第3話
こうして王様の期待も空しく、一方で娘の歌はどんどんと上達していきました。
宣言どおり若者の指導はたいへんきびしいものでしたが、それでも娘にとっては楽しくて仕方がありませんでした。
なにしろ娘が素顔で接することができるのは、世界中探してもこの若者ひとりだけ。
仮面をつけていた時でさえ、こんなにも長い間誰かと顔を突き合わせていたことなど、今まで一度もなかったからです。
異形の娘は仮面を被っていてもなお、人から疎まれ忌避される存在でありました。
指導の合間に若者は、娘に色々な話をしてくれました。娘にとっては想像もつかない異国の風景や、そこで語り継がれる素敵な恋の物語などです。
他にも極彩色に彩られる南の海の冒険譚や、恐ろしくも魅力的な砂漠の王国のお話、あるいは可愛らしいお姫様の数奇な人生の物語に、娘は年頃の女の子らしくドキドキと胸を高鳴らせました。
また時に若者は娘を外に連れ出します。
二人のムードを高めるためだ、とか何とか言って口先一つで王様を丸め込む若者のしたたかさに娘は呆れたり舌を巻いたりしましたが、それでもちょっと遠出をして綺麗な湖を見に行ったり、空気の美味しい森でお弁当を食べたりするのは、娘が今まで感じたことがないくらいに楽しいことでした。
世界一醜い娘と世界一美しい若者が仲睦まじく連れ立って歩く姿に周囲の人は慄き、そのおぞましさに顔を歪めましたが、そんなこと二人にとっては大して気になることではありませんでした。
しかしそうこうするうちに娘は、自分の中に困った感情が生まれつつあることに気がつきました。
世界一醜い娘は世界一美しい若者に恋してしまったのです。
娘は悩みます。自分の醜さは百も承知ですから、自分とあの美しい若者がとうてい釣合わない事だって分かっています。
結果的に王様の望むとおりの行動をとる事が、非常に癪だという苦悩もあります。
そんなことにうだうだと頭を痛めている娘に、しかしある日とんでもない転機が訪れました。
それはいつものように、表向きは王様に命じられてしぶしぶ仕方なくと言う態で娘が若者の元に向かっている時のことです。
ふと、娘の目の前を一匹の黒い揚羽蝶がひらひらと飛んでまいりました。
もっともそんなこと、別にたいしたことでもありませんので娘がそのままスルーしようとしたところ、背後からいきなり声が掛かります。
「おいおい。無視するなって」
怪訝に思って振り返ると、飛んでいた蝶はどこにも見えずその代わりに一匹の糞餓鬼――もとい、一人の子供が立っていました。
「なぁに、あなた。わたしの顔を見に来たの? やめときなさい。夜眠れなくなるわよ」
娘はいささかうんざりした面持ちで、投げやりにこたえます。王様が娘を呼び寄せてから評判はますます高まり、老いも若いも世界一醜い顔を見ようと娘のところに押し掛けるようになっておりました。
子供は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、それからすぐに憮然とした顔付きで首を振ります。
「違うよ、そうじゃないって」
子供は恐れもせず娘の前にやってきて、びしりと指を突きつけました。
「俺は悪魔だ。以前あんたに助けてもらった借りを返すためやってきた」
「はぁ?」
娘はものすごく怪訝そうな顔をしました。仮面さえなければ例え悪魔であっても思わずおしっこをちびってしまいそうになるくらい禍々しい、いたく恐ろしげな顔が見えたはずです。その点この悪魔は大変ついていたと言ってもいいでしょう。
娘は首を傾げます。
「別に悪魔なんて助けた覚えはないわよ」
「いや、あるはずだ。前に蜘蛛の巣にかかっている蝶を助けたことを覚えているだろう」
そうなのです。以前娘が気まぐれに蜘蛛の巣から逃がした黒揚羽は、何を隠そうこの悪魔だったのです。
しかし――、
「まったくもって覚えていないわね」
娘はばっさりと一言のもとに切って捨てました。これにはさすがの悪魔も、思わずひくりと顔を引きつらせずにはおれません。
だけど娘にしたって別にとぼけている訳ではなく、正直そんなどうでもいいことはいちいち覚えていたりはしないだけです。
おかげで悪魔はかなり情けなく歯痒い思いを味わうことになってしまったわけですが、それでも何とか気を取り直すとあらためて娘に言いました。
「とりあえずっ、さっき言った通り助けられた礼にあんたに良い物をやりに来た」
