格され、管理された食べ物を毎日食べされている子供たちの姿を思うと、内心複雑な気持ちであった。あの神谷村の子供たちは本当に楽しそうにお弁当を食べていた。手作りであれば、たまには失敗もあろう、ひょっとするとお腹を壊すこともあるかもしれない。でもどちらの子供たちの方が本当に幸せだろうか。2人はそんなことを考えながら調理場の様子をボンヤリ眺めていた。

「ほら、これでお分かりになったでしょう。全ては厚生労働省の基準に従ってやっているんです。万が一にも間違いなどあろうはずはありません。不妊の原因はもっと別のところにあるんじゃないですか。」

 所長は自信たっぷりに笑ってみせた。なるほど所長の言う通りかもしれない。この水も漏らさぬ徹底管理は、日本人の最も得意とするところであった。やはり給食もダメか。2人が半ば諦め顔で調理室を出ようとしたそのとき、カランカランという音とともに2人の見ている目の前に白いプレートが1つ転がってきた。

「あーら、ごめんなさい。手が滑ったわ。」

 先ほどの洗浄機から取り出す際に、職員の一人が手を滑らせたらしい。

「気を付けて下さい。この季節が一番食中毒の危険性が高いですからね。」

 慌てて拾おうとする白衣姿の女性に所長が声を掛けた。しかし、その声を遮るように恵子は咄嗟にそのプレートに手を伸ばした。

「す、すみません。これ、頂いてもいいでしょうか。」

 所長は、一瞬怪訝そうな顔をして見せたが、すぐに笑顔を返した。

「ええ、いいですよ。こんなにたくさんありますから。でも、こんな物持って帰って一体どうされるんですか。」

「え、ええ。ちょっと気になることがあって。」

恵子は、あいまいな返事をした。恵子にも確信があるわけではなかったが、その食器はポリカーボネイト樹脂(PC樹脂)製の可能性があった。ポリカーボネイトはプラスチックの一種で、割れにくく熱にも強いことから食器の原料として幅広く使われていた。しかし熱湯を入れるとビスフェノールAという環境ホルモンがごく微量ではあるが溶出することが確認されていた。このビスフェノールAという物質はごく微量でも長期間取り続けると体内に蓄積し、生殖機能に影響する可能性のあることが指摘されていた。

 2人は、丁重にお礼の言葉を述べると、給食センターを後にした。


夕刻、浦和駅前。

「今日午後、日本クローン技術研究所は、新たに5人のクローンベビーの妊娠を確認したと発表しました。代表の一色修也所長によりますと、半年前世界初のクローンベビーを妊娠したとされる女性が20週目を迎え、胎児は順調に成長しており、クローン技術による医学上の問題は全てクリアされたとのことです。所長の話では、来週にはさらに8人の女性に受精卵の移植が行われるとのことです。

 これを受け、厚生労働省はヒトクローン規正法に基づき、近く同研究所に立ち入り調査を実施すると発表しました。」

 駅前の電器店の店頭に並べられた10数台の大型テレビには、自信に満ちた一色修也の顔がアップで映し出されていた。同じ映像もこれだけ数多く並ぶと返って不気味に見える。まるでクローンで作り出されたかのように、同じ顔が同時に同じ仕種をする。果たして、このようなことが現実になってしまうのであろうか。

「大変なことになったわ。あの人は本気だわ。」

恵子は、大きな嘆息を漏らした。約束の時限まであと2週間を余して、修也は新たな挑戦に着手した。3千人が登録を済ませたというのが事実ならば、待ち切れない不妊症患者は我先にと一色修也の餌食に堕ちてゆこう。実験台になることを希望する人はいくらでもいた。


「もう時間がないわ、急がなきゃ。」

 マンションに戻った恵子はすぐさまインターネットにアクセスした。パソコンの傍らには、給食センターでメモってきた薬品や添加物の名の記された紙が置かれていた。この薬品や添加物に関する記事なら何でもいい、とにかく何か男性不妊に結びつくような研究、記事がないかと恵子は手当たり次第に探し始めた。WHO、環境保護団体、薬事学会のウィブサイト、とにかく関係のありそうなものは片っ端から開いて行く。

