七文字

 静寂に包まれた執行委員室。一人ぼっちになった鬼嶋沙耶は、小さく溜息をつく。

 沖野啓二、星崎佐緒里、いつもの二人は近隣の小中学校に出張中で、鏡を始め他のメンバーも今日は全く顔を見せていない。一か月後の学祭に向け、各々がやるべきことをやっている。沙耶はそう信じて、学祭の借用物リストを机の端に放り投げた。ちなみに、これは沖野から頼まれていた仕事だ。


 何も手に付かない。執行委員長の身分でありながら、目前に差し迫った大きな責務をないがしろにするのは心痛み入る。ただ頭の中にもやもやとしたものが残っていて、どうにもそれを解消しないことには、私の気持ちは前向きになれそうにない。


 『蛇』が私の脳みそのを這っている。事件の真相がどうにも気になって落ち着かない。


 『蛇原有哉』、彼はやはり蛇を自在に操ることができるのだろうか。


 蛇の写真を撮りたいと言っていたので、彼は今も執拗に蛇を追っているのだろう。なぜ蛇を撮りたいのかは分からないが、もし自在に操ることができるなら、ひとは誰しも自分の思うような写真を撮りたいと思うものかもしれない。

 では仮に蛇を操ることが出来たとしよう。田や畑、もしくは山から蛇を操り学校に連れてくる……なんてことはあり得ないか。そもそも蛇を見つけたのなら、その場で写真を撮ればいいわけで、わざわざ学校に連れてくる理由が分からない。どのような形で蛇を動かすのか分からないが、移動の途中で誰かに見つかる可能性は十分ある。先日、教室に現れた蛇だってそうだ。放課後、多くの生徒が校内を行き来する時間帯、あの教室に出てくるまで誰も気が付かないはずがない。


 それから、蛇のいる場所に蛇原有哉がいるのではなく、蛇のいる場所に蛇原有哉がのだ。これは暗に、彼が主体的に蛇を操っているわけではないことを示唆している。教室に蛇を放っておいてから、偶然出くわしたように装うことも可能ではあるが、そんな回りくどいことをする必要がない。


 しかし、蛇を撮りたい彼の前に、何度も蛇が現れるなんて偶然もあるわけがない。


 つまり、蛇原有哉と関係のある人物が彼の前に蛇を出現させている、そう考えると頷ける部分は多い。蛇が現れたと言って騒ぐ嬉々とした表情、蛇への異常な執着心、危険を顧みず蛇に立ち向かう姿勢、蛇を自在に操ることができる人間のそれではない。


「あ」


 そう言えば、この間の校報に新聞委員が撮った現場の写真がある。

 ……一度、見返してみよう。


「失礼します」


 執行委員室の扉を開く音、そして女子生徒の影。

 

