第7話 鬼夫の妻 (認知症)

最近、何かと話題になる「認知症」

ただの物忘れやボケとはまるで異なる認知症、それは実際に介護した者にしか分からない。その恐怖体験を回顧録として綴ります。一部、異様な描写が出てきますが、ありのままを描述していますので、ご了承ください。


私は、いま老人ホームの一室にいる。私の残り人生も少なくなった。今ごろ、夫はどうしているのだろう。時折息子からもたらされる情報で夫の顔を思い浮かべることしかできない。50年間連れ添ってきた。まさか、あんな形で突然の別れになろうとは夢にも思わなかった。

寂しい。でも、あのみじめな姿の夫にはもう会いたくもない。「死別」よりも辛い別れ、これも「宿命」なのか。それとも、私のこれまでの生き方が悪かったのか。誰のせいだろう。

部屋の中は、コチコチと刻む時計の音が聞こえるほど静かである。体も不自由になり、ベッドの上で過ごす毎日。私は、ただただ、この部屋のこの窓から空を見上げることしかできない。多分、「死」は間もなく訪れるであろう。あの世とやらに行けば、また夫と巡り会い、また幸せな日々が戻って来るのであろうか。それすら分からない。

でも、私にはまだやらなければならないことがある。小さなこの部屋で何があったのか、これから私と同じような目に遭うかもしれない人たちのために、恥を忍んで、それを語り継がなければならない。なぜなら、私は「鬼夫の妻」だからである。


思い起こせば5年前、それはある夏の終わりごろに起きた。ガシャーンという音とともに大きく体を揺さぶられる衝撃が走った。夫は大慌てでドアを開けると、すぐさま車の後ろへと回った。私は、「またか」と思った。車をぶつけるのはこれで4度目だった。半年ぐらい前から、夫は急に車の運転が鈍くなり、しばしば車をぶつけるようになった。どれも大したことはなく、車のバンパーに擦り傷が付く程度の事故だった。今回もぶつけた相手はブロック塀、車のバンパーはわずかにへこみ、ブロック塀には車の塗料の跡が残っていた。

その日の夜。

「ねえ、お父さん、そろそろ車の運転止めたらどう。危ないから。」

「止めてどないする。買い物も、病院行きも車がなかったらどうにもならん。」

夫は少しイラっとするように声を荒げた。夫自身も少しは自覚があったのだろう、強い語気とは裏腹に大きく肩を落として見せた。

私は、それ以上言い返すことができなかった。私の体が弱かったために、どこへ行くにも車が必要だった。田舎暮らしのため、買い物も病院もとても歩いて行ける距離ではない。若いころには自転車に乗っていたこともあったが、膝を痛めてからはそれも難しくなった。

息子は、大学卒業後東京の企業に就職し、今では年に一度か二度帰省してくるだけである。まさか会社を辞めて田舎に戻って来てくれとも言えない。息子には息子の生活もある。自分たちだけで何とかしなければと思いつつ、今日まで何とかやってきたが、それも限界に近付きつつあった。

そんなある日、いつものように近所の眼科に出かけた夫が、ションボリとした様子で戻ってきた。

「視力検査で引っかかった。先生も、危ないからそろそろ車の運転止めた方がええって。どないしよう。」

緑内障である。夫は5年ほど前、眼科の検査で緑内障と診断され、眼圧を下げる治療をずっと続けてきていた。緑内障は、視神経が障害を受けることで視野が少しずつ狭まってゆく難病で、今の医学をもってしても確たる治療法はない。唯一の治療法は、眼圧を下げて病気の進行を遅らせるぐらいだが、それでも5年、10年の間には少しずつ症状は進んでゆく。最近、車をぶつけることが多くなったのは視野の範囲がより狭くなったのが原因かもしれなかった。

「だから言ったでしょう。危ないから車の運転やめてって。」

私は、夫を詰めるように言い寄った。

「なら、どないするんや。車がなかったら生活できへん。」

夫は、少し語気を荒めていつもの言葉を繰り返したが、そのあとの言葉はなかった。


そんな日々が2カ月ほど続いたある日、一つのチラシが私の目に留まった。

「安らぎの老後生活、安心と信頼のサポート、私たちにお任せください」

老人ホームのチラシであった。最近市内に新しい老人ホームができたという話は耳にしていた。私たちの住むような田舎では特別養護老人ホームはあるが、都会にあるような有料老人ホームはまだ一つもなかった。まだまだ3世帯同居が当たり前の田舎では、そうしたニーズさえなかったのかもしれない。

でも、特養は要介護3以上でないと申込みすらできない。まだ要支援1だった私と自立の夫ではとても無理である。仮に申し込んだとしても、何年先になったら入居できるかすら分からなかった。今日明日にでも生活に支障が出る可能性がある我が家では到底そこまで待ってはいられない。でも、有料老人ホームなら、金さえ払えばすぐにでも入居できる。

私は、思い切って夫にそのチラシを見せた。

「ねえねえ、お父さん。これどう。ここだったら安心して一生暮らせるわ。」

夫は、チラシを手に取ると、しげしげとしばらく見入っていた。私は、ワラにもすがる思いで、夫の横顔を見ては、またチラシをのぞき込み、そしてまた夫の顔を見ていた。

「ダメ、ダメ、こんな贅沢なとこ、ものすごい大金が要るんやろう。そんな金どこにある。」

夫はチラシをポイっと投げ捨てた。

若い時からの貧乏暮らしで、ことのほかお金には細かく、うるさかった夫の性根がここでも災いした。「わしは、梅干しとみそ汁があれば、後は何も要らん。」が口癖で、温泉旅行にすら連れて行ってもらえなかった我が家では、老人ホームなど望外の「高嶺の花」であった。

でも、正確には計算していなかったが、我が家の貯金残高は。夫のケチケチの甲斐もあって、今では3千万円は優に超えていた。それに年金収入を合わせれば何とかなるかもしれない。

「お金やったら、何とかなる。一生の最後に少しぐらい贅沢させてーな。」

私は、夫の心変わりに一抹の期待を抱いてお願いしてみたが、「ダメ、ダメ、」の一点張りで、話にもならなくなった。


それからしばらくして次の事件が起きた。真夜中にトイレに行きたくなり、薄暗い中、少し不自由になった右足を引きずりながら、夫を起こすまいと、少し遠回りをして部屋を出ようとしたその時、敷居につまずいた。

その後のことはよく覚えていない。救急車が来て、ストレッチャーに載せられて病院へ行ったことは薄々記憶がある。幸い、検査の結果、大した異状はなく、額を3針ほど縫ってもらい、夜が明けたら家に帰っていいと言われた。

「お前は、もう、夜中にトイレ行くときは気を付けろと、あれほど言うたのに……」

夫は家に着くなりわめき散らした。でも、こればかりは仕方がない。田舎の家は、部屋ごとに敷居もあり、玄関には大きな段差もある。都会のマンションのようにバリアフリーになっているわけでもなく、老人ホームのように手すりがあるわけでもない。足が不自由になりつつあった私には、自宅での生活すらままならない状態になりつつあった。

それから数日後、これに懲りたのか、あのドケチな夫もようやく家をリフォームすると言い出した。業者に来てもらい見積もりを取ることにした。

「そうですね。手すりを付けるだけなら50万円、トイレ、お風呂も改装するなら200万円、玄関もバリアフリーにするならあと200万円…」

「そんなに高くつきますのか。」

夫は、業者の説明を聞きながら腕組みをしてしまった。足が弱りつつあった私は、あと何年歩けるかも分からなかった。仮に、車いす生活にでもなったら、さらに新たなリフォームが必要になる上に、いわゆる老々介護が待ち受けている。いつ果てるとも分からない年寄り夫婦による生活、夫は、ようやく事の重大さに気づき始めた様子であった。

