262帖 雷雨

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 8月27日、火曜日。

 朝になっても窓の外は暗い。寝起きは体が固まってるさかい起き上がるのもひと苦労や。諦めてベッドの上で寝たら、ミライが入ってくる。


「おはよう」

「おはようさん」

「体はどう?」

「ちょっと動きずらいんやわぁ」

「わかった」


 ミライが体を支えてくれる。僕はミライに肩に掴まって体を起こす。


「外が暗いねんけど」

「今朝は雨が降ってるのよ」

「そうなんや」

「だから、みんなまだ寝てるわ」


 体が言う事を聞かんのは低気圧のせいか?


「そっかぁ。ほんなら僕も寝よかなぁ」

「寝るのぉ」

「うん。ミライも一緒に寝るかぁ」


 冗談ぽく言うてみたけど、


「私、朝ご飯の準備があるから……」


 とあっさり断られてしもた。ミライは結構まじめやな。


「そっかあ。ほんならまたね」

「うん。次の機会ね」


 クルッと回って部屋を出て行ってしまう。


 あぁぁぁ……。


 ほんまに行ってしもた。ほんならしゃぁないし、もう一回寝るかぁ。


 ゆっくり横になり、布団を被ってホンマに寝てしもた。はっきり憶えてるけど、猫に追い回される夢を見てた。


「おにちゃん! おにちゃん、ご飯だよ」


 とミライが呼びに来る。


「おおきに」


 目を覚まし、またミライの肩を借りて身体を起こす。すると、足元の方からクスクスと笑い声がする。布団を捲ると、


「わぁー! うふふ」


 と悪戯っぽい顔をしたゼフラが出てくる。


「ゼフラ。あなた何してるの?」

「えへへ。キタノと一緒に寝てたのよ。えへへ!」

「もう! ゼフラったら……」


 みたいな話をしてる二人。夢の中の猫はゼフラやった様な気がしてきた。


 ミライとゼフラに支えられながら食堂に行き、朝食を頂く。続いて家庭教師をする。

 その後はまだ霧雨の様な雨が振ってたんで暇そうなムスタファとオムル、ミライ、そしてゼフラまでもが僕のクルド語の先生をしてくれる。

 なんとなく聞き取りは出来そうなんやけど、やっぱり発音は難しい。ゼフラに何度も言い直しされたわ。やっぱり厳しいゼフラ先生。


 男の子らは外で遊べへんし居間でゴロゴロしてる。雨の日のなんとも言えんだらだらとした平和な時間がゆっくりと過ぎていく。


 それでも夕方までには雨が止んだんで、僕は松葉杖を突いて外に出てみる。まだ空には雨雲がゴワゴワしてて、モワッとした湿気のある空気のせいで砂漠である事を忘れてしまいそう。


 マンスルさんやラヒムさんは畑に出て、作物の手入れをしてる。雨のお陰か作物はしっとりと濡れて緑が活き活きしてる様や。雨水を吸ったトマトははち切れんばかりに大きくなってるし、キュウリも巨大化してる。

 僕はゆっくり歩き、東の牧草地に向か合う。


 牧草地は、こんなに草が生えてたっけと思うくらい緑が増えてる。1日見てへんかっただけでこんなに変わるんやとびっくりしてしまう。

 果樹園の予定地では、ガディエルさんが穴を等間隔に掘り、僕が提案してみんなが集めた落ち葉を混ぜて土を戻してる。もう直ぐ苗木が届くらしい。その頃には僕も手伝えるとええねんけどなぁ。


 こうやって歩いてると、少しずつ身体も解れてきたんか歩き易くなってる様な気がする。やっぱり寝たきりはあかんのやろう。

 それならと、一番下の田んぼまで行ってみる事に。


 田んぼでは稲穂が垂れ下がり、もうそろそろ収穫の時期を思わせる。そこだけ見てると日本の田園風景と変わりないけど、その奥の風景はやっぱり砂漠や。ほんでも米が穫れるんやと思うと不思議な感じがする。


 ちょっと歩き疲れたんで岩の上に腰掛ける。やっぱり腰に負担を掛けるとまだまだ痛い。

 砂漠の空に不釣り合いな雨雲が流れてるのを見てた。


「何日ぶりの雨やろか……」


 随分と久しぶりの様な気がする。

 ハディヤ氏が言うてた。


「ここは標高が千メートル以上あって、冬は雪も降るんだぞ」


 ハディヤ氏は更に、


「南に見える山々は二千メートル程の高さがあって、冬が終わっても随分と長く雪が残る。山の向こうの低地の街は40度を軽く越す暑さが続くが、その雪融け水のお陰で人々は生き、そして緑は豊かだ。大地を潤した水はティグリス川になり、やがてペルシャ湾に注ぐんだ」


 と言うてた。


 砂漠に降る雪……。


 想像も出来へんけど、僕はいっぺんこの目で見てみたい気もしてきた。


 そんな事をボーッと考えてたら、南から急に白いカーテンやって来る。いや、さっきから徐々にやって来てたんやと思うけど僕はボーッとしてたし、それが何か認識出来てへんかった。空が青く光り、ゴゴゴーっと音が鳴り響いてる。


 砂漠でまさかの雷雨。


 慌てて岩から立ち上がったら腰に激痛が走る。


 あかん、あかん!


 ゆっくり動き、土手を登る。直ぐ後ろに雨音が聞こえてる。

 屋敷へ急ぐおっちゃん達。まさか僕がここに居るとは思てへんやろし、置いてけぼりになってしもたわ。


 冷っとした風が僕を追い抜くと暗くなり、一気に雨のカーテンに飲まれてしまう。


 砂漠に降る冷たい雨。


 3ヶ月前の吐鲁番トゥールーファン(トルファン)を思い出してしもたわ。

 一人笑ろてたけど、そんな場合やない。もう既にずぶ濡れやけど、早よ屋敷に帰らんと身体も冷えるし、それに雷も怖い。


 急ごうと思うねんけど、そない自由に身体は動かへん。一歩ずつしか出せへん足。それに以外と滑る雨で濡れた砂漠の土。


 急ごうと思えば思うほど焦って滑ってしまう。普段やったら滑ってもサッとバランスを取ればなんとか堪えられるけど、今は不自由なこの身体。腰に力を入れられへんし、とうとう右足が滑って僕は転んでしもた。

 ドロドロの土と雨で跳ね上がる泥水。


 あかん、腰に力が入れへん。


 転んでドボドボズルズルドロドロの僕は、恨めしそうに遠く丘の上にある屋敷を眺めるだけやった。


 しょうがない……。


 松葉杖を地面に突き直して立ち上がろうとした時やった。屋敷の方から激しい雨の中をこっちに向かって必死に走ってくる薄い水色の服が見えた。



 つづく

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