四文字


「おい、真由美」

「なに? ユーちゃん」

「お前いつまでアルバムの整理してんだ。今日は麓まで行くって言ったろ」


 尾形おがた真由美まゆみは山積みになった写真を一枚づつ手に取っては表面に付いた埃を払いながら、安いプリント生地張りのアルバムに収納していく。

 はつま先で椅子の足をコツコツとつつき、苛立ちを隠せずにいた。


「うん、分かってる。ちょっと待ってね。一区切り付いたら準備するから」

「早くしろよなあ。全くお前はんだからよ」

「ごめんね。急ぐから」

「俺はさ、もっと余裕持って出たいんだよ」

「山って、剣山つるぎやま? それなら、三十分も掛からないんじゃあ……」

「ばーか、移動してる途中にも被写体ターゲットがいるだろ。そいつらも根こそぎ撮ってくんだよ。もしかしたら、さやがわの近くでお目当てのアイツが撮れるかもしれないしな」


 真由美は一枚の写真を訝しげに見つめる。


「アイツって、もしかしてこれ?」


 机の上にその一枚を滑らせる。


「あ! バカ! ぉん前、何でそれがそこに……!」


 ユーちゃんはそれを見るや否や、顔を真っ赤にして素早く取り上げる。


「だってここにある写真は全部ユーちゃんが撮ったものでしょ」

「ちくしょう……、ブレたやつもそこに入ってたのかよ」

「ノイズ?っていうのかな、そういうのも入ってる」

「おい、マジか。待て、やっぱりアルバム整理は俺がやる。そのまま置いとけ」

 

 真由美の腕を握り、写真の山から手を放す。


「どうして?ユーちゃんがやってって言ったんでしょ」

「いいから!」

「あ、もしかして、自分が失敗したの見られたくない……?」

「うるせえなあ。いいから俺がやるって言ってんだろ」


「それにしても、こないだは残念だったね。その写真、よく撮れてたと思うんだけど」

 

「あん時は仕方なかったんだよ。邪魔が入ったからな」


 二人の間に一枚の写真。物体の動きを捉え切れず、無数に及ぶ瞬間のコマが幾重にも折り重なっており、誰がどう見ても撮影に失敗したのだということが分かる。

 昨日ユーちゃんは教室に現れたヘビを撮影しようと2年A組の教室に飛び込んだ。真由美から得ていた情報によれば、ヘビは三匹いると聞いていた。実際その場に行ってみると情報通り三匹のヘビが教室を陣取っていた。『教室にヘビ』という非現実的な組み合わせは、動物写真家を自称するユーちゃんにとって垂涎物のシチュエーションだった。彼はその三匹の中で特に興奮している一匹をレンズに捉える。それを間近で撮影したいと、絶妙な体感バランスでヘビの前に滑り込み、いまシャッターを押そうとしたその時―――、体が大きな力に引っ張られた。その時の瞬間を捉えたのが、この一枚というわけだ。


「邪魔さえ入ってなければ、最高の一枚が撮れてたはずなんだ。今度の写真展に出すはずの、一枚がな」


 ユーちゃんは「それをまたアイツが……」小声でそう言い足した。


「でも、怪我しなくて良かった。助けてもらったんだから、感謝しないとね」

「はあ? 助けてもらった? お前、本気で言ってんのかよ。どう見てもアイツが邪魔したかっただけだろうが」

「彼は、そんなことしないと思うけど」

「お前……、アイツの肩持つのかよ」


 ヘビに似た眼光が真由美を睨む。


「ち、違うよ。私は、ユーちゃんに危ないことしてほしくないだけ」

「写真家に危険は付き物、昔から言ってるだろ」

「う、うん、分かってる。だから……、私も応援はしてる」

「じゃあ、口出しすんなよ」

「うん……」


 二人は口をつぐんだまま、席を立つ。


「よし、行くぞ」


 お年玉で買ったデジタル一眼レフカメラを首から下げ、ユーちゃんはドアに手を掛ける。そのままドアを押す前に後ろを振り返り、真由美の姿を確認する。こうして都度、確認しておかなければ彼女はいつまでも重い腰を上げないのだ。


「早くしろよ」

「待ってユーちゃん。ホントせっかちなんだから」

「お前がとろいんだよ」

 

 真由美は自分のスクールバッグからコンパクトデジカメを取り出すと、外出用のポーチにそれを忍ばせる。


「おい、真由美。お前、まだコンデジ使ってんのかよ」

「コンデジ? このデジカメの事? だって高いカメラは必要ないと思って」

「それでも写真部かよ。ただでさえとろいお前がフォーカスの遅いコンデジなんて使ったら何も撮れねえだろ。しかも、それレリーズタイムラグ大きい機種じゃねえのか?お前なあ、本当にやる気ねえな」