結局、リフォームはあきらめて、正月に息子夫婦が帰省してきたときに改めて今後どうするかを話し合うことにした。


その正月が来た。息子に、夫がもう車の運転が無理そうだから老人ホームに入ること検討していると話をした。息子はすぐに私の意見に賛同してくれた。遠方から年老いてゆく私たちを心配してくれていたのであろう。万が一、途中で資金が底をついたら、仕送りもしてくれると言ってくれた。

唯一、夫だけが不満そうな表情で、ブツブツと文句を言っていたが、多勢に無勢、さらに今日の状況が、自身が車を運転できなくなってしまったことから生じているとあっては、それ以上は何も言えなかった。善は急げ、息子夫婦が帰省している間に少しでも話を前に進めなければならない。まだ正月3日ではあったが、早々にホームの見学に行くことにした。

老人ホームの見学はもちろん初めてであった。お正月ということもあり、エントランスには大きな門松が飾られ、ホールはきらびやかな正月飾りで彩られていた。ちょうど朝の体操の時間ということもあって、何人かの入居者がホールに集まって手足を動かしておられた。施設内は全館に暖かい暖房が効いている上に、完全なバリアフリー。冷たいすきま風が入り込み、何枚も服を着重ねていたあばら家に比べれば、ここは天国であった。もうそれだけで私の心のうちは半分以上が決まってしまっていた。

一通り館内を案内された後、私たちは応接室に通された。最初に施設長という方から恭しく名刺が渡された後、すぐに相談員とケアマネジャーが紹介された。相談員から施設案内のパンフレットが渡され施設の説明が始まった。年寄りと話すことには慣れておられるのだろう、明るい笑顔で、大きな声でゆっくりと話されると、緊張も解け、思わず何度もうなずいている自分に気が付いた。

行き届いた管内の設備、バラエティーに富んだ食事、そして見るからに楽しそうな催し物の数々。

それだけではない。ここでは、将来、車いす生活や寝たきりの状態になっても、お風呂にも入れるし、完全看護で何不自由なく安心して生涯暮らせるとのことであった。足が不自由になりつつあった私は、今の家で寝たきりになることの恐怖に日々おののいていた。ここへ来れば、その心配もなくなる。もはや何ものも入居を制止するものはなかった。

一通り施設の説明が続いた後、ついに問題の紙が私たちの前に差し出された。そこには「入居費用のご案内」というタイトルが記されてあった。夫が傍らから思わず身を乗り出した。

「入居保証金、1名様500万円、2名様1000万円」

私の目は点になった。いくら世間知らずとはいえ、老人ホームの費用がこんなに高くつくとは思ってもみなかった。さらに、これ以外にも利用料金として、月々1人当たり20万円、2人で40万円ほどかかるという。

「それ見たことか、やっぱり無理や。ここは貧乏人の来るところやない。」

今まで能面のように黙りこくっていた夫は、金の話になると敏感に反応する。先ほどまで有頂天になっていた私の心も急に冷や水を浴びせられ、一瞬のうちにしぼんでしまった。やっぱり無理か。天国に行くにはそれ相応の金も要るだろうなと予想はしていたものの、ここまで高くつくとは思ってもみなかった。1分、2分と沈黙の時間が流れてゆく。

「いかがいたしましょう。少し、試算してみましょうか。」

相談員から声がかかった瞬間、息子の口が開いた。

「入居保証金やったら僕が出そか。それなら足りるやろう。」

地獄に仏とはこのこと。消えかかっていた私の心に再び微かな灯がともった。

「ダメだ。お前らの世話にはなりたない。これはわしらの問題や。」

夫はつまらぬ片意地を張った。いつになっても親は親、子供の世話になりたくはないという心情はわかる。でも、今の我が家はそんなことを言っている余裕すらなくなりつつあった。

「かまわにょ。どうせ家土地はいずれ僕が相続することになるんだし、その前払いと思えば安いもんや。」

それからも、しばらく夫と息子の押し問答は続いたが、とにかく一度試算はしてみようということになった。相談員に今の我が家の貯金残高と毎月の年金収入を伝える。相談員はその数字をもって、シミュレーションのため席を外した。夫は、息子の世話になるのがよほど嫌だったのか、一人でブツブツ言いながら脇を向いていた。

しばらくして相談員が戻ってきた。

「そうですね、これであれば10年は大丈夫かと思います。」

10年。10年も経てば、私も夫も90歳、2人とももう生きてはいまい。それであるならば入居しないという選択肢はない。でも、夫は譲らなかった。

「それでも、万が一ということもある。大きな病気になるとか。」

心配性な夫は、あくまで何かあきらめさせる理由を探そうとしていた。

「そこはご安心ください。この試算は、万が一の出費も勘案して20%程度の予備費を見込んでの計算になっています。」

私は、この相談員の一言に押されて、夫に対して最後通牒の言葉を発した。

「ほら、ごらんなさい。今の家にこのまま居て、もし私が寝た切りになったらどないするの。1000万円なんかで済まないようになるかもしれないでしょう。」

夫の口にもう言葉はなかった。そして、その日入居の仮契約が結ばれた。しかし、このことが後々、思わぬ大事件に発展してゆくことになろうとは、その時の私は夢にも思っていなかった。


2月初旬、入居の当日がやってきた。息子夫婦も帰省し、正式な入居契約の調印が行われた。もう観念していたのであろう、夫は何も言わずに署名した。その後、2人は居室へと案内された。私たちの部屋は3階の302号室、20㎡ほどの狭い部屋ではあったが、これまで住んでいた家の寝室よりはずっと大きかった。部屋の中には専用のトイレに洗面台も付いていた。手すりもあり、完全なバリアフリー、これならば車いす生活になっても自分でトイレに行くこともできる。

本来は、1人1部屋の仕様であったが、夫婦同室がいいということで、両方の壁際にベッドを2つ入れてもらうことにした。しかし、この模様替えが、後々とんでもないトラブルを引き起こすことになる。

部屋に入ってしばらく休んでいると、職員の方が夕食の案内に来た。食事は1階の食堂でとのことであった。このホームでは、寝たきりとか特別な状況にでもならない限り、できるだけ自分の足で歩いて食堂まで行き、全員が揃って食事をすることになっていた。私たちも2人連れ添ってエレベーターに乗った。

食堂は4人掛けのテーブルが10個ほど並んでおり、すでに何人かの入居者がテーブルについておられた。その半数ぐらいは車いすに座ったままであった。この時、ああここはやっぱり老人ホームなんだなという実感がこみ上げてきた。不自由とはいえ、まだ杖を突きながらでも自分の足で歩ける私は恵まれた方であった。でも、施設の人によると、食堂で食事をとれる人はまだいい方で、おおよそ20名くらいの人は、ほぼ寝たきりのため、自室で介助を受けながら食事をされているとのことであった。

この日のメニューは焼き魚定食。魚以外にも、煮つけ物の小鉢が一つにお味噌汁、さらにはデザートのプリンまで付いていた。家では、ご飯に主菜と漬け物くらいしか食べていなかった私にとって、ここの食事はたいそう贅沢なものに見えた。入れ歯の私にでも食べやすいように、魚の骨はきれいに外され、その身も細かく刻んであった。まさに至れり尽くせりのサービスであった。やっぱり、ここに決めてよかった、もうこれで一生何の心配もなく安らかに過ごせる、私の心の負担は明らかに軽くなっていった。しかし、そんな私の隣で黙々と箸を動かす夫は、ついに食事が終わるまで一言も声を発することはなかった。私は、とても嫌な予感に包まれ、思わず夫の横顔をチラリとのぞき見した。その私の嫌な予感はすぐさま的中することになる。