しかし、それはまるで大海に小舟で漕ぎ出して行くようなものであった。そもそもこれらの薬品や添加物の全ては厚生労働省が長い年月をかけて研究した結果、基準値を定めて運用してきたものである。民間の一研究員の手におえるような代物ではなかった。ましてや結論の当てもないまま手探りで探し回ることにどれ程の意味があるというのであろうか。

 一心不乱に画面に向う恵子のために何もしてやれない自分に腹立たしさを覚えた一輝は、黙って立ち上がるとキッチンに向った。今夜は長丁場になりそうである。一輝は手探りでコーヒーカップを探すと、眠気覚ましにとかなり濃いめのコーヒーを入れた。

「ありがとう。」

 一輝が差出すコーヒーカップをチラリと横目で見た恵子は、しかし、マウスを動かす手を緩めようとはしなかった。今はコーヒーに口を付ける時間も惜しい。

 一方、手持ち無沙汰の一輝はというとカップを片手にソファに腰を下ろした。

一体、日本はこの先どうなってしまうのか。もし、一色修也の言葉が本当なら、そして生まれ出てくる子供が本当にクローンベビーであったなら、政府はどうすればいいのか。まさか、クローンベビーを処分するわけにもゆくまい。クローンと言えども、生まれてしまえば一人の人間としての人格を得る。その命は、何者の手によっても奪い取ることは出来ない。

法は所詮法、いつかは必ず誰かの手によって破られる。倫理、宗教、哲学…、そんなものは子孫を残したいというごく当たり前の生物的本能の前では無力である。人は、もう後戻りできない河を渡ってしまったのかもしれない。

子供を作るのにセックスも要らなくなる時代がやってくる。セックスはやがてタブーとして廃れるであろう。そして能力を失した男どもは、もはや生物学的にも人間的にも無用の存在となるのである。人類史上かつてなかった壮大な実験が今始ろうとしてた。そんなことをつらつら考えているうちに、いつの間にか一輝はソファの上で眠り込んでしまった。

 どれくらい時間が経ったであろうか。一輝は人の気配を感じて目を覚ました。傍らには赤く目を腫らした恵子が座っていた。

「やっぱり何も出てこない。センターで使っていた薬品や添加物はどれも白ね。もうおしまいだわ。」

 恵子は疲れた表情で深いため息をついた。重苦しい沈黙だけが延々と続く。恵子は両手で顔を覆ったまま、悔しさに肩を震わせていた。一輝は言い様もない口の渇きを覚えて、たまらずテーブルの上に置いてあったコーヒーカップに手を伸ばした。しかし、カップの底にわずかに残っていたコーヒーはすっかり渇き切って、黒々とした渋だけが底の方にこびり付いていた。

 一輝は、軽く舌打ちして、カップをテーブルの上に戻した。恵子は、ボンヤリとそのカップを眺めていた。湯気と香りに満ちたコーヒーカップは人に安らぎとくつろぎを与える。一方、今ここにある枯れたカップ、それは、侘しさと空しさだけを感じさせた。今の恵子の胸中は、まさにこの枯れたカップのように乾き切っていた。

しかし、奇跡はまだ2人を見放してはいなかった。その乾き切ったはずのカップの底から、滲み出るように清水が沸いてきた。死人のようだった恵子の顔に朱がさした。

「ひょ、ひょっとして、これかもしれない。そう、これよ、これだわ。どうして今まで思い付かなかったのかしら。」

 恵子はその一言とともに、いきなりセンターで拾ってきたプレートを引っつかむと、一目散にドアの方へと駆け出した。

「恵ちゃん、どこへ行くんだよ。こんな時間に。」

 一輝がちらりと時計を見ると、もう真夜中の3時を過ぎようとしていた。引き止める間もなく、恵子はドアの外に出た。一輝も慌てて後を追う。一体恵子は何を思い付いたのだろうか。そしてこんな時間からどこへ行こうというのか。

 表に出た恵子はそのまま息を切らして駅の方へと走る。一輝も必死になって後を追いかけるが次第に2人の間の距離は開いてゆく。学生時代、片や長距離選手、そして片や短距離選手であった。駅までのマラソンは言うまでもなく恵子の勝ちであった。一輝が駅に着く頃、恵子は既に駅前に一台だけ残っていたタクシーに乗り込んでいた。続いて一輝も倒れ込むように乗り込む。

