六文字
放課後、部活に向かう生徒たちの波に逆らいながら、千代は廊下をひた歩く。
いつもなら早々に学校を出て帰宅の途につく時間なのだが、今日は事情が違う。クラス室長の自分にしか頼めないと、担任教員が仕事を課したのだ。
それがこの―――、荷物運びだ。授業で使用した手板を教材倉庫に返すというのが今回の任務だが、なぜ力余る男子生徒たちに任せられなかったかと言えば、彼らのアンテナが実に敏感で、教師の呼びかけを上手く
当の私も、教師のそんな困った顔に見ぬふりを決め込みたかったが、公選代表であるという理由で私に全てを一任する大人の暴論の前には最早、抗う気持ちは失せていた。
倉庫の鍵は職員室入り口近くの壁際に掛けられており、使用する際は、備え付けのノートに貸し出し日時と名前を書くことになっている。千代は擦り切れたノートをパラパラと開いていくと、最後に貸し出された時間を確認する。
「あれ……」
その時間はつい先刻の事で、返却日時がまだ空欄になっている。つまり、現在使用している者がいるということだ。それなら手間も省けると、千代は足早に倉庫に向かう。
この手板が収納されている教材倉庫は屋外にあるコンクリート張りの建付けがしっかりとした倉庫だ。建物の影に隠れているため、倉庫内はひんやりとしており、夏になると熱波にさらされた運動部員たちが涼みに来る避暑地として親しまれている。職員室のノートに名前と日時を書き込めば、特に理由もなく開けられるので生徒たちの密かな隠れ家のような場所となっていた。
もしかすると、暇を持て余した帰宅部員たちがそこでバカ騒ぎをしているかもしれないと一抹の不安を感じながら、千代は段ボール一杯になった手板を、少しずつ息を乱しながら運んでいく。
倉庫の前に着いても、辺りは静かだった。私と同じように、正当な理由で、この倉庫を訪れたのかもしれないと千代は胸を撫で下ろした。
さっさと片付けてしまおう、と倉庫の扉に手を掛け一気に引いてみる。
外界の光が薄暗い室内に差し込む。その光線の先に、一人の女子生徒の後ろ姿が映った。
「あ……」
その生徒は振り返ると、千代の顔を見て戸惑いの表情を見せた。
「あ、あの……」
「すみません、急に開けてしまって。ちょっと荷物を置きに来ただけなので」
「いえ、その……、こちらこそ、ごめんなさい。人が来るなんて思わなかったから」
その生徒は戸惑いの表情を崩さない。その瞳には焦りも見える。千代は胸元のバッジに視線を落とし、それが二年生のものと気づく。
「すぐに置いて出ますから。先輩の邪魔はしませんので」
「邪魔にはならない、と思うけど。ただすぐに出ていった方がいいかもしれない」
女子生徒が静かにそう告げると、千代はその言葉の真意について深く考えるより前に彼女の足元に目が泳いだ。……水だ。キラキラと斜光を照らしている。
「は、はい。この段ボールを置きに来ただけなので、すぐ済みますよ」
「そこの棚の上?」
「はい」
千代はよいしょと段ボールを持ち直すと、倉庫奥の棚に運んでいく。その時、女子生徒が千代の前に細白い腕を突き出して、制止させる。
「先輩?」
「そ、そこは行かない方が……いいよ」
「え?」
「そこに……、さっき蛇がいたから」
千代の体が固まる。
「蛇?」
私は爬虫類が好きだ。だから、蛇だって大好きだ。あの縦長の瞳孔で獲物を睨む姿。二又の舌を器用に動かす可愛さ。鈍い光を放つ鱗が幾重にも折り重なって波打つ姿は芸術と言ってもいい。今すぐにでもその御姿を拝見したいと思う。しかし今、私は重い荷物を持っていて下の様子が見えない。この段ボールをどこかに置いてしまいたいが、今しがた『足を踏み入れるな』と言われたばかりだ。荷物を置いて身を躍らせ、その場所に踏み入れるのは躊躇われる。
「そう、蛇。そこに四匹くらい」
「四匹も?」
「そう、だから、気を付けて」
四匹もいるなら見つけるのは容易い。今すぐにでも、これを降ろしてそのご尊顔を拝みたいが―――――。
「おい、真由美! 蛇いたか?」
