五文字

 「それでは執行委員の朝会を始めたいと思います」


 古びた黒板の前に立つ『鬼の委員長』こと鬼嶋沙耶と、その『鬼』に仕えることを良しとした、奇特な執行委員のメンバーがささくれ立った木製の長机を囲む。


 「……というありきたりな挨拶から始めてみようと思うんだけど、なんか文句ある?」

 「文句ある前提なのかよ!」


 そのメンバーのうち長机の南方を陣取る男子生徒が盛大に椅子から転げ落ちる。

 ワックスと整髪スプレーで固められた長髪が特徴的なその生徒は、ニヤニヤと笑いながら長机に腕を委ね立ち上がる。


 「うるさいわね、沖野」

 「いや、沙耶ちゃん。その言い草はないでしょ。こっちが朝からばりのリアクションとってんだから」

 「そんなんだからドッキリに引っかかんのよ」

 「ちょっとお!その傷はまだ癒えてないんだから勘弁してよお」


 沖野が泣き顔を見せると、長机の東方から「フフフ」と女子生徒の高貴な笑い声が響く。

 

 「さおりちゃんまで俺のことわらうのお?」

 「沖野は悪い子じゃないんだけど。言動が軽すぎるのよね」


 星崎ほしざき佐緒里さおりは口元を手で押さえながら、悪戯な笑みを隠す。


 「あれ、何気に酷いこと言ってない?」

 「さおり先輩の言う通りよ、あなたは悪い子じゃないんだけど馬鹿なのよ」

 「おい沙耶ちゃん、悪い子じゃないんだけどって言葉にそんなクッション性ないぞ。結構、ダイレクトアタックしてるんだけど」

 「沖野、悪い子じゃないんだけど少し黙って」

 「さおりちゃん、文脈が崩壊してるぞ」


 「それはさておき」と沙耶は咳ばらいをしながら、長机を囲む空席を指差す。


 「今日、集まり悪くない?」

 「当たり前だろ、急に呼び出したんだから。一年、二年のメンバーは他の部活も兼任してるし簡単には来れないだろ」

 「じゃあ今日来てるのは、二年だけど暇してる沖野と推薦で大学が決まったさおりちゃんの二人だけ?そりゃなくない?」

 「そりゃなくない?ってどういう意味だよ。だって沙耶ちゃん、今日のミーティングの議題ってでしょ」


 沙耶は神妙な面持ちでポケットから一枚の紙を取り出し、それを二人の目前に広げる。


 「題して『沖野をドッキリに嵌めた生徒は誰なのか、醜悪な詐欺事件から見る傾向と対策』です」

 「いや、後半のハードルの高さよ」

 「とにかく皆さんもご存知の通り、最近この手の悪戯が絶えません。これはトヨコ―の自警団としては見過ごせないのです。そう思いませんか、さおり警部補」

 「おっしゃる通りです、沙耶巡査長」

 「二人とも自警団が何か分かってないだろ」


 佐緒里の視線が机上の紙へと移ったところで、沙耶は机を両の手で叩く。 


 「とりあえず!このラブレターを誰が出しているのかを突き止めましょう」

 「突き止めるったってよ、無理じゃね?これが置かれてた下駄箱の目撃情報はなかったし、頼みの綱と思ってた監視カメラもフェイクの飾り物だったし」 

 

 執行委員の手によって偽物ということが判明してしまった下駄箱近くの監視カメラはその後、学校の用務員によって撤去された。県の条例では防犯上の理由から設置が義務付けられていたが、経費削減の為に豊川高校ではこれを偽物の代用品でごまかしていた。思わぬ形で学校の経理に針の穴を通すことになったが執行委員としては会計検査院を気取りたい訳ではなく、沖野の下駄箱にラブレターを入れたのが誰かを突き止めたかっただけなのだ。結果的に本物の監視カメラが設置されることになったのだが、彼らにとっては最早「過去」を映すカメラでない限り、どうでもいい話であった。


 「沖野、さおり先輩、とあるドイツの名探偵が言った格言を知ってる?」

 

 沖野と佐緒里は沙耶の問いかけにかぶりを振る。

 

