九文字


 この墨の匂いが好きだ。どんな悩みを抱えていても、硯を擦っていると気持ちが落ち着く。手に取る毛筆が墨に染まって、それまでまとまりのなかった毛が一点に集まる。馬の毛並みのように綺麗に揃った毛筆で、白い半紙を前にすると心が高鳴る。今からこの白い景色に自分を表現できるという高揚感、そして上手く表現できないかもしれないという緊張感、相反する感情が錯綜するこの瞬間は最高に気持ちがいい。


 書道部の活動拠点である畳張りの教室で、遠野友里は筆を手に瞳を閉じる。


 「……」


 鶴来千代には悪いことをしたと思っている。

 彼女のおかげで運動音痴の自分は体を動かすことの楽しさを知ることができた。書道しか知らなかった私の世界に彩りをもたらしてくれた。『鶴』の噂を聞きつけたときは彼女を怖い人間だと思っていたが、それは単なる誤解だとすぐに分かった。噂にたがう人格者だった。度々つまずくような私の話し方を気にも留めず、素の笑顔を私に向けてくれた。人付き合いが苦手で、いつも場の空気に身を委ね霧のように集団に帰属する私が、言葉を重ねて心から親密になりたいと思った相手だった。


 しかし、彼女はだ。


 あの時、彼女は私の花山莉子と柿谷理沙の関係性を問おうとした。最後まで彼女の言葉を聞くことはできなかったが、恐らく昨日の放課後彼女たち二人と一緒にラブレターを書いたことを問い詰めようとしたのだろう。

 どうやってその情報を知り得たのか分からないが、私の邪魔をするというのなら彼女千代との関係を断ち切るまでだ。



 「遠野さん……?」


 「……は、はい」


 気が付くと、書道部の部長が友里の顔の横から白いままの半紙を覗き込んでいた。


 「具合悪いの?筆持ったまま固まっちゃって」

 「ぶ、部長…」

 「なんだか早くから準備してるみたいだから心配しちゃった」

 「すみません、部長」

 「謝ることないわよ。でもまだ書き始めてないなら、ちょうど良かった」

 「え?」

 「遠野さんにお客さんが来てるみたいなのよ」


 部長の背後に見覚えのある二つの影、すました笑顔を浮かべる鬼嶋沙耶と神妙な表情をする鶴来千代だった。


 「先ほどぶりね、遠野友里さん」

 「友里、今度は逃がさないから」


 友里は反射的にその場に立ち上がる。


 「おっと、話を聞くまではまだ離さないわよ」


 沙耶は友里の退路を断とうと扉の前に立つ。

 それを確認すると千代はゆっくり友里の前に歩み寄った。


 「友里、教えて。どうしてあの二人と一緒にいたの?あのラブレターはあなたが書いたの?」

 「……」

 「悪戯に加担したかったわけじゃないんだよね。そう言って、友里」

 「……千代ちゃん」


 友里は千代との距離でようやく聞こえる声で彼女の名を呼ぶ。


 「千代ちゃんは、『守破離』って言葉知ってる?書道でよく引き合いに出される教訓なんだ。『守』は師の教えを守ること、『破』は独自の道を見出し教えを破ること、『離』はその独自の道を発展・昇華させていくこと。千代ちゃんは私にとって人生のしるべとなる先生、その先生が私に『一人でできないことをやるためには相手に迷惑かけて当然だ』と言ってくれた」


 体育の授業で千代が額に汗しながら言っていた言葉を思い出す。


 「だから、私はあなたの教えを守ってたくさん迷惑をかける。あなたにたくさん迷惑をかけて、自分なりのやり方で自分を変えたい」

 「友里、言ってる意味が分からないよ」 

 「……」

 「あなたは一体何を隠してるの、…教えて」

 「それは、言えない。千代ちゃんでもそれだけは…」


 「それは友里の名前に関係することだから……?」

 

 千代の思いがけない言葉に友里は頭の中が真っ白になった。

 普通の人間ならここで動揺したりはしない。あまりに突飛な質問に、首を傾げてその真意を訊くだろう。しかし、普通じゃない私は、は彼女の質問の真意が分かっていた。


 「千代ちゃん、どこまで……、知ってるの?」

 「座敷童子のように集団の輪に溶け込む力と『遠野』という名前―――――柳田やなぎだ國男くにおの『遠野物語』が頭に思い浮かんだんだ」


 『遠野物語』とは、日本民俗学の下地をつくった柳田やなぎだ國男くにお(1875-1962)が岩手県遠野にて、その土地の民話収集家であった佐々木ささき喜善きぜん(1886-1933)の語りを著した説話集である。本書には河童や天狗など遠野に伝わる妖怪の伝承が綴られており、その17話は以下のような書き出しに始まる。



