三文字
「あれ、タッチじゃん。おはよ」
馴染みのある声で馴染みのあだ名を呼ばれ、諒は声のする方に振り返る。
「沙耶か」
上郷から下山してくる諒と鬼嶋沙耶は、こうして通学路で出会うことが度々ある。上郷は小さなコミュニティであるため、外を出歩けば必ず顔を合わせることになる。だから諒にとっては、顔なじみの沙耶が陰で『鬼』と畏怖されていることに(そしてそのことを伝えられずにいることに)もどかしさを感じていた。
「今日も早いじゃん。朝練?」
「そうだな」
「今年は県大会行けそうな……のっ!」
沙耶は諒の脇腹を小突く。
諒はその手を払って脇腹をさすった。
「行けそうじゃない、行くんだよ」
「へえ、かっこいいこと言うじゃん。言ったからには勝ってよね」
「もちろん」
「それにしても野球部ってこんな朝早いんだ、大変だねえ」
「お前も早いな」
「私?私は、ちょっとね、執行委員があって」
歯切れの悪い返事をする沙耶。
諒はそれを訝しげに見つめる。
「なんかロクでもないことでも考えてんだろ」
「いや、まあ、そういうんじゃないって」
「そういえば、町長に直訴しに行ったらしいな」
「ええっ……?なんで知ってんの」
「
先日サワケンに聞いた噂が本当かどうかを確かめたかった。沙耶の反応を見ればそれが真実だということは言うまでもない。
「まあね。何事も機を見るに
「じゃあ、今日も学祭のことか?」
「いんや、今日は違う。ちょっとね、犯人捜しを」
「犯人捜し?」
「そう。ちょっと良くない噂を聞いてね、執行委員としては見過ごせないというか」
諒の心臓が跳ねた。もしや、『鬼』と揶揄されている噂を聞きつけて、その報復をしようと企てているのではないか。
「噂って……」
「なんか、告白ドッキリ?が流行ってるみたいなんだよね」
諒は胸を撫で下ろす。
「貴方のことが好きです。どこそこで待ってます。……みたいな手紙を入れておいて、本人は来ずに放置するっていうものらしいんだけど」
「それドッキリって言うのか?ただの嫌がらせだろ」
「そう、恐らく同一犯の仕業だと思うんだけど、書いた本人が出て来ないから分からずじまいなんだよね。もう今年に入って五件」
「それって執行委員が解決することか?」
「その五件目の被害者ってのがウチの副委員長なの。バカだよねー」
執行委員の副委員長と言えば、学内では有名なおしゃれ番長で、豊高随一のファッションリーダーである。パーカーや色物のカーディガンの着用許可を求め、教諭陣と風紀委員を相手に激しいデモを行っていたのはあまりによく知られた話だ。色めきだった学園生活に思いを馳せている彼ならば、そんなウソの告白に引っかかったとしても不思議ではない。
「でもこの事件も今日で終わり。最強の助っ人を用意してるから」
「助っ人……ってまさか」
「そう、ウチの可愛い可愛い千代ちゃん!」
諒にも分かっていた。沙耶が彼女の名前を挙げる前から千代の顔が思い浮かんでいた。この事件を解決できるのは彼女しかない、数少ない上郷の後輩、『鶴』と呼ばれる女生徒―――鶴来千代、その人しかいない。
「適材適所だな」
「でしょう?私ってホント天才よね」
「で、モノはあるってことなんだよな」
「もちろん。コレよ」
*
沖野 啓二くんへ
あなたのことが好きです。
放課後、第2多目的教室に来てください。
待ってます。
*
四隅に花柄がプリントされたメモ用紙、そこには慎ましやかに恋が語られていた。ハートマークの一つもない質素なラブレターだが却ってそこに本意気を感じさせる。字体は見る限り女子生徒が書いたもののようである。その気になれば男でもこんな文字が書けるだろうが、それにしても特徴を捉えすぎている。払いがしっかり払われておらず、曲線にやや丸みを感じさせる。止めは執拗な筆圧で止められ、字間のバランスには余分な余白が目立つ。
「書いたのは女子だろうな」
「恐らくねー、まあ男子だろうが女子だろうが千代の手に掛かればすぐに分かっちゃうんだろうけど」
「そうだな。このこと千代には?」
「昨日、家まで行ったんだけど
「
沙耶は突然その場に立ち止まり、目を丸くする。
「うっそー!人成さん帰ってきてるの?」
「知らなかったのか」
「知らないわよ。へー、アメリカから……そっか、いつまで?」