入所した日の翌日のお昼過ぎ、部屋の扉をノックする音が聞こえた。

「2時から、お歌の会があります。参加されますか。楽しいですよ。」

職員の方の笑顔がのぞいた。催し物の誘いの案内であった。もとよりホームでの生活をエンジョイするつもりでいた私は、すぐさま参加することにした。

「お父さんも一緒に行こう。じっとしていたら呆けるよ。」

あまり気が進まないという表情をしていた夫を無理やり誘って、1階の食堂に降りた。食堂にはすでに20人くらいの入居者の方が集まっておられた。ほどなくピアノの演奏が始まった。

「♪♪ウサギ追いし彼の山、小ブナ釣りし…」

皆そろっての合唱が始まった。あまり難しい歌はなく、誰もが知っているような曲が続く。私も、あまり大きな声を出す元気はなく、小声で皆に続いた。夫はと言うと相変わらずむっつりと黙りこくったまま、歌っているのかいないのか分からない表情のままだった。

歌が5曲ほど続いたところで、お茶と茶菓子が出た。3時のおやつであろう。他の人はお菓子を食べながら、それぞれ隣の入居者同士おしゃべりを始めた。新入りの私たちには知り合いもなく黙っていたので、職員の方から声がかかり、何人かの方々に紹介もしてくださった。すべては順調に進んでいるように見えた。

しかし、問題はその直後に起きた。おしゃべりも一段落するころ、全員に一枚の伝票が配られた。最初は何のことやら分からなかった。

「はい、こちらにお名前を書いてくださいね。」

渡された伝票には、「お歌の会、茶菓代500円」とあった。なんと、この会は有料だったのである。ここはホテルと同じであった。何かサービスを受けると伝票にサインをする。それは、集計されて月末に他の請求書とともに支払いを請求されることになる。知らなかった。こんな話は入居契約時に何の説明もなかった。

夫は当初何のことかも分からずキョトンとした表情でいたが、伝票の意味を理解したのか大声でわめき始めた。

「なんや、これだけで500円も取るんか。」

一斉に他の入居者の方々の視線がこちらに向けられた。私は、顔から火が出るような思いであった。施設の職員もどうしていいのか分からずオロオロとしている。私は、さっさと夫の分までサインを済ませると、すぐさま夫の手を引いてその場を後にした。私の背中に大勢の人の視線が突き刺さるのが分かった。

部屋に戻ったあとも、夫の愚痴は止まなかった。

「だから、あれほど言うたやろう。ここは贅沢過ぎるって。ちょっと歌うたって、お茶飲んだだけで金を取られる。ここはそういうところや。だまされた。」

余程悔しかったのであろう。夫は、ついに夕食の時間まで同じ言葉を何度も繰り返していた。

普通の人から見れば、たかが500円くらいのことでと思われるかもしれない。仮に2人で毎日何がしかの催し物に参加したとしても月額3万円である。このぐらいの出費はレクリエーション費としても決して高額ではない。

しかし、「梅干しと漬け物だけでご飯を食べてきた」と自称する夫の金銭感覚は違っていた。まさに爪に火を点すようにして貯めてきた貯金は、「たかが500円」ではなかったのである。

夫は、次の日から一切の行事に参加しなくなった。

「あんなくだらんことで金取られるんだったら、寝てる方がマシや。」

正直、老人ホームでの生活は退屈である。あのような催し物にでも積極的に参加しないと頭も体もどんどんおかしくなってゆく。でも夫にはそういう感覚は全くなく、何よりも「カネ」が優先した。まさに「守銭奴」とでも言うべき恐ろしさであった。

仕方なく、私は夫には隠れて催し物に参加することにした。催し物の日程は1階の掲示板を見ればわかる。お絵描き、折り紙、映画、歌の会、お茶の会……、参加したい催し物がある日は夫に内緒で部屋を出て1階に降りた。夫は、昼食後には昼寝をすることが多かったので、寝ている間にそっと部屋を抜け出した。

でも、まれに目が覚めてバレてしまうこともある。最初のうちは文句を言っていた夫も、そのうち見て見ぬふりをするようになった。黙認しているのか、言っても仕方がないとあきらめたのか、とにかく何も言わなくなった。私は、ようやく安心して催し物に参加できると思ったが、このことが後々とんでもない誤解へと発展することになる。


入所して1年が過ぎた。夫は相変わらず「食べては寝る」という毎日が続いていた。まあ、ブツブツ文句を言われるよりはマシかと、私も1人で催し物に参加する日々が続いていた。

そんなある日のこと、初めての異変の予兆が現れた。

「おい、ちょっと来てくれ。」

トイレから夫の呼ぶ声がした。何かあったのかと思って慌ててトイレに行くと、そこには便器をのぞき込む夫の姿があった。

「それ見てみろ。金魚が泳いでいる。」

私は、最初夫が何を言っているのか分からなかった。便器の中にどうして金魚がいるのか。不思議であった。恐る恐る便器の中をのぞき込んだ私は、そこに夫が済ませた「モノ」を見つけた。どうやら夫は「○○コ」を金魚と勘違いしたようである。夫は本当に金魚がいるかのように、手を突っ込んでそのモノをすくい取ろうとした。

「お父さん、何してるの。それ、お父さんの○○コでしょ。」

私は、慌てて夫の手を制した。夫はようやく我に返ったように、手を引っ込めた。私はすぐに水栓を開けてトイレを流した。

「おかしいのう。確かに金魚が泳いどったのに。」

夫はいぶかしそうにまだ便器をのぞいていた。

私は、少し気味が悪かったが、その時はまだそれほど事態が深刻であるとは思いもよらず、夫が寝ぼけて○○コを金魚と見間違えたのだろうと考えた。夫は緑内障のせいで目も悪かったため、たまにそういう見間違いをすることがあった。今度もその類のことだろうと深く考えずにおいた。

でも異変は続く。それから2週間ほどが経ったある日のこと。

「財布がない。」

夫は、ごそごそとカバンの中を探し始めた。カバンと言っても小さなポーチほどの大きさで、財布があればすぐにでも分かるはずである。夫は必死になってカバンの中の物をすべて出すとベッドの上に並べた。でも件の財布はその中にはなかった。

「やっぱり、ない。」

「落としたのかもしれないわ。最後に出したのはどこ?」

私は、夫からカバンを取り上げると、すべてのポケットの中まで調べたが、やはり財布は入っていなかった。放心状態の夫は、部屋の中をウロウロと探して回った。入り口からベッドまで、そして、トイレの中まで調べたが、やはり見つからない。

「盗られた。絶対、盗られたのに決まってる。」

夫の声の調子が一段高くなった。明らかに動揺している様子が見てとれた。しかし、ここは老人ホーム、夜は徘徊者が外へ出ないようにエントランスは確実にロックされる上に、1階の事務所には必ず夜勤の職員が詰めている。外部から誰かが入るなど容易ではない。

ただ、各個室の入り口は夜の巡回があるので、常に施錠はされないまま開けっ放しになっていた。夜間、寝ている間に誰かが忍び込んで、財布を盗んだのであろうか。だとしたら、犯人は他の入居者か施設の職員くらいしか考えられない。でも、千円札が数枚ほどしか入っていない年寄りの財布を盗んで何の得があるのか。

