二文字


「千代さん、しばらくぶりですね」

「先週も来たばかりだよ」

「そうでしたか? この仕事をしていると、人の顔より本のタイトルばかり記憶するようになってしまっていけませんね」

美歩みほさん、まだ若いんだから。お婆ちゃんみたいなこと言わないでよ」

「私よりずっと若い千代さんに言われるのは何だかいたたまれないですね、すみません。それより今日はどういった御用で?」

「ちょっと遊びに来ただけです。やっぱり、ここの空気が好きで」

 

 幾千冊もの本に囲まれる千代。大きく息を吸い込むと、紙の芳しい香りが鼻腔をくすぐる。

 この町立図書館は数年前、豊川町の公金を投じて建設された、町内でも比較的新しい匂いのする施設だ。半球状のホールに低い丈の本棚が放射線状に並び、中心に円形の受付カウンターを構える一風変わった配置。豊川出身のデザイナー指揮で建てられたこの図書館は創立当時、大変な話題を呼んだが、それも一過性のものであったことは周囲を包む静寂が証明していた。

 千代はカウンターの前に立ち、この図書館の司書である明楽みょうらく美歩みほと挨拶を交わす。


「そうですか。では、今日もしますか?」

 

 美歩はそう言うと、カウンターの下から分厚い辞書を取り出す。


「うん、今日こそ決着つけよう」

「かれこれ三年近くになりますからね」

「こないだの続きは?」

「ここにメモしてありますよ。最後は私の言った『乱気流』です」

「じゃあ、『う』だね……、う、う、『右往左往』」

「それは……」

 

 美歩は手早く辞書を捲る。その動きを止めると、今度は黄色いマーカーで線を引き、鉛筆で日付を書き込む。


「まだ出ていませんね。では、また『う』ですか。『雨季』なんてどうでしょう?」

「えーと、『雨季』はまだ出てない。『き』か、『啄木鳥きつつき』はどう?」

「『啄木鳥』は……、出ています。一年前の二月十二日に」

「じゃ、じゃあ、『起死回生』?」

「それも出ていますよ。二年前の五月二十三日に」

「き、き、き……」

「千代さん、分かっていますよね。既出の単語は二回まで言い直すことができる……、次がラストですよ」

「き、『騎馬隊』!」

「それは――――――」


 千代は生唾を飲み込む。紙を捲る美歩の手が止まる。


「出ていませんね」

「よかったあ……」

「安心するのはまだ早いですよ、『石垣』」

「また、『き』? 序盤からペース上げすぎだよ、美歩さん」

「勝負の駆け引きは始めの十五分で決せよと私の師事する先生が言っていました。そういう訳なので、続きをどうぞ」

 

 千代の表情がフッと緩む。


「美歩さん、その師事する先生って私のでしょ? だったら正しくは、師事していた、じゃない?」


 明楽美歩は亡き祖父、鶴来つるぎ光陰こういんの愛弟子で、かつて文字研究に精を尽くしていたK大学博物館の学芸員だ。祖父の大学に遊びに行くと、いつも甲斐甲斐しく私の世話をしてくれたのが彼女だった。しかし、小さい頃の私にとって彼女は近所のお姉さんくらいの認識しかなく、中学生になってようやく彼女の来歴を知った時は大層驚いた。

 若くして研究の一線を退いた彼女は何の因果か、祖父の眠る土地、この豊川で書物の番をしながら、その長い余生を楽しんでいる。


「はい、光陰先生はいつもおっしゃっていました。長い時間を掛けて練る勝利の算段も一寸の処断には適わない、と」

「おじいちゃんらしいね」

「はい。ですが、このももうすぐ三年になりますが、一向に勝負がつきませんから。先生に会わせる顔がありません」

「美歩さんが強すぎるんだよ」

「千代さん、私はこの三十余りの年月で常人の何十倍も言葉に触れてきました。この広辞苑だって三回繰り返し読みました。客観的に見ても、本来なら私が勝って当然のゲーム内容だと思います。ですが長年こうして決着が着かないのは、貴方が私に劣らない若き才能を有しているからです」

「そろそろ、限界が来てるけどね」

「ええ、ですから勝てるなら今週あたりかと踏んでいるのですが」

「そっか、じゃあ今日はやめとこう」

「悪くない手だと思います。このまま続ければ、私が勝っていたでしょうから」

「うん……」


「何か思い悩むことでも?」


 歯切れの悪い返事に、千代の顔を窺う美歩。


「ううん、悩みって程じゃない」

「では、どうしてそんな浮かない顔を?」

「実は、今日ここに来たのはさ……、広辞苑しりとりをしたかったわけじゃなくて、美歩さんに訊きたいことがあったからなんだ」

「訊きたいこと?」

「美歩さんはさ、自分の名前に特別な意味があるって考えたことある?」

 