背後から不意に、男子生徒の声が飛び込んでくる。息も絶え絶えに、ずんずんと中に歩み寄ってくる男子生徒。千代の姿など視界に入っていないように、倉庫奥へ入っていく。
「ユーちゃん! その棚の下に……、気を付けて」
「任せろって。もう何回こうしてると思ってんだよ。ええと……、この下か?」
「んんん? いねえぞ?」
「じゃあ、どこかに逃げたのかも……」
「逃げた? バカ、こないだみたいに他の連中に見つかったら厄介なことになるだろ」
「でもずっと扉は閉めてたから外には出てないと思う」
「それを先に言えよ。じゃあこの中のどっかにいるってことだな。真由美、扉閉めてくれ」
そう言うと蛇原はカメラを手に持ち、じりじりと室内を歩いて回る。
尾形真由美は静かに扉を閉めると、千代を見てハッと口を押さえる。
「ごめんね。ちょっと閉めたままにしてもいい?」
「大丈夫ですけど……、一体何を?」
「うん。彼がね、どうしても蛇の写真を撮りたいらしくて」
「写真……?」
確かに彼は蛇の写真が撮りたいようだ。もはや私などに目もくれず、ただひたすら蛇が現れる瞬間を待ち続けている。
「彼、ユーちゃんはね、動物写真家なんだけど、森とか山じゃなくて、こういう……建物の中にいる動物にインスピレーションを感じるんだって」
「建物の中の、ですか。変わってますね」
「私もそう思う。何でも、人と違うことに挑戦してみたいらしいの」
「うーん、それにしてもこの倉庫の背景と蛇が上手くマッチするとは思えませんけど」
真由美はにっこりと微笑んで、物陰に集中する蛇原の後ろ姿を見つめる。
「あなた……、正直ね。本人に直接言ってほしいくらい」
「先輩からは言えないんですか?」
「私? 私は無理かな。人の言うことなんて絶対聞かない……、でも自分の気持ちに真っ直ぐな、彼のそういう所が眩しいから。だから、私はこうやって陰で応援したいの」
彼女の瞳が映し出す感情を他人の私が推し量ることなどできない。ただ彼女の言葉が恋情を以て語られていたことは分かる。彼女は本当に彼を想っているのだ。二人がどういう経緯で行動を共にしているか分からないが、二人の間には信頼関係以上の何かを感じる。
「それにしても……、蛇、出て来ないですね」
「蛇は基本的に自分より大きいものを怖がるらしいから、もう出て来ないかも」
「蛇ってどんな感じの蛇ですか?」
「どんな感じって?」
「あ、あの大きさとか色とか……」
「大きさはこれくらい……かな」
真由美は胸の前で両の掌を開く。一メートルもないくらい、彼女はそう言い足す。
「それほど大きい種類ではないみたいですね。色とか、模様は?」
「色は茶色っぽい色で、こう……体に沿って真っすぐ黒い線があったと思う」
「ということは、シマヘビですね」
シマヘビは日本に生息する蛇の中で、比較的馴染みのある種類だ。田や畑に住み着き、ネズミやカエルを食べ、時には小さな鳥をもその小さな体に収めることがある。毒性はなく、自宅で観賞用として飼う愛好家もいる。
「蛇……、詳しいの?」
「詳しいというほどじゃないですけど、家が田舎なのでよく見かけるんです」
本当は図鑑という図鑑を広げて、その姿形から生態まで隈なく調べる蛇好き改め爬虫類オタクなのだが、また「変わった人」などと言われるのもいい気がしないので、それ以上は何も答えなかった。
「おっ!!」
蛇原が地面に這って鉄製のキャビネットの下を覗き込むと、こちらを静かに見つめる蛇の姿があった。
「っち、そこじゃ暗すぎて撮れないんだよなあ。どうにかしておびき寄せられないかな」
「ユーちゃん気を付けて」
「真由美、ヘビって何食うの?」
真由美は首を傾げる。そして答えを求めるように千代に目を遣る。
「シマヘビならネズミとかカエルを好んで食べますけど、人間の前では気前よく食べてくれないと思います」
蛇原は聞きなれない声に身を起こし、千代の存在にようやく気付いてから、眉をひそめる。
「……誰?」
「1年A組の鶴来千代と言います」