「知らん。自分で聞け」
「また挨拶行ってこよ」
鶴来人成は千代の実兄で、諒にとっては小さいころからの幼馴染であり、上郷の分校に通っていた頃からの先輩になる。高校卒業間もなく実家を飛び出し、アメリカに行ったと聞いた時には大層驚いたが、彼の能力を考えれば頷ける部分は多い。上郷という狭い世界においても鶴来人成の存在は異質だった。常にステレオタイプと正反対の頂に立ち、「神童」「偉才」どんな言葉を当てはめても枠にはまらない知識人だった。
「今更だけど、あの兄妹の名前ってすごいよね」
「鶴来人成と鶴来千代……、言われてみればな」
「でももっとすごいのは二人とも名前負けしてないってことだけどさ」
沙耶の言った「名前負け」が姓と名のどちらを意味していたかは深く掘り下げない。
二人につけられた名前にはきっとそれぞれ立派な意味が込められているのだろう。しかし、上郷の人間にとってはその名以上に姓に異常な重みを感じる。『
「あーあ、私もかっこいい名前欲しかったなあ」
「今のままで十分だろ」
「もっと強そうな名前がいい」
「鬼より強い名前があるか」
「あ!ねえ、神嶋とかどう?全知全能の存在ってよくない?」
鬼に勝るのが神というのはなんだか稚拙に感じるが、沙耶の楽しげな表情を見ているとこれ以上茶々を入れるのも野暮に感じられた。
「いいんじゃないか。俺の名前よりは強そうだ」
「……」
沙耶はじっと諒の瞳を見つめる。
「どうした」
「タッチの名前も強そうだけど」
「どこがだ」
「強さ……っていうよりは、知的な強さ?」
「嘘だろ。お前、俺よりずっと頭いいじゃねえか」
「それもそうだけどさ…。気のせいかな……」
沙耶は一人首を傾げると、その拍子思い立ったように親指と人差し指で諒の額にデコピンをくらわせる。
「いっ、おま―――」
「ばーか、ボーっとしてるからよ。じゃ!」
手を振りながら颯爽と去っていく沙耶の背中を睨みつける。
デコピンは会話の着地点を見失った時にする彼女の癖だ。聞けば気まずさを隠すために思わずしてしまうのだというが、今の会話のどこに気まずさを感じるというのだろうか……、諒は眉をひそめながら再び学校へと歩を進めた。
*
「あれ、千代じゃん。おはよ」
教室の引き戸を開けると早々に友人から声を掛けられた。
千代は眠たい目をこすりながら、あくびを口内でかみ殺す。
「ふむぅ……ん、おはよう」
「千代さん眠そうっすねー」
「昨晩遅くまでテレビ見てて」
「へえ、千代でもテレビとか見るんだ」
「見るよ。私ってそういうイメージ?」
「なんか噂ですごいお嬢さまって聞いたけど。家にメイドとか執事とかいて、休日はパイプオルガン引いたり、イギリスの古書を読みふけってるって」
「誰が言ったの、それ」
「さあ?うちのクラスの子だったかもしれないし、隣のクラスの子だったかも」
「つまり、風の噂ってこと?」
「そうとも言うっす」
千代は自分の家が普通でないことは自負していたが、少なくともそんな欧風貴族みたいな暮らしをしているつもりはなかった。家には老いた祖母と更年期の母がいて、休日は適当にアップライトピアノの前に座って、英語の単語帳を片手に持っているだけだ。
「噂って怖いねー」
「あれ?あんまり気にしない感じっすか?」
「だってその噂がホントかウソか、私は知ってるもん。それで十分」
「うーん、そういうもんかな……。アタシだったら火消しに躍起になるけど」
「えー、それほどのことじゃないでしょ。変わってるね」
「変わってる?」
友人の言葉が尻上がりに固まると、千代は首を傾げた。
「どうしたの?」
「千代に変わってるなんて言われたくないよ。本当は……、言おうかどうか悩んでたけど、千代って相当変わってる。ここだけの話、学校じゃかなり有名人だよ」
「私が?私、何かしでかしたっけ?」
「伝説その一、現国の斎藤先生に自習時間を設けるよう進言したこと」
現代国語の斎藤先生はこの道三十年のベテラン男性教諭で、生徒の勉強に対する姿勢や態度に厳しいことで知られている。斎藤先生は過去に担任したクラスで、自習をさせていた生徒たちが目を離した隙に教室を飛び出して遊んでいたことが発覚し、それからは余剰時間が出ないように厳密な指導計画を組むようになったという。
