十文字


 第二多目的教室、クラスの教室一室より数畳ばかり広いこの部屋はひっそりと静まり返っている。授業で使われることのないこの教室は専ら文化部の倉庫と化しており、また鍵が壊れたまま取り換えられていないため部員たちの格好の隠れ家となっていた。

 その教室に一人佇む男子生徒、サワケン。腕を組み、遠くを見つめる。その瞳は待ち焦がれた恋人への恋情ではなく、ある種の哀愁を語っているようだった。授業が終わり、ここに来ることすでに三十分、放課後と言われればきっとこの夕暮れに染まりゆく時分を差しているのだろうが、恋文の相手は一向に現れない。


 やはり、諒の言っていたことは正しかったのだ。

 あの手紙は偽物の恋を語ったラブレターで、今こうしてこの場に現れた自分を草葉の陰で笑ってる者がいるのかもしれない。

 しかし、それでも拭いきれない思いがある。

 「沢」の字を一度消してまで「澤」という正確な名前を書いたのには必ず理由がある。一時の悪戯でそこまでこだわる必要はないはず―――本当に自分を慕っている者からの手紙だという思いを捨て去ることができずにいた。その葛藤の中でこうして半時間、突っ立っている。


 しばらくすれば、野球部も練習を始める。

 今朝諒の尻を叩いておいて、その自分が部活をサボるわけにはいかない。


 そろそろ潮時か―――。


 

 踵を返して一歩を踏み出そうとしたその時、教室の引き戸がガラガラと音を立てた。



 「お前は―――――」


 「まだいたか、サワケン」


 教室に現れたのは諒だった。


 「諒かよ!なんっだよお、ラブレターの相手かと思ったじゃねえか」

 「いや、まあ」

 「ま!まさか!お前、あのラブレターってお前が…」

 「は?」

 「そうか…、だからお前、ドッキリだって知ってたのか」

 「違うぞ」

 「じゃあ、あれはお前からの本物のラブレターって事か?そっちの気があったなんてな」

 「違わないが、違うな」

 「どういうことだ」


 サワケンは眉をひそめる。


 「俺にその気はないが、あれはお前の言う通り本物だったんだ」

 「本物?」

 「泣いて喜べ、お前はマヌケでも大マヌケでもない。伝説の勇者だ」

 「諒、何を言って」

 「、サワケン。ほら、中に」


 諒が手招きをすると、その陰からすすすと小さくまとまった女子生徒が現れる。ひどく赤面していることは分かるが、もじもじとしながら俯いていて顔はよく見えない。


 「……彼女は?」

 「お前が待ってたラブレターの相手だぞ」

 「いやいや、え、あれって本物だったのか?」

 「お前が言ったんだろ。じゃあ、俺はこれで」


 諒はそう言い残すと教室を後にした。


 「……」

 「……」


 残された二人は数秒の間、沈黙する。

 諒曰くラブレターの相手だという目の前の女子生徒は大層緊張している様子だ。サワケンは自分から話を切り出すのがいいだろうと口を開く。


 「なんか手紙くれて……、ありがとう。俺ああいうの貰ったの初めてだからさ、どうしていいか分かんなかったっていうか、その、本当はドッキリなんじゃないかとか思ったりして、ちょっとそのここに来るの迷ってたっていうか、はは、でも来て良かったっていう気持ちもあって」

 「先輩、優しいですね」


 女子生徒は頬を緩ませた。


 「先輩?」

 「先輩と同じ五中だった、遠野友里と言います。今日は突然呼び出したりしてすみませんでした」

 

 そこでようやく顔を上げた女子生徒には微かに馴染みがある。中学の時、何度か顔を見かけた記憶がある。廊下ですれ違った程度だが、確かに記憶に残っている。


 「遠野友里……さん。こんなこと言うのも申し訳ないけど、俺と君に接点がなかったから、ちょっと驚いてる」

 「そ、そうですよね、ちゃんと話したこともないのに急に押しかけちゃって」

 「その、なんであのラ、ラブレターを?」

 「それは―――」


 中学でも書道部に入っていた友里は小さいころから書道を習っていたため、入部当時から一番の書き手として名が知られていた。中学二年の夏休みに、習字の宿題が出た。一年生から三年生までそれぞれ課題となった題字を書き、それらを国語教諭と近隣に住む書道家で審査するというものであった。

 誰もが友里の金賞を信じて疑わなかった。しかし、実際に金賞を取ったのはサワケンだった。題字は「高鳴る鼓動」、勢いと迫力のある字面が審査員の心を打った。友里は下級生で唯一の入賞となる銅賞だった。題字は「晴耕雨読」、精巧な余白の使い方が高く評価されたが、子供らしくない慎重な筆運びが却ってマイナスのイメージを与えてしまった結果だった。


 入賞者の作品が貼り出された掲示板を前に友里は歩みを止める。金賞の作品も、銀賞の作品も自分よりずっと輝いて見える。自分はこの二つの作品に比べて異質に映る。「中学生ならこういう作品を書くんだ」そう面と向かって言われているようだった。なんで入賞できたのかも分からないこんな自分の作品を誰が評価してくれるのだろうか。


