25限目 独白と恒例のハプニング

 彼女の肩に置いた俺の手のひらからは、張り詰めたものが伝わってくる。

 理屈ではない。これは受け止めてやるべきだと、本能がそう告げるのだ。


「もうちょっと、このまま」


「…ああ」


「怒らないで」


「…怒らないよ」


「ホントに?」


「本当に」


 そう言ってしばらくは、無言だった。美月はゆっくりと深呼吸して力んだ体をくつろがせようとしていた。最初のうちは息を吸う度に小刻みに震え、緊張が直に伝わってきたが、だんだんとリラックス出来てきたのか肩のこわばりも無くなり、腿に伝わる彼女の重さも増して行った。気がつけば、俺は空いた右手で彼女の頭を撫でていた。


 どれくらい時間がたっただろうか。時計は12時を指していた。中途半端な時間に間食したのでお腹は全然空いていない。そう言えばお昼ご飯のプランを全く考えていなかった。そんな事を考える余裕が出来た頃だ。


「…ありがと、センセ」


「ん?」


「なんかごめんなさい」


「何が?」


「うん…なんか…」


「いいよ、別に。きにすんな」


「うん」


「昼飯、どうしよっか」


「んー。センセ、お腹減ってる?」


「いや、そうでもない」


「そっか。わたしも」


「んじゃ後で考えればいっか」


「うん」


「帰る時間、親には伝えてある?」


「ううん」


「門限とかあるのか?」


「ないけど…いつも八時までには帰ってるから」


「そっか。まぁそこまで遅くなることはないだろう。じゃあお昼の時間も後でいいね」


「そだね」


 そんな取り留めもない話をしていた。


 ここまでで、なんとなくではあるが、彼女が悩みを打ち明けてくれる気があるのだと察していた。この会話はそのためのつなぎだ。彼女が自分で口を開くまで、俺は待つだけ。


「ねぇセンセ」


 そしてその時は訪れた。


「美保センセーから、聞いた?」


 美月は変わらず膝枕で、俺に背中を向けている。彼女の表情は見えない。


「ああ、聞いたよ」


「何聞いたの?」


「…お前が遅れて登校している事」


「他には?」


「……お前が痴漢にあったこと」


 美月はそっか、と言って、深呼吸した。その呼気は重く、しかし覚悟のようなものが混じっている。


「…チカン、ってさ。やられると声が出ないって言うけど、アレ、本当なんだね」


 俺に返す言葉はない。


「最初は、なんか触られてるのかな?って感じで。我慢してれば終わるかなって、それくらいだったの。だけどね、駅についたらさ、壁の方に押しやられちゃって。なんかそっから、スカートの中に手入れてきてさ。おしり、鷲掴みみたいな感じで。ぞぞぞって来てさ。本当、声出なかった。なんで私、触られてて嫌なのに、嫌って言えないんだろうって。まるで私が許してるみたいじゃんって。向こうは辞めないし。やっとさ、目の前の扉が開いてさ、やった、これで助かるんだって思ったら、今度は後ろから強く押されて、出るなりこけちゃって。振り返ったら、沢山の男の人達がすぐ脇を通り過ぎていって、みんな私を見下ろしてた。なんだこいつ邪魔だよ、って感じの目。え、私がわるいの?って。すっごい悔しいなって思ったんだよね。何いいようにやられてるんだって。でももっと許せないのは」


 彼女が俺の手を握り返した。


「そんな程度の事で怖がってる自分なの」


 腿に冷たいなにかが染みてくる。鼻水をすする音が、部屋に響いた。


「別にさ、大人になればきっとそんな事、平気になるんだろうし、好きな人の前じゃ裸になったりするんでしょ?わかってる。わかってるんだけど。電車にのるとドキドキするの。席に座れれば大丈夫なんだけど、立ってて人がいっぱい来ると、すごい心臓ドキドキして、気持ち悪くなって、肩が震えるし、フラフラするの。それを我慢してて、もし、もし油断してる時に痴漢されたら、今の私は抵抗できるのかなって思うと、怖くてしょうがないの」