「お客さん大丈夫ですかい。」

 タクシーの運転手は心配そうに2人に声を掛けた。こんな真夜中に女と男が息も切れんばかりの追い掛け合いとなれば誰だって心配になる。恵子は息を切らせながら行き先を告げた。もちろん、そこは東都大学臨床薬学研究所。

「ごめんなさい、先輩。でも今度こそ本物かもしれないわ。」

 恵子は肩で息をしながら、プレートを握り締めた手に力を込めた。その間にもタクシーは深夜の街を疾駆し、やがて研究所のゲート前に着いた。恵子は、守衛にセキュリティーパスを見せると、そのまま入り口へと急ぐ。一輝も後を追うようにしてそれに続いた。

 恵子は、研究所の入り口で暗証番号を入力する。ガシャという音とともに電解錠が外れ、2人は真っ暗な夜の研究所の中へと入った。廊下は不気味なほど静まり返り、ところどころにある非常口のサインだけが異様に明るく輝いて見えた。恵子は、その廊下を小走りに進むと、やがて「分子構造解析室」というプレートの上がった部屋の前に立った。

恵子が先ほどのカードをかざすと、再び電解錠の外れる音がしてドアは軽く内側に開いた。 一体この中に何があるのか。一輝は恐る恐る恵子の後についてその部屋に入った。部屋の中には人の背丈ほどもある巨大な円筒形の装置が二基置かれていた。恵子は、その内の一つのスイッチを入れると、持ってきたプレートを円筒形の胴体部分の中央にセットした。ブーンという軽い音とともに明かりが点灯し、丸い小さな観察窓から先ほど中に入れたプレートが白く輝くのが見えた。

「これ、走査型の電子顕微鏡よ。今からこのプレートの表面を分析するの。」

 恵子はそう言うと、顕微鏡の脇に置かれたパソコンのスイッチを入れた。一輝はその一部始終を見て目を丸くした。小学校の理科室にある顕微鏡くらいしか見たことのない一輝にとって、無論電子顕微鏡を見るのは初めてであった。顕微鏡といえば、薄いガラス片の上に見たい試料を載せ、下から光を当てて観察するものとばかり思っていた。しかし、ここにある物はまるで違っていた。大きさといい形といい、およそ一輝の思い描く顕微鏡などではなかった。

「ほら、こうやったあの先から電子ビームをプレートの表面に当てるのよ。その反射具合でプレートの表面にあるナノ単位の細かい凹凸が観察できるの。」

 驚いて覗き込んでいる一輝を横目に、恵子はパソコンの画面を操作する。やがて一輝には訳の分からぬ映像が浮かび上がってきた。巨大な樹状のような構造物が浮かび上がり、その所々にごつごつした結晶様の物体が数多く張り付くようにくっついているのが見える。

「やっぱり予想した通りだわ。大量のビスフェノールAが沈着している。ほら、この木の根っ子のように見えるのがプレートの表面、つまりポリカーボネイト樹脂。そして棘のように刺さってみえるのが消毒液の分子だわ。その隙間を埋めている無数の小さな結晶構造、これがビスフェノールA。消毒液の結晶が触媒になってビスフェノールAの溶出を促進している。」

 すべすべに見えるプレートの表面が実際はこんなに凸凹していたとは。一輝は電子顕微鏡が映し出すミクロの世界に只々驚嘆していた。この走査型の電子顕微鏡の最大解像度は百万倍、通常の光学顕微鏡のさらに千倍以上小さな物質をも見極めることが出来る。このレベルまでくるともはや物というよりは、それを構成する分子の一つ一つまでも観察できる。いま目の前にある映像は、プレート表面のナノ単位の世界で起きていることをありのままに映し出していた。

