171帖 過酷な夜

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



「そろそろ代わろか」

「はい、ありがとうご……。あっ、ちょっと待ってください」

「どうしたん」

「バスが来ました」

「おお! もう来たかぁ?」


 遠く陽炎の中から、紛れもない1台のギンギラバスがこっちへやって来る。そして僕らが立ってるロータリーに進入して来て目の前で停まった。


「このバスはQuettaクエッタ行きですか」

「……」


 運転手のおっちゃんは首を横に振るだけやった。


「ああ、違うのか……」

「しゃぁないな。今度は僕が見てるし陰で休んできて」

「お願いします」


 僕は陰一つないベンチに腰掛け、道路を眺める。太陽がジリジリと照りつけ、じっとしてても体力が奪われていく。

 この後はバスはおろかトラックすら通らへんまま時間だけが流れていく。中山くん、多賀先輩、そして2回目の南郷くんと順番にバスの見張りをしてたけど、バスは全く姿を見せなかった。


「バス来るんかなぁ」


 そろそろ太陽も地平線に近付いてきてて、いくらか日差しは弱まってた。何にもせんとただ待ってるだけやけど、この暑さで体力は限界に近付いてる。


「明日かなぁ」

「夜に来たらどうします」

「まぁ、日が暮れたら皆んなでベンチに移動して座ってたら、運転手には分かるやろ」

「そうですね」

「あと1時間位で日没やな」

「それまでに来てくれたらいいですけど」

「あはは、多分無理やろ」


 なんの根拠も無かったけど、来る言うてて来んより、来うへん言うてて来た方がええと思てそう言うただけ。


「そや。僕のリュックにバナナが入ってるし、みんなに配ったげて」

「はい、分かりました」


 その時、トラックが2台通り過ぎて行った。そして反対側からも1台。少し交通量が増えだした、と思てたけどそれからは1台も通らんかった。


 太陽が大きな夕日になって遥か地平線に沈む頃、僕らは荷物を持ってベンチに移動した。これで乗客が待ってるとバスの運転手には伝わるやろう。

 僕はリュックを枕に少し横になる。太陽が沈んだ分、少し過ごしやすい気温になってきた。


 僕がウトウトしだした時、山中くんの大きな声が聞こえた。


「来ました!」


 1台のギンギラバスが僕らの横で停まった。


「これはクエッタ行きですか?」

「そうだ」

「乗ります!」

「来ましたよ、クエッタ行き!」

「よっしゃー、乗るぞー」


 荷物を持って慌ててバスに乗り込む。乗客でほぼ満員状態。仕方が無いので一番うしろの席に4人で座る。うーん、酔ってしまいそうで少し不安。


「やりましたね」

「へへー」

「2時間待っただけで乗れましたね」

「ええんちゃう」


 バスは走り出した。何とかバスに乗れたという安堵感で僕らはホッとしてたけど、それは直ぐに消し飛ばされる。僕らの丁度頭の所にスピーカーがあって、そこからパキスタン音楽が大音量で流れてきた。隣の多賀先輩と話そうとしても普通に話してたら全く聞き取れへんし大きな声で話してやっと聞こえる、それくらいの大音量で音楽が鳴らされてた。


 そんでも1時間程走ったとこにあるオアシスのドライブインでお祈り兼夕食の休憩になる。バスを降りてもまだ頭の中に音楽が流れてて、そんな状態で晩飯のカレーを食べる。


「まじでうるさかったですね」

「ちょっとボリュウムを下げてくれたらええんやけどな」

「僕の真横にスピーカーがあるんですよ。しかも音が割れてましたよ」

「音でか過ぎや」

「クエッタまで、この状態が続くんですかね」

「そうやろ。就寝時間になったら消してくれるんか」

「うーん……」

「でも、これでクエッタに行けますから、我慢しましょう」

「そうやな」

「これも試練です」

「よっしゃ、がんばろ」


 試練なんていらんし頑張らなくてもええ様に普通に旅がしたいけど、ここはパキスタンの砂漠の中。そんなことを所望しても叶うはずは無かった。


 その後もバスはガンガンに音楽を鳴らしながら闇夜の中を走って行く。ただ唯一救われたのは気温が下がってきたこと。窓から入ってくる風は涼しく気持ちよかった。これで音楽が無く、フカフカのベッドで寝られたら最高に気持ええやろ。いや、ベッドは無くてもええさかい、せめて音楽だけでも無くなってくれたらという叶わぬ思いが込み上げてきた。


 多分誰しもそう思てたと思う。


「ああ、もう我慢ならん」


 と切れだしたんは山中くんやった。


「うー、うるさいうるさいうるさいー」


 寝られへんのやろう、頭を掻きむしってた。


「ボリュウムを小さくして下さい」


 と大声で言うてたけど運転手までは届かへん。南郷くんも大声を出してアピールしたけど無駄やった。まぁうるさいと言うてるんは僕らだけやったけど、他のパキスタン人の乗客はどう思てるんやろう。うるさくないんかな?

