21限目 少女の傷

 放課後のカフェ。並べられたアイスコーヒーは早くも結露という汗を流している。


 白鷲高校の食堂は放課後になるとカフェ運営へと切り替わる。食堂棟として学び舎と別に設けられたこの場所は中等部校舎からもアクセスが良く、放課後にも関わらずそこそこの賑わいを見せている。白鷲高校の生徒があまり寄り道しないのは、その教育の質の高さはもちろんだが、このカフェの存在が何よりも大きい。伝統的に一種の治外法権的側面があり、普段は厳格な教師対生徒関係もここでは幾分フランクだ。多少の制服の着崩しやポータブルゲームのプレイ等は目をつぶられている。学校内に居ながらにして、校外の放課後気分を味わえるのだ。


 そんな場所で同席する男女というのは、特別な意味が生まれてくるのではないだろうか。


 目前には、はちきれんばかりの肢体にブラウスを張り付かせた妙齢の女性が座している。男子生徒の視線を釘付けにする身なりで水出しコーヒーをストローで吸い上げるその動作に、たまらないエロスを感じるのは俺だけではないだろう。


 石橋先生である。


 1年E組の担任であり、櫻井の担任でもある。


 俺は名簿を確認して、すぐに彼女のもとに向かった。明日の授業の準備をしていた所だった。そこで櫻井美月の名前を出した途端、指を立て、こう言ったのだ。


「その話はここではなんですから、放課後にカフェで」



 ――こうして今の構図が出来上がったという訳である。



「まず何から話したらいいかしら…」


 窓の向こうを眺めながら、ストローをぐるぐるとかき回している。氷の奏でる軽々な音がこの場に不釣合いだ。


「斉藤先生。うちの1年E組が、ある意味で特別なクラスだっていう事を、知っていますか?」


 ふいに、石橋先生がそんな事を言う。当校のクラス訳に意味付けが行われていた事自体を知らなかった。俺は無言を貫いた。これは知らない、という意味だ。


「通常、クラス分けは成績優秀者順に配置しているんです。クラスはAからE。学年トップがAクラスで、その逆がEクラス。まぁそこまでは普通なんですけれど、その中で一年生のEクラスだけは、成績ではないんです」


「…それは、一体…」


「他校からの入学生達を集めたクラス」


 なるほど。ある意味で特別とはそういう事か。


「ご存知の通り、当校では中等部からの進学が8割を締めています。5クラスのうち、4クラスがこれに当たります。そして他の中学校からの進学が1クラス分。高校進学時点で最初の4クラスはほぼ人間関係が構築されてしまっていますから…他校からの進学生を一クラスにまとめて、生徒の孤立を防ぐ、という狙いがあるそうです。当校は倍率が物凄い高いですから、Eクラスの学力はAクラスに匹敵する、場合によってはそれ以上ということもある、そんなクラスなんです」


 となると櫻井美月はその難関をくぐり抜けた才女という事になる。普段の行いからイマドキの女子高校生と思っていたが、人は見かけによらないとはこの事だ。


「それだけ聞くと、とてもいい配慮のような気がしますね」


 肩をすぼめる先生の胸元は、本人の意志とは無関係に強調される。


「…それが、そうでもないの」


「と、言いますと?」


 石橋先生はため息をついた。コーヒーグラスが結露して、すぐに消えた。


「初日に休むと、人間関係が難しくなるんです」


 そんな話は学園ドラマで聞いたことがある。高校デビューしようとした矢先、事故にあってしまって数週間振りに当校したら、周囲の人間関係はすっかり出来上がってしまっており、溶け込むことができなくなってしまうと。


「櫻井さんはね。入学式に来なかった。ううん、これなかったんです」


 それは初耳だった。健康そうにみえる彼女だが、何か風邪でもこじらせたのだろうか。


「そうだったんですね。でも、初日だけなら、まだ何とでもなったのでは…」


 彼女が胸の前で握りしめるコーヒーグラスから結露が滴り落ちて、そのブラウスの表面を濡らしていた。


「それからずっと、彼女は3登校していないんです」


「なんですって!?」


 なるほど、しかしこれで合点がいった。1~2限目を全て受講しなかった場合、そこに週2回以上含まれている科目の単位取得は絶望的になる。単位数の少ない授業だと週2、少ないと週1のときもある。それが全部含まれている場合、事実上その科目は全部欠席扱いとなる。月に8単位も落としたら、三ヶ月ごとの単位数で見た時、3割以上も欠席した事になってしまい、単位不足が濃厚になる。


 部の発足は5月だ。その時点で単位の取得が危ぶまれた教科があってもおかしくない。


 石橋先生は「それからずっと」と言った。それが事実なら、7月に入った現在、春半期の単位不足は確定だ。


「なんでそんな…何か体調が悪いんでしょうか。部活ではそういった素振りを見せませんし…家庭の事情ですか?まさか朝が弱いなんてそんな理由じゃありませんよね?」


 俺がそう言うと、石橋先生はあたりを見回して、背筋を伸ばした。より存在感を増すその部分に押されるように、俺も姿勢がピンとする。


「これは…非常に繊細な問題です。生徒のプライバシーに関わります。今日先生をここにお呼びしたのも、そういう事情なんです」


 他の先生に内情を知らせるのは、個人情報の観点からいって好ましくない。

 しかしそれが教育上必要な事ならば、その周知が致し方ない場合もある。


「お伺いしても、よろしいですか?」


「その前に、理由を伺ってもいいですか?すみません斉藤先生」


「いえ。彼女は今、伸び悩んでいます。なかなか克服するのが難しいクセが原因です。このままでは、G甲子園出場は正直厳しい。それがかなわない場合、彼女の留年が確定してしまいます」


 石橋先生は一点の曇もない瞳で俺を見つめている。


「石橋先生、私は彼女がそんな登校形態であることすら知りませんでした。私は彼女の事をあまりにも知らないのです。知らなくては、向き合えない。私は彼女の力になりたいのです。そのヒントになるかも知れない情報はどうしても押さえておきたい」


 今度は俺が見つめ返した。


「聞いたとして、何かが出来るとは限りませんよ?」


「そこをなんとか」


 しばしの沈黙が流れた。お互いの真意の探り合いが一段落した頃、ようやく石橋先生は口を開いた。


「…痴漢にあってしまったんです。入学式の、その日の朝に」

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