 ―――旧家にはザシキワラシといふ神の住みたまふ家少なからず。

 


 「遠野には脈々と言い伝えられてきた座敷童子の伝説がある。あなたの力と遠野の名、決して偶然ではないよね」


 友里は固まった表情を崩して微笑む。


 「千代ちゃん……、千代ちゃんにはホントに適わないなあ。何でそんなことまで知ってるの」

 「ウチの一家って代々、文字研究に精を尽くしてきたみたいだから……、その影響かな」

 「そうなんだ。やっぱり上郷の人って凄い人達ばっかりだね」

 

 友里は窓に映る山々に目を遣る。


 「少し私の話をしてもいい?私ね、本当に人と話すのが苦手で友達と言える友達が、今まで一人もつくれなかった。相手の一言、一挙手一投足が気になっちゃって、縛られて、何も出来なくなっちゃう。だから、望んだんだ―――空気のように自然に友達になっていたいって」


 言葉がずっしりと重みを持つ。

 望みであるというのに、その声色に希望は感じられない。追い詰められた鼠の嗚咽のような音が、千代の足元を這う。


 「それから私は自分の力に気づいたの、集団への帰属が自由に行えることに。つまり私の意思で、友達だったように、クラスメートだったように、人々の意識を操作することができる」

 「それは…、確かなの?」

 「昔から何度もやってる。だから、私には本当の友達ができない。いつも仮初の友人ができるだけ、いつかやめなきゃと思って、どうしてもこの力に頼ってしまう。そうしないと私は孤独に押しつぶされそうになるから」


 千代は寂しげな表情で友里を見つめる。

 

 「友里、じゃあ私は……?私も仮初めの友達なの?」

 「千代ちゃんは……、違う……、でも」

 「でも?」


 友里は部屋の入り口に立つ沙耶をチラリと見る。

 腕を組み引き戸の番をする『鬼』はその視線に気づき、眉をひそめる。


 「でも、私の力を知ってもなお私の邪魔をしようとするんなら、千代ちゃんだって仮初めの友達にするしかないよっ……!」

 「友里……」


 千代は友里の辛辣な言葉に一瞬、顔を伏せる。

 その時、視界の端から細い二本の足が素早く動く。顔を上げたときには友里の姿はなく、振り返れば、沙耶のいる扉とは別の扉に手を掛けていた。そして乱暴にその扉を開けると、髪をなびかせて走って逃げていった。


 「さっちゃん!」

 「任せて!」


 とっさに動かした足の痛みを感じ、千代は沙耶に合図を出す。





 沙耶は慌てて友里の後ろ影を追う。


 息を乱しながら彼女が逃げそうな場所を必死に考える。彼女が今どこに向かって走っているのかは分からない。しかし、彼女は必ずまた『集団』を隠れ蓑にするはずだ。にわかに信じたいが、遠野友里は『集団』の意識を操作しその『集団』に初めから存在していたように装うことができるらしい。ということは千代の意識を操作して、千代の友人という『集団』からの離脱も可能であるということだ。花山莉子や柿谷理沙のという集団から離脱できたのと同じように。

 

 そうだ。その気になれば彼女は千代の記憶から自分の存在を消すことだってできる。それはしないのは、奇しくも彼女が心から千代を慕っているからだ。千代がそのことに気づいていたかは分からないが、遠野友里は明らかに千代の記憶に自分の存在を必死に残そうとしていた。しかし、止むに止まれぬ情動があって、拭いきれない葛藤があった。自分の存在を記憶に残しておきたいと思う相手に対する素振りと言動、もしかすると彼女は―――。


 沙耶の視界から友里の揺れる髪が消える。


 彼女が勢いよく飛び込んだ部屋は、音楽室だった。放課後は合唱部が使用しているはずだが、部屋からいつもの歌声は聞こえない。



 「遠野友里!観念しなさい!」



 そこにいたのは遠野友里ではなく、沙耶を見つめる無数の瞳だった。


 「うっ……」


 列に並んだ瞳がぎょろりとひん剥く。「ここから出ていけ」と突然の侵入者を視殺する。合唱部たちの面々は今にも歌い出そうと、指揮者の一振りを待っていた。その矢先に表れた沙耶に、怒りと苛立ちを向けるのも当然だった。