「でも、どうしてそんな大量のビスフェノールAが。だってWHOや厚生労働省の実験でも安全性は確認されていたはずなのに。」

 一輝には原因がよく分からなかった。厚生労働省のあの水も漏らさぬ厳しい管理に見落としなどあろうはずがない。

「そう通常の状態ならね。でも化学や薬学の世界ではほんのわずかの条件の違いで全然結果が違ってくることもあるの。もちろんPC輝脂についても、熱湯、塩分、消毒薬、その他ありとあらゆる食品添加物に対する安全性テストは徹底的にやられたはずだわ。でも塩素系の消毒液の、しかも純度100パーセントの結晶がプレートの表面に沈着するという可能性までは誰も想定していなかったんだと思うわ。そうまさにあのコーヒーカップの底に付いた渋と同じことがこのプレートの表面で起きていたのよ。」

 恵子はそういいながら傍にあったフラスコに、蒸留水と書かれた瓶から水を注ぐと電熱器の上に乗せた。しばらくするとフラスコの表面にフツフツと小さな泡が吹き出し始めた。蒸留水が沸騰するのを待つ間にも、恵子はさらに自らの仮説を続ける。

「給食センターでは洗浄が終わるとそのままプレートを洗浄装置の中で高温乾燥させる。布巾でプレート表面に付いた水滴を一つ一つ丁寧に拭き取ることなどまずありえない。水分の蒸発とともにプレートの表面にごくわずかに残った消毒薬の濃度はどんどん上がってゆく。そして水分が全て蒸発すると消毒薬の結晶だけが薄い被膜となってプレートの表面に張り付く。ほら、夏の暑い日に陸上の練習をした後、ユニホームをきちんと水洗いしておかないと塩分が沈着して変色しちゃうことがあったじゃない。原理的にはあれと同じよ。そして張り付いた消毒薬の結晶がPC輝脂と反応し、想定外に大量のビスフェノールAを溶出させたのよ。」

 その間にもフラスコの中の蒸留水はぐらぐらと音を立てて沸騰し始めた。恵子は慎重に熱湯をプレートに注ぐ。一瞬にしてもうもとした湯気が上がった。

「でも、見た目はきれいだけど。」

「そう、被膜の厚さは千分の一ミクロン単位の薄さよ。人間の目には全く見えない。でもこうやって顕微鏡で見ればはっきりと分かるわ。」

 もはや疑いの余地はなさそうであった。日本全国の子供たちは長年の間、知らず知らずのうちにかなりの量のビスフェノールAを摂取させられていたのである。誰が悪いわけでもない。ほんのちょっとした人為の成せる業であった。

「でも、そんな危険性のある物質、どうして厚生労働省は禁止しなかったんだろう。だって、環境団体からも指摘があったんだろう。」

「そこがお役所仕事なのよ。薬害エイズ、アスベスト、BSE(狂牛病)…、どれをとっても皆同じことが言える。そう、健康被害がすぐには表に出ない。何十年も後になってやっと分かった時には後の祭り。非加熱血液製剤の危険性はかなり前から指摘されていた。でもはっきりとした確証がなかったから厚生労働省は禁止には踏み切らなかった。その結果、多くの人が知らない間にエイズに感染してしまったわ。薬事行政は、本来は「疑わしくは禁ず」でなくてはならないはずなのに、実際は「疑わしきは禁ぜず」となっていた。それで多くの悲劇が生まれたのよ。いいえ、今度ばかりは日本も滅亡の瀬戸際まで追い込まれたのよ。」

 一輝はやり切れない思いであった。科学の進歩が世の中を便利にした。給食制度のおかげで何百万、何千万という主婦の手間が省かれた。子供たちも一流の栄養士が作る献立を毎日食することが出来た。この制度でどれだけの国民が恩恵を受けたことであろうか。しかし、この画一化された食制度が日本をぎりぎりの崖っ縁に立たせる結果になろうとは、何という皮肉であろうか。あの神谷村のように昔ながらの手弁当の方がよかったのかも知れない。

『多様性は繁栄を育み、画一性は破滅へと通ずる』

 2人は、いま心底よりこの言葉の重みを感じていた。

 呆然と中空を見つめる一輝の目の前で、恵子は器用にピペットを操るとプレートからお湯を少しばかり抜き取った。そして壁際に置かれた分析装置の取水口に採取したばかりの試料を流し込んだ。液晶画面に表示される指示に従い、恵子が2度3度データを入力する。20秒、30秒と時間が経過していく。待っている時間が途方もなく長く感じられた。やがて分析終了の電子音が鳴り、暫くするとプリンタから解析結果がアウトプットされた。