そんな教員に向かって、千代は「授業進度が速すぎるのでテスト前は自習の時間をください」と言い放った。
「だって、あれはみんな言ってたし。一応、室長の私がと思って…」
「みんな文句言ってたけどさ、でも本当に言うとは思わないじゃん」
「でも斎藤先生、許してくれたよね」
「そこが一番伝説」
「一番伝説?どういう意味?」
「伝説になるくらいすごいってこと。あの斎藤先生を落とせるなんてすごすぎるよ、先輩みんな言ってた」
千代は口を曲げて不思議な顔をする。
それのどこが「変わっている」と言うのだろうか。私は言いたいことを言って、先生がそれをすんなり聞いてくれただけのことだ。何も変わっていない。
「伝説その二、場が荒れると言われる
「……それは、私関係ないよね」
「生徒会会議は今まで何回あった?」
「月一回で四月から数えると……、五回かな」
「その五回の勝率は?」
「勝率?」
「毎回議題があって多数決取るでしょ?自分が票を入れた方の勝率は?」
「えー、そんなの覚えてないよ」
「五戦五勝だよ、千代」
千代は両の手を開く友人の指の隙間から、彼女の顔を覗く。
「なんで覚えてるの?」
「千代がクラスの
「たまたまでしょ。ほら私って大衆の意見に賛同しやすいし」
「いや一度、一年の持ち込みで千代が議題に挙げたこともあったじゃん。あれは先輩たちに
「あれも私は民意に従っただけで…」
「でも普通一年の意見なんて通らないって」
「そうかな…、そんな殺伐とした会議には見えないけど」
「千代に発言力があるからだよ」
友人の表情を見ると、すっかり人を論破したような勝ち誇った顔をしている。
「で、その二つだけ?」
「他にもたくさんあるよ。でもこういうのは小出しにしていかないと、伝説は現在進行形なんだし」
「どういう意味?」
「きっと今の数ある伝説に勝る伝説がこれからもっと出てくるってこと」
「それってつまり、今話せるような大したものがないってことでしょ」
「まあ、ね。まだ一年生だし。期待値も込みってことで」
「なんの期待値……?」
千代は呆れ顔で溜息をつく。
その溜息はこれ以上この話に付き合っていられないという意味と、今日も長い一日が始まるという意味が込められていた。苦手な英語のノートを手にするとどうも気が滅入ってしまう。
ふと隣の友人に目を遣ると同じように、机の引き出しから取り出したノートを手にしながら難しい顔をしていた。
「どうしたの?」
「いや、このノート知らない人のだ…」
「知らない人の?」
赤いパッケージをした一冊のノート、パラパラと中を見る。
「うん。国語のノート、名前は……、書いてないなあ。千代の?」
「いや、私じゃないよ。昨日、移動教室でこの教室使われてたから、その時座った人のかもね」
「なるほど。誰のだろ、多分一年の誰かなんだよね」
千代はそのノートをじっと見つめる。
一つ瞬きをすると、
「んー、ちょっとよく見えない」
「千代?」
「それ中身見せてもらっていい?」
「いいけど…、やっぱり千代のだった?」
千代はノートを手にし、一ページ目の文章を上から下に眺める。その瞳が横に縦にひとしきり動き、最後に宙を見上げて数秒。
「……」
「千代?」
「……」
「やっぱり自分のだったけど、言い出せずにいるとか?」
「……いや」
千代は頷くと、澄んだ瞳を友人に向ける。
「これD組の花山さんのだ」
「は、花山……って
「知り合い?」
「知り合いじゃないけど、同じ祇中だったから知ってる。ちょっと派手な感じの子でしょ?」
「そっか、じゃあ渡しといてよ」
不思議そうな顔で千代からノートを預かると、再びページをめくりながら中身を確認する。
「なんで?なんで分かったの?名前書いてあった?」
「いや、書いてなかったよ」
「え、ホントに花山莉子に渡していいの?」
「いいよ。だってその字、その花山さんが書いたみたいだし」
「文字?」
ノートに書かれていた文字は全体的に丸みを帯びていて、明らかに女子が書いたように見える。しかし、これが花山莉子の文字であることを断定する要素は見当たらない。
「やっぱり、千代って変わってるよ…」
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