四文字

 背中に印字された「豊川高校野球部」の黒いスウェットを脱ぎ、制服に着替える。部室を出ると、靴の履き心地を確かめるようにつま先で地面をノックし、何度も力を入れて踏み込む。白んだ空に朝陽が顔を見せると、グラウンドで朝練を行っていた各部の部員たちが三々五々に帰ってくる。これからが学生の本分だというのに、その表情にはすでに疲れが見える。


 「ふう……」

 

 諒は部室の窓に映った自分の顔を見て、自分もその一員だということに気づいた。


 「諒、もう上がり?」


 部員の一人であるサワケンが、諒の肩をたたく。

 首筋に汗が滴っている。どうやら、校外の坂道で走り込みをしていたようだ。後ろで数人の後輩が苦しそうに肩で呼吸しているところを見ると、どうやら今日も存分に先輩風を吹かせていたことが分かる。


 「おう、上がり」

 「早いじゃん、今日なんかあったっけ?」

 「別に」

 「お前はトヨコ―の主砲なんだから、フラフラした姿……、あんま後輩に見せんなよ」

 「俺がいつウチの主砲になったんだ。クリーンナップにもカウントされてないだろ」

 「クリーンナップってのは塁上の走者を一掃できる打順のことだろ。お前の場合は単独で帰ってくるんだから主砲でいいんだよ」

 「そうか」

 「そうか……ってまたそれ空返事な」

 「そうか?」

 「いや、イントネーションで違い出してくるなよ。いいか諒、俺は本気でお前の事を主砲だと思ってんだぞ。俺が気づいてないとでも思ったか?」

 「何を?」

 「集中してる時のお前は打率十割」


 サワケンは目を細めて諒の眼と眼の間を指差す。

 諒はその指を握ると、ゆっくり相手の体に戻した。


 「それは誰だって集中してりゃそうなるだろ」

 「違うんだよ。集中……っていうか、お前から感じられる気?みたいなのが変わる時ってのがあるんだよ。そうなったらお前に打てない球はない、どんな悪球も本塁打に変えちまう」

 「サワケンお前何言ってるんだ」

 「事実そうだろ、ただお前の場合

 「補欠の俺の事いじってるな、お前」

 「マジマジ!大マジだって、少なくとも俺が見てきた中で一番バッティングセンスがある!これだけは言える」

 「分かった分かった」


 諒は足元に下ろしていたエナメルバッグを持ち上げ、踵を返す。

 足音が遠くなり、部室のドアを開く音がする。最後に何かを言いたそうにしていたサワケンだったが、大人しく部室に着替えに帰ったらしい。


 部室から猿の雄たけびが上がったのは、それからすぐのことだった。


 「うおおおおおお!!」


 一匹の猿が勢いよく部室を飛び出る。

 その猿の正体は下着だけを身に着けた一張羅のサワケンだった。


 「どうした、サワケン。後輩たちビックリしてるぞ」


 周囲を見渡すと朝練を終えたばかりの後輩たちが上がった息を整えながら、目を丸くしている。


 「やべえぞ、これは……」

 「ヤバいのはこの状況だ、とにかく服着るか部室に戻れ」

 「じゃあ、ここで着替える。田口!俺の着替え持ってきてくれ!」

 

 田口と呼ばれた後輩の一人が慌てて、部室のロッカーから着替え一式を持ってくる。


 「いや、部屋に戻って着替えればいいだろ」

 「違うんだよ、諒。事態は急を要する」

 「一体、何の話―――」

 「これだ」


 サワケンは諒の前に一枚のを突き出した。

 手のひらにも満たない大きさの四角形のメモ用紙、そこにどこかで見たような端的に書かれた文字列。


 その紙の大きさを目で確認した時点で何となく嫌な予感はしていた。

 


