9限目 ハイセンシ&ローセンシの論争
翌日の昼休みの事だ。
「斉藤先生、お待たせしました。すみません、学食混んでて」
そう言って入ってきたのは井出だ。担当する授業の際、昼休みに部室に来てくれと呼び出しておいた。
「いや、いいんだ、俺の方こそ急にすまない。早速で悪いがそこに座ってくれ」
井出がいつも座る席のPCは既にSoDを起動させてある。
「もしかして、昼練ですか?」
そう言いながら爽やかな笑顔で着席する。
「そうじゃないんだが、すまんが時間がそんなにないから、さっそく構えてくれ」
井出は堪忍した、という様子でマウスに手を載せた。一連の動作がイケメンだ。
ステージは射撃練習場。自キャラを中心に、四方八方に的が用意してある。
「目の前に的があるだろう。それにレティクルをあわせてみてくれ」
レティクルとは画面中央に表示されている照準の事で、FPSでは銃を発射するとこの印に向かって弾が飛んで行くようになっている。敵を倒すには、このレティクル内に相手が収まるよう、マウスでその方角を正しく合わせてやる必要がある。
「こう、ですか?」
井出が慎重にその照準をあわせ、左クリックする。と、弾は的を射抜いた。
俺はその右手を注視する。
「じゃあ次は、右の。それが終わったらその次、出来るだけ素早く、正確に。速さより弾を確実に当てることの方を重視してくれ」
「わかりました」
井出はゆっくりと、確実に、だが徐々に早く的を射抜く為マウスを動かしている。
――やはりな。
「井出、ありがとう、そこまででいい」
井出はそう言うと、ふぅ、と爽やかに髪をかきあげた。
「中々楽しいですね。しかし難しいですね」
「痛むんだな、手首」
井手の笑顔が凍りつく。
「……そんな事はないですよ」
「素直になれ、井出」
珍しく真剣な俺の顔を見て、井出も作り笑顔を辞めた。
「恐らくだが、親指側に傾けると痛いんじゃないか。井出のレティクルは最初、的を通り過ぎてから戻すように調整していたが、そこの動きが不自然だった。送り出しに対して、戻りが正確じゃない。止まる時もある」
井出は参りました、と言わんばかりに深呼吸して肩を落とした。
「その通りです。流石ですね、先生。いわゆるテニス首ってやつで、親指の付け根側の筋が痛むし、違和感があります」
「治るのか?」
「……と、医者は言っています。正直痛みは大したことないんですが、物を握ったとき、うまく力が入らないというか、自分の腕じゃないみたいというか」
自分の体が自分の体ではないような感覚。これは相当なストレスだ。
「他の人には黙っていてくれませんか。心配かけたくない」
井出は見たことのない真剣な眼差しで俺を見た。左腕は力強く握られている。きっと無意識だ。
「もちろんだ。だからこの時間に来てもらった」
「ありがとうございます」
「だが、井出。そのままの状態では良くない。悪化させる要因にもなる」
「……それは、僕にゲーム部を辞めろ、という事ですか」
井出という生徒の激情の一端を初めて見た。普段の余裕はまったくない。
俺は予め忍ばせていたそれを引き出しから取り出し、マウスパッドの上に置いた。
「そうは言ってない。井出には、手首にできるだけ負担をかけないようなマウスの扱いをしてもらう」
取り出したのは俺が自宅で愛用している高性能ゲーミングマウス「
俺はそれを井出のPCに接続し、手早く設定すると、井手の手のひらに置いた。
「軽い……!」
「それはFPSゲーマーの中でも人気のマウスでな。ちょっと置いて握って見てくれ」
井出はゆっくりとマウスを置き、右手を被せた。ロゴアイコンが力強くグリーンに発光している。
「ほんのちょっとでいい、動かしてみてくれ」
井出は言われるままに動かす。すると、画面はほとんど動かない。
「あれ……」
「優しく握ったら、姿勢を正して、そう、体をもっと机に近づけて、そうだ、そしたら手はマウスを優しく握り、手首は固定する。イメージはそうだな、アイロンをかけるように、腕全体でマウスを滑らせるんだ。腕を振るように。やってみてくれ」
井出は言われたとおりに腕を振ってマウスを動かす。運動部だけあって体のコントロールがいいのだろう。非常に滑らかに腕が動かせている。
