194帖 水が無い……
『今は昔、広く
7月29日の月曜日。
昨夜は星を見ながら夜中の2時位まで喋ってたし、寝坊して起きたんは10時過ぎやった。しかもテントの中は温室の様に暑く、脱水症状になりそうやったんで三雲さんを起こしてテントの外に出た。
今日も快晴で、きつい日差しが僕らを照らし続けてる。遮るもんが一切ないU字谷の底に僕らは居る。
「あっついなぁー」
「ですねー。飯食って早よ下りましょか」
「そうやな」
「ほんなら湯を沸かしてお茶漬けでも……」
と、ポリタンを見ると……水が無い!
水の残量は1リットル少々。お茶漬けに半分使こたら行動中の飲料水は極僅かや。まぁ、氷河まで下りたらなんぼでも水はあるやろうと安易に考え、お湯を沸かし日本から持ってきたお茶漬け海苔を振り掛けてお湯を注いだ。
食べ終わった後、テントを撤収してパッキングし、
暫く行くと眼下に氷河が見えてくる。大きなクレバスの下には溶けて流れる水の白いしぶきが見える。冷たくて美味しそうな水を目指して急な坂を下り始める。
ところが道は途中で消え、落差150メートル位の崖の上に出た。氷河の活動によって削り取られた跡。しょうがないんで東にトラバースしながら降下地点を探る。それだけで汗が吹き出て喉が乾いてきたんで、氷河の雄大な風景なんか見てる余裕は無かったわ。
漸く傾斜した降下可能地点を見つけ、道もステップも無い急な坂を慎重に下る。自分の行きたい方向には当然行かしてくれへんし、あの水しぶきからは段々遠ざかって行くみいたいやった。
100メートル位降下したやろか、下の方には東西に伸びる小道が見えた。そこまで下りて東に向かえばカラコルムハイウェイに行き着くはずやと言う希望が見えてきた。
登山の下りは登りより大変。一歩出すたんびに自分の体重とリュックの荷重が重力で加速され、その衝撃が降ろした足に掛かってくる。昨日の登り下りの疲労と相まって、僕の大腿筋が悲鳴を上げてきた。やっぱり下りでも10メートル下りたらちょっと休憩せんと足が持たへん。既に脹脛もピクピクきてる。それに身体が水分を欲しがってたし最後の一口を飲み干し、一気に氷河の水場まで行くことを決意した。
ところが自然はそんなに甘くは無かった。後20メートル程で小道に辿り着きそうってとこで、またもや崖になってた。トラバースも出来そうに無い。立ってるだけで足場の砂が崩れて落ちていくし、そのうち僕らも落ちてしまいそうやった。
考えたけどなんの術も無かったし、別の降下地点を探すためトラバース出来そうな地点まで登ることにする。少し登って、ちょっとでもハイウェイの近くに行きたかったし東にトラバースしたけどこれが間違えやった。下りれそうなとこは全く無い。そやし戻って西に進む。
なんとか降下できそうな斜面を見つけ、背中を氷河に向けて3点支持で下りる。僕が先に降りて、下から三雲さんに足場や捕まる位置を指示しながら少しずつ下りた。
やっとの思いで小道に下りられたけど水が流れてるとこは見えへんさかい小道を東に進む。喉はカラッカラで口の中も乾き、喋るんも一苦労やわ。目の前に大きな大きな氷の塊があるのに手は出せへんと言うのがもどかしい。
暫く進むと、大きなクレバス隙間から川底が見え、下りられそうな所があった。コバルトブルーに輝く氷河の下から水が流れてる音が聞こえてくる。
「三雲さん。ここ下りれそうやし、下りて氷河の水飲まへん?」
「行けそうやったら、行こ。もう耐えられへんわ」
リュックを小道に降ろし、身体ひとつで川底に下りる。氷で冷やされた冷気が吹いてきてめっちゃ気持ちええ。まさに天然のクーラーや。
川底には大量の水が流れてて、しかもラッキーなことに濁ってない。シェラカップで掬って見たけど無色透明でめっちゃ冷たい!
「これー、飲んでもええやんなぁ」
「うーん……」
この期に及んで生水の心配をしてしもた。
「あのぉ……情報ノートには、この氷河の上流には放牧地があって、羊の糞で汚染されてる可能性があるて書いてあったけど……」
ちょっと心配する三雲さん。
「ええ、まじっすかぁ」
「なんでもランベル鞭毛虫って寄生虫が居るらしいで」
「こんなに大量に流れてるし、冷たいし……。どうやろ」
「うん、大丈夫ちゃう」
「ですよね。それにこんだけの水を目の前にして、もう我慢できんわ」
「よし、飲もか」
「飲も、飲も」
シェラカップの水を一気に飲み干した。
「くぅーー!」
五臓六腑に染み渡る冷水は快感や。堪らずもう一杯飲む。
生き返るー!
次に手で掬って顔を洗う。
めっちゃ気持ちいい!
手を冷水に入れてると痛くなるしタオルを濡らして首筋に掛けると、火照った身体を冷やし、今までの疲れがすーっと消えていく様な感じがする。
また流れを見てたら、たまに小さくなった氷の塊が流れてきてるのんに気が付いた。その一つを捕まえてみると、まるでガラスの様に透明で不純物は一切混じって無い感じ。
何千万年か何億年か知らんけど、大昔に出来た氷を是非食べてみたいと思い、口の中に入れてみた。
地球の歴史が今、僕の身体の中に溶けて入っていく様な不思議な気分やった。
それを見て、三雲さんも氷の塊を手に取って眺めてた。
「大昔に出来た氷を食べたらお腹壊さんかなぁ」
「まぁ、大丈夫でしょう。冷凍されてたんやし」
「そやけど、溶けて大昔の細菌とかが体内で活性化して身体を蝕まれへんやろか」
えらい心配性やなぁ、三雲さんは。
「なんかSF映画みたいやん」
「謎の奇病に掛かる日本人をパキスタンで保護って新聞に載るかなぁ」
「そんなん聞いたこと無いですわ」
「まぁ、そやな。それはないかぁ」
充分に水を堪能した僕らは残ってたチョコレートを食べて、再びカラコルムハイウェイを目指して小道を東に進む。
ところが30メートル程進んだとこで、またしても氷河の活動に行く手を阻まれてしもた。大きな崖崩れで道は消滅し、しかも上から今にも土砂崩れや落石が起こりそうになってる。見てる間にも砂や小石が上から落ちてきてる。
止むを得ず僕らは西に後退して、少し高い所から帰るルートを検討することにした。
つづく
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