 美歩はしばらく考え込むフリをする。


「ふむぅ、自分の名前ですか。『美歩』は『ミホ』という、女性にありがちな名前に、それらしい漢字を当てたものと思われます。何となくランウェイでモデルウォークをする高身長の美女を連想させますが、実際に私の両親がそう願ってつけたかは不明です」

「じゃあ、『明楽』は? 珍しい名字だし、そのルーツくらいは調べたことはあるでしょ」

「勿論、私も研究者として自分の姓について調べたことはあります」

「じゃあ、明楽家ってどういう家系なの? 明楽ってどういう意味? 美歩さんはその意味を認識してる?」

「待ってください。その全てに答えることはできます。ただ、その答えは、千代さんの質問の意図するところなのでしょうか」

 

 意味の分からない質問で彼女のプライベートに深く潜り込み過ぎたのでは、と千代は思いとどまる。


「悪い癖ですが、私は常に質問の裏を読もうとしてしまいます。今の千代さんの質問は些か突拍子が過ぎていて頭がパンクしそうでした」

「すみません」

「では、逆に千代さんは『鶴来』という名の意味を考えたことはありますか」


 その名前については嫌というほど考えさせられた。『鶴来』というだけで地元の人間は私を特別扱いし、『鶴』という字が入っているだけで私の一言には特別な力が働いているんじゃないかと思い悩んできた。

 

「それは、考えるよ。美歩さんだってウチがどういう家か知ってるでしょ」

「はい、史実における『鶴来』は研究対象として非常に興味深い家系です。地方史の節目に必ずこの名が挙がるといっても過言ではありません。ただ私が言いたいのは歴史の『鶴来』ではなく、貴方の意図するような『鶴』『来』という文字本来の意味についてですよ」

「文字の、意味……」

「鳥は空を統べる者として古くから人々の憧れの象徴でした。実際、神話に出てくる神は鳥を模した姿で現れることも、しばしば。中世ヨーロッパで人気を博した動物寓意譚の代表格『フィシオロゴス』で、『鶴』は『夜』を象徴する鳥だった。人々が寝静まったあと、寝ずに家を守る警護の番として描かれていたからです。つまり、『鶴来』とは刻々と夜が迫ってくることを意味している……、とも言えるでしょう」

「さすが美歩さん、詳しいね」

「質問をするには十分な知識を備えていなければいけないものですよ。私は、光陰先生にそう叩き込まれましたから」

 

 美歩はそれから小首を傾げて、続けざまに言葉を連ねる。


「それで、なぜそのような質問を?」

「あの、すごおく不思議な話をするけど、私の名前に『鶴』が入ってるから私自身が鶴に変化したり……とかあり得るのかなって」

 

 千代は我ながら下手な言い回しをしたものだと恥ずかしくなる。自身の『鶴来』の力を説明するために、自分が鶴になる、などという御伽噺に発展してしまったのは誤算だった。

 さすがの美歩もこれには苦笑いを隠せないだろうと、チラリと顔を覗く。


「千代さんが『鶴』に……ですか。


 美歩は真面目な顔で答える。


「半々?」


 予想外の答えに声が上ずる。


「はい、中国には『ズールゥチーレン』という言葉がありますがこれは、字が綺麗ならその人の性格は美しく、字が汚なければその人の性格は醜悪である、という意味の言葉です。しかし、この言葉の字義を捉えれば『字はその人の如し』―――名に『鶴』という字があればその人は『鶴』のようになる、そういう考え方もできます。ただし、巨大な虫になってしまったグレゴール・ザムザの名前に『虫』という意味の単語は含まれていませんし、一匹の虎になった李徴りちょうも同様に『虎』を意味する字は含まれていません。そのことを考えれば、ある日、突然千代さんが『鶴』になるということはないとも言えます」

「でも、そのザムザも李徴も架空の人間……だよね」


 グレゴール・ザムザはフランツ・カフカの小説『変身』(原題:”Die Verwandlung”)の主人公、そして李徴は中島敦著『山月記』の悩める主人公だ。どちらも現実には存在しない。


「そうですね。そう考えると『字如其人』は現実の言葉ですから、やはり千代さんは『鶴』になってしまうのかもしれません」

「うーん」

「―――実際にそういったことを経験されたのですか?」


 千代の心臓が小さく跳ねた。


「い、いやいや! そんなわけないじゃん! 私は至って普通の人間だよ!」


 思い当たる節があるにせよ、『鶴』になったことがないのは事実なので、全力で否定しておく。

 

「それにしても、私の話を冷静に受け止めるとは思いませんでしたので」

「それを言うなら、美歩さんだって私の質問に真面目に答えたよ?」

「私は……、いえ、私も、あなたの曽祖父である鶴来照年先生の言葉に魅了された人間ですから。『文字は心を映し、言葉に力は宿る』―――そういう文字にまつわるファンタジーに夢を馳せているんですよ」

 

 

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