22限目 彼女が乗り越えるべき問題

 熾烈しれつな受験戦争に勝利し、念願の高校への初登校。


 誰しもが希望を胸にその道を歩むに違いない。


 そんな日。櫻井美月は痴漢にあった。


「あまりにも酷なことだと思います。それも相当にひどい内容で…」


 石橋先生は無意識の内に自身の肩を抱いていた。その様子から、櫻井美月への痴漢行為は非道極まりないものだったと想像に容易い。


 美月の中学校は地元にあり、徒歩で通学していたという。そこそこの家庭に育った美月は外出といえば車という生活で、電車に乗ったことがあまり無く、白鷲高校への入学が決まり事前に電車通学の練習までしたそうだ。


 しかしそんな彼女に悲劇が襲いかかる。


 白鷲高校への最寄り駅は取り分け快速電車の乗り入れが多く、平日でもかなりごった返す。特にラッシュ時は凄まじく、どの電車もパンパンの状態だ。もみくちゃにされているので身体のあちこちが誰かと接触しており、どこで誰がどこを触ったかなんて判断出来ない。かくいう俺も、尻の間に通勤鞄が押し込まれた時は戦慄が走ったものだ。


 これだけ混雑していると狙った相手に痴漢を行うことは無理なのではないか、とも思う。しかし、それはこうも言える。


 始めてしまえば、周囲がそれを阻止することは出来ないのだ。


 清く純粋に育った彼女にとって、それは大変な衝撃だった。身動きできない状況で、誰ものかもわからぬその手に、誰にも侵入を許したことのないその領域をまさぐられる。


 彼女の心は深く傷ついた。


 そして彼女は、電車に乗れなくなった。


「彼女も懸命に努力をしています。人が少ない時間なら乗れると言って…」


「…だから彼女は、3限以降にしか来ない。それより前は、電車が混んでいるから」


 俺の言葉に、先生は頷いた。先生の目が潤んでいる。


「私も女性ですから、彼女の感じた恐怖はわかります。でも、こう言うと変ですけど、彼女は私よりずっと若い。その分純粋なはずなんです。笑って流すなんて、絶対出来ない」


 初日から数日、彼女は欠席することとなった。その後、意を決してなんとか登校したが、既に人間関係が築かれているそこへ溶け込むことが出来なかったのだと言う。


 こうして、1年E組 櫻井美月は、孤立してしまった。


「でもそれなら、特別対応などすれば良いのでは?」


 この状況で登校を強いる事はひどく酷のように思える。


「そのあたりは校長先生とも良く話したのですけれど…詳しくは先生に聞いて下さい」


 石橋先生はそういって、目元をハンカチで押さえて会釈し、足早に立ち去っていった。



--------------



「来る頃だと思っていたよ」


 校長室。出迎えた校長先生はいつになく重々しい雰囲気で、俺に着座を促した。何度かここを訪れているものの、こうしてソファで対面した事は一度もない。それほど、今から話す内容が簡単なことではないという事だ。校長は加熱式タバコを深く吸い、それをゆっくり胸ポケットにしまうと、口を開いた。


「私には君が何故ここに来たのかがわかる。君の言いたいこともね。だが、それに対する私の答えはノーだ。出席単位数の調整は行わない」


 そのセリフに何かを言い返そうとするより早く、校長は手のひらを向けて静止した。


「これは、彼女が乗り越えるべき問題だ」


 その瞬間、思わず俺は立ち上がっていた。


「校長、失礼ながらそれは我々男が言うべきものではないのではありませんか」


 校長は俺の足元を見続け、目を合わせようとしない。再び着座を促され、渋々を従う。


「君はいい教師だ。知っているか斉藤君。このような問題を抱えた生徒を前にして、勇敢にも共に立ち向かっていこうとする教師はとても少ない。中には、厄介事は御免と言わんばかりに、関わりを避ける者すらいるのだよ」