まさか財布がなくなったとも言えず、私は途方に暮れた。

「どこかに紛れ込んでいるのでしょう。そのうち出てくるから。」

どうせ夫の行く先といえば、この部屋と食堂くらいしかなかった。そのうち誰かが届けてくれるかもしれない。

「もうええ。寝る。」

夫は、ふてくされてベッドの上に横になった。その時、枕の下に何かがチラリと見えた。

「それやないの。」

夫は、エッと言わんばかりに枕を除けた。財布が転がっていた。夫は、おもむろに財布を手に取ると、開けて中身を確認した。中には、しわくちゃになった千円札が数枚入っていた。

「なんで、そんなところに財布を置いたん?」

「わからん。」

夫は、怪訝そうに財布を何度もひっくり返しては、自分の財布に間違いがないことを確認していた。私は、やれやれと思った。夫が、「盗られた」と大変な剣幕で主張したからである。もし、施設の職員に相談していたら大騒ぎになるところであった。きっと、夫の勘違い、あるいは寝ぼけてでもいたのであろう。

その後も夫はしばしば財布やカバンをなくすようになった。いや、「なくす」というよりは、正確には「隠す」であった。夫のすることをじっと監視していると、明らかに自ら隠していた。自分で隠しておいて、「なくなった」「盗られた」と言うようになった。そして、その行動は次第に常軌を逸したものとなってゆく。

最初は枕の下だったものが、布団の下になり、果ては自身の下着の中に財布を隠すようになった。それでも飽き足らず、日に何度も財布を取り出しては中身を確認した。財布に入っていた千円札はいつしかよれよれになり、夫の手あかで色が変わった。

「もう、いい加減にして。そんな心配だったら、私が預かっておくから。なら、いいでしょう。」

私は、無理やり夫から財布を取り上げあげると、自身のカバンの中に入れた。しかし、このことが後々とんでもない誤解を招くことになる。


それから一週間、相変わらず夫の異常行動は続いた。さすがにもう、ただの「年寄りの呆け」では済まないような状態になりつつあった。そこで施設の方に相談して、精神科の医師の診察を受けることにした。この施設では、通常の内科の医師の巡回健診のほかに、月に一度精神科の医師の診察も行われていた。入居者の中には、認知症の方や、あるいは加齢や病気がもとでうつ症状を示される方がおられたからである。

診察日当日、私も同席して診察を受けた。私が、ここ1~2カ月の間に起きた夫の異常行動について先生に説明した。先生は、夫に対して簡単な質問を2つ、3つされた。「今日は何月何日ですか」、「お昼ご飯に何を食べましたか」、「昨日は何をしましたか」…、夫はいずれの質問にもよどみなくスラスラと答えた。

「そうですね。症状をお伺いする限り、高齢者によくみられる幻視とせん妄ですね。記憶障害はあまりないようですので認知症ではないですね。とりあえず、幻視や幻覚を止めるお薬を処方しておきますので、これでしばらく様子を見てください。」

先生は迷うことなく「認知症ではない」と言い切った。私は、この一言を信用して安心した。よかった、認知症ではない。この薬さえ飲めば、夫の異常行動も収まり、また平穏な暮らしが戻ってくる。

精神科で処方された薬を飲み始めてすぐ、夫の症状は落ち着いた。落ち着いたというよりは、よく眠るようになった。昼食後の昼寝も、いつもより長く深くなったような気がした。昼間から、信じられないくらいの高いびきをかいて、ひどい時は夕方近くまで眠りこけていた。私はと言うと、あまり夫の傾眠を気にも留めず、これ幸いとばかりに施設の行事に出かけていた。

すべてはこれでよかったんだ。夫の症状も落ち着き、誰に干渉されることもなく、ここでの生活をエンジョイすればいい。でも、この出来事がこれから起きる恐ろしい病の初期症状であったということを、この時の私は夢にも思わなかった。


夫が精神科の薬を飲み始めて2カ月ほどが経ったある夜のこと。私は夜中にふと人の気配を感じて目が覚めた。暗闇でよく分からなかったが確かに人の声がした。その音は、入り口近くにあったトイレの方から聞こえてきた。

私は、最初、巡回に来た介護士さんが誰かと話しているのかと思った。眠れない夜、たまに介護士さんの巡回で目が覚めることがあった。介護士さんは眠っている私たちを起こさないようにと、そっと扉を開け、そして懐中電灯で部屋の中を一通り確認するとすぐに出て行かれる。

でも、その声は違った。真っ暗な中で、まるでお経を唱えるかのように途切れ途切れに続く。間違いない、確かに誰かいる。もう気休めの理由づけは思い当たらなかった。

「お父さん、お父さん。」

私は、上体を起こしながら、隣のベッドで寝ていた夫に声をかけた。返事がない。もう一度、また返事はない。私は、暗闇の中で、カーテンのすき間から差し込むわずかな街灯の光で、夫の姿を探した。そこには、布団がめくれ上がり、空っぽになったベッドがあった。夫はどこへ、トイレにでも行ったのか。でも、トイレの方も真っ暗である。

仕方なく、私はベッドから起き上がり、不自由になった右足を引きずりながら手すりを伝ってトイレへと向かった。健常者ならわずか2~3秒の距離であったが、足が不自由な私にはたった5メートルの距離も無限の廊下のように感じられた。その間も、相変わらずボソボソという声は続く。

「こら、持って行くな。」

今度はハッキリと声が聞こえた。夫の声だった。私は、壁に寄りかかりながら手を伸ばし、かろうじて電灯のスイッチをオンにした。

そこには壁に向かってボソボソと話す夫の姿があった。まるで夢遊病者のようにボーッと立ち、壁をじっと見つめる夫。その表情は硬くこわばり、青白く血の気がなかった。私は、思わず叫んでしまった。

「お父さん、何してるん?」

その声に、ようやく我に返ったのか、夫は私の方へ向き直った。

「お、お前か。なんや。」

「なんや、じゃないでしょう。何してるん、こんな真夜中に。」

「泥棒が入って来て、杖を取ろうとしたんで、文句言うてたとこや。」

夫は真顔でそう答えた。でも、件の杖はいつものようにトイレの壁際に立てかけてあった。そもそも、年寄りの杖1本を盗みに入る泥棒などいるはずがない。そういう発想が起きること自体、異常であった。

「杖やったら、そこにあるじゃない。」

夫は、指さされた杖を手に取りながら、不思議そうに見つめていた。

「いや、確かに泥棒がおった。怒鳴ったら出て行った。」

夫は、真顔で答えた。

私は、また夫の妄想が始まったと思った。私が、財布を取り上げたので、今度は盗られる対象物が杖になったのかもしれない。でも、財布の時とは何かが違う。あの時は、自分で隠しておいて「盗られた」と言っていた気がする。でも、今度は泥棒が入って来て盗ろうとしたと言った。夫は泥棒の姿を見たのであろうか。

「泥棒って、どんな人だったの。何色の服を着てたの。」

「暗くてよう分からんかった。男やった。間違いない。」

もうまともに相手をする気にもなれない。私は、痛む右足を引きずりながらベッドの方へと戻った。しばらくして、夫がトイレから出てきた。ベッドに横になりながらその様子を観察していると、夫は例の杖をベッドの下に隠し、ようやく眠りについた。