「あれ、千代」


 扉をピタリと閉め、千代は人気ひとけのない室内を見回す。

 沙耶は「あはは」と空笑いをする。


「今日はみんな出払っててさ、私だけ。何か用?」

「用って程じゃないんだけど……、さっちゃん、こないだ蛇追い払ったんでしょ?」

「あ、豊川歌見てくれた?……そうなのよぉ、めちゃくちゃ怖かったんだから」

「あの蛇ってどこから出てきたの?」

「あの蛇?目下捜索中」

「そう、だったんだ」

「どした? 何か気になることでもあった?」


 千代は沙耶の向かいの席に腰を下ろすと、真っ直ぐに沙耶の目を見る。


「犯人に当てはあるの?」


 この目は何かを知っている目だ、沙耶は心にそう感じた。

 自分の机の引き出しから生徒名簿を取り出すと、ゆっくりと立ちあがる。千代の側まで椅子を引いて、彼女に身を寄せ、肩を組む。


「当てはあるよ。確信はないけどね」

「そう、なんだ。誰?」

「それは、千代でも言えないなあ。本人の尊厳の為にも」

「いじわる」


 千代はムスッとした顔で沙耶を横目で睨む。


「たぁ~だぁ……、うっかりその人の名前を指差しちゃうことはあるかもねぇ~」


 沙耶はそう言うと器用に小指で名簿のページをめくっていく。あるページの前で指を止めると、今度はつつつと人差し指で顔写真と名前をなぞっていく。

 彼女の指は、ある男子生徒の前で止まった。


 吊り上がった瞳、刈り上げた短髪に、意地の悪そうな顔立ち―――――『蛇原有哉』だ。


「この人……なんだ」

「えぇ?何のこと?」

「なんでこんな回りくどいことするの? 普通に言ってくれればいいのに」

「なに千代、ご機嫌ななめ?」

「そういう訳じゃないけど」

「これはさ、まだ彼と決めつけるわけにはいかないっていう配慮と、『名前』から推測したと思われたくない私のプライドのせい」


 彼の名前は『蛇』だ。それで彼を犯人と判断するのはとても酷だ。しかし千代はこの時、沙耶も自分と同じ考えを持っていることに少し安心していた。


「で、千代ちゃんは私に何を伝えに来たわけ?」

「一緒だよ、私もその蛇原さん……が今回の犯人って目星をつけてる」

「え? 千代も……?ってどういうこと? 秘密裏に捜索してたはずなんだけど」

「昨日、倉庫で会ったの。彼と彼の友達と、それから蛇と」


 沙耶は目を丸くして「へえ」と声を漏らした。


「先生に頼まれて倉庫に物を置きに行ったんだけど、先に二年生の先輩がいてね。蛇がいるから気を付けてって言われてそれから、蛇原さんが来たの。カメラを持って」

「よほど蛇が撮りたいのね」

「どういうこと?」

「蛇原って写真部の副部長なんだけど、どうやら生きた蛇の写真が撮りたいらしいのよ。こないだ教室に出てきた時も、急いで撮りに来ててさ」


 昨日もそうだった。蛇に対する彼の執着心はつぶさに感じ取れた。


「それより、その蛇原より先にいた二年生って誰?」

「確か……、オガタさんっていう先輩だったと思う」

「ああ、あの子」

「知ってるの?」


 沙耶は蛇原と同じページの隅を指差す。そこには昨日倉庫で会った女子生徒の顔があった。微笑み温かく、とろんとした垂れ目が特徴的で、母性というものを絵に描けばこんな風かもしれない、そんな印象を持たせる女子生徒だった。

 倉庫の暗がりではよく見えなかったが、こうして見てもその時の印象と相違はない。


「『尾形真由美』さんね。同じ写真部よ。どうやら蛇原と幼馴染みたい」

「確かに仲は良かったかな」

「いつも一緒にくっついてるみたいなんだよね、あの二人。付き合っちゃえばいいのに」

「そういうのって本人たちが一番悩んでたりするんだよ」


 沙耶は千代の言葉にピクリと反応する。

 

「え? なになに、千代もそういう経験があるの?」

「もう……、やめてよ、さっちゃん」

「ええ、だって気になるじゃん。千代って昔から硬派気取ってるしさ、そういうこと考えるんだと思ってね」

「こ、硬派って……。別にそんなつもりないけど。身近な男子ってタッチくらいしかいなかったじゃん」

「そうなんだよねえ……、タッチじゃあ、ねえ?」

「うん? でも、さっちゃん、小学生のとき学校の裏庭でタッチにてあ痛っ……いったいなあもう」


 沙耶は真顔で千代の額にをする。

 そしてそのまま机の上に身を預けると、組んだ腕に顔をうずめた。


「それ……、いつも気まずくなってデコピンするのやめてよ」


 体内にこもった声音から、千代は彼女のセリフを脳内補完する。


「そういえば、あれ何?」


 千代はふと沙耶の机の上の写真に目をやった。無造作に撮られたスナップ写真がばらまかれている。沙耶は体をむくりと起こすと、乱れた髪を気にもせず仏頂面で答えた。


「ああ、あれ。こないだの『ヘビ事件』の時に新聞委員が撮った写真、何かの証拠になるかと思って貰っといたの」


 犯人は現場に戻ってくる、昔読んだサスペンス小説でベテラン刑事が言っていた。千代は席を立ってその写真を一枚ずつ手に取る。


「へえ……、この中の一枚が豊川歌に載ったってことなんだ」

「そうそう、あの写真よく撮れてたでしょ」

「ん?……うん、そうだね」


 どう見ても清掃委員にしか見えなかったあの一枚、本音は言えまいと千代は口をつぐんだ。


「どう、なんか見つかった?」


 沙耶は乱れた髪をようやく手櫛で整え、千代の側まで近づいて、横からその写真を覗き込んだ。


「あ、この子、ここにもいる」

「誰?」

「ほら、尾形真由美」

「ああ、この先輩ホントに蛇原さんのこと好きなんだね」

「いつも一緒だからね」

「でもこれ……、ほとんど執行委員しか映ってないし、あんまり参考にならないかも…ってあれ? この人も執行委員?」


 千代は丸眼鏡の小さな男子生徒を指差す。


「え、誰? あ、そうそう、かがみん」

「かがみん?」

「『鏡誠二郎』、通称かがみん。役なしの執行委員だけど、ウチの中では一番の働き者だね。この子も蛇原たちと同じ写真部で、部長も務めてる」


「『鏡』……」


 千代は一言つぶやいて黙ってしまった。

 

―――――蛇と鏡は非常に近しい存在であると言えるのではないでしょうか。


 昨日の明楽美歩の言葉が脳内を反芻する。

 『蛇』は『鏡』で、『鏡』は『蛇』で、両者は互いに別の世界を生きていて、知らずのうちに交わっている。言葉と文字のかけ橋の上を行き来している。


 蛇が鏡を見る。そこに映っているのは自分の仲間だと錯覚し、あるいは自分自身だと錯覚する。だから『蛇』は『鏡』が自分と似通った存在であることをやがて知る。


 鏡が蛇を見る。万物の真実の姿を映し出す鏡は、自分が正義の番人だと勘違いする。今日もまた一匹の蛇が自分に注目する、そうやって高見をする。自分の体が何者にでも染まってしまう体とは知らずに。自分自身が『蛇』になっているとは気づきもせずに。