「結構です。悪魔のくれる物なんて胡散臭くて受け取れないわ」
娘はきっぱりさっぱり断って潔く身を翻しました。悪魔は驚き、慌ててその後を追いかけます。
「いや、待て待て待て。けしてあんたの損になる話じゃないから」
「人を陥れるのが仕事である悪魔の甘言に乗って身を滅ぼすのはごめんですからわたしとは縁がなかったと思って諦めてください」
「息継ぎも無しに身も蓋もないことを言わないでくれっ! こういう時はポーズだけでも興味ある振りをするもんだろっ。今回は仕事できたんじゃないから、とりあえず話だけでいいから聞いてくれよ」
今にも泣きつかんばかりの様子で袖を引かれ、娘はしぶしぶ足を止めました。
「話だけよ」
悪魔はほっとした様子で話を始めました。これでそれが娘を騙すための演技だとしたら立派なものですが、悪魔はなりたての新米だったため残念ながら思いっきり素でした。
悪魔はこほんと咳ばらいをして、可愛らしいサイズの小瓶を差し出します。
「これは人間の欠点を治す事ができる魔法の薬だ。これを使ってその不細工な面でも治せ」
娘は胡散臭そうな顔でその小瓶を見つめ、一言いいました。
「どうしてあなたは蜘蛛の巣になんて引っかかっていたの?」
「
悪魔は顔を真っ赤にして怒鳴りました。なぜなら新米悪魔はうっかりと蝶の姿から元に戻る呪文を度忘れして、娘に助けられた時は普通に絶体絶命の危機に陥っていたからです。
「悪かったな!!」
「別に悪くは無いけど……」
娘は首を傾げました。
「どうしてこんな物をくれるのよ」
「あんたに助けてもらってから、あんたのことをずっと見ていた。その結果、あんたみたいな真面目で心優しい人間が、不遇な目にあっているのがなんとも不憫に思えたんだ」
「して、その心は?」
娘は冷静につっこみます。
「天使も悪魔も人間に助けてもらったら、必ず恩返しをしなければならないと因果律で決まっているんだよっ。それに残念ながらおまえみたいな厄介な性格した人間を騙すには俺のスキルが足りないんだ。見栄張って悪うございましたっ! だからやるもんやってとっとと帰らせて貰うぞ」
悪魔はすっかり投げやりな表情で吐き捨てました。たぶん定められた決まりでもなければ、こんな質面倒臭いタイプの人間とは関わりあいになりたくもなかったのでしょう。
ほらっ、と悪魔は小瓶を差し出します。普段ならこんな怪しげなものにはまったく興味を持たない娘でしたが、今日ばかりは何だか少し様子が違っておりました。
娘は戸惑ったようにその小瓶を見つめています。
「この薬は、必ずわたしが飲まなきゃいけないの……?」
ぽつりと訊ねられた言葉に悪魔は娘が何に躊躇とまどっているのか気付き、にやりと笑って付け足します。
「もちろん、あんたの大事な奴の目を治す事だってできるさ」
確かにそれは性格だろうが身体だろうが、欠点と呼ばれる部分ならなんでも治すことができる魔法の薬なのです。
娘は珍しく深く考え込んでしまいました。
この薬があれば自分の長年の悩み、というほど悩んじゃおりませんでしたが、それでも色々といやな思いをする一番の原因だった醜い顔ともおさらばすることができます。
けれど自分が世界一醜い娘でなくなれば、たぶん王様は娘から興味をなくし、二度とあの世界一美しい若者とも会うことはなくなるでしょう。
しかし若者の目を治すことにしたら。若者の目が見えるようになったらどうなるでしょう。
そんなこと決まっています。きっと若者は世界で一番醜い顔を見て、娘のことを嫌いになってしまうに違いありません。
そんなことは無いと言い切れるほど娘は自分の顔に関して無知ではなく、根拠の無い自信を抱くこともできませんでした。
世界一醜い娘という称号は伊達でも酔狂でもないのです。
娘は悩みました。たぶんこれまで歩んできた人生での使った悩みを全部合わせたよりも悩んだことでしょう。
そうして長い長い時間がたった後、とうとう娘は一つの決断を下しました。
「この薬、ありがたく貰っておくわ」
娘は悪魔から薬を受け取ります。腹が決まれば娘の行動は素早いものでした。
悪魔はその途方もない長考にうんざりし始めておりましたが、にやりと笑って「幸運を」と言います。
悪魔に言われるぐらい縁起の悪い台詞もなかったですが、それでも娘はその言葉に神妙にうなずいたのでした。
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