「やっぱりすごい量よ。WHOが定める1日許容量の千倍近い量だわ。表面に沈着していたビスフェノールAがお湯の中に溶け出したのね。」

 


エピローグ

 恵子の研究結果はWHOに送られ、約1ヵ月後正式な結果報告が出された。

『最近、日本国で多数報告されている大規模な男性不妊の原因は、給食制度で使用されている食器にある可能性が非常に濃厚である。当機関(WHO)としては、日本政府に対し、給食で使用されている食器をより安全性の高い材質のものに改めるよう正式に勧告する。また、我々は、今回の事態を重く受け止め、ビスフェノールAに関する安全基準を早急に見直す手続きに着手した。』

恵子の研究結果は、今度は世界的な権威によりはっきりと裏づけされた。もはや誰も疑いを挟む余地はなかった。


「いやー、津山君、おめでとう。本当によく頑張ったね。」

 篠原教授は、満面の笑みを浮かべた。恵子と一輝は、今回の研究結果の報告のため恩師宅を訪ねていた。例のMA米騒ぎの責任を取って薬学研究所の所長を辞任した後、教授はすっかり第一線を退き、自宅で隠遁生活を送っていた。

「もう、研究所の方も大騒ぎだ。何しろ君たちは、この国の危機を救った英雄だからな。」

「また、先生お得意のお世辞が始まった。」

「バカな。何でわしが世辞なんぞ言わにゃならん。本当のことだ。」

 教授の言葉に、恵子と一輝は互いに顔を見合わせて大笑いした。

「でも、先生、気になることが。」

 しかし、すぐその後、恵子の声の調子が暗くなった。

「例の件か。」

「ええ、一色さんの忠告してきた期限を過ぎてしまった。もう後戻りは出来ないんですよね。」

 その一言に、教授は、大きなため息を漏らしながらソファにもたれかかった。

 WHOへ正式な調査の依頼をしたために、一色修也が設定した挑戦状の期限、妊娠22週目を既に3週間ほどオーバーしてしまっていた。ここまで来ると、もう中絶は出来ない。修也の言葉が本当ならば、間もなく世界初のクローンベビーが誕生することになる。

 教授は、渋い表情で、あごに手を当てた。その時、教授の夫人が大慌てで部屋に入ってきた。その手には、コードレス電話の受話器が握り締められていた。

「あなた、警察の方から電話が。」

「何、警察。」

 一瞬、3人の顔に緊張の色が走る。夫人も心配顔で恐る恐る教授に受話器を渡す。

「はい、はい、そうですか。はい、分かりました。じゃ、明日ということで。」

 一頻り真剣な表情で受話器を握り締めていた教授は、やがて放心状態で話を終えた。

「例の女性が自殺したそうだ。」

「じ、自殺ですって。」

「ああ、昨夜のことらしい。」

 恵子は開いた口に手を当てた。何と哀れな結末。自ら世界初のクローンベビーの実験台となり、あと一息というところで、子供の命ばかりか自らの命までをも絶ってしまった。身重のまま自ら逝った女性の気持ちを思うと、恵子は同性として居たたまれない気持ちになった。夫人もハンカチで口を覆っている。

「解剖の結果、胎児のDNAと父親のDNAが完全に一致したらしい。」

「と言うことは、やっぱり。」

「そうだ。胎児は、完全無欠、父親のクローンだったということだ。一色君には正式に逮捕状が出たそうだ。ヒトクローン規正法違反の容疑だ。私には、参考人として一色君の研究について、詳しく話を聞きたいということらしい。」

 一輝は、茜のことを思い出していた。子供が欲しい。その欲望のために、この夫婦も破滅への道を突き進んでしまった。恐らく、自殺した女性は、罪の意識に苛まれ続けていたに違いない。自らの欲望と身勝手のために法を犯し、まるで悪魔の子を身ごもってしまったかのように報道されたこともあった。世界初のクローンベビーの母親、勇気溢れるヒロインとなるはずであった人が、あっけなく地獄に堕ちてしまった。