 チラッと前の席に座ってる人を見たけど、首をコクリとしながら寝てた。慣れてるんか心地ええのんか分からんかったけど、周りの人は別に気にしてる風はなかった。


 山中くん南郷くんはそれからも訴え続けたけど、埒が明かんと思たんか前の運転席のところまで行ってしもた。

 暫く交渉の末、少し……、ほんの少しやけど音量が下がった様に思う。


 ところが暫くするとまた同じ様な音量に戻ってしもた。頭にきた山中くんは大声を出してたけど、なんの反応もなかった。そのうち彼が被ってた帽子をスピーカーに被せて押さえつけた。そやけどいくら押さえつけても効果はなく、パキスタン音楽が鳴り響いてた。


「もう、何とかしてくれーこの音楽!」

「うるさずぎー!」


 と山中くんと南郷くんは文句を飛ばしてる。その気持は僕も一緒やったけど、なんとなく言いたくなかった。それを代弁してくれたんは多賀先輩や。


「多分、こんな風に音楽を鳴らすんはパキスタンの習慣ちゃうかなぁ。そやし我慢しよか」


 その言葉以降二人は静かになり、ちょっと反省してるみたいやった。そういう事を分かってくれるだけ、山中くんと南郷くんはええやつやと思たわ。


 ほんでも我慢できひん事は我慢できん。午後11時を回った頃、僕は猛烈に眠たくなったきたけど、この音楽とバスの揺れでなかなか眠れへん。他の3人は上手いこと寝てたけど、僕は姿勢が定まらず眠たいのに寝られんという苦痛。なんとか姿勢を保ってウトウトするけどバスの激しい揺れで目が覚める。

 もしこれで景色でも見えたらまだ何とか時間を潰せたと思うけど、外は真っ暗闇やしなんも見えへん。

 ただ大音量の音楽とバスの揺れで僕を寝ささないという拷問でしかなかった。


 辛く苦しい拷問が何時間も続いて体力的にも精神的にも参っていたけど、かろうじて発狂しそうなんを残り少なくなった理性が押し留めてた。

 アクビは出るけど眠れない。激しいリズムと大音量の音楽が容赦なくその残り少ない理性を蝕んでいくのが分かった。あと何時間耐えたらええんやろうと思い、時計を見る。


 7月5日の金曜日、午前2時41分で、あと2時間もすれば明るくなってくる。それを希望に何とか頑張ろうと思てたけど、生アクビが出ると音楽のせいで頭の思考が止まってきた様に思えた。思考が止まったせいでさっき迄しんどかった身体がふわふわしてきたのは、もしかして「トランス状態」に入ってしもたんやろか。意識が遠のき、身体が軽くなってきた。


「ぷはーっ!」


 目が開く。トランス状態でもなんでも無くて寝てただけやったみたいやけど、首が落ちてたんか息苦しくて目が覚める。辺りは薄っすらと明るくなってた。


 ここはどこやろう?


 右も左も綺麗に重なった地層が見える事を考えると、どうやら谷間を走ってるみたいや。それに窓から入ってくる風は冷たく、寒気すら感じることから高度も大分上がってるみたいや。


 暫くするとバスは減速し、何も無い路肩に止まった。時刻は6時前で、朝のお祈りの時間。みんな降りると思いきやお祈りをしないパキスタン人も何人か居る。僕もバスから降り、思いっきり背伸びをすると腰と首に痛みが走った。軽くストレッチをしてタバコを吹かしてると、東の稜線がくっきりと見え始める。


 朝が来た。


 眠気と疲労と大音量の音楽の過酷な夜を征した僕は、何となく晴々した気分になれた。あとどれ位掛かるか分からんけど、もうすぐクエッタに着くと思うとこの過酷なバス旅も面白かったなぁと思えるようになってきた。


 が、それは間違えやった。お祈りの後、バスはまた大音量の音楽を掛けてひたすら山間の砂漠をひた走る。「もうすぐ着くんちゃうかな。もうすぐかな」と思いながらも街は見えず、バスはまた何時間も走り続けた。


 それから4時間、精魂尽き果てた頃にバスは大きな街に入った。バザールの近くを通るってるんやろう、肉の焦げた美味しそうな匂いや果物の甘い香りがしてきたけど幻覚かどうかも分からん状態でボーッとしてたらバスは急に曲がり、停止してエンジンが止まった。


 そこはクエッタの駅前のバスターミナルやった。

 僕らは遂にやった。ガイドブックにも載ってない未開のルートでペシャワール・クエッタ間のバス旅を完遂した瞬間やった。



 つづく

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