 腿に顔を埋め静かに泣く。俺のズボンを軋むほど強く握りしめたその手。


 こういう時、俺はどうしていいかわからなかった。男だから痴漢の恐怖はわからない。年頃の女の子に向ける体のいい言葉を俺は持ち合わせて居なかった。


 教員免許を取得し、白鷲高校に努めて三年。一貫して担任を持ってこなかった俺は、そういう繊細な年頃の相談を受けたことがない。俺自身学生時代、内側にこもるタイプだったから相談を持ちかけた経験も無い。そもそも俺には、真剣に悩むべきものが無かったし、あったとしてもそれを持ちかける勇気は無かっただろう。


 しかし、美月は俺を信頼して打ち明けてくれているのだった。自身を傷つける原因となった同じ性別の、俺に。


 --------


 しばらくはそうしていたと思う。


 時刻は12時40分。


「…トイレ行きたい」


 急に彼女がむくっと起き上がった。顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。あまりのひどい仕上がりに思わず笑うと、もう、と言って俺の肩を叩いた。


「キッチン横の扉な」


「いってくる」


 そう言って彼女が立ち上がろうとしたその時だった。ソファのクッションが崩れ、足をおろした美月のその下に入りんだ。バランスを崩した美月がとっさに俺のTシャツを掴み…


「きゃっ!」


「あぶなっうおっ!ったー!!!!」


 俺はスポーツ実況のようなテンションの声で叫んだ。


 ドサ。ガッシャーン。


 そして俺たちは派手に転倒した。


 テーブルの脇、沿うようにして仰向けで倒れる俺と、それに覆いかぶさる美月の図があった。押し倒している構図である。


 しかしそこに色気がないのは、美月の頭に降り注ぐ紅茶がそのまま俺の顔面までしたたっていたからだ。転倒した際テーブルに身体を引っ掛け、残った紅茶が二人の頭に降り注いだという訳である。


「…さいあく…」


「平気か」


「怪我はない…痛くない…でも髪が…」


 後頭部から降り注いだ紅茶はハーフアップの縛り口に注がれ、髪の毛はべったべたになっていた。縛りを解くと、襟足からひたひたとしたたり落ちている。


「よかった、怪我がないなら」


 ちなみに転倒する際、彼女の膝が俺の股間にクリーンヒットした。俺は全く無事じゃないが、シチュエーション的に痛みを堪えるしか無かった。ああ、痛い。お腹いたくなってきた。…すまん母さん。孫の顔は見せてやれないかもしれねぇ。


 だが死んでも顔には出さん!!


「シャワー浴びてきな」


「え…」


「その状態じゃ帰れないだろう。ワンピースにも、ほらついてる。今から洗って干せば帰りまでに間に合うだろう。貸してご覧」


 その言葉に目を丸くしたとおもったら顔を赤らめている美月。


 早く風呂に向かえばいいのにと思っていたら、意を決したように膝立ちして、腕を交差してワンピースの裾に手を伸ばした。俺がその行為の意味に気が付いたときには既におへその当たりまでそれがたくし上げられてしまっていた。


「わーちょっとまて!」


 俺はその腕を強引にさげ、もとの状態に戻す。彼女は「?」といった感じだが、俺が風呂の方を指さすと「かぁああ」と音が聞こえるくらい真っ赤になって座り込んでしまった。


「あそこ開けると洗濯機あるから!ね、突っ込んどいてくれれば洗うから。何もここで脱げって意味じゃないから!」


「そ、そーだよね!貸してっていうからなんか…あはははは」


「ごめん、俺の方こそ言い方悪かった!さ、早く行くんだ!お湯はひねればでるから!トイレも同じ所にあるから!」


「うんわかった!行ってくるね!あ、しゃ、シャワー借りるね」


 そういって駆け出していく彼女に、はっと思い出して声をかける。


「洗濯機の横にカゴあるから!洗うものは洗濯機!脱いだものはカゴね!カゴの中はみないから!」


「ワンピースは洗濯機ね!わかった!じゃあ行ってきます!」


 そういって扉が閉まると、ガサゴソと音が聞こえてくる。今さきほど眼前に飛び込んできたおヘソが脳裏に浮かぶ。そしてその下には…


「白か……」


 中扉が閉まる音と同時にシャワーの音が遠く聞こえる自室。自室に居ながら、一人なら絶対に聞くことのないその音に、俺は余韻に浸っていた。


「高校生…ぱねぇわ…」

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