「鶴来……? どっかで聞いたことあるような」
「ユーちゃん忘れたの? あの1Aの室長やってる子だよ」
体が強張る。『鶴来』という名をようやく思い出した。あの『鶴の室長』だ。灰汁の強いあの執行委員を手籠めにしたという噂の一年生だ。執行委員とどのような関係にあるか分からないが、クラスの代表を背負うような人間にこんな所を見られて落ち着くはずもない。
「私は2Aの尾形真由美。で、こっちがユーちゃ……じゃなくて蛇原有哉くん」
「おい真由美。この室長さんは、なぜここにいる?」
「この倉庫に用事があって来たんだって。ユーちゃんより先にいたよ?」
カメラを手に固まったまま難しい顔をする。先日教室に蛇が現れた時、自分の事情を解さない誰かが執行委員に報告をし、結果、最高の一枚を撮りそびれてしまった。この部外者が今の光景を見て、誰かに言ってしまう可能性はゼロではない。そうなれば今後、校内で蛇の写真を撮ることはますます難しくなる。
「悪いけど出てってくれ」
「え? あの、いや、でもこの段ボールを片付けたいんです」
「じゃあ、それを置いて出てくれ」
蛇原の目が千代を睨む。真由美は戸惑う千代に言葉を掛けようとするも、口をついて出る言葉が見つからなかったようだ。彼女も初めはここから出ていった方がいいと言っていた。ここを蛇原の撮影スタジオにするという責務を思い出し、そっと千代から目を反らす。
「……は、はい」
千代はガチャガチャと中で擦り合う手板の音を感じながら、その場に段ボール箱を下ろす。
軽く会釈をしてから倉庫を出ると、去り間際にもう一度室内を確認する。その時、ふと蛇原と目が合ってしまい気まずそうにもう一度頭を下げた。
あの倉庫にいま蛇が五匹いる。なぜかそう感じた。
*
「シェークスピア」
「哀悼」
「有象無象」
「ウクライナ」
「
「消火器」
「気管支」
「し……、し、シマヘビ」
明楽美歩の目がじっと千代を見つめる。
彼女は慣れた手つきで辞書を捲るとピタリと止まる。
「千代さん」
「うん……」
生唾を飲み込む。美歩は今にも判決を下す息遣いで間を持たせる。
「え? え? み、美歩さん?」
「千代さん、その単語―――――」
「もしかして前に言った?」
「言ってません。初めて出た単語です」
はああ、と体の空気を抜くような溜息をつく。
「なんだあ、良かった。てっきり前に言ってたのかと思ったよ」
「いえ私もそう思っていたんです。爬虫類好きの千代さんがシマヘビほどのメジャーな種類を言ってないはずがないと思いましたので」
「意外と出てなかったね。良かった良かった」
出てもいない額の汗を拭うフリをする。薄く細い記憶の線を辿って、既に出た単語を避けていくこの『広辞苑しりとり』は脳への負担が大きいが、その重い
咄嗟に「シマヘビ」という単語を思い浮かんだのは先刻のことがあったせいなのだろう。蛇を撮りたいというあの写真部の先輩のことだ。
「蛇……か」
「蛇がどうかしましたか」
「ううん。最近ちょっと変なことがあって」
「変なこと?」
「うん。学校によく蛇が出てくるようになったんだよね」
「校内にですか?」
「うん」
「それは不思議ですね」
美歩は広辞苑をフロントの戸棚にしまい込むと、机に両肘をついて興味深そうに少し身を乗り出した。
「ウチの学校は、そりゃまあ、田舎にあるけどそんなに山の中にあるわけじゃない。田んぼもあるけど容易に侵入できるほど近くもない。なのに、校内に現れるみたいなんですよ」
「それは、少し変ですね。千代さんもご存知だと思いますが、蛇は元々人間に近づくような生き物ではありません。ただ小さな間隙をくぐって家屋に潜むことはありますが、学校という多くの人間がいる屋内で、まして食べ物にも恵まれない環境に、わざわざ飛び込むのは自然的に考えにくいでしょう」
「そうなんだよね。それに私が見たのは倉庫だけど、その前は教室に出たって聞いてる。しかも複数匹で出現してるみたいなんだ」
「複数匹で?」