「一色君は、クローン技術によってこの女性に子供を授けてやることは出来た。しかし、彼は人にとって一番大切なものを、この夫婦に授けてやることが出来なかった。」

「大切なもの?」

「そう、心だよ。人の心。人は獣じゃない。子供を産めさえすれば、それだけでいいって言うのなら犬畜生と何ら変わりはない。不妊治療にとって一番大切なものは、顕微授精でも、クローン技術でもない。メンタルケアだよ、メンタルケア。自身の血を分けた子孫を残すことが出来ない、その苦しみをいかに理解し、いかに解放してやれるのか。彼は、そんな基本的なことを忘れていたんだよ。」

 恵子は、いつかどこかで聞いたような言葉だと思った。この女性も、もう少し早くあの温泉女将に巡り合っていたら、もっと違った人生を歩んでいたかもしれない。そのことが残念でならなかった。

 一輝も、同じ思いであった。その通り、自分は人としての『心』をなくしていた。子供だけが全てで、茜の気持ちも、いや自分自身の気持ちすら理解できないでいた。一輝は、いま改めて深い悲しみと反省の念を抱いて、茜の顔を思い出していた。茜が、ようやく天国から微笑みかけてくれたような気がした。

「ねえ、先生。お願いがあるんですけど。」

 恵子は、背筋を伸ばすと、改まって切り出した。

「お願い?」

「ええ、その、つまり…、仲人をお願いしたいんですけど。」

「な、仲人って、君、結婚するのか。で、相手は一体どこの誰…」

 恵子は、少し恥じるように、一輝の方にチラリと視線を向けた。一輝は、あまりに突然の言葉に絶句した。もちろん恵子のことは学生時代からよく知っている。でも、自分のようなバツイチ男になぜ。一輝が口を開く間もなく、教授の夫人が先に答えを出してしまった。

「そ、それは、おめでとうございます。」

 教授も、嬉しそうに頷きながら、ニヤリと笑った。

「そうか、そういうことか。君は、不妊研究でも第一人者になったが、どうやら恋愛術の方もすっかり先輩を追い越したようだな。」

「恵ちゃん、ホントにいいのか。子供出来ないかも…」

 と言いかけて、一輝は大慌てで口を塞いだ。『子供、子供』はもはや禁句であった。

篠原教授の家から、男女4人の賑やかな笑い声がいつまでも響いていた。

 

日本列島を襲った不妊騒ぎも、これでようやく一段落することとなった。

一色修也によりクローンベビーを妊娠させられた残りの女性たちについては、本人の同意の下、中絶手術が行われることとなった。政府は、WHOの勧告を受け容れ、給食の食器は全て磁器製のものに改めるよう通達を出した。また、政府公認の精子バンクの設立は中止となり、代わりに不妊治療に関する健康保険の適用範囲を拡大することとなった。

しかし…。その頃報日新聞の社会部には、人知れず外電が入り始めていた。

「米国ロスアンゼルス近郊の病院で、大量の男性不妊患者発見。新種の環境ホルモンか。」

(了) 


後記


この小説はフィクションであり、事実と異なる箇所も多々あります。特に、メタミドホスに不妊効果があるという事実は報告されておりません。また、給食の食器も現在ではすべて安全なものに切り替えられており心配する必要は全くありません。

ところで、かく言う小生も男性不妊患者の1人です。子供はいません。原因も分かりません。

ただ、最近の有力な説にストレス原因説があります。魚類の中には、自然に性転換するものがいます。その理由には諸説ありますが、エサが不足してくるとストレスホルモンの分泌が増加し、それが生殖ホルモンのバランスが崩して最終的にオスがメス化するというものです。因果関係は解明されていませんが、群れ、ひいては種の全滅を防ぐために巧妙に仕組まれたプログラムではないかと考えられています。

翻って、人間界を見てみるとエサ不足なんて問題はないように見えます。でも、「エサ=所得」と考えると必ずしも安心していられなくなります。厳しい競争の中で、十分な所得を得るために人々にかかるストレスは確実に増えてきています。格差、貧困、うつ、自殺、暴力、そして不妊…。 



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