パスー

192帖 雨、のち晴れ

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 7月26日の土曜日。

 早朝に起きて窓の外を見ると、辺り一面濃いガスに覆われてた。


 あれ、天気悪いんかな?


 急いでホテルから出てみると、薄明の空から霧雨が静かに降ってた。三雲さんも僕を追っかけて外に出てくる。


「雨かぁ」

「うーん。雨は止むかも知れんけど、登っても景色は見えへんかも知れませんで」

「そうかぁ。ほんならどないする?」

「出発を一日伸ばしてもええですか」

「僕は構へんけど」

「まぁ、様子見て行けそうやったら出ましょう。あかんかったら明日って事で」

「分かった」


 僕らは部屋に戻って寝直し、昼までゴロゴロしてた。昼前には雨も止んで太陽が出てきた事もあったけど、直ぐに雲って暫くするとまた雨が降ってきた。三雲さんと相談していよいよ中止の決断を下ろした。


 それからは食堂で昼飯を食べ、食べた後もそこに居座り日本人旅行者が置いていった小説や漫画を読みながらウダウダと過ごす。三雲さんは情報ノートを片っ端から読んでた。トレッキングが終わったら、南部まで行ってみよかなと呟いてる。


 欧米人の客も昨日と同じ様にのんびりと過ごしてたけど、時折無線機を出して誰かと交信してる。どうやら別動隊がいるみたいで、雨の中このホテルに向かってる様やった。


 ものの1時間程で別動隊がホテルに帰ってきた。雨に濡れて寒そうにしながら中へ入ってきて、皆で無事の帰還を喜んでた。

 僕は疲れ果てて椅子に腰掛けてた奴に声を掛けてみた。


「お疲れさん。あなた達は何処まで行ってたんや?」

「俺達はBaturaバツーラ山群を見に氷河の上流まで行ってたんだ」

「そうなんや。ほんで天気はどないやった?」

「お前達はこれから行くのか?」

「明日、出るつもりや」

「そうか。それなら大丈夫だ」

「おおっ」

「昨日の夜から雨が降り出したが、我々が氷河の端まで来た時は西の空は晴れてたからな」

「そうかぁ。じゃ明日は大丈夫やな」

「ああ、大丈夫だろう」

「おおきに」

「幸運を!」


 明日は何とか行けそうや。


 それならと、まだ時間はたっぷりあるし僕はノートを出してアメリカ陸軍が作った地形図を写す事にする。

 大まかに山頂ピークの位置を配置して稜線を線で結び概念図を描くと、そこに200メートル毎の等高線を書き加える。そうすると、どの方向にどの山が見えるか分かってくる。ただ僕らが歩くであろうPatundasパトゥンダスまでは100メートル毎の等高線を丁寧に写し取った。これで勾配の緩急が判る。

 かなりいびつやったけど、これ位のトレッキングでは差し支え無いやろ。


 そこまで念入りにやると実際の行程が見えてくる。パスー村の標高は約二千五百メートル。幕営予定地の鞍部の標高は三千メートル。途中どんな道か分からんけど朝早く出て順調に行けば鞍部を越えて、その日の内にパトゥンダスの山頂まで行けそうや。

 降りてきて鞍部で幕営。できれば明るい内にテントを張りたいけど多少遅なっても、そろそろ満月やしヘッドライトもあるさかい大丈夫やろう。そしたら次の日は余裕でホテルに戻ってこれそうや。


 三雲さんにその事を伝えると、「任せるわ」と了承してくれた。



 7月28日の日曜日。

 朝の6時に起床し、荷物をパッキングして食堂に行く。ナンをチャイで流し込んで腹を膨らませた。ほんで受付に行って、「明後日には帰って来るから」と不必要な荷物を預かって貰ろてホテルを出た。

 今日は雲一つ無い快晴や。まだ気温も低く涼しい。


 まずは水汲み。一昨日確認した湧き水のとこへ行ってみる。ところが昨日降った雨で広かった河原は水の下に沈み、道路からほんの2,3メートルのところまで濁った水が侵入してた。本流の方は濁流がうねりを上げて流れてる。


「やばいなぁ、急ごかぁ」


 リュックを下ろし水を入れるポリタンクを出す。僕は折りたたみ式の10リットルのポリタンで、三雲さんは2リットルの小さなポリタン。

 河原まで降りるとシェラカップで掬ってポリタンに入れたけど、これがなかなか大変やった。


「北野さん、後ろやばいで」


 後ろを振り向くと、足元まで川の水が侵入してきた。そやさかい慌てて水を汲んだけど、10リットルのポリタンに8分目まで入れたとこで湧き水と川の水が混ざってしもた。

 二人合わせて10リットル。多分この先水場は無いやろから2日間を10リットルで過ごさなあかん。


「これはかなり厳しいかも」

「まぁ、大丈夫でしょう」


 そう言うてる間に川の水はどんどん押し寄せてくる。

 急いで道路まで上がり、ポリタンをリュックに入れて歩き出す。大きな尾根を回ってPasuパスーの村の端まで来ると、ご丁寧にパスー氷河への道標があった。村を通り抜けると、そこから傾斜がきつなってきた。