「うん。それもちょっと変」
「蛇は、私の記憶が正しければ、群れで行動することはありません。そのような社会的な生き物ではないはずです」
「そう。狩りの時は行動を共にするグループもいるみたいだけど、少なくとも校内で共存する必要はないし―――」
千代はそこまで言いかけて、美歩の視線に気が付く。
「千代さん、そこまで分かっているならもう答えは出ているんでしょう。きっと誰かが校内に蛇を持ち込んでいるんです」
「うーん……、確かに美歩さんの言う通り、誰かが校内に持ち込んでるのは明らかだと思う。でも生きた元気なままの蛇を何匹も学校に持ち込むなんて、そんな簡単にできることじゃないと思うんだ」
「なるほど、確かにそれもそうですね」
「放課後に出現してるから、ウチの学校の生徒がやってるような気はしてるんだけど」
「放課後に出現したのではなく、放課後に発見されたということですよね? 放課後は他の多くの生徒もいますから単純に発見される確率も高いということではないでしょうか」
「うん。でもさっき美歩さんが言ってくれたように蛇は群れで行動はしないから、放課後より前に蛇が放たれていたんだとしたら、同じ場で何匹も見つけられるはずがないんだ。だから犯人は放課後、人のいる場所に蛇を放っている…ってことには間違いないと思う」
「それなら犯人は簡単に見つけられるんじゃないでしょうか」
「どうやって?」
千代は小首を傾げる。
「その現場にいる人物を当たればいいんじゃないでしょうか。これがただのイタズラならその犯人の意図は驚く人の顔を見たいということでしょう。なら必ず犯人は現場にいるはずです」
千代はゆっくりと頷きながら、頭の中に先ほどの写真部員の顔を思い浮かべる。蛇の影を追っている彼は、何らかの形で今回の事象に関わっている可能性が高い。
そして何より危惧すべきは彼の名が『蛇原』だったということだ。そんなことを考えてしまうのは世界で私以外に何人いるだろうか。しかし名前に『蛇』という文字がつく以上、彼を警戒せずにはいられないのだ。『鶴』と同じように。
「美歩さんの言う通りですね。また同じことがあれば注意してみたいと思います」
「そうですね、少し注意して周りを見るといいでしょう。何かに気を取られている人間を観察するのは容易いことですからね。鏡を見る人間を見つけるものだと思えばいいんです」
「鏡を見る人間?」
「はい。鏡の前で自分の姿を映す人間は何を見ていると思いますか? 鏡のフレームでしょうか、それとも背後の景色でしょうか。違いますよね、『自分』なんです。じっと『自分』を注視するんです。それ以外は何も目に入っていないはずです。姿見の前で服合わせをする人はその時誰も目に入っていません。だってそこに映っている世界には自分一人なんですから。だから気づかないんです、自分以外の世界から見つめられていることに」
美歩は有趣なことを思い出しましたと言って、ピッと人差し指を立てる。
「そういえば、昔読んだ論文に面白い説がありました。日本古語では『蛇』を『カガチ』と読ませていたことから、蛇の目のことを『カガメ』転じて『カガミ』、つまりあの『鏡』の語源になったというんです。お正月に飾る鏡餅がとぐろを巻いた蛇を似せて作ったという有名な説もここから来ているそうです。また日本では縄文時代から蛇信仰があったとされていますし、鏡信仰については言うまでもないでしょう。真偽のほどは分かりませんが、蛇と鏡は非常に近しい存在であると言えるんじゃないでしょうか」
つまり、蛇を見ることは鏡を見ることと同じですね―――美歩はそう言うように千代の顔を窺う。
「……」
「千代さんはこういう時とても面白い表情をしますね」
千代は自分の頬をつねる。
「ほうでふか?」
「はい。まるで光を追い求めて深泥を足摺り歩くような、そんな表情をします」
「それってどういう表情?」
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