しかし、夫の異常行動はこれだけでは止まらなかった。あくる日も、そのまたあくる日も、真夜中にたたき起こされた。そして、夜中に訪れる人は「泥棒」だけではなくなった。「暴力団がカネの取り立てに来た」「警察が来て手錠をかけられそうになった」「親戚が大勢出てきて葬式をした」

夫の症状は日増しに悪化しているように思えた。もう精神科の先生に相談するしかない。結局、その月の診察で薬が増量された。


しかし、夫の昼夜逆転は続く。精神科の薬が効き過ぎているのか、昼間は高いびきをかいてずっと眠っていた。でも、夜になると必ず夜中の2時ごろに起き出し、何か訳のわからないことをブツブツと唱え続けた。私の睡眠はすっかり邪魔され、自分の方がおかしくなりそうだった。そして、とうとうの夫の被害妄想は私自身に向けられることになった。

夫の異常行動が出始めて3カ月が経ったある日のこと。私が、いつものように午後の行事に参加して3時過ぎに部屋に戻ったところ、夫は珍しく起きていて、ベッドの脇に座っていた。

私は、しかめっ面をした夫の横顔を見て、とてもいやな予感がした。私が部屋に入るなり、夫は荒い語気で迫ってきた。

「わしの財布をどこへやった。返せ。」

夫が財布を隠し回って大変だったので私が預かっていたあの財布である。私は、財布のことなどもうすっかり忘れているのだろうと思っていた。何カ月も何も言わない、自身が財布を持っていたことすら忘れてしまったのだろうと思っていた。でも、人の記憶とはある日突然甦るものである。夫は、財布をどうするつもりなのだろう。

隠しても仕方がない。私が、財布を渡すと、夫はしきりと中身を確認し始めた。中身は、預かった時のまま、よれよれの千円札数枚である。夫は、その千円札を何度も数えながら、ギロリと私の方へ視線を向けた。

「おかしい、足りん。」

「何が足りないの。」

「確か、1万円札が3枚ほど入っとったはずや。それがない。」

私は、夫の息遣いが少しずつ荒くなってゆくのを感じた。

1万円札が入っていたなんていうのは明らかなウソである。ドケチな夫は、財布を落とすと大変だからと言って、いつも千円札しか持たないのが常だった。

「うそ、いつも1万円札は危ないからって、千円札しか入れてなかったでしょ。」

でも夫の反応は微妙だった。納得したのかしていないのか、財布の中を何度もまさぐり回していた夫は、次の瞬間思いもよらない行動に出た。

「お前やろ、お前が盗った。」

「なんで、私がお父さんのお金盗らなあかんの。」

「いや、間違いない。わしに持たせておくと危ないからと言うて、取り上げたやろ。出せ。返せ。」

もうその時の夫の表情は尋常なものではなかった。血走った眼は邪悪な視線になり、眉間のしわがさらに深くなった。

「出せ、出さんか~。どこに隠した~。」

次の瞬間、夫は私の体に覆いかぶさってきた。私の右の手首を鷲掴みにすると、私のカバンを取り上げた。

「どこや、どこや。」

夫は、次々とカバンの中味を取り出した。無論、1万円札は出てくるはずもない。ようやく夫は得心したのか、不思議そうにカバンを見つめていたが、程なく高いびきをかいて眠ってしまった。

私は、もう何が何だか分からないまま、おかしくなった夫の寝姿を見つめていた。涙が止め処もなく溢れる。二人して楽しい老後生活を送ろうと入った老人ホーム、そこで毎日繰り替えされる異常な生活。私は、心身とも疲れ果て、どこか遠い所へ消えてしまいという思いに駆られた。そしてその3日後、その時は突然訪れた。


真夜中の2時ごろ、私はふと夫の気配を感じて目が覚めた。最初はまた始まったと思った。どうせトイレに立って、また1人で意味不明の独り言でもしゃべるのだろうと思った。でも、今日の夫は違った。暗闇の中で、じっと私の寝姿を観察している。私は、夫を刺激しないよう、静かに目を閉じて眠っているふりをした。でも、夫はなかなかトイレに立たない。それどころ、ますます近くに寄ってきた。

「なんや、お前は何しとるんや。」

夫の絶叫が聞こえたかと思うと、次の瞬間私の布団は剥ぎ取られた。一瞬、私は何が起こったのか分からなかった。

「誰や、お前は。わしの嫁さんに何するんや。」

相変わらず、夫は意味不明の言葉を発し続けている。

「お父さん、どないしたん、お父さん。」

私は必死になって夫に呼びかけるが、夫の興奮は収まらない。それどころか、夫に取りついた邪悪はますます力を増してゆく。

「お前も、お前や。ようもこんなふしだらなことしたな。」

夫の攻撃の対象は私の方に向かってきた。両手で私の手を押さえつけ、ベッドの上で私の体に馬乗りになった。そのまま覆いかぶさるように、私の首に夫の手がかかった。私は必死になって手をバタバタと動かした。でも私の首を絞める夫の手の力は緩まることはなかった。

私は、必死になって手が動く範囲をまさぐった。運よくコールボタンが見つかった。私は必死の思いでコールボタンを押した。その間にも、夫の力はドンドン増してゆく。私は、真剣に殺されると思った。でも一体なぜ、私が何をしたというのか。50年間も連れ添ってきた夫に、理由もなく殺される。理不尽だ。これも運命か。

何分ほどが経過したであろう。異変を聞きつけたホームの介護士さんが飛んできた。部屋の明かりが点けられ、そこで私は初めて鬼の顔を見た。それはもはや夫ではなかった。釣り上がった眼は血走り、眉間に刻まれたしわは般若の面そのモノであった。怒りのため息遣いは荒くなり、不気味にねじ上がった口角からは、よだれがポタポタと滴り落ちた。たった今ウサギを仕留めたオオカミのような形相であった。

「○○さん、○○さん。どうされました。落ち着いてください。」

介護士さんが必死に呼びかけるが夫の異常行動は止まらない。相変わらず私の体の上に馬乗りになり首を絞め続けている。介護士さんが夫の腕を掴んで引き離そうとするが、ピクリとも動かない。程なく男性の介護士さんが応援に駆け付け、夫は力づくで引き離された。若い男の介護士さんだったが、夫の力は80歳の老人とは思えないほど強く、介護士さんの腕を振り払おうと必死になってもがいた。やっとのことで引き離された夫は、何か訳の分からないことを叫びながら廊下に連れ出された。これが、私が夫の姿を見た最後である。


<以下のお話は、私が息子から聞いたことの聞き語りになります。>


後で聞いた話であるが、夫の語ったことを総合して判断すると、事の次第は以下の通りであったようである。

例によって、夫は真夜中に幻覚を見たようである。私の布団を「人」と誤認識して私がその男と不倫をしていると勘違いしたようである。一般の方には信じられないかもしれないが、認知症の人の思考と幻覚はおよそ人知で考える範囲を逸脱したものとなる。真夜中に泥棒が部屋の中に入ってきたと言うぐらいだから、真夜中に浮気の相手がベッドにもぐりこんできたという途方もない妄想もありうるのかもしれない。結局、その夜、夫はキツイ鎮静剤を飲まされて、何事もなかったかのように熟睡していたそうである。

でもいきなり「浮気、不倫」というのも話が飛躍しすぎている。でも、よくよく思い返してみると私の行動にもその端緒となる原因はあった。夫に内緒の老人ホームの「お楽しみ会」である。前にも書いた通り、夫は超ドケチで、ホームのお歌の会には一切出なかった。仕方なく、私は一人で週2回の会に参加していた。夫からすれば、それが無断の密会と映っていたようである。どこか知らない場所で、誰かと会い、毎回500円を貢いでいる。常軌を逸していると思われるかもしれないが、それが認知症の人の思考パターンなのである。

