269帖 新しい生活

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 部屋に戻り、なるべく丁寧に時間を掛けて歯を磨く。部屋の電気を消すと、ミライが持ってきた電気スタンドの灯りが僕とミライのベッドの間を仄かに照らしてる。

 ベッドに入りながら横目でミライを見ると、こっちを見てるんが分かった。

 その視線に堪えきれず、僕もミライの方を見る。


 電気スタンドの灯りで微かに見えるミライの顔はやっぱり可愛らしい。僕を見てニコニコとしてる。

 僕も笑顔を返すと、ミライは優しい声で話し掛けてくる。


「何かお話ししましょう、おにちゃん」


 こういう事態になっても呼び方は「おにちゃん」のままなんや。なんでか少し安心してしまう。


「おお、ええで」

「でも、ちょっと遠いわね」


 そう言うとミライはベッドから出て、自分のベッドを引きずって寄ってくる。1メートル程離れてたベッドは30センチ程に近づく。ベッドの端に潜り込んだミライに手を伸ばせば届きそうな距離や。

 電気スタンドの灯りでもはっきりとミライの表情が分かる。


 こっちを見てうれしそうなミライを眺めてると、さっきまでの緊張感も和らいでくる。ハディヤ氏との話しもあったさかい、何から話してええか困ってた僕は取り敢えずミライに手を振ってみる。

 するとミライも手を振ってきて、程なくしてそのまま手と手を合わせる。二人の距離を確かめるかの様にしっかりと手を握る。


 それは自然な流れやった。今まで散々悩んでた事は吹っ飛び、今こうしてミライと手を繋いで一つになってる事が当然かの様に思えて嬉しくなってくる。

 僕の顔に嬉しさが出たんやろう、ミライもとびっきりの笑顔で微笑み返してくる。

 手を繋いでお互いニコニコしてるだけやったけど、それでも充実した時間やった。


 その後、普通に普通の事を二人で話す。この部屋へ来るまでは誰と一緒の部屋やったとか、他は誰と誰が同じ部屋で寝てるとか。


 アズラとメリエムとゼフラが同じ部屋で、アズラ、メリエムがゼフラの面倒を見てる。ミライは、ラビアとエシラと同じ部屋で、いつもラビアと眠るまで話しをしてるそうや。


「エシラは?」


 と聞くと、


「寝るまで本を読んでるよ」


 との事。


 納得や。


 そやけど今日からラビアの話し相手が居らんようになるし、またラビアとエシラはそんなに話が合う様にも思えへんからミライは少し心配してるらしい。

 因みに、男の子はムスタファとオムルとアフメット、ムハマドとカレムとユスフが同じ部屋で寝てるんやけど、時々交代したりして楽しんでるそうや。


 ガディエルさん達は一人部屋で、だから初めは小さな家やったけど継ぎ足し継ぎ足ししていく内に今の様な大きな屋敷になったんやとか。

 他愛も無い事を二人で話してたけど、久し振りにミライとゆっくり話が出来たんでそれでも楽しかった。

 その後は、幼い頃のミライ達家族がここへやって来た時から今までの話しをミライが語ってくれる。


 夜も更けてきた頃、


「そろそろ寝よか」


 って事にして、電気スタンドの灯りを消し、お互い上を向いて寝る。


 月の明かりがカーテンを仄かに照らす静かな部屋。

 ほんでも時々、ミライのクスクス笑う声が聞こえてくる。ほんまに嬉しそうなミライの気持ちが伝わってくる。それに徐々に惹かれていく僕。


 まんまとハディヤ氏の戦略にハマってしもたなぁ。


 そういう冷静な僕も居たけど、それ以上にこの状況を喜んで受け入れてる僕が居た。



 8月30日、金曜日。窓の外が少し明るくなってる。

 ミライが身支度をする音で目が覚める。僕は少し身体を起こしそれを眺めてた。僕と同じ部屋で朝を迎え、鏡を見ながらブラッシングをするミライが愛おしく思える。癖毛なんで丁寧にブラッシングをするんやけど、僕には余り変わらん様に思える。

 それが終わるとミライは振り返る。


「おはようー」

「おはよう、おにちゃん」


 ミライはベッドを乗り越えて来て、柔らかい頬を僕の頬にくっつけて軽くキスをしてくる。


 朝の挨拶かなぁ?


 吸い付く様な柔肌に僕も軽くキスをする。


「そろそろ畑に行きましょうか。身体は大丈夫?」

「ああ、もう大丈夫やで。昨日、稲を運んでも痛くなかったわ」

「よかった!」


 僕がベッドから起き上がると、ミライがサッと僕のリュックに駆け寄り、中からジーパンとシャツを出してくれる。


「あっ、おおきに」


 ミライはそのままシャツを着せてくれようとする。


「いいよ、自分で着るから」

「ううん。着せて上げる」


 そのままミライの言う通りに僕は袖に腕を通すと、ミライが前のボタンを止めてくれる。眼の前にあるミライの頭から、ミライの匂いがした。


 思わずグッと抱きしめたくなる衝動を押さえて、ジーパンを履く。


「おにちゃんの衣装箱が居るわね」

「そうか? 全部リュックに入るけど」

「これからどんどん服を買うでしょ。そしたら衣装箱も要るじゃない」

「う、うん」

「今度の日曜日に仕立てた服を貰いに行く時に、衣装箱も買ってもらいましょう」

「そ、そうかぁ」

「うん、これでよし。顔を洗ってきて。それから畑に行きましょ」


 僕は言われるまま洗面所に行き、顔を洗うとミライがタオルで拭いてくれる。ちょっと小恥ずかしいけど、なんかええ気持ちや。


 ほんで二人で部屋を出る。今日から新しい生活が始まっていく様な気がして、迂闊うかつにも僕はウキウキしてしもた。



 つづく

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