270帖 2つのシングルベッド

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 新しい生活が始まったと思てたけど別にそんなに変わらん。朝の収穫をして水撒きを手伝い、ゼフラには以前と同じ様に朝ご飯に呼ばれ、それが終わると勉強会。いつも通りに家庭教師をして、ほんで僕のクルド語学習会が行われる。いつもと同じ流れや。


 違うと言えば……、ミライがいつも傍に居てくれる事かな。

 ミライの僕に対する視線も変わってきた感じがする。目が合うた時には思わずニタっとしてしまう。勿論、ミライも笑顔で返してくれる。それぐらいのもん。ほんでもそれがちょっぴり嬉しかった。


 今日は、泉で水泳教室をしてた時も変わってた。なんとミライ、ラビア、エシラ達がお弁当を作って持ってきてくれる。

 ナンに野菜や肉等が挟まれた簡単なサンドイッチ的なものやったけど、皆で泉の横の林に入って頂く。みんな美味しそうに喜んで食べてたわ。

 そやし昼からも水泳教室をしたけど、泳ぎがほんまに上手くなってる。流石に疲れてきたか、2時過ぎにはお開きになって皆自分の部屋に帰る。


 僕も疲れたんで部屋にもどると、ミライはソファーに座って作業をしてた。

 僕はベッドに横たわり、上からそれを眺める。白い布を使こて裁縫をしてる。


「それは何なん?」

「これは赤ちゃんの服よ」

「へっ、赤ちゃん?」

「そうよ」


 まじか! まだなんにもやってないのに、もうそんな準備が始まってるんか?


「え、えーっと。因みに、誰の赤ちゃん?」


 僕は恐る恐る聞いてみる。


「アイシャ姉さんよ」


 ああ、そうやろなぁ。なんぼ何でも早すぎると思たわ。

 僕はホッと胸を撫で下ろすと、安心して目を瞑る。


「10月に生まれるのよ」

「そうなんやぁ」


 ああ、良かった。安心して寝られるわ。


「ねー、おにちゃん」

「なに?」

「私も赤ちゃんが欲しい」


 えっ!


 思わず目を開けてしもた。それは余りにもストレートな発言。


「そ、それは、まだ早いやろ」

「そうね」

「は、は、は……」


 その後ミライはクルド語で独り言を言いながら作業を続ける。僕はドキドキしてきて眠れへんかったけど、取り敢えず寝てるフリをしてたらいつの間にか眠ってしもてた。



 ミライに起こされて起き上がると、入り口にカレムが立ってて、数学を教えて欲しいと言うてる。


 もう、夕方の学習会かぁ。


 僕が部屋を出よとすると、ミライも付いてくる。


「どうしたん?」

「もうそろそろ晩ご飯の支度をしますね」


 その言い方がめっちゃ可愛らしいもんやから、思わず抱きしめたくなってしまう。


 カレムさえ居なければ……。


 台所へ急ぐミライの後ろ姿を目で追うてると、なんか嬉しくなってしもた。

 と同時に、ハディヤ氏の戦略にどんどん飲み込まれてる自分に気が付いてたんやけど、どうする事も出来んかったし、ちょっと歯痒かった。


 後3日の辛抱や。


 そう思て夕方の勉強会の家庭教師をする。


 晩飯後、部屋でのんびりと日記を付けてると、後片付けが終わったミライが戻ってくる。


「お疲れー」

「おにちゃん!」


 と、何か嬉しそうにソファーまでやって来る。


「おにちゃん!」

「何?」

「えへへ」


 そんな笑顔で見つめられると困るんですけど……。


「おにちゃん、もう寝る?」

「そやなぁ、今日は昼寝してしもたしなぁ」

「じゃー、お外を散歩しましょうか?」

「ええけど、疲れて無いのか?」

「ええ、平気よ。おにちゃんと一緒なら」


 嬉しいやら、恥ずかしいやら。


「ほんなら少し歩こか」

「うん」


 月夜の畑を二人で歩く。大分涼しくなった空気の中を、何を話すでもなく、時折顔を見つめては微笑みながら歩いて行く。

 それでも、


「一体この後僕は、僕らは、どうなってしまうんやろか」


 などと考えながら歩いてみたけど、結局結論は出ずじまいで屋敷に戻ってくる。


 部屋に入ると、


「おにちゃん、先にシャワーを浴びてね」


 と、洗濯された着替えを渡され、シャワーを浴びる。そしてシャワーから出てくると、入れ替わりでミライがシャワールームに入る。僕は頭を乾かしながらソファーに座ったけど、何か違和感があった。


 よく見てみると、僕とミライのベッドの間隔が無くなってピッタリとくっついてる。


 ミライの仕業やな。ほんまにもう、男の気持ちも考えんと……。


 ハディヤ氏がみたらどう思うんやろうと考えながら、ソファーにもたれ掛かる。


 実はこれもハディヤ氏の戦術とちゃうやろか?


 そんな事が頭を過ぎる。既成事実が出来上がってしもたら無理やり結婚させるつもりやとか、そういう作戦なんやろか……。それだけは絶対に避けなあかんな。


 そう思て、もう一回ベッドを眺めてみる。ミライの事を考えると今更ベッドを離す事は出来へん。そやし今日は、早く寝て……。


 うーん。なかなかええアイデアが浮かばへんかったけど、ミライもそない無茶はせえへんやろから、今日は何も起こらへんと祈ることにした。


 ミライがシャワーから出てくる前に僕はベッドに移動する。ほんでシャワールームから出てきたミライは、ニコニコしながらベッドにやって来る。


「おにちゃん。これ、いいでしょ」

「あはは……」

「2つのベッドで広いし、これでおにちゃんの所へ行けるわ」


 と言うとベッドに寝そべって喜んでる。その様子を見てるとまだまだ幼いなぁと少し安心できた。


「ああ、ちょっと待ってね」


 ミライは電気スタンドを点け、ベッドから出て部屋の灯りを消すと布団に潜り込んでくる。


 電気スタンドのほのかな灯りがミライの顔を照らし、僕の目にはそれがなんとも可愛く映る。

 白い枕に少し顔を埋めて笑顔でこっちを見てる。その目は、さっきの幼かった様子とは違い、鋭く僕の全てを見透かす様な視線やった。


「おにちゃん、手を出して」


 僕が右手を出すと、その手をミライがそっと掴んできた。



 つづく

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