 ―――――綺麗な字だな。


 突然、背後で男子生徒が呟いた。

 周囲の友人たちが彼の言葉に反応して、彼を茶化そうとする。


 ―――――うるせえなあ、だって綺麗じゃん。どう見ても俺のよりいいだろ。


 その男子生徒は友里の「晴耕雨読」の前で喉を唸らせる。


 ―――――きっと心も綺麗だからこんな字書けるんだろうな。


 友里はその時、背後で話す男子生徒の顔を確認できなかった。だから彼の作品をじっと見つめ、その名前を確認した。『澤井健』、一生この名前を忘れずにいたいと思った。


 「私は先輩の言葉で書道を止めずに来れました。だから私も先輩のように誰かの支えになりたい。その誰かに先輩を選んでもいいですか……、それが私の伝えたかったことです。つまり……、いや、改めて言います」


 友里はそこで小さく拍を置く。


 「私、先輩のことが―――――」







 「先輩のことが好きなんです」

 

 遡ること数分前、音楽室を後にした沙耶と千代、そして友里の三人は階段の踊り場で一つ輪になっていた。

 友里の大胆な告白に沙耶は絶句する。


 「嘘でしょ?あんなサルゴリラのどこを好きになるのよ」

 「さっちゃん言い過ぎでしょ」

 「だってそうじゃない?あんなスポーツ刈りの野球バカを好きになるなんて、女子アナくらいじゃない」

 「さっちゃんそれも言い過ぎだよ」

 「まあ、いいわ。人を好きになる理由なんて人それぞれだし。人に理解されない愛ほど狂おしいものはないしね」


 友里が突然、頭を深々と下げる。


 「こんなことになると思ってなくて……、本当にごめんなさい」


 沙耶は溜息をつく。 


 「つまり、花山莉子と柿谷理沙がサワケンにドッキリのラブレターを送ろうとしたところにいてもたってもいられず、と。でも彼に対する想いから、いっそこれを機に告白してしまえ…、とそういうわけね」

 「……はい」

 「あの手紙は野球部の部室に入ってたって聞いてるけど、どうやって入れたの?」

 「それは私自身が入れたんです」

 「それはまた大胆ね。でも、それなら不可能じゃないか。実際に今日も別のクラスに入ったり、他の部に入ったりしてたわけだし」

 

 沙耶は初めから用意していたような確かな口調で、友里に問いかける。


 「じゃあ、なんでそれを千代に話さなかったの…。あなたの力だってバレてたわけだし。友達ならこそこそ逃げ回らないで、話してしまった方が良かったんじゃないの」

 「それは……」


 千代も友里のその答えを欲していた。悪戯の容疑を掛けられたとはいえ、理由があるのなら逃げなくてもよかったのではないか―――そう案じながら友里の顔を覗き込む。


 「それは、私の『遠野』の力には限界があって、この力で帰属できる集団は一つだけってことなの……。つまり、私は…」


 そこで友里は生唾を飲み込み、内臓を裏返すように心の内を吐露する。


 「この力で澤井先輩とお付き合いしたいけど、千代ちゃんの友達でもありたかった。でも私の力で帰属できる集団は一つだけ、だから二人目の千代ちゃんとは友達のままでいられないと思って……、本当に身勝手でごめんなさい!」

 

 千代は頭を下げる友里の頭をじっと見つめる。


 「千代ちゃん、ごめんなさい」

 「……本当に身勝手だよ。友達だと思ってたのに、そんな力を使おうと思ってたなんてさ。挙げ句一方的に関係切られて、それも好きな男子の所に走っていっちゃうんだから許せないよね。こんなに迷惑かけられちゃって、普通なら破局もんだよ」

 「ごめん……」

 「でも―――友里とはまだダブルス組んでるから、そんなの…関係ないんだ」

 「千代ちゃん……」

 「それにさ、遠野の力に頼んないでさ。私にもサワケン先輩にも、言葉を重ねて心を突き合わせて、仮初じゃなくホンモノの関係を築こうよ」

 「うんっ……!」


 顔を上げて満面の笑みを浮かべる友里、その表情にもう迷いはなかった。

 その晴れやかな表情を確認した沙耶は背後に妙な気配を感じる。


 「……なんとか間に合ったみたいだな」


 「ぬおっ、びっくりした!タッチか!あなたってホントいつも突然出てくるわね」

 「悪いな」

 「間に合った……ってどういうこと?」

 「お前と千代、そこの女子を追いかけてたんだろ」

 「そうよ」

 「だから千代をって音楽室に向かったんだ」

 「へえ、そうだったの。確かに足痛めてた千代がどうやってここまで来たんだろうとは思ってたんだけど」

 「それよりサワケンに告白するんだろ。行くぞ」


 諒は飄々と言い放つ。

 

 「あなた乙女の決断をそんな軽く言うんじゃないわよ」

 「いや急いだほうがいい。俺はあいつにしつこくドッキリだと言ってる。それでもしつこく待つと言ってたが、こんなに時間が経ってたらさすがのアイツも痺れを切らすぞ」


 友里は大きく頷くと跳ねる心臓を抑え、諒の後に着いて走り出した。

 階段を駆け上がって消えてしまったその背中に千代は呟く。


 「友里、頑張って」

 


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