一文字

 この学校には「鬼」と「鶴」がいる。

 誰かが興じた言葉遊びは、生徒の耳と口を往来しながら、現実と認識されるようになった。先輩から後輩に、友人から友人に、生徒から教員に、「鬼」と「鶴」に古くから逸話が伝わるように、それらは畏怖すべき者として語られた。


 そして今日も「鬼」でも「鶴」でもない人間たちが教室の片隅で囁く―――。



「話聞いてたか?」

「……おう」

「お前さあ、その感じは聞いてなかったろ?空返事してんなあってのが分かりやすいんよ、りょうは」

「そうか」


 立川たちかわりょうは立ち上がってその場を離れようとするも、しっかりと服を掴まれる。


「おい、諒どこ行くんだよ」

「昼飯」

「バカ、まだ三時間目だぞ」

「知ってる」

「あ、俺の話がつまらないからって逃げようとしてるな?」

「おお」 

「お前な……、いいからまず座れ」


 諒の周囲の人間は彼の性分をよく知っていた。図体の大きい人間は、脳と体をつなぐ神経が長く情報の伝達速度が遅いため、どことなく気の抜けた人間であるという何の根拠もない偏見がある。背が高くても機敏に動くアスリートがたくさんいれば、上背のしっかりした頭の切れる官僚だっている。しかし、そんなどうしようもない偏見を体現したのがこの男、立川諒だった。


「今回の話はきっと伝説になる。豊高トヨコ―の歴史が変わるんだって」

「どういうことだ?」

「去年の学祭、覚えてるか?」

「なんとなくな」

「去年は二日間の開催だったろ?あれがなんと今年は三日になるかもしれないって噂なんだよ」

「へえ」

「なんだ、興味なさそうだな。自分の学校の話だぞ?」


 県立豊川高校、県が出資して創立した豊川地区の高等学校―――――特筆することのない平凡な高校である。山に囲まれたこの豊川町では齢十五ばかりの受験生たちには選択肢がない。つまり、近辺の三つの中学校が合体したような形で創られた、もみんな仲良く通ってくるような学校であった。

 そのため、「どこ中?」と聞くのがこの学校の慣例的な挨拶となっている。答えは自ずと「祇王ぎおう」「五条ごじょう」「飾場しかば」の三つになるのだが、それぞれの頭文字の読み方が「」「」「しょく」と三国志を連想させることが古くから笑い種になっていた。


「あの学生生活最大の祭典だぞ。ワクワクするだろ」

「そうだな」

「はい出ました。空返事」

「仕方ないだろ。サワケンの話は回りくどいからな」


 諒は再び腰を下ろすと、わざとらしく溜息をついた。


「分かった。そこまで言うなら結論を先に言おう。なんでこの俺が貴重な休み時間を割いてまで流行に鈍いお前にこの我らがトヨコ―の伝説を話そうと思ったかを、つまりソレハコノトヨコ―ノデンセツガ―――」

「いや結論言えよ」

「わざと長ったらしく言ったんだよ。もっとバシッと突っ込んで来いよ、バシッと!」

「そういうのいいから」

「分かった分かった」


 サワケンは静かに息を吸い込む。

 唇がすぼみ、空いた口腔の影が円形になる。



「『鬼』の仕業だって話だ」



 またその類の話か、と諒は窓の外の景色に目を遣った。


「お前あからさまに無関心を装うな」

「好きだな、昔話」

「おい誰も桃太郎の話なんかしてないぞ。この学校で『鬼』って言ったらあの人しかいないだろ―――鬼の委員長、鬼嶋きじま沙耶さや


 諒は鬼嶋沙耶のことをよく知っている。彼女のことをよく知っているためにこの類の話には無関心を決め込むほかない、それが彼女のためだと分かっていた。

 伝説とは誰かから聞いた言葉を誰かに伝えるから語り継がれていくのではない、誰かから聞いた言葉を自分のうちに噛み締めてそれを真実と認識するから語り継がれてしまうのだ。つまり、彼女の為にこの噂が広まらないようにするには無関心でいるしかない―――諒は伝達速度の遅いシナプスを活性化させて、現状をそう把握した。