 「『事件は起こる前から解決している。解決しないのはフランクフルトで別居してる妻との離婚協議さ』」

 「沙耶ちゃん今作ったろ?」

 「今作った」

 「結局、何が言いたいのよ。俺はさ、正直な話…、早くこれ解決させて次の豊高祭の準備に取り掛かりたいんだよ」

 「沖野にしては真面目なこと言うんだね。見損なっちゃった」

 「見直せよ!」

 「でも、そう言うと思って私、最後の手段持ってきた」

 「最後の手段を……、持ってきた?」

 「入っていいよ、千代」


 沙耶の呼びかけを合図に部屋の引き戸が開く。

 そこには、執行委員に馴染みのある顔が慎ましやかに立っていた。


 「あら」

 「この子って、あの鶴ガール?」


 沖野と佐緒里は驚きと困惑の表情で彼女を迎え入れる。


 「1Aの鶴来千代です。失礼します」

 

 「私の後輩、鶴来千代……って生徒会会議で見たことあるよね」

 「当たり前だろ。大人しそうなのにやたらと発言力のある、あの一年ガールだろ」

 「ふふふ、沖野はいつも言い負かされてたものね」

 「負かされてはないから!会議のパワーバランスを考慮した戦略的撤退だから!」

 「それにしても沙耶?この可愛い後輩を連れてきてどうしようと言うのかしら?」

 「千代にこのラブレターを見てもらう、それだけよ」

 

 長机を囲む四人の間に沈黙が流れる。


 「ん?沙耶ちゃん、どういうこと?この鶴ガールがラブレターを見るだけ?」

 「そう」

 「どういうこと?」

 「とにかくやってもらった方が早いわ。千代、外で話は聞いてたわね?この手紙を書いたのが誰かを突き止めてほしいの」


 沙耶は自信ありげな笑みを千代に向け、それを追うように沖野と佐緒里の視線が自然と千代に向かう。

 千代はその視線を受け止め、こくりと頷く。 


 「分かった。さっちゃん、それ貸して」


 沙耶は千代の手にその紙を手渡す。


 「頼むわよ」


 千代はじっとその文字列を眺める。

 瞬きをした一瞬、黒鉛で書かれた文字が水面で波紋を立てる木の葉のようにゆらゆらと動き出す。それらはじんわりと浮かび上がると、千代の眼前で自由自在に浮遊し始めた。それらの多くはふつふつと沸騰するように気泡を発生させ、しばらくすると文字群は当初の繋がりを分裂させ、単体へと移り変わっていく。もはや、どの文字が何の意味を持つか分からなくなったその時、視界をうごめく文字の群れの先にある情景が見えた。


 下卑げびた笑い声を上げながらメモ用紙を前にペンを取る女子生徒が一人、その横で同じく悪魔のように口角を上げる女子生徒が一人。


 彼女らがペンを走らせる度に「好」という文字が掃き溜めのように積もっていく。やがて積もりに積もった「好」がゆっくりと視界を溶かしていき、千代は自分が執行委員の三人に見つめられていることに気づいた。


 「どう、千代」

 「うん、この手紙を書いたのは一年D組の花山莉子さんと、あともう一人は知らない女の子かな」

 「オッケー、?」

 「見えた」

 「じゃあ、この顔写真付きの名簿で探そう」


 沙耶は錠前の付いた引き出しから一冊のファイルを取り出す。


 「多分、同じ一年D組の子でしょ。見つけられそう?」

 「ちょっと時間ちょうだい」

 

 そう言うと千代はパラパラと名簿を捲り、上から下に顔写真を目でなぞっていく。


 「………というわけで二人とも。この事件は解決したので、解散!」

 「おい、ちょっと待て。説明しろよ、沙耶ちゃん」

 「えー?説明いる?」

 「いや、いるだろ。鶴ガールは何をしたんだよ」


 千代は手をピタリと止め、二人に気づかれないように視線で沙耶に圧を送る。


 「……」

 「なあ、沙耶ちゃん?」

 「あー……千代の…昔からの特技なの、そう、言うなら筆跡鑑定的な感じ」

 「筆跡から花山莉子の手紙だって分かったのか?」

 「そうよ」

 「いやいや、無理あるだろ。そもそも花山莉子の筆跡を知らないとそんな芸当できないわけだし」

 「鋭いわね、沖野のくせに」

 「くせに、とは何だ!」


 「さっき偶然、花山莉子のノートを見たんです」


 千代が沖野の背後から割って入る。


 「花山莉子のノートを?いや、それにしてもさあ…、ほら!沙耶ちゃん『顔は見えた?』って言ってたじゃん!あれはどう説明するんだよ」

 「そんなこと言ったっけ?あ、千代もう分かった?」

 「うん。この子で間違いない」

 「ほおほお、一年D組の柿谷理沙ね。よし!お昼に突撃するわよ!」 


 沙耶は胸の前で拳を強く握りしめる。

 会話を無理やり中断された沖野はしばらく腑に落ちない顔をして千代を眺め、それから同意を求めようと佐緒里の方に振り返るがいつもと変わらないその切れ長で細い目からは感情が読み取れなかった。ただ沙耶が楽しそうに大手を振る様子に、これ以上の詮索が格好の悪い行為に思え、口をつぐんだ。