「私はそんな畜生ちくしょうではありません」


「…結構。君の激情は理解した。だがね、少し冷静に考えてみてほしい。我々第三者がどうこうしようにも、どうにもならない事というものもある」


 校長先生は立ち上がり、窓に向かってゆっくりと歩いていく。


「仮に出席日数は考慮せず、テストの採点だけで単位を獲得出来るようにしたとしよう。そうすれば彼女は留年せずに済むかも知れない。しかし、周囲の人間がそれをどう思うかな」


 窓を見下ろす校長に、真夏の太陽が影を落とす。


「熾烈な受験戦争を戦い抜き、日々勉学に励み、体調管理を怠らず、もろもろの事情を差し置いて登校している生徒もいる。彼らにしてみれば、なぜ彼女だけが優遇されるのだ、と。なれば自分たちも、そうしてほしい。…とならないかね。それは彼女の交友関係において、良い方向に作用すると思うかね」


 暗い室内をメガネが反射させた太陽光が射抜く。


「現実的な所で言えば、大病を患い、長期の欠席が必要な生徒は今まで留年してきた。本校は高等教育機関であり、その授業を受けていない生徒に卒業に必要な単位は与えられない。それが欲しいものは必死に努力をし、仮に留年したとしても、卒業まで努力をやめなかった。ところが彼女はどうだ。心に深い傷を追ってはいる。が、体は健康そのものだ。こうして通学も出来ている。校内には痴漢被害にあった生徒が他にも大勢いる。そんな彼らから見て、彼女はどう映るだろうか。それとも君はこういうのかね。彼女は可哀想だと」


 振り向いた校長は、言葉の重みもあってひどく冷酷な表情をしているように見えた。俺は何も言い返すことが出来ない。


「それは同情だよ。可哀想なら何をしても許されるのか。残念ながら世の中はそうは出来ていない。成果と評価は努力を辞めなかったものに等しく与えられるものだ。…彼女に起きた事は実に不運だったと私も思う。しかしそこから立ち上がれない者に、社会も、組織も、正当な評価は与えない。…それはずっと孤独だという事を意味する」


 社会の目。

 俺がもっとも嫌悪し、逃げ出してきたもの。


 残念ながら、その通りだった。

 ここで彼女が留年を免れても、彼女自身がそれを乗り越えないかぎり、この状態はずっと続く。周囲から理解が得られなければ彼女はずっと一人だ。卒業出来たとしても、その道中は孤独。

 これを打開するには、立ち直り、胸をはって学園生活に戻れるよう、自らが努力をしなければならないのだ。理解を得るには説明するしかない。彼女に起こった悲劇を自身で過去の出来事として整理出来ない限り、そんな日は来ない。


「…とは言え、失った自信を取り戻すのは難しい。私も今回のことについて胸を痛めていない訳ではない。彼女に限らずこうしたケースは今後も予想される。そこで私は、役員会で以下のように提案したのだ」


 その眼が光った、気がした。


『本校の生徒がその在学中に内外における活動に際し、社会的に一定の評価が得られる成果を示した場合、その活動に要した時間を補填する意味において、一部単位を取得可能とする』


 そう言って、一枚のプリントを滑らせてきた。役員会の決議案だ。賛成多数で可決されている。


「本制度は本年度より適用される。ゲームの甲子園出場はこれに該当すると私は考えている。君はどう思うかね?」


 緩んだ顔を見て納得したのか、校長はゆっくりと近づき、そして俺の肩に手をおいた。

 相変わらず近い。


「私がやれることはやった。後は君次第だ斉藤君。そのいきどおりを忘れるな。それは君を動かす原動力となる」


 そう言って校長は部屋を出ていった。頑張り給えと、小さく聞こえた。



 周囲との摩擦によって心をすり減らし、ダメになっていったヤツを沢山見てきた。

 学生だった頃いつだって魅力的だったあいつらがそうして脱落していく様を見せつけられて、俺の心は随分と弱ってしまっていたらしい。


 あいつらと同じ想いをさせたくない。


「待ってろ美月。俺はお前を一人にしないぞ」


 俺は教師人生で初めて感じたこの不思議な感情を胸に、校長室を後にした。

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