265帖 帰還

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 8月28日の水曜日。

 朝、目が覚めるとそこにミライの姿は無かった。それが何とも残念な気持ちになっていく僕。


 それでも身体の方は寒気も無いし熱も無さそう。喉の調子も普通やし、なんとか風邪を引かずに済んだみたい。


 ミライのお陰やな……。


 着替えて外に出てみると、腰の調子も昨日より断然マシや。


 間もなく東の山の端から太陽が出てこようとしてる。今日は昨日とは打って変わって朝から雲ひとつ無い快晴。


 空気はまだ冷たいけど、今日は暑くなるんとちゃうかなぁ。


 そんな事を考えながら僕は屋敷のテラスに座って畑で作業するみんなの姿を眺めてる。今日は水やりの必要が無いさかいガディエルさんやマンスルさんも収穫の作業をしてる。


 女の子達が収穫作業を終え朝食の準備に戻ってくると、テラスで座ってる僕を見つけて皆笑顔で挨拶してくれる。僕に気づいたミライも溢れんばかりの笑顔で手を振ってくれる。それを見て少しホッとする。


 暫くして朝食の匂いがしてくる。

 もう準備が出来たんかな思てたら、ここに座ってるん僕に気付かずゼフラが畑に向かって走って行く。

 暫くして疲れた様に歩いて戻ってきたゼフラが僕を見つけて駆け寄ってくる。


「キタノ。こんな所に居たの? 下まで走って行って疲れたじゃない。もうホントに……」


 みたいな事を言いながら膨れっ面をしてる。


「ごめんごめん。まだ畑の作業はしてへんねん」

「そうなの。あっ、ご飯、出来たよ」

「ほんじゃ行こかぁ」

「うん」


 僕はゼフラと手を繋いで歩きだす。ゼフラは嬉しそうに笑顔で僕を見てた。


 朝食後はいつもの様に勉強会の家庭教師をして、その後は皆がサッカーをしてるのを中庭のベンチで眺める。昨日は1日外で遊べへんかったから皆思いっきり燥いでる。

 僕も少し庭で身体を動かしてみると昨日よりも更に調子は良さそうやし昼から畑に出てみようと思た。


 昼からは、無花果いちじくとプラムの苗木が届いたみたいなんで、ガディエルさんマンスルさんが苗木の定植するんでそれを手伝う事に。苗木を抑える簡単な作業やけど、久しぶりに太陽の元でかく汗は気持ちよかった。


 夕方の勉強会を見た後は、部屋で大人しく日記を書く。暫く書いてへんかったし思い出すのに苦労したわ。晩飯後も日記の続きを書く。


 晩飯の後片付けも終わるこの時間になると、いつもやったらミライが来るはずなんやけど、今日はなかなかやって来うへん。そのお陰で日記の記入は捗ったけど、なんか物足りん様な気がする。

 僕からミライの部屋に行く訳にもいかず、諦めて電気を消してベッドに潜り込む。

 なんか心にポカンと穴が空いたみたいな虚しさを感じながら僕は眠りに付く。今日はほんまに普通の平和な一日やったわ。



 8月29日の木曜日。


「おにちゃん、朝だよ。おはようー!」


 と元気のええミライの声で起こされる。とびっきりの笑顔で迎えに来てくれたミライを見て、忘れられてへんのやと思て少しホッとする。


「おはよう、ミライ。昨日の夜は……、どないしたんかなぁ……」

「ごめんね。お父さんとお話しをしてたのよ」


 と言うミライの顔はめっちゃ嬉しそうやった。


「なんかええことでもあったんか?」

「そうねー。いいことかもね。うふふ」

「なんやったん?」

「えっと、それは……内緒よ。またね」


 と言うと部屋から出て行ってしまう。僕も着替えて部屋を出た。


 今朝からは僕も畑にでる。みんなに心配されたけど、収穫の手伝い位はできそや。

 ミライと一緒に、トマト、ナス、葉野菜の収穫を手伝うたんやけど、終始ミライは上機嫌やった。

 じっとミライを見てたら目が合うてしもたけど、ミライはニコニコと笑うだけで何も言うてくれん。一体何があったんやろう……。


 今日は勉強会の後も農作業が行われる。みんなで一番下の田んぼの稲刈りや。田んぼに行き、ラヒムさんの指示で稲を刈る。

 日本とはちょっと違う稲刈りのスタイルやけど、僕は思わず実家の稲刈りの作業を思い出してしもた。


 親父に母さん、じいちゃん、ばあちゃんは元気やろうか。


 家族総出での稲刈りの風景を思い出しながら、僕は刈られた稲をトラックに運ぶ作業を手伝う。

 稲は一昨日の雨に濡れたはずやのにもう既にカラカラに乾いてる。乾いてる上に日本の稲より細くて軽い。それを束ねてトラックに積み込む。積み込んだ稲は村に運ばれて脱穀されるらしい。


 田んぼは思ったより広くて、昼飯を食べた後も作業は続く。めっちゃ暑くて汗が滝の様に流れてたけど、それがめっちゃ気持ちよかった。


 陽も傾いた午後の4時頃。あと少しで終わりそうって時に、田んぼの横の道を1台の軍用トラックが荷台にたくさんの兵隊を乗せて走ってくる。


 何事や!


 と思てたら屋敷へ続く道の手前で止まり、一人の兵士が荷台から下りてくると、軍用トラックは走り去って行く。

 それを見てたみんなは、残された兵士に手を振りながら走って行った。


 誰やろう?


 と思いながら僕も近寄って行く。皆に囲まれた兵士のおっちゃんは、ちょっとおっかない顔をしてるけど、皆と笑顔で話をしてる。クルド語で話してるさかい何を言うてるんか分からんかったけど、どうやら名前はハミッドさんと言うみたいや。

 ハミッドさんは一人ひとりに声を掛け、それを受けてみんな嬉しそうにしてる。


 するとボーッと立ってる僕を見つけたハミッドさんは、ガディエルさんにアイツは誰やみたいな事を聞いてる。ガディエルさんは、僕が日本人で最近屋敷にやって来て、泉の水を畑に引いたり農作業を手伝ったりしてるんやみたいな事を説明してくれた。その説明を聞き終わるとハミッドさんは僕に近寄り、


「こんにちは。私はハミッドだ。ようこそKurdistanクルディスタンへ」


 と言うと笑顔で握手をしてくる。顔もいかつかったけど、手もガッチリしてた。

 僕は握手をしながら、


「こんにちは。はじめまして。北野です。よろしくです」


 と言うて挨拶をした。


 その後ハミッドさんは屋敷に向かって歩いて行き、皆は作業に戻る。


 作業をしてると、ムスタファがハミッドさんの事を話してくれる。

 ハミッドさんもこの家の使用人でずっと一緒に働いてたらしい。そやけど政府軍との戦争で戦況が思わしくない様になってきて、そやし若い頃に軍事訓練を受けてたハミッドさんが緊急招集されて1ヶ月程前に前線の街に戦いに行ったそうや。ほんで今日、無事に帰還したという事。ハミッドさんの話しをするムスタファはめっちゃ嬉しそうやった。


 暫くして、稲刈りはまだ残ってたけど、アズラの掛け声で女の子達が屋敷に戻りだす。

 その様子を見てたらカレムがやって来て、


「キタノ。今日の晩ご飯はごちそうだね」


 と言い出す。他のみんなも、ハミッドさんの無事の帰還を祝う夕餉を楽しみにしてる様やった。

 そやけど僕は、ハミッドさんの帰還が何か分からんけど僕自身に大きく影響する様な気がして、少し胸騒ぎがしていた。



 つづく

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