 

 



 千代には昔から文字が動いて見えた。それらをじっと見つめると微かに振動を始め、やがて意思を持つように生を受けたものの動きに変わる。激しく動いたり、動きを止めたり、大きくなったり小さくなったりとそれぞれが個性を帯び始める。その個性によってその文字の書き手の人間像や心理が分かる。最近ではそこから文字を起こした瞬間の情景まで浮かび上がるようになった。

 これは千代にとって当たり前のことだった。皆が本を読んで笑ったり泣いたりしているのは、その文字の表出する心理や情景を見て、筆者の創る世界に没入し、それらに追体験しているからなのだと思っていた。しかし、実際には微動だにしない紙上の文字を見つめて感情を読み取っているのだと知り、自分が人より酷く劣っていると感じた。

 自分は文字ではなく、常に映像を見ているに過ぎないのだと劣等感を感じた。

 周囲の人間は文字を見ながら筆者の世界情報を受信し、己が力でその世界を構築することができる。だが、千代の目には既に創られた世界が用意されている。自分は人が普通にやっていることができない、ひどく不安に駆られた。

 しかし、だからこそ祖父の言葉が胸に響いた。『文字は心を映し、言葉に力は宿る』彼曰く、文字は情報伝達の道具ではない、鮮やかに心情を映し出す鏡なのだ。千代は、彼もまた自分と同じような光景が見えていたのかもしれないと想像し、気が軽くなった。この『病気』も何かの役に立つかもしれない、そう感じた。


 だが、その『病気』が明るみに出てしまうことには依然として恐怖心があった。

 人はきっと自分を気味悪がって近寄ろうとしないだろう。ある事件をきっかけに幼馴染である諒と沙耶には知られてしまったが、彼らは気心の知れる仲間であり、上郷という閉鎖的な場所で同じ「鎖」に縛られた同士だ。打ち明けてしまっても問題ない、むしろこの二人には知っておいてくれた方が気が楽だった。


 だから、この三人だけでいい。三人だけの秘密のままでいい。


 なのに―――――。



 「さっちゃん」


 廊下を意気揚々と歩く沙耶の背中に、千代は声を掛ける。


 「どうしたの、千代?」

 「なんで今日、執行委員のみんなの前で私の見せようと思ったの?」

 「ええ?いつも言ってるじゃん。文字が動いて見える人、他にもいるか探したいんだって」

 「探したいって、どうして?」

 「私ね、このトヨコ―に来て色んな世界があるって知った。まだまだ井戸にも満たない大きさの水たまりかもしれないけど、世界の広さってのを感じたんだよね。だから、文字が動いて見える人って他にもいると思うの」

 「……」

 「それに、私も信じてるよ。千代のひいおじいちゃんの言葉、文字は心を映し―――ってやつ」

 「本当に覚えてる?」

 「覚えてるよ」


 窓も開いてない廊下にどこから来たのか一陣の風が吹く。


 「もしかしてさ、まだ怖いの?みんなに伝えること」

 「文字が動いて見えること?」

 「そのことと、あとは

 「さっちゃん、それは言えないよ。知られたらここに居られなくなるかも」

 

 「『鶴』なら、それもなかったことにできるんじゃない」


 千代は伏し目がちに何かを答えようと口を開く。


 「それは……」


 「なーんて、冗談よ!千代は千代らしく、自分の名前なんかに束縛されないで自由に生きてほしいわ!それこそ空に羽ばたく感じで!こうバサーって!ほらバサーって!」


 子供をあやすようにおどける沙耶。

 千代はわざと笑って見せる。


 確かに『鶴』なら不可能じゃない、何事を成すにも。自分の征く道を阻むものあればねじ伏せられる、自分を誘うものあれば説き伏せられる。それが『鶴来』の名に隠された秘密だ。

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