「諒、お前がいつもこの話に興味がないのも分かってる。ただ聞いてくれ、今回のはマジ凄いから」

 

 諒にとって問題なのはその話が興味を引くかどうかにはないが、その熱気を帯びた口調のサワケンを無下に扱うのもいかがなものかと耳と口を窓の外に残し、視線だけを彼に向けた。


「豊高祭ってさ、いつも二日目に一般公開してるだろ。ただそれも平日開催だったし、保護者とかその辺に住んでる爺ちゃん婆ちゃんばっかり来てて何かこう…、味気なかったんだよな。そこで鬼の委員長は、三日開催にして内二日を土日にしようっていう案を考えた。そうすれば町外の人たちも集客できるだろ?」


 サワケンは真っ直ぐにピッと人差し指を立てる。


「ただ鬼の委員長の本当の狙いはそこじゃない。三日開催にするってことはそれだけ授業計画も圧迫され、つまりどこかでしわ寄せが来るってことだ。ということは数ある学校行事の中でムダなものが廃止されることになる。そしてその中で必ず議題に挙げられるのがだ」


 冬の豊高マラソン大会は毎年一月の末日に行われ、数百人にも及ぶ生徒たちが豊川町を縦断するという名物行事である。しかし、昨今は大学進学を選ぶ生徒が増え、受験真っ只中の学生諸君には甚だ迷惑なお荷物行事と化していた。また受験生を抱える保護者から声が上がり三年生の参加は自由とされたが、未だ強制参加を強いられている下級生からもドミノ倒しの様に反対の気運が高まっていた。


「でも、そんな簡単に三日開催にはできないだろ。いくら生徒会長と言えど、先生たちも取り合ってはくれないからな。そこで、鬼の委員長は思い切った行動に出たんだ」

「……」

「町長に直訴しに行ったんだってよ」

「直訴?」


 諒は思わずサワケンに問い返す。


「お、やっと食いついたな」

「いいから、続き」

「きっとこの件で黙ってないのは先生たちでも教育委員会でもない、町長なんだよ。ほら昔はさ、トヨコ―のマラソン大会ってここらではちょっと有名だったろ?テレビ局なんかが毎年押し寄せてさ」

「ホントに昔の話だろ」

「でもそういう過去の栄光に縋り付いてたんだよ、町長は」

「待て、確か町長って…」


 長きに渡って豊川町の自治を担っていた前町長は持病の腰痛が悪化し、これ以上は公務に専念できないと昨年辞職を表明した。同年選挙が行われ、町議会議員を務めていた前町長の息子が当選したことはまだ記憶に新しい。


「だからだよ、あの二世町長って新しいことやりたがってるだろ。その勢いに乗じれば、間違いなくあのマラソン大会を撤廃できる。そう考えたんだ」

「それホントなのか」

「言っとくけどこれは確かな筋だ。それに『鬼の委員長』だぞ、これぐらいのことはやってのけるだろ」

「………そうか」


 諒は鬼嶋沙耶がそれほどのことをする人間だということを知っている。彼らの噂話を集めて作り上げた『鬼嶋沙耶』も、本当の『鬼嶋沙耶』も遠目にはきっと違わない。しかし、彼女を近くで見てきた諒にとっては、彼女が『鬼』と言われることに対して言いようのない感情にさいなまれることがある。『鬼』と言われて嬉しい女子がいるものか、そんな無用な正義感に。


