蝶々と寂しがり
楠瑞稀
蝶々と寂しがり
わたしのママは蝶だ。
もちろんこれは比喩表現だけど、わたしはいつもそう思う。
ウェーブを掛けた艶やかな長い髪。くるりと巻いた長い睫に、華やかな化粧。洋服はお洒落で、スタイル抜群の体型に良く似合って、まるでモデルみたいだ。
外見だけじゃなくて、中身もそう。
高学歴で、頭の回転が速く、優秀で、仕事も出来る。
誰もがママを見ると、感嘆のため息をついた。
世の中にはこんな完璧な人間もいるのだと、一段も二段も高いところを見上げるようにする。
そしてわたしに向かってこう言うのだ。
こんな綺麗なママがいて、うらやましいわ。
素敵なお母さんで嬉しいでしょう、と。
そんな時、わたしはいつも下を向いてしまう。あるいは、あるかなしかに曖昧にうなずく。
そうすると、大概の人はわたしから興味をなくす。凡庸で引っ込み思案な、つまらない娘よりも大輪の華のようなママのほうが、見ていても話していても楽しいから。
わたしは父親似だ。だけど、わたしはそれを本当にありがたく思っている。
写真で見る父親は、太り肉で顔立ちもぱっとしない。ぎょろ目で、唇も分厚く、不器量と言っても差し支えないだろう。
どうしてこの父が、あの母親との間に子供をもうけたのか、実の子ながらに不思議に思う。
この父に良く似たわたしも、はっきり言って不細工だ。
背丈だけは両親共に高いものだから、わたしも無駄に背が高く、デブといわれる程ではなくてもみっちりと肉の付いた、威圧感のある体格をしている。
そしてギョロ目で唇の分厚い、ゲジゲジ眉毛。
大人たちは誰もが、わたしとママが親子だと知ると父親に似たのね、とあっさり言う。
そこにはどうしたって隠し切れない残念そうな響きがこもるのだ。
それでも諦めきれずに、わたしのなかにママの面影を探し、どうにかこうにか鼻の辺りがお母さんに似てますね、などと苦し紛れに答えるのだった。
わたしはママが好きではなかった。かと言って、嫌いでもない。写真でしか見たことがない父親の方が好きだと言ってしまえる程度に、わたしはママに興味がなかった。
恐らく、ママもわたしに興味はないのだろう。ママの関心は四割は仕事、四割は遊びで占められており、あと一割は生活のことで、最後の一割に辛うじてわたしが含まれているかいないかだろう。
たまに、仕事のパーティ等でどうしても必要なときに、ママは私を同行させる。
美しくて優秀なママは、連れのわたしにもみすぼらしい格好は決してさせないけれど、着せられるもののたいていは、きちんとしていても面白みに欠けるスーツやワンピースであった。
そうすると華やかなママの陰に隠れる地味な私は、人の目には映らなくなる。あるいは、親子というよりも主と従者のように見えただろう。
でも、わたしはそれで良かった。まるで蝶のように美しい母親と比べられるくらいなら、目立たずひっそりと影に隠れていられるほうがいい。
だからわたしたちが協力関係を結ぶのは、こういうときくらいだった。
仕事や遊びで外出の多いママとわたしが顔をあわせるのは、週に一、二回がせいぜいだった。それもちょっと顔を合わせて一言二言、言葉を交わすくらいで一緒に食事を取る事だって月に二度もあれば多いほうだ。
ママは私と顔をあわせると、まるで口癖のように同じ事を言う。
容姿に自信がないのなら、せめて教養を付けなさい。賢くなるよう、勉強をしなさい。
わたしはそれにうなずく。別にわざわざ言われなくたって、分かっている。
見目が醜いなら、せめて見苦しくならないように振舞う必要があるし、なんの取り得もないのだから勉強くらいはできるようにならないといけない。
友達がいない訳ではなかったけれど、ママと違って社交的ではないわたしは外出することも少なく、勉強する時間はいくらでもあった。
お陰でわたしは、地味で引っ込み思案であっても勉強だけはできる、大人受けの良い子供でいられた。
忙しいママに代わってわたしの世話をしてくれたのは、近くに住むママの古くからの友達だった。
彼女は化粧気もなく、ぽっちゃりとしているけれど、面倒見の良い温かな人柄で、わたしは彼女のほうが母親と呼ぶに相応しいと思っていた。
彼女はわたしの太くて硬いごわごわの髪を結いながら、時々こう言っていた。
あなたのママは、いまがきっと一番楽しいのね。
充実した毎日を送ることで、昔できなかったことを取り返そうとしているの。
恐らく、昔からママを知っている彼女には、わたしの知らない色んな部分が見えていたのだと思う。
でも、ママに興味のなかったわたしは、それに生返事をするだけだった。
それから数年が過ぎ、社会人になると同時に、わたしは家を出た。
家を出て一人暮らしをすることに、ママは何も言わなかった。それどころか引っ越す当日も、姿を見せることはなかった。