 *


 澤井 健 くんへ 


 あなたのことが好きです。


 放課後、第2多目的教室に来てください。


 待ってます。


 *



 「これは俺へのラブレターだろ!」 


 興奮気味に話すサワケンの鼻の下は伸びに伸びきり、ふわふわとした足取りは落ち着きがない。


 「サワケン、これは……」

 「これは正真正銘、俺へのラブレターだ。そうだろ!いやあ、俺はこういうのに一生縁がないと思ってたんよ!やっぱ見てる女子は見てんだなー!」

 「いや、これは多分……」

 「多分?なんだよ」

 「これはドッキリだと思う」

 「………諒、お前はこういう色恋に興味がないよな」

 「何の話だ」

 「でも今の答えではっきりしたぞ!お前ホントはこういう色恋に興味があって、俺に嫉妬してんだろ!」

 「そんなことするか」

 「おお?ちょっと顔が赤いんじゃないっすか!いやあ、青いっすなー、諒ちゃんは!」


 ご機嫌な様子で諒の背中を叩く。


 「うるさいな、別に俺だってラブレターくらい貰ったことある」

 「またまた……、ラブレターって言ったって子供の時母親に貰った手紙とかはカウントすんなよ?」

 「先月、後輩に貰ったばかりだ」

 「……は?いや、でもそれドッキリでしょ?」

 「それ俺のセリフな」

 「この際、……お前の話はどうでもいい」

 「誰から振った話か分かってんのか」

 「とにかく俺がラブレターを貰った、その事実には変わりない。いや、めっちゃ緊張すんな……」


 諒は再びそのメモ用紙(ラブレター)を確認する。

 これは確かに今朝、沙耶に見せてもらったドッキリの偽物ラブレターと瓜二つだ。四隅に花の画、女の子らしい字体、愛の定型文。どれをとってもあの手紙と同じに見える。


 「サワケン、お前のためにもう一度言うぞ。これはドッキリだ。その場所には行くな」

 「なんでそんなこと言えるんだ」


 サワケンは温度差のある諒の反応に気分が萎えたようだった。 


 「今日、別の奴宛てに書かれた同じ文章のラブレターを見た」

 「どこで?」

 「沙耶が今日、副委員長の沖野に書かれたを見せてくれた」

 「確かなのか」 

 「ああ、そっくりだ。それから、そういう悪戯が流行ってることも聞いた」

 「へえ……」

 

 サワケンは諒の手からゆっくりとその手紙を取ると、表、裏、と確かめる。

 二人はしばらく沈黙を続けたところで、互いに目を合わせる。


 「お前のためだ。見なかったことにしろ」

 「……」

 「それに可笑しいと思わないか?それ自分のロッカーにあったんだろ」

 「……」

 「だったら朝練の前に気づいたはずだ。その時なかったのだとすれば、お前が外で走り込みをしている最中に入れられたことになる」

 「……」

 「男の部員しか出入りしないような部室だ。普通の女子なら入ってこない」


 「あ、あの、立川先輩」


 そこで着替えを持ってきた後輩の田口がおずおずと二人の会話に割って入る。


 「俺、今日はここでずっとシューズとかグローブとか磨いてました。女子は勿論っすけど、マネージャーだって来てないっす」

 「そうか。だとよ、サワケン。誰がどうやって入れたか分からないが、少なくとも愛の告白ではないだろ」

 「……」


 サワケンはそっと目を閉じうなだれ、そのまま口を開いた。


 「諒、お前はいい加減なことを言うようなやつじゃない。だから、きっとこれは本当にドッキリのラブレターなんだと思う」

 「おう」

 「でも、俺はこのニセモノの愛に応えたいと思う」

 

 頭を上げ、力の込められた瞳が諒を見つめる。


 「ん?」

 「だってそっちの方が面白そうだろ。ここで退いたらただのマヌケだ」

 「ドッキリに引っかかれば大マヌケだぞ」

 「でも、ドッキリじゃなかったら勇者だ」

 「結局、俺の言うことは信じてないのか」

 「違う。俺は零か百に賭けたいんだよ……、だから俺は行く」

 

 サワケンの瞳には熱い闘志がたぎっている。

 奇しくもそれはバッターボックスに立ちながら投手を睨む雄姿に見えた。補欠の自分に彼の英断は理解できまいと、諒は溜息をつく。 


 「じゃあ、行ってこいよ」

 

 サワケンは拳を天に突き上げ、雄たけびを上げる。共鳴するように後輩達も揃って雄たけびを上げる。部室前の野球部がうるさいと教員から注意されるまで、は続いた。




 

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