 森林限界を抜けガレ場を登り切ると、向こう岸まで数百メートルはありそうな大きな池が目の前に現れた。モレーンに、氷河の溶けた水が溜まってできた氷河湖や。結構な水量がありそう。もしモレーンが決壊したらパスーの村は一瞬で流されそうやと、縁起でも無い事を想像してしもた。

 ほんでも初めて見る氷河湖に僕らは感動してた。


 そこから急登を登る。リュックの重量は20キロも無いはずやのに、足取りは重くなってきた。暫くダラダラと生活してたせいで身体も鈍ってる様や。それに気温はまだ21度やのに、日差しのせいでめっちゃ暑い。

 細い登山道を一歩ずつ登って行くと、氷河湖の先にもう一つモレーンが見え、更に登って行くとモレーンの先にパスー氷河が見えてきた。


 氷と言うても白くなく、砂を被って濃い灰色をしてたんで汚い。その代わり所々にあるクレバスは太陽の光を透過して綺麗な青色に輝いてた。それに氷河の向こう岸の尾根の上には、白いUltarウルタルShispareシスパーレの頂きが見えてる。それだけでもワクワクしてきて僕は更に先を急いだ。


 今まではパスー氷河に沿って登ってたけど、ここからは鞍部に向かって氷河から離れる。丁度尾根を直登する形になるし、傾斜は更にきつなる。

 標高差で100メートル位やけど一歩ずづつ確実に登ること1時間。漸く傾斜は緩くなり鞍部の取っ付きに来れた。


 鞍部はかつて氷河が削ったであろう綺麗なUの字になってる。これがU字谷や。ほんまに綺麗な形で少々おどろいてしもた。この鞍部は傾斜も緩いんで背の低い草も生えてて放牧にも来てるんやろか、南北の斜面には獣道も付いてる。石を集めた囲いなんかもあった。


 パスー氷河とバツーラ氷河の中間点まで来ると地面は水平になってる。幕営に良さそうな場所を探し、そこでリュックを下ろし昼食にした。昼食はビスケットとチョコレート。ついでにお湯も沸かして、スティックのインスタントコーヒーを入れる。


「まさかこんなとこでコーヒーが飲めるとはなぁ」


 と、三雲さんはえらい喜んでくれたわ。

 ゆっくりと昼食を食べ、景色を楽しみながら休憩をした。


 お腹もこなれてきたとこでいよいよパトゥンダス山頂へのアタックや。荷物はここに置き、サブザックに水と行動食とカメラを入れて再び歩き出す。


 鞍部中央のここから最短ルートで頂上を目指すと三千八百メートル位でめっちゃ急になってるんで、先ずは北の緩やかな尾根を目指す。荷物は軽なったんやけどその分、空気が薄なってきたんやろ歩く速さは然程変わらんかった。

 北の尾根に取り付くと、今度はバツーラ氷河が見えた。流石は極地以外で最大で最長の氷河や。幅だけでもパスー氷河の3倍の千五百メートル位ある。


「なんともでかい氷の川やなぁ」


 と当たり前の事を口にしてしもた。

 もちろん砂で汚れてるさかい、濁った海のうねりの様に見える。それでも上流の方は少し白くて綺麗に見えてる。明日はそこまで降りて帰るんやと確認して更に上を目指す。


 そこからは水を飲むだけの休憩以外に喋りもせず、ひたすたら登り続けた。高度三千九百メート位で南東からの尾根と合流した。

 そこからはShispareシスパーレUltarウルタル、遠くにRakaposhiラカボシDiranディランの頂きまで見えてる。眼下にはパスー氷河の白い部分や、東には小さくパスーの村が一望できた。


「もうちょっとですわ。がんばりましょう」


 とは言うものの実はさっきから頭が痛い。多分軽い高山病やろ。まだふらついたり吐き気がしたり耐えきれん程の痛みも無かったし、水だけ飲んで休憩した。


「三雲さんは頭、痛無いですか?」

「いや、全然どうもないけど」

「そっかぁ。三雲さん、初めての登山にしては強いなぁ」

「そやけど大分しんどいでぇ」


 そう言いながらもしっかりと僕に付いてくる。最後の力を振り絞って小さなピークを越えて200メートル程行くと、小さなケルンのあるパトゥンダスの頂上に着いた。



 つづく

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