「けど、鬼の委員長も去年まではそんなに注目されてなかったのにな。最近やたら耳にするんだよな」

「一年の時は委員長じゃなかったからじゃないのか」

「いや俺には分かる。ああいう人種の人間は昔から少なからずそういう逸話を持ってる」

「そういうもんか?」

「そういうもん。で、とにかくよく聞くんだよ、委員長の伝説」


「アンタ知らないの?」


 腕組みをした女子生徒がにんまりと怪しい笑みを浮かべる。


「影井じゃん、何か言った?」

「また『鬼』の話してたんでしょ」

「ああ」

「アンタまだ最新のトレンドを追ってないのね。今はコレよ、コレ」


 影井美香は腕組みを解いて、指先を一点に集めた手を口元に持っていく。


「何だそれ、鳥?」

「『鶴』よ」

「鶴?鶴が何なんだよ」

「本当に怖いのは『鬼』じゃない、『鬼の委員長』の懐刀と言われてる『鶴の室長』なのよ」


 サワケンは眉をひそめ、諒に視線を移す。

 諒はその件には関わらないというようにそっぽを向いていた。


「今年入学してきた一年生の鶴来つるぎ千代ちよって子のこと。一年A組の室長をやってるから、『鶴の室長』」

「それの何が怖いんだ」

「サワケン、『鬼』が権力を振るってる場所ってどこだと思う?」

「……地獄?」

「大喜利やろうっていう訳じゃないわよ」

「冗談だって、そりゃあ執行委員の会議じゃないの」

「そう、その場には必ず各クラスの室長が出席する。そこでは勿論、『鬼』の意見に反対する者もいる。でもどれだけ『鬼』が劣勢に立たされていても、そこに『鶴』がいれば必ず意見が通るって言われてるの」


 影井は手で作ったくちばしをパクパクと開く。


「実は陰で『鬼』を操ってたりとか?」

「そういうこともあるかもね」

「どこの情報だよ、それ」

「会議に出席してる新聞委員ウチの委員長が言ってるんだから間違いないわ」

「へえ、それが本当だとしたら確かに怖いな」


 サワケンは身を震わせながら、再び諒に視線を向ける。


「諒、聞いてた?怖くね?」

「……」


 諒はやはり窓の景色から目を離さなかった。


「それにしても、その鶴来千代って子もスゴイな。一年生なのに、あの『鬼』と並んで噂されるなんて」

「アンタどこちゅう?」


 影井がこの学校で使い古された月並みな問い掛けをする。

 

「俺?五中だよ。なんで?」

「五条?アタシは祇中だけど、祇王では前から有名だったよ。バドの試合とかで活躍してるの見てたし」

「その鶴来って子、祇中なの?」

「違う違う。他校の合同試合で見たことあるの」

「じゃあ、どこ中よ。飾場?」


上郷かみさとよ」


 サワケンは唾を飲み込む。

 

「マジ?上郷?じゃあ『鬼の委員長』と同じじゃねえか。なるほどねえ、そりゃあ『鶴』なんて呼ばれても可笑しくないわけだ」


 「祇王」「五条」「飾場」これらは広大な敷地面積を誇る豊川町を三分する中学校で、「上郷」は人里離れた渓谷地帯にある。三国志でいうところの魏呉蜀で例えられる三者に対し、その北方に位置する上郷の彼らは匈奴や鮮卑などと揶揄されてきた。

 かつて多くの人々は、長い道のりを経て下山してくる上郷の人間に畏怖や敬愛の念を抱いていた。北方の異国から野越え山越えしてくる民族に彼らを重ねるのも無理はなく、事実、豊川町と合併するまで長らく親交はなかった。開発の進む昨今こそそのような意識を持つ人々は減ったが、しかし根底では未だ彼らに対するわだかまりを感じているのが現状であった。


「『上郷の鬼』と『上郷の鶴』、今年はこの二人が台風の目になるかも」

「台風の目って……大げさな。どうせ新聞委員の委員長の受け売りだろ」

「へへ、バレた?とにかく『鶴』の動向にも注目して。そして私に情報ちょうだい」

「俺の情報は高くつくぞお?」

「アンタじゃないわよ、立川に言ってんの」

「諒に?なんで、諒はそういうの興味ないだろ」


 サワケンは変わらずそっぽを向く諒の肩に手を置く。


「サワケン知らないの?この学校に在籍してる上郷分校の出身」

「さあ?」

「この学校の上郷出身者は三人、鬼嶋沙耶と鶴来千代、最後の一人がそこにいる立川でしょ」

「え、諒……お前上郷だったのか」

「………」


 この学校には「鬼」と「鶴」がいる。

 そして彼らとともに生きてきたがいる。

 伝説にもならない、噂話にも上らない、ただ彼女らを見守り支える存在。

 

 鬼だ鶴だと言われる彼女たちだが、その名前には秘密がある。

 上郷の人間だけが知っている秘密が、そして三人だけが知る秘密が。

 


 

 

 

 

 


 

 

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