何か不明なこと、少しでも怪しげなことがあると、物事を悪い方向に考える。「被害妄想」というやつである。認知症になると猜疑心が高まり、「物を盗られた」「誰かが覗き見している」「悪いうわさ話をしている」、症状は様々である。浮気しているという妄想もありうるのかもしれない。


結局、老人ホームとも相談の上、夫はしばらく精神病院に入院することとなった。病院へは息子とホームの担当者が同行した。当日朝、夫が暴れて、行くのを拒むのではないかとヒヤヒヤさせられた。でも不思議なほど夫は落ち着いた様子で車に乗り込んだ。少し、寂しい気もしたが、本当のところはやれやれという安堵感の方が大きかった。これでもう夫の妄想やうわ言に惑わされる心配はない、そして暴力を受ける心配も。

病院では、まずCT検査が行われ、続いて担当の医師から簡単な認知症テストが行われた。「今日は何曜日ですか」「今朝は何を食べましたか」「思いつく野菜の名まえを知っているだけあげてください」、夫は驚くほど素直な顔で、時折笑みまで浮かべながらスラスラと質問に答えた。昨晩、鬼面のような形相で私の首を絞めた夫の姿はそこには微塵もなかった。

「そうですね。断定はできませんがレビー小体型認知症の疑いがあります。」

医師の口から聞き慣れぬ言葉が出た。認知症と言えば、「アルツハイマー」である。「レビー小体」とは一体何なのか。

実は、認知症には3つのタイプがあり、「アルツハイマー型」「レビー小体型」「脳血管障害型」である。このうちアルツハイマー型が最も多く、全体の6割を占める。アミロイドβというタンパク質が脳内にたまり脳を委縮させることで発症することが知られている。典型的な症状としては物忘れと徘徊である。

これに対し「レビー小体型」はレビー小体という物質が脳内に沈着することで引き起こされる認知症で、アルツハイマーとは違い、あまり物忘れはなく、幻覚(幻視、幻聴)や妄想が初期症状として現れるそうだ。物忘れが出ないため、認知症とは認識されにくく、暴力などが出始めてようやく気付くということが多いそうだ。

これだ、間違いない。夫の症状にピタリと合う。トイレに金魚がいる、泥棒が入ってきた、お金を盗られた、あるはずのない物を見たり聞いたり、あるいは被害妄想も出ている。「疑い」ではない、もうこれで決まったようなものである。

「CT映像を見る限り、まだそれ程脳の萎縮は進んでいません。まずは3ヵ月程入院いただいて経過を観察します。その後のことは改めて。」

「それで、よくなる見込みはあるのでしょうか。退院した後は。」

しかし、この質問に対する先生の答えは冷たいものであった。

「今の医学では、認知症は進行を遅らせるのが精一杯で、治療法は確立されていません。ですからお父様も昔のようにはもう戻れないとお考え下さい。それと決して無理をしないでください。お父様は我々が責任をもってお預かりしますので、あなたは今まで通り自身の生活を第一にお考えください。」

私は、最初エッと思った。この先生は何をおっしゃっているのだろう。夫のことは病院に任せ自分を大切にしろとはどういうことか。家族が夫のことを心配する、当たり前のことではないか。でも、私は、後々この先生の言葉の意味を痛いほど噛みしめることになるのである。


診察が終わると夫はすぐ入院病棟に移された。本人は気付いているのかいないのか淡々と歩みを進める。昔なら、精神病院に入院すると言えば、大変なことであった。今でこそ、人権問題の観点から精神障害者を差別するなという啓発が進んでいるが、夫の年齢の人にとっては、精神病院に入院するということは「死」よりも厳しい宣告であった。

「あの家から気違いが出た。」

世間体あるいは親戚筋やご近所への手前、出来る限り隠し通し、身を潜めて世間との関係を断ち、毎日毎日息をするのも憚られるような面持ちで過ごさなければならない。

「お父さん、しばらく入院せなあかんて。」

「ふーん」

夫は相変わらず、理解しているのかいないのか、生半可な相槌ちが返ってきた。でも次の瞬間、その夫の落ち着きの原因が分かった。

「ここは、どこや。」

幸か不幸か、夫はここがどこで、なぜ自分がここにいるのかさえ分かっていなかったのである。もし精神病院に入院するなんて分かっていたら、「オレは気違いとちがう」と大暴れしていたかもしれない。「知らぬが仏」、理解していなくてよかったと内心ほっとした。

看護師の先導で、私たちはほどなく「認知症病棟」というプレートが掲げられた扉の前までたどり着いた。次の瞬間、私たちはここが精神病院であることを気付かされることになった。看護師は胸ポケットからカードキーを取り出すと、リーダーに通して暗証番号を入力した。ガチャと電解錠の外れる音がしたと思うと、看護師は先に立って重そうな格子の入った扉を開けた。

「出入り口は常にロックがかかっていますので、面会の際は受付で面会票に記入の上、こちらのインターフォンを押してください。中から開けますので。」

普通の病院では考えられない。これではほとんど刑務所と同じである。たとえ家族であろうとも、もう自由な面会は許されない。ここにきて、ようやく事の重大さを思い知らされた。

しかし、私の驚嘆はまだまだ序の口だったのである。病棟の中に足を踏み入れた私は一瞬にして凍りついた。初めて見る精神病院の病棟の中。ちょうどお昼時ということもあって、大勢の患者さんたちが食堂に集まっていた。そこには異様な光景が広がっていた。

30人ほどの患者が食堂に集まりテーブルに着いていた。半分ほどは車イスであろうか、一見して80歳過ぎという人がほとんどだった。でも、まともに食事を摂っている人はわずか。数名は奇声を上げている。

「先生、先生、せーんせい。おーい、おーい、おーい。」

一見して重篤な状態であった。もう自分が誰で、ここはどこで、そして自身は何をしているのか、それすらも分からない。出された食事が何なのかも分からず、ずーっと叫び続けている。

その傍らでは、黙々とスプーンを口に運ぶ人がいた。半分以上は床に落ちているのも分からず、ただ黙々と口に押し込んでいる。かと思えば、食事の仕方すら忘れたのか、出された食事を前にただただ呆然と座ったまま、うつろな視線を投げかけている人もいた。


「こちらです。」

異様な雰囲気に圧倒される間にも、看護師の歩みは先へと進む。私は、お化け屋敷の中を進むような緊張をもって恐る恐る歩みを進めた。程なく、廊下に強烈な異臭と消毒薬の臭いが漂ってきた。一瞬にして、あの「モノ」の臭いと分かった。

「スミマセン、気を付けてください。廊下で用足しされてしまう患者さんもおられますので。きっちり消毒はしていますが、なかなか追い付かなくて。」

私は卒倒しそうになった。老人ホームの中にも認知症の入居者の方は何人かはおられたがここまでひどくはなかった。大変失礼な言い方だが、ここはもう完全に「動物園」であった。夫もついにこんな所で暮らすことになってしまったのか。思わず大粒の涙が溢れた。しかし、くだんの夫はというと、平然とした表情で歩みを進めていた。これから自身にどのような運命が待ち受けているのか、それも知らずに奥へと進む、可哀そうな夫。私は、自身の罪の深さを責めながら、震える足でやっとのことで付き従った。しかし、現実はさらに苛烈さを増してゆく。