 「これはこれは、委員長。何か御用ですか?」


 指揮者の男子生徒が沙耶に振り向く。


 「い、いや…、ここに黒髪セミロングの女の子は来なかった?」


 沙耶は気まずい気持ちを抑え、どぎまぎしながら問いかける。


 「委員長、人探しなら他所よそでやってくださいよ。こっちもね、コンクールが近くて時間が勿体ないんです」

 「それは申し訳ないと思うけど、急用なのよ」

 「じゃあ、今度の予算会議で便宜を図らってもらえますか?」

 「がめつい男ねえ、部長さん?あなたモテないでしょ」

 「なっ……!ぼ、僕がモテないのと今の話に何の関係があるんだ!と、とにかく!見ての通り、合唱部はこれだけの大所帯なんだ。会場までの交通費くらい支給してくれてもいいだろ」

 「それは、まあ善処するけど」

 「政治家みたいなこと言って、本当だろうな?」

 「もうっ、いいから!時間がないの!教えて!」

 

 細い目で蛇のように睨みを利かせる部長に我慢がならないと、沙耶は地団駄を踏む。


 「ここにいるのは合唱部の部員だけ?」


 「そうだよ」


 部長は部員の顔を一つ一つ確かめるように左から右に眺める。


 「指揮者の立ち位置からはメンバーの顔がよく見える。みんな合唱部の人間だ。部外者は一人もいないし、君の言うようなセミロングの女の子も入ってきていない」

 「そんな……」


 沙耶は確かに見た、遠野友里がこの部屋に入っていくのを。

 やはり遠野友里の力は本物だ。千代と遠野友里の会話をどこかモニター越しで聞いていたような感覚だったが、それがいま現実のものと分かった。

 この中から、記憶の中から薄れゆく遠野友里の存在を見つけることはできない。彼女はいま完全に合唱部のメンバーとなり、この集団に紛れているのだ。きっと今、顔見知りという私との記憶からも、友人である千代との記憶からも自分の存在を消しつつあるに違いない。そうなったら、私たちは一生交わることはできない。この事件は言葉通り、忘却の彼方に葬り去られてしまうのだ。


 「うぐぅ……」

 「ただ――――」


 沙耶が歯ぎしりをしたのと同時に、部長が口を開いた。


 「今日は体験に来てくれた一年生がいるよ」

 「体験?」

 「ああ、そこにいる子だよ」


 部長が指差したのは列に並ぶ部員たちではなく、グランドピアノの前に座る女子生徒だった。その生徒はゆっくりと立ち上がると、沙耶の前に歩み寄った。


 「やっぱりグランドピアノ欲しいなあ、家にある古いアップライトピアノじゃなくてさ」

 「え……?」

 「そう思わない?さっちゃん」

 「千代……?なんで、ここに……」


 沙耶は思いがけない千代の登場に言葉を詰まらせる。


 「それは後で説明するとして、今は―――――」


 千代は無数対になった瞳を見つめ返す。


 「トオノユリを見つけ出す」

 「トオノユリ…」


 二人の記憶から友里の記憶が薄れつつあった。名前は辛うじて覚えているが、その容姿などは忘れていた。どこかで見たことがあれば、一度も見たことがないような顔が眼前に揃う。この中からトオノユリだけを見つけることなんてできるのか―――沙耶はぐっと奥歯を噛む。


 「皆さん!この中に一人、合唱部でない人間がいます。それは―――」


 千代の言葉とともに、合唱部のメンバーが揃って人差し指を一人のに向ける。


 「――――――!」


 その異様な光景と不意に人差し指を向けられた女子生徒は驚き、手で口を押え、息を飲む。


 「ユリ!見つけた!見つけたよ……、友里」


 千代はその女子生徒を見て、確かに戻りつつある遠野友里の記憶を噛み締める。


 「なんで、千代ちゃん……、なんで、私って分かったの……」

 「私と友里の仲でしょ」

 「でも、私は確かに遠野の力で……」

 「友里、私はあなたを一人にはしない。勝手に離れないでよ、また一緒にバドミントンするって約束したじゃん」

 「うぅ……、千代ちゃん……、千代ちゃん、私―――――」


 その場に泣き崩れる友里に歩み寄り、背中をさする。千代は沙耶に目線で合図を送る。


 「さすが千代ね、色々聞きたいことはあるけど、とりあえず遠野さんから事情を聞こうかしら」


 

 

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