二文字
『文字は心を映し、言葉に力は宿る』
これは考古学の権威であった私の曽祖父、
「文字」は描いた人の心情を最もよく表し、「言葉」は世を動かす無限の可能性を秘めている。
私が彼のことを知ったのはまだ小学生でもない幼い頃のこと、当時、K大学で教鞭を振るっていた私のおじいさんが折に触れて話してくれた。
ただ当時の私はと言うと、このおじいさんがあまり好きではなかった。
昔から人一倍好奇心の強かった私は、よく大人を捕まえては「これは何だ」とか「どういう意味だ」とか聞いて回る困った子供で、自分の知的好奇心を満たしたい駄々っ子であった。またそれに周囲の人間が付き合ってくれたことも、私のそうしたわがままに拍車をかけていた。
しかし、おじいさんは違った。彼はいつも私の疑問にピシャリと叱りつけた。
『考える努力を怠るな』
いつもそう言うばかりであった。
ただ、その時だけは―――ひいおじいさんの話をする時だけは違った。彼の話について分からないことがあれば何でも答えてくれた。会話が弾んだ。私が聞くよりも前に、おじいさんは私の聞きたいことが分かっているようだった。ひいおじいさんの人生、考え、価値観、全てが私の頭を駆け巡り、鮮明に記憶されるようになった。
彼について知りたいのであればと、おじいさんは柱のような山積みの本を私の部屋に持ってきてくれた。おかげで私の部屋は少しかび臭くなったけれど、いい退屈しのぎにはなった。
親の意志は子に継がれ、そして子の意志は孫に継がれた。
私の父も彼らと同じくして、言葉の研究の道へと進んだ。中国の古文字学に熱心で、主に秦代の篆書を研究しているらしい。私なんかが見たところで何が書いてあるのか分からないし、その魅力もいまいち伝わってこないけれど、父にとってはとても精が出るらしい。新たに出土された竹簡なんかを見ていると知的興奮を覚えるそうだけれど、私は変態のそれに近いと思っている。
ただそんな父も業界では若手のホープで、数ある賞を総なめしている。その腕を買われてか、日本でその名を知らぬ人はいない、かの有名なT大学で準教授を務めている。そんな父を誇らしくは思うが、あまりに遠い存在ゆえにその実感もない。ましてや、東京とこんな西国の片田舎では耳触りの良い噂も届かぬものである。そういうわけで父とはここ一年ほど顔を合わせていない。よほど研究が忙しいと見える。
そして孫の意志は曾孫の私へと受け継がれ―――――――るかどうかはこれからの私の気分次第だ。別にそうした世界に興味がないわけではない。ただ私がもっとも懸念しているのは、やりたいことが見つからないから、とりあえずご先祖様の後を追ってみようかという考えに落ち着いてしまうことである。「なんとなく」とは文字通り、「何かあるわけでなく」そうした行動に怠けてしまうことである。
親が何と言ったって私は自分の考えを貫く所存である。
そう、この兄のように――――――――。
「千代、悪いんだけどリモコン取ってくんない?」
私は畳の上で寝そべる兄を怪訝な目で見つめる。
「何だよ」
「いや、兄さん暇そうだなあと思って」
「いいだろ。せっかくの休暇なんだから休ませてくれ」
「頑張って勉強してる妹の横でテレビなんて見ないでよ」
私は手元の参考書の上にペンを置き、ふて寝を決め込む兄にそんな言葉を浴びせる。
「だったら、自分の部屋で勉強してくればいいだろ」
「私はリビングでやる派なの!」
「お前な……」
「早く宿題終わらせたいし」
私は再びペンを手に取る。兄は体を起こすと人差し指を上に指す。
「千代、こんな言葉があるんだ」
「何?」
「”Haste makes waste”.」
私は反射的にテレビに視線が向いた。母がよく教育テレビで英語を勉強しているので、聞き慣れない言葉を聞くとついテレビを確認してしまう。自分が勉強したことのない単元だと、特にだ。
「し、知ってるよ」
急いては事を仕損じる、確かそんな意味だったような気がする。
兄の流暢な英語に一瞬驚いたが、それも数秒の間である。彼の経歴を考えれば、何分おかしなことはない。イ草の香りが立ち込める土壁の部屋に、日中から寝転んで穀をつぶしているこんな人間だが、積み上げられているキャリアが違う。
彼はアメリカのとある一流工科大学で機械工学を学んでいる身である。進路について周囲からうるさく言われたのが癪に障ったのだろう。高校を卒業後、周囲の反対を押し切り、単身アメリカへ飛び立ってしまった。そこで彼が何をしていたのか分からないが、その一年後、合格通知を持ってひょっこり帰ってきた。
そんな彼を見て家族はどう思ったのだろう。少なくとも私は再会した喜びも驚きも刹那に消え、突如、兄の存在を大きく感じた。父のように、祖父のように、そして―――――曾祖父のように。
私は彼らと肩を並べられる人間になれるのだろうか。そんな焦りがないかと言えば嘘になる。私は家の軒先で揺れる提灯を眺めながら短くため息をついた。
「じゃあ、気楽にやれよ」
「兄さんに私の気持ちなんか分かんないよ」
「なんだそれ」
「分かってほしくもないし」
「…………思春期か?」
兄さんは微かに口角をあげて、面白いものを見るような目で私を見てくる。
「思春期……なのかな」
「変なやつ」
「兄さんに言われたくない!」
何だか勉強をする気もすっかり失せて、私は立ち上がり玄関へと向かった。鼻緒の切れかかった下駄を履いて外に出る。容赦ない直射日光が私めがけて降り注ぐ。紫外線の一本一本が肌に突き刺さり、染み込んでいく。それでも私は目を瞬かせて前へと進む。
軒先の提灯が揺れる。
その提灯を彩るは『鶴来家』の家紋。
たおやかに川辺に立つ鶴を模した絵柄と、全てが一筋の糸で出来ているような字で出来た鶴来家の家紋が私の目前にふんわりと降り立ってくる。比喩ではなく、確かに羽音一つ立てず降り立ってくるのだ。そして文字は一つずつ鶴を模した生物を象っていき、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。私はその鶴の首を顎部から順につつつと撫でていく。鶴はおよそ本物のそれのように私の手を避け、不可触の神のように気丈に振る舞う。まるで「未熟者のお前ごときが触れるな」とでも言うようだ。私はその言葉をくみ取り、家の外へと出て家を取り囲む石垣の上に座り込む。
やはり、この瞬間だけは慣れない。
だが、もし曾祖父が生きていたらぜひ伝えたい。
―――――――文字は確かに生きている。
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