 ユーちゃんが深いため息をつくと、真由美は口を曲げた。


「だって私はユーちゃんに誘われて人数合わせで入部しただけだし……、それにユーちゃんと違って私は風景を撮るのが趣味なの」

「風景って……、お前いつも『あの雲の形フシギだね~』とか言って、空の写真撮るだけじゃねえかよ」

「ええ、だって面白いよ? こうやって、ケータイの待ち受けにするのが好きなんだあ」


 「えへへ」と言いながら、待ち受け画面を見せる。


「うわあ……、俺、そういう奴一番苦手なんだよな」

「ええ、なんで?」

「空が綺麗なんて当たり前だろ? 上空を遮るものなんて何もねえし、唯一遮る『雲』も自然が生み出すもんなんだから映えるに決まってる。しかも、それが身近にいつでも撮れるんだから、こんなにつまらんものはねえ。自称カメラ好きがよく撮るんだよ。そんなもん、ファミレスに行けば美味しいもん食えるのと一緒だよ。お前はファミレス女子だ、ファミレス女子」

「どういうこと…? でも、ユーちゃんが言うならやめようかな」

 

 真由美はううん、と喉を唸らせる。


「あ!やべえ!」


 ふと腕時計を確認したユーちゃんが大きな声を出す。


「どうしたの?」

「どうしたの、じゃねえ!もうこんな時間だ、急いで出るぞ!」

「う、うん!」 


 重心をぐっと前に、ドアを思い切りよく開ける。

 その視界の開けた先に―――、よもや人が立っていようとは思わなかった。ドアの勢いは止まらず、前身が前のめりになる。慌ててドアを引こうにも体の重心はすっかり前に倒れていた。


「……って、のわぉ!!」


 目の前の人物と衝突を避けるために、ユーちゃんはドアノブから手を放し、その場にすっ転んだ。


「いつつつ……」

「大丈夫か?」

「……いってえなあ!てめえ、急に現れんじゃねえよ!」

「すまない」

「この写真部の部室は入る前に三回ノックするのが、決ま……り……」


 転倒の際ぶつけた顎をさすりながら、顔を上げる。そこに立っていたのは、黒縁眼鏡がキラリと輝く小柄な男子生徒だった。その見知った顔に、ユーちゃんは舌打ちをする。


「……っち、なんだ、鏡かよ」

「すまない。今からノックしようと思っていたんだ」

「分かってるよ。お前がノックを欠かすはずがないからな」

「いや、ここに立っていつもより一秒ほどノックを躊躇ってしまったんだ。ドアの奥からこっちに向かってくる君の声がするものだから。僕の一瞬の判断ミスが招いた結果だよ。反省する」

 

 黒縁眼鏡の縁が光沢を放つ。

 ユーちゃんは理路整然と自らの過誤を説明する鏡に身じろぎをする。


「う、うるせえな。お前のせいじゃないだろ」

「理解が早くて助かるよ」

「っち、それより執行委員様が何の用だよ。いや、ここに来るときはって言えばいいのか?」

「今の僕は、どちらかといえば、前者になるんだろう。今日はこの方もいらっしゃるからね」


 鏡が後ろに半歩下がり、背後に立っていた女子生徒を前に立てる。とは言え、背丈の低い鏡ではその姿を隠すことはできなかったので、彼がつらつらと弁明している間にも何度か目が合っていたのだが。

 

「初めまして……、になるのかなあ」


 この学校の人間なら知らない者はいない。その伝説は語るに及ばず。豊高執行委員委員長、鬼嶋沙耶―――またの名を『鬼の委員長』。


「執行委員長の、鬼嶋沙耶です。少しだけ話をしたいんだけど、いい?」

 

「え、あ、その………、なんだよ」


 彼女の噂はよく聞いている。自分の目的のためなら、先輩だろうが教師だろうが校長だろうが、はたまた町長だろうが手籠めにしてしまうという。話によればその巧みな話術は鬼というより悪魔に近く、その言霊を以て大衆をひざまずかせるらしい。その所業たるや鬼の如く、圧政に次ぐ圧政を繰り返し、今の座に就いた―――という噂だ。

 こうして目の前で話すのは初めてだが、確かにいくつもの死線をくぐり抜けてきた余裕を感じる。


「その、あまり大きい声では言えないから、少し人目のつかない所がいいんだけど」

「あ、ああ、いいけど、お前の良いようにはさせないからな」

「ん、どういうこと?」

「あの委員長が急に俺を訪ねてくるなんて可笑しいだろ。何か企んでんだろ……?」

「なあんか、すっごい敵視されてるんですけど? かがみん、私、何かした?」

「いえ! 委員長は執務を全うされています。何も可笑しなことは」


 鏡は足を揃え、後ろに手を組む。

 

「だよね…? で、私が何を企んでるって」

「それが分かってたら、ここでこうして足止めしたりしないだろ」

「足止め? なんかすっごく誤解されてる気がするんだけど……」

「なら、ここで要件を言えよ。言えないならやましいことがあるって証拠だ」

 

 沙耶は苦笑いを浮かべて、目の前の逆毛立った写真部の部員に小首を傾げる。


「別にいいけどさ……、あなたのためを思ってのことだったんだよね」

「俺のため……?」


蛇原へびはら有哉ありやくん、あなたを豊高祭の第六十代撮影係に任命します」


 蛇原有哉ユーちゃんはポカンと口を開け、固まる。歓喜のあまりその背中に抱き着いた真由美の温もりを感じる余裕はなかった。

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