「こちらが、○○様の病室です。」

ようやく夫の部屋に着いた。4人部屋の病室は3つが埋まっており、夫のベッドは入り口を入って右手にあった。その部屋に入った瞬間、普通とは違う何かを感じた。殺風景な部屋は極めてモノトーンで、白い壁と白いシーツがやけに目についた。何だろう、この異様な雰囲気は。およそ普通の病院とは違っている。何かが違う。まるで生活感というものがなかった。程なく、私は、その理由を知ることになる。

私は、持ってきたカバンの中からタオルや下着を取り出して、ベッドわきのクローゼットに入れようとした、その時。

「あっ、申し訳ありませんが、下着やタオル類はすべてリースになります。持ち込みはご遠慮ください。」

私は、最初何のことか分からなかった。入院と言えば、タオルや下着、パジャマの類を持って来るのが当たり前ではないのか。しかし、この病院ではそれが違っていた。

「認知症の患者さんばかりですので、他の患者様のタオルや下着をそのまま使われてしまう患者さんがおられます。ですから、私どもではすべての患者様にリースの利用をお願いしております。外部からの持ち込みはご遠慮ください。あとで申し込みの手続きをご案内しますので。」

ああ何ということか。ここは「認知症病棟」、他人様のパンツをそれと知らずにはいてしまう患者さんがいるのだ。仕方なく、下着はあきらめ、コップとティッシュを出そうとした。

「あっ、それもダメです。患者様の中にはティッシュペーパーを食べてしまわれる方もおられますので、ティッシュボックスを枕元に置くこともご遠慮ください。それと、コップはすべて名前を貼ってこちらで管理しますので、お渡しください。」

何もかも取り上げられ、結局残ったのはスリッパだけだった。程なく、別の介護士の方がパジャマを持って現れた。

「それでは、着替えを始めさせていただきますので、ご家族様は外でお待ちください。今着ておられるお洋服はすべてお持ち帰りいただきますので。」

と同時に、サーッとカーテンが引かれた。私は、もう頭かクラクラして倒れそうに気持ちになった。夫はこんな所で暮らしてゆけるのだろうか。でも、つい先ほど食堂で目にした光景を思えば、このような対応にならざるを得ないのかもしれない。

ここは病院だ、これも治療のため仕方のないことだ、私は自身にそう言い聞かせながら耐えた。でも一体、ここでの入院生活はいつまで続くのであろうか。確か、先生は「とりあえず3ヵ月」とおっしゃった。3カ月経てば、元に戻り、また以前のように一緒に暮らせる日が来るのだろうか。でも、私のそんな思いはことごとく打ち砕かれ、この後事態はさらに悪化してゆくことになるのである。


次の日曜日、初めての面会に出かけた。受付で面会票に記入し、インターフォンで開錠を依頼する。介護士さんが笑顔で迎えてくれた。少し違和感を覚えた。精神病院というと暗くて鬱屈したムードを予想していたが、その予想に反する反応だったからである。後で知ったことであるが、世の中には入院した患者は放ったらかしで面会にも来ない家族も大勢いるそうだ。だから面会に訪れる者は誰もが歓迎されるのである。認知症患者もみな精一杯生きている、見捨てないで欲しいという意味だと思った。

夫とは面会室で会った。やはり何もない小部屋に小さなソファとテーブルが置かれている。ここでわずかばかりの差し入れも許された。夫は落ち着いた様子だった。少なくとも先週見せた鬼面のような形相はすっかり消え穏やかな表情であった。別にここでの生活を嫌がっている風でもなかった。でも、一言話した瞬間、現実を知ることになる。

「取り調べはきつかったか。」

最初は何を言っているのか分からなかった。

「取り調べって何?」

「お前、刑務所に入ってたんやろ。よう出してくれたな。」

なんと夫の頭の中では、息子は刑務所に入っていたことになっていた。夫の妄想は消えるどころか、さらにその深刻度を増していた。

「何で、僕が刑務所に入るの。何も悪いこと、してないのに。」

「いや、お前が会社のカネ使い込んだって、聞いた。昨日も警察が大勢取調べに来た。」

何ということか、夫の幻覚は、今度は「警察」に変わっていた。夫の妄想はとにかく物事を悪い方へ悪い方へと掻き立てていく。恐らく、病院のスタッフの方々を警察と取り違えたのかもしれない。

でも、言われてみれば、ここは刑務所に似ていた。囚人服にも似たお仕着せのリースパジャマ。入り口は常に施錠され、出入り口にはナースステーションもあり、自由な出入りもままならない。食事や入浴は、決められた時間に整然と並んで、決められた場所で行われる。それに、時々奇声を上げる重症の患者さん。その声を取調べ中の拷問と聞き間違えても無理はない。


そして、夫の症状がまったく変わっていないことは、次の一言で確定的になった。

「母さんの行方は相変わらず分からんのか。」

また困惑した。なぜ、私が行方不明にならなければならないのか。

「母さんは老人ホームに入ってる。足が痛くて会いに来られない。」

「ウソをつくな。あの男のところやろ。すぐ連れてこい。」

夫の表情は急に険しくなり、息遣いが荒くなった。夫は、まだ私が浮気したと思っているようであった。と言うか、私が老人ホームに入っていること自体が、夫にとっては「浮気」なのである。あれ程反対したのに、1千万円もの大金を貢ぎ込んで、他人の家に住んでいる。これが浮気でなくて何なんだ。

恐ろしい話だが、認知症患者は幻覚で見たモノをいったん信じ込んでしまうと、「固定記憶」となり、いくら他人が否定しても、どんな明白な証拠を突き付けても、その記憶は容易に元に戻ることはないそうだ。悲しいことだが、夫の記憶の中では、私は一生「浮気したまま」で固定されることになる。まともに話が通じることはない。

その時、ふと先生から聞いた話を思い出した。認知症の患者は、他人には信じられないような話も、大真面目で信じている、だからそれを否定したりすると興奮して余計に症状を悪化させる。うまく話を合わせて寄り添ってあげてくださいと。

「あんな人のこと放っておき。今度会ったら、お父さんは元気にしていたと伝えておく。」

「そうか。分かった。頼んだぞ。」

やはり。息子が夫に話を合わせると、夫は不思議と落ち着きを取り戻し、その後浮気の話は一切しなかった。


それから1カ月が経過した。息子は週に1度くらいのペースで面会に行ってくれているようだった。病院の話では、まだうちはいい方で、ひどい家庭ではもう何年も会いに来ない家族もいるそうだ。精神病院の入院は長期に及ぶことが多い。10年を超える人もザラであった。身内から「気違い」が出た。もうそれだけで、その人間を社会から隔絶し、周囲に知られないよう息をひそめ、事実上の縁切り状態になるらしい。

それが証拠に、病院の受付の掲示板には「生活保護受給申請のご案内」のポスターが目に付くように貼ってあった。病院の受付でこんなポスターを見るのは初めてであった。こんなものが貼ってあるということは、現実に生活保護を受けながら入院生活を送る患者も大勢いるということである。家族から見放され、入院代も払ってもらえず、もちろん仕事に就くことも出来ず、仕方なく病院が生活保護手続きの代行もし、それで命をつないでいるのである。社会の底辺のひずみを見たような気がした。

夫はと言うと、投薬のおかげもあって症状は以前よりは落ち着いているとのことであった。ただ、まだ幻覚の症状は続いており、いますぐ退院というわけにもゆかなかった。


精神病院への入院形態は3種類あり、一番重いのが「措置入院」、他人に危害を加えたり、自殺を企図したりと、一般的な社会生活を送るのが著しく困難なケースで、法律に基づき入院を強制できる。全体の1%ほどがこの措置入院である。