「この鏡って人、いまどこにいる?」


 千代は神妙な面持ちで沙耶に迫る。


「え、かがみん? いや今日はまだこの部屋に顔見せてないし、分かんない。何で?」

「ちょっとこの人と話がしたい」

「なんで、かがみんと?」


 それは彼が『鏡』だから……、と言ってしまうには早計か。千代は言葉に悩む。


「確かにかがみんは蛇原と仲がいい……っていうのはちょっと違うけど、それなりの関係があるのは確かだよ」

「それなりの?」

「蛇原が、かがみんをライバル視してるんだよね。その、カメラの技術の事で。あんまり詳しいことは知らないけど」

「その、鏡さんはそんなに写真撮るの上手いの?」

「かがみん? うん、なんか前に野鳥の写真を撮って、何だかっていうコンテストで優勝したことがあるって本人に聞いたことあるよ。なんか動物の写真撮るのが好きなんだってさ」

「なるほど。そうすると、蛇原さんは鏡さんに対抗して動物の写真を撮ろうとしてるってことかな」


 沙耶は頭をひねって、ううむと唸る。


「でもそれって可笑しくない?」

「どういうこと?」

「だって動物を撮るって言うのに『蛇』を撮ろうだなんて何かズレてる気がするし、そもそも動物の写真ってこう……、自然に生きる野生の活力、みたいなものを表現するのが常じゃん。イメージ的に、ね。それなのに学校で撮るなんて変じゃない?」


 そう言えば、尾形真由美が、人口の構造物に生きる動物の姿を撮るのが蛇原の趣向だ、と言っていた。それが彼のやりたい事だとしても、鏡に対抗する手段にはなり得ないと思う。


 ならば、こうは考えられないか。鏡は、いつか蛇原が自分の実力を越えてしまうのではないかという不安を抱いた。そこで彼の大好きな『蛇』を餌にぶら下げ、その写真を撮ることに執着させる。彼の前に何度も蛇をおびき出し、蛇と特別な縁を感じさせる。被写体である動物は人間と違い、目の前でポーズを取ってくれなければ、時間通りに撮影現場に来てくれることもない。つまり、動物写真家にとって何度も被写体が目の前に現れるということは、手放せば二度と来ることのない好機に映る。だから鏡は蛇原の前に『蛇』を出現させる。蛇原は躍起になって『蛇』を撮る、それが全く鏡と別の方向に向かっているとも知らずに。

 

 ここまでの推察は、鏡が『蛇』を自在に操ることができるという仮定の下で成り立っている。さてこれを沙耶に話したところで納得するだろうか。


 千代が一呼吸おいて話し始めようとしたその時、執行委員室の扉を開く音がした。それと同時に男子生徒の明朗な声が室内に響く。


「鏡誠二郎、ただいま参りました!」


 真っ直ぐに切り揃えられた前髪が揺れる。その動きがピタリと止まると、足を揃えて後ろ手を組む。沙耶は「ほら、あれがかがみんだよ」と千代に囁いてから、鏡に向かって大きく手を振る。


「やっほー、かがみん。ちょうど今ね、かがみんの話をしてたんだよね」

「私の話を? 委員長に気に掛けていただけるなんて恐れ多いことでございます……と、やや、そちらの生徒は?」


 鏡は千代の存在に気づき、眉をひそめる。


「やだ、かがみんってば。執行委員ならお馴染みでしょ。1Aの室長、千代ちゃんよ」

「こ、これは失敬。鶴来女史でいらっしゃいましたか。会議でお見掛けする時は髪を結われていたので気づきませんでした。大変失礼いたしました」

 

 千代の神妙な顔に鏡は首を傾げる。


「私の顔に何か付いていますか?……あ、すみません、自己紹介が先でした」


 鏡は一歩ゆっくりと千代の前に立ち、手を差し出す。


「はじめまして、二年B組、鏡誠二郎と申します」

「鶴…来、千代です」


 千代は彼の瞳から目を離さず、その手を握る。


「かがみん、千代ちゃんは私の大事な妹分だから大事にしてあげてよね」

「はい! 委員長の仰せとあらばっ!」


 鏡は均整のとれた見事な敬礼を見せる。

 沙耶は満足げに頷くと、今度はふざけて鏡の真似をするように敬礼する。


「それより、かがみん。仕事の調子はどう? 捗ってる?」

「その事についてなんですが……、実はまた困ったことがありまして……」

「困ったこと?」


「我が写真部にヘビが出るようになりまして―――」

  



 

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