271帖 包囲網
『今は昔、広く
手を繋いで寝てるだけで満足やった。お互いに言葉も発しなければ、ただ見つめるだけでそれで楽しく感じてしまう。
それでも笑みが溢れたついでに言葉が出る。ほんで今日は、お互いの小さい頃の思い出を話す事に。
僕はそれだけで充分幸せに感じ、ミライの話しを慈しむ様に聞いてた。
そして、そのまま記憶が消えていく。
ふと目覚めると、僕は横を向いて寝てる。カーテンの外が薄っすらと明るくなってるんが分かった。
あれ?
僕の腰にミライの右手が置かれてるのに気が付く。
いつの間にこっちのベッドに来たんや?
寝返ってミライの方を向く。寝顔もめっちゃ可愛い。そやし僕はミライの頭の下にそっと腕を入れて腕枕をする。寝てると思うんやけど、なんとなくミライの右手に力が入って引き寄せられた様に思う。
僕は左手をミライの背中に回すと、僕の脳に柔らかい感触が伝わってくる。少しカールした髪の毛から「ミライ」の匂いがする。
そう言えば、お休みのキスをしてへんかったなぁ。
たぶん僕が先に寝てしもたんやろう、僕は眼の前のミライの頭に何度となくキスをする。
僕は昨日、「私も赤ちゃんが欲しい」とミライが言うてた事を思い出す。その時の様子から、ミライはまだまだ
もしかしたら赤ちゃんは神様か動物が連れてくるんやと思てたり……。
まぁそれはそれで愛おしく思えるからええねんけど、ちょっと期待してた部分もあったし、それは少し残念に思えてきた。
8月31日、土曜日の5時。アラームの音と同時にミライのクスクス笑う声で目が覚める。なんか胸が
「おはよう」
と言うと、上目遣いに返事をしてくる。そやし僕はミライの額に軽く「おはよう」のキスをする。ミライも伸び上がってきて僕の額にキスをしてくれた。
「じゃぁ、用意をして畑に行きましょう」
「そうやな」
ベッドでもうちょっとじゃれ合いたかったけど、二人で一緒にベッドから出る。僕はなるべくミライの着替えを見ん様に適当に話しながら着替えた。
「びっくりしたで。朝、目が醒めたらミライがこっちのベッドに来てたさかい」
「だって、話の途中でおにちゃんは寝てしまったのよ」
「そうやったんか。ごめん」
「いいわ。でも今晩はちゃんとお話ししましょうね」
「おお、分かった」
ミライは顔を洗い、そして髪の毛を整えだす。僕も顔を洗ろてからベッドに座り、ミライをじっと見る。
鏡に映るミライの顔はスッキリとして可愛い。そやけど髪の毛を手入れする様子は少し大人びて見える。そんな姿を見てると後ろから抱きしめたくなるけど、それはなんとか押さえ込む。
ほんで二人で一緒に部屋を出る。少し朝靄の掛かった畑には一番乗りやった。二人して顔を見合わせ、なんの理由も無しに笑ろてしもた。
集まった皆といつも通りに収穫作業を終え、朝ご飯を頂いく。その後、勉強会をしてた時、珍しくハディヤ氏が勉強を見に来た。
ムハマドに数学を教えてた僕にハディヤ氏は、
「そうだ、キタノ。新学期からは学校の先生をやってくれないか」
と嬉しそうに提案してくる。それを聞いて僕は「面白いやん」と一瞬思た。
新学期っていつやろうとか、教える教科は何やろうとかも考えてたけど、要するにこれはミライとの結婚後の話とちゃうやろかと思て、僕は、
「まだ、クルド語も余り話せへんし字も分からんのですよー。それに数学と理科しか教えられないし……」
とか言うて誤魔化す。
ほんでもハディヤ氏は、
「問題ない、大丈夫だ」
と言いながら満足そうに食堂を出て行った。
ああ。段々と包囲網が厳しくなるなぁ……。
と思てたらムハマドが、
「キタノ、続きを教えて下さい」
と言うてきたんで我に戻って解き方を教える。
そやけどその後に頭の中でぼんやりと、学校の先生をしながらミライとの結婚生活を送ってる自分を妄想してはニヤけてた。
8月最後のこの日も、ミライと夫婦ごっこをしながら1日を過ごす。もう9月やと言うのに昼間は40度近くまで気温が上がってる。そやけど日が沈むと急激に温度は下がる。夜は少し寒いくらいや。
シャワーを浴びた後、外に出て月を見ながらタバコを吸うてたら身体はすっかり冷えてしまう。急いで部屋に戻り、歯を磨いてベッドに向かうと、ミライはもう布団の中やった。
おかしいなぁと思いながらも、今日は僕からミライのベッドに侵入する。ミライはベッドの端っこであっちを向いて寝てる。
僕は傍まで行って、ミライを肩をツンツンと突いてみる。やっぱりミライはまだ寝てない。その証拠にクスクスと笑ろてる。
もう一回突こうとした時、ミライは振り返り満面の笑みで話し掛けてくる。
「おにちゃん」
「な、なに?」
「今日は、寝たらだめだよ」
一瞬でいろんな事が頭を過ぎる。
「な、なんでや」
「だって明日はお休みでしょう。だからいっぱいお話しするのよ」
ああ、そうなんや。やっぱりミライはおぼこいなと思て安心した。
「そうやな。いっぱい話そか」
「それじゃーね。今朝みたいにして」
と言うて頭を持ち上げてる。僕はそっと首に手を入れ、ミライの背中に手を回す。
二人の息が掛かる程の距離。そしてミライの優しい匂いが僕の鼻を付く。
僕は緊張して理性を失いそうになってた。そやけどふとハディヤ氏の包囲網の事が頭を掠めたんで、僕は正気に戻ってしもた。
つづく
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