以来、わたしが家に帰ることはなかった。お世話になったママの友達には、たまに手紙を送り、まれに顔を見せることはあったけれど、ママとはすっかり疎遠になった。
でも、実家で暮らしていた時だって滅多に顔を合わせることはなかったのだから、特に気にすることはなかった。
社会に出て生活することは大変だったけれど、身に着けた知識と教養はわたしを裏切ることはなかった。
周囲に認められ、重責を伴う仕事も任されるようになったわたしは、目立ちたくないと、引っ込み思案でいられる状況ではなくなってしまった。部下も出来、否が応でも自信があるように振舞わなくてはならなくなった。
それも板についてきた頃、わたしには恋人ができ、結婚もした。
ぽっちゃりとして見た目の冴えない、どちらかというと不器量な人だったけれど、ママの友達にも似た、朴訥で温かい人柄に好意を抱いた。
そうして子供も生まれ、その子が二才になろうというころ、ママの友達から連絡があった。
それは、ママが死んだというものだった。
駆けつけた先は病院で、十数年ぶりに見たママは相変わらず美しかったけれど、見る影もないほどにやつれていた。
聞けば、ママは数年前から重い病気を抱えていたという。そしてそれをギリギリまで周囲にも隠していたらしい。
ようやくそれを教えられたママの友達は、わたしにそれを伝えたかったらしいけれど、ママからきつく口止めされていた。
そしていよいよ危なくなって、言いつけを破ってでも連絡を取らなければと思っていた矢先に病状が急変したのだと、涙ながらに教えてくれた。
お葬式はひっそりと行うつもりだった。
でも、思いがけずたくさんの人が焼香にやってきて、故人は随分と交友関係が広く、多くの人に慕われていたのだと知った。
遺品を整理しているうちに、わたしは二枚の写真を目にすることになる。
一枚は、わたしと夫、そして生まれたばかりの子供の家族写真だった。以前、ママの友達に送った手紙に同封した覚えがあり、恐らく彼女がママに渡したのだろう。
入院していた病院の病室から見つかったその写真には、たくさんの指紋が付いており、角が擦り切れて丸くなっていた。
そしてもう一枚は、ママの子供の頃の写真。ただ、それはすぐには気付かなかった。
しめ縄のような三つ編みをぎゅうぎゅうに結わいた、暗くて卑屈そうな、不器量な女の子。
それがママだった。
本当はママがどんな人生を送っていたか、薄々ながらに気が付いていた。
社会に出て、私は急激に体重が減った。余分な肉が落ちて、メリハリの付いた体付きになった。
化粧を覚え、太い眉は整えられ、ぎょろりとした目はぱっちりとした大きな瞳に、厚ぼったい唇は紅を塗って魅惑的な唇になった。
パーマと染色を繰り返した髪は細くなり、否が応にも付いた自信は、表情を明るくし、卑屈さを奪った。
私は年を経るごとにどんどん、記憶にあるママに似ていった。
今となっては、誰もわたしを不器量と思う人はいない。見目も良く、優秀で、教養の高い女性だと、たくさんの人がちやほやする。目に映るすべてものが眩しくなって、趣味も交友関係も広がり、人生がとても楽しくなった。
そうか、これがママの目に映っていた世界なのかとわたしは知るようになった。
深夜、仕事から戻ってきたわたしは寝ずに待っていてくれていた夫にキスをし、寝室で眠る娘の顔を見に行く。
マシュマロのようなほっぺたを持つまだ幼い娘は、夫と子供の頃のわたしに良く似ている。きっと誰も、今のわたしに似ているとは言ってくれないだろう。
わたしはいま、二枚の写真を持ち歩いている。角の擦り切れた家族の写真と、古いママの写真だ。
思えば、ママは寂しかったのだろう。
父親がいなくなり、寂しさを埋める対象を外の世界に求めた。あるいは、父親に似ているわたしを見るのが、辛かったのかもしれない。
場合によっては、単純に醜いわたしを嫌っていただけなのかも知れないけれど、今ではそれは分からない。
わたしも、かつてはママに興味がないと思っていたけれど、本当はそうではなかった。
わたしは、自分とは違い美しくて華やかなママに嫉妬し、疎ましく思っていたのだ。だからこそわたしはことさらに冷淡に、無関心に振舞っていた。
わたしたちは、お互い様だった。
いつかわたしの娘も、わたしを疎ましく思うようになるかもしれない。
それでもいいだろう。この子もこの子なり成長し、いつか美しい蝶になるのだから。
でも願わくば、彼女が寂しい思いを抱くことのないように。
わたしは柔らかい彼女の身体を一度だけ抱きしめ、暗い寝室を後にした。
蝶々と寂しがり 楠瑞稀 @kusumizuki
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