「凄い……なるほど、カーソルがあまり動かないから、大きく調整出来るんですね」
「そう、そうやって手首はあまり動かさずに、腕で動かす。さっきのやつをもう一回やろう」
井出は再び的に照準を合わせる。今度は的を通りすぎず、照準がスムーズにそこに吸い込まれていく。最初は時間がかかったが、最後の的を撃ち落とした時にはかなりの速度になっていた。
「凄い! これなら全然痛くありません。マウス一つでこんなに変わるなんて……」
「効果があったなら良かった。井出、しばらくそのマウスは貸すから、今日からそれを使うんだ。しばらくはFPSの操作に慣れるトレーニングを行う。そこでまた手首を痛めてほしくない」
井出は嬉しそうにそのマウスを眺めていた。まるで救世主のように。
俺が普段エロゲーで使っていることは黙っておくことにする。
「いまのは、マウスの感度を変えたんだ。付属のマウスは感度が良すぎたせいで、つい手首で微調整をしてしまっていた。電池内蔵型で重かったから余計に負担がかかっていたんだろう」
「マウスの感度……」
「そうだ。マウス感度が高いと、人間側が動かす量が少しでいい。代わりに、微調整が難しくなる。今のように感度を下げると、人間側が動かす量が増えてしまう代わりに、微調整も楽になって腕全体が使えるようになる。感度が高い状態をハイセンシ、低い状態をローセンシというんだ」
――ハイセンシとローセンシ。
このマウスの設定は、FPSゲーマーでも尽きない論争だ。
ハイセンシはマウス自体の移動量に対してカーソルの動きが大きくなる。これによりゲームでは振り向き速度に優れる代わりに精密射撃が苦手となる。
一方ローセンシはカーソル移動量を稼ぐためにマウス自体を大きく動かさなければならない為、ゲーム中で振り向き対応がどうしても遅れる代わりに、精密なエイムコントロールが出来るようになる。
どちらが有利不利かはゲームによって代わり、プレイスタイルや、もっと言えばプレイステージによっても変わってくるが、双方に信者がいたりして、大抵の場合は揉め事になる。
「井出は的を狙う時、一度大きく通り過ぎていた。動かした量に対して感度が高すぎるから、結果、通り過ぎてしまっていたんだな。なので、感度を大幅に下げた。逆に下げ過ぎと感じるかもしれないが、手首を左右に振らずに済むようにするにはこれが一番だ」
本当はみんながゲームに慣れてから最適なセンシを個人単位で見つける作業を行う予定だったのだが……。
井出の場合は早急に対応する必要があった。
「井出。ゲーム部と言ってもこれは競技ゲームだ。勝ち負けがある以上、そこは勝負の世界だ。練習は必要だし、身体的な部分と向き合わなくてはならないのは、他のスポーツと変わらない。だが幸いな事に、ゲームでは使用するデバイスによってそれを時に驚くほど容易に克服できてしまう、なんて事もある」
井出は自分の手首を見つめていた。
「これからはなんでも相談してくれ。これでも俺はお前の顧問なんだから」
そんな時、ちょうど昼休み終了の予鈴がなった。
「またお前に部活をやめられたら、今度は俺の立場がないしな」
そう言うと井出は目をまんまるにしたあと、吹き出した。
「それが本音ですか、先生」
普段爽やかで余裕のある井出の、年相応の可愛らしい笑顔だ。念のため言及しておくが俺にそういう趣味はない。
「今日は本当にありがとうございました」
そう言って、スポーツマンらしく頭を下げる。慣れていない俺は頭を掻くしか無い。
井出は踵を返し部室の扉を開けると、ふと、再度こちらを振り返った。
「あ、そうそう、斉藤先生」
「なんだ」
「僕、こう見えて結構負けず嫌いなんですよね」
それはなんとなく知っている。なんたってテニス部のエースになった男だからな。
「絶対上手くなって、強くなって、……甲子園まで連れて行きますよ。先生」
廊下の窓から差し込む光が、その笑顔を眩しく照らしている。
「……早く行け」
そしていつもの井出らしく、爽やかかつ美しいフォームで駆け出していった。
俺は頭を掻きながら思うのだった。
――廊下は走るな。
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