次に重いのが「保護入院」、家族の同意のもと医師が入院が必要と判断した場合、主に本人を保護する目的で入院させるケースである。夫のケースはこれに該当した。幻覚や妄想がひどく、通常の社会生活を送るのが難しいと判断された。

ちなみに一番軽いのは「任意入院」で、これは本人の意思に基づき入院を認めるケースで、実態は、家族から見放され就労も出来ず、生活保護を受けながらズルズルと長期入院しているケースが大半である。まあ、自分から進んで精神病院に入院したいという人などいないであろう。社会から隔絶され止む無く希望して入院しているのである。

夫のケースは「保護入院」であるから、退院するには医師の同意が必要となる。今の段階ではそれもまだ無理そうであった。


夫が入院して2カ月が経った。このまま順調に行けば来月には「仮退院(外泊)」も可能との医師の許可も出た。夫は本当によくなったのであろうか。また首を絞められるのではないかという一抹の不安はあったが、いつまでも精神病院に入院というわけにもゆかない。そろそろ退院のことも考えてゆかなければならない。ようやく、そんなことを考える余裕ができたと思った矢先、その事件は起きた。

夜9時過ぎ、息子の家に病院から電話が入った。

「お父様が、他の入院患者様とトラブルになり、けがをされました。とりあえず処置はしましたが、明日詳しくご説明させていただきますので、ご来院お願いできますでしょうか。」

息子は仕方なく、翌日会社を休み、病院に駆け付けた。

「昨晩のことですが、お父様が部屋を間違えられて、他の患者様のベッドに入られ、もみ合いとなり頭に切り傷を負われました。念のためCTを取りましたが脳内出血等の異常はなく、3針ほど縫って様子を見ることにしました。どうも申し訳ございませんでした。」

病院のスタッフが駆け付けた時はすでに夫の相手の患者様との間で掴み合いになっており、どうしてこんな事態になったのかよくわからないとのことであった。ただ、病院の話を総合するに、夜中にトイレに立った夫が自分の部屋が分からず、一つ手前の部屋に入ってしまったことが事の発端であったようである。

他の病院でも大体構造は同じであるが、病室は4人部屋でトイレは共用となっており廊下の端にあった。トイレの近かった夫は夜中に自分でトイレに立ち、帰り道が分からなくなったようである。夜9時の消灯後は、廊下は薄暗くなり、眼の悪い夫にとってはどこの病室も同じに見える。ましてや何の飾りもなく、頼りは入り口に貼ってある部屋番号とネームプレートだけである。でも、そもそも認知症患者に自分で部屋番号とネームプレートを確認しろというのも無理な話である。

無論、コールボタンを押せば介護士が駆け付けて介助してくれるのだが、そもそも夫はコールボタンの使い方も分からず、ベッドの手すりに引っ掛けたまま一度も使ったことがなかったらしい。

それでも、まだ部屋を間違え他人のベッドに入ろうとしたら、普通はおかしいなと気付くところである。でも、そこが認知症である。夫は、正しいのは自分で、相手が間違って自分のベッドに入っていたと主張したらしい。そしてもみ合いになり、倒れた拍子に頭を打ったとのことであった。

「そ、それで、お相手の方は大丈夫だったのでしょうか。」

息子は、一番に夫のことより相手の患者さんのことを心配した。もし大けがでもさせていれば、いくら勘違いと言えども、一大事である。幸い相手にけがはなく事なきを得た。病院側も、夜間の管理体制が不十分だったとクレームされても困るので、それ以上のことは何も言わなかった。しかし、この事件で夫の退院はさらに延びることとなった。


その後も夫の症状は一進一退が続き、ズルズルと1年近くが経過してしまった。

そして、とうとう最悪の大事件が起きたてしまった。それは夫にではなく私にであった。前の夕方から少し寒気がするなと思っていたところ、どうやらインフルエンザだったらしく、翌朝には意識がもうろうとなっていた。わずか一晩での急変だった。すぐに救急車で病院に運ばれ集中治療室に入るころには、もうほとんど意識はなくなっていた。ほどなく息子が駆け付けたが、もう誰だかも分からない。自身が生きているのか死んでいるのかも分からない。体中に点滴の管や酸素吸入の管が繋がれ、看護師と思しき人の声が聞こえる。

「今夜あたりが山場です。本当によろしいんですか。」

「はい、無理に連れて来ても、今のこの場で起きているこの事態が何なのかきちんと理解できるかどうか。最悪、誰かが殺したと暴れ出すかもしれませんし・・・」

どうやら息子はこの場に夫を呼ぶべきかどうか迷っていたようだ。妻の臨終に際し、その枕元に最も愛すべきはずの夫が来ない。ありえない。でも息子の言う通り、意識を失したこの私の姿を見て果たして夫が正気でいられるかどうか。それどころか夫はもう私のことすら誰だか分からないかもしれない。それなら夫を呼ぶことは無意味である。むしろ呼ばない方がお互いにとって幸せかもしれない。そんなことをつらつらと考えているうちに、私はあの世とやらに旅立つことになった。


私が死んで3日後、葬儀が執り行われた。喪主は息子が務めた。

「いくらなんでも呼ぶべきだろう」

「いや、でももし会場で暴れ出したら・・」

息子と親族一同での会議が始まった。最大の問題は、私の葬儀に夫を参列させるべきかどうかという点だった。妻の葬儀に夫が参列する。当たり前のようなこのことが、我が家ではそのまま通用しなかった。翌日、息子は精神病院の主治医に相談に行った。

「お父様がどういう反応を示されるか私にも全く予想できません。何事もなく無事お別れを済まされるかもしれませんし、あるいはおっしゃるように暴れ出されるかもしれません。患者さんの反応は、日々、いえ実際には時間単位、分単位で変化してゆきます。つい先ほどまでしおらしく泣いていたかと思えば、突然大声を出して暴れ始められるかもしれません。最近のご様子であれば何とか参列できるのではと思いますが、最後はご家族様のご判断になります。」

息子は思案に思案を重ねた結果、結局夫を葬儀には参列させなかった。と言うか、息子は心身ともに疲弊し、これ以上のトラブルには耐え難い状態だったようだ。今の息子にとっては、何とか葬儀を無事済ませることで精一杯だったようだ。ということで私は夫に見送られることもなくあの世に旅立つことになった。それでも構わない。どの道、そう遠くない時期に夫も後を追ってくるだろう。その時向こうで迎えればいいだけのことである。


それから2年が経過し、ついに夫があの世とやらにやって来た。その間の出来事を息子からのまた聞きでかいつまんで話すと以下のようになる。

夫は私の死後程なくして精神病院を退院し市内の特養に入居したそうだ。精神病院の先生がうまく診断書を書いてくださったのだろう、「要介護3」の認定が下り、異例の速さで入居が決まった。最近は精神病院の長期入院が問題となっており、病院の「退院促進プログラム」に沿って決められたそうだ。体よく言えば「地域社会復帰」、悪く言えば「追い出し」である。

夫はその特養で1年ほど過ごし、最後は誤嚥性肺炎で亡くなったそうだ。特養入居後も夫の妄想と暴言は続き、特養の方にも多大な迷惑をかけたようだが、地域の皆々様のご支援により何とか無事に旅立った。

夫は私の顔を見るなり、まるでこれまで何事もなかったかのように言葉を発した。

「何や、お前、こんなところにおったのか。随分心配したぞ。」

(了)

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鬼母の子 ツジセイゴウ @tsujiseigou

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