169帖 灼熱のペシャワール脱出に向けて

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 目を開けると天井は無かった。薄明るい空にはまだ星が輝いてる。


「さぶっ!」


 屋上で寝てた僕は体を起こした。横のベッドでは従業員のおっちゃんが古い形式のライフルと共に寝てる。昼間はあんなに暑かったのに、早朝のペシャワールはめっちゃ寒い。僕は冷え切った体を擦りながら3階の部屋に戻った。


 7月3日、水曜日。まだ4時過ぎやと言うのに部屋でゴゾゴゾしてる人が居る。井之口さんや。

 今日、日の出前に出発すると言うてたな。


「おはようございます」


 まだみんな寝てるから小声で話す。


「おはよう」

「もう出発ですか」

「昼間は暑いからね。日の出前に距離を稼ごうと思ってね」

「なるほど。あっ、手伝いますね」

「ありがとう」


 僕は荷物を1階へ運ぶのを手伝う。ホテルの外で自転車に荷物を積み込むと、井之口さんは準備運動を始めた。そしてカロリー補給食を食べ、水を飲むと自転車にまたがる。


「カイバル峠は面白かったね。あの事は本に書くよ」

「是非お願いします」

「単行本ができたら買ってな。何時になるか分からないけど」

「ええ、絶対買いますよ。それと、気ぃ付けて行って下さいね」

「ありがとう。それじゃー」


 両サイドに沢山の荷物を付けた自転車が動き出す。まだ誰も歩いてない通りを井之口さんは物音も立てずに一人朝靄のペシャワールを進んでいく。50メートル程行ったところで井之口さんは左手を上げて振ってくれる。ぼくは見えなくなるまで背中を追った。

 ペシャワールの空気はまだちょっと寒いくらい涼しかった。



 部屋に戻って二度寝をしたけど、9時過ぎには暑くて目が覚める。今朝の少し寒かったんが嘘みたいにとにかく暑い。暑い。暑い!


「あっついなぁ」


 多賀先輩も起きてきた。


「ほんまですね。今朝はめっちゃ涼しかったのに」

「あれ、井之口さんは?」

「日の出前に出発しはりました」

「そうなんや。そやけどこんなに暑いのに、自転車やなんて大変やろなぁ」

「まぁ、暑いのには慣れてるって言うてはりましたけどね」

「こんなん、歩くのも大変やで」

「ですよねー。あっ」


 僕は温度計を見てびっくりした。


「もう36度越えてますやん」

「なんじゃそりゃ」

「おはようございます」


 山中くんと南郷くんも起きてきた。


「今日は最悪に暑いで。昼には40度超すんとちゃうかな」

「まじですか」


 折角起きたのに、山中くんも南郷くんもまた横になる。またうだうだする時間が始まった。


「そろそろ何処かへ移動しましょうかぁ」


 折角慣れてきた街やけど、そろそろペシャワールを出るのもええかも知れん。


「どっかええとこあるか」

「そうですねー。西に高原があって、そこにQuettaクエッタって大きい街があるんですよ。確か標高が千七百メートルぐらいだから、ここよりは涼しいと思いますよ」

「ええやん、それ」

「それにイラン行きの列車もクエッタから出てますからね。丁度都合がいいですね」


 ガイドブックの地図を見てたら山に囲まれた盆地にクエッタと言う街があった。アフガニスタンとの国境も近い。ここから南西方向に行けば最短ルートで行けそう。


「でも、そこまでどうやって行くんや」

「えーとですねー、前に行った時は列車で行きましたね。ラワールピンディまで戻って、そこからパキスタンの南部をぐるっと回ってクエッタに行く列車があります」

「なんか勿体無いなぁ。ペシャワールから直接クエッタに行くバスは無いんかな。その方がめっちゃ近いねんけど」

「そうですね。ちょっと探してみましょうか」

「なんとなく在りそうですね。ガイドブックにも載ってない、新ルートの開拓だ」


 南郷くんはかなりのやる気の様や。このバスのルートを開拓して、日本に帰ったらガイドブックの会社に投稿すると意気込んでる。


 昼過ぎに僕らは朝昼兼用の昼飯を食べに行き、その後、僕と多賀先輩はバス旅の買い出しと先日借りたイラン情報のコピーをしに、そして山中くんと南郷くんはバスルートの調査に向かった。


 昼の一番暑い時に僕らはレストランを出た。街の中でも陽炎がでるくらいの暑さで、僕のウエストバッグに付けてる温度計は45度を指してた。


「なんか息するだけで肺が焼けそうですわ」

「ほんまやな。ほれ見てみ」

「へ?」

「街中、誰も歩いてへんで」

「ほんまや」


 街のメインストリートのSaddarサダル Roadロードですら、誰一人歩いてなかった。


「今日みたいな暑い日は、みんな出歩かんのでしょうね」

「歩いてるんは観光客だけやな」


 確かに、通りの向こう側の陰を歩いてるんは、欧米系のバックパッカーやった。「暑いなー」といいながらコピー屋を探したけど、なかなか見つからへん。とうとう気温は47度に達した。


 あまりにも日差しがキツイんで、ある店の軒先で雨宿りならぬ「日宿り」をしてたら、店の店主に声を掛けたれた。


「こっちへおいで。ここは涼しいぞ」


 少しビビりながらも階段を降りて半地下になってる店に入った。その店は絨毯屋やった。


「さーここへ座りなさい」

「どうも」


 このおっちゃん、着てるもんは一緒やけど、顔からしてそこら辺のパキスタン人と雰囲気が違う。隣にも同じ様な顔つきの青年が大人しそうに座ってる。


「何処から来たんだ?」

「日本から来ました」

「おお、ヤパンかぁ。よく来たなぁ。まぁチャイでも飲みなさい」


 ティーポットから入れてくれたチャイは、いつも飲んでるミルクティーと違ごて色の濃いストレートティーやった。もしかしたら絨毯を買わされるかも知れんと思て警戒してたのに、多賀先輩は直ぐに飲み始めた。


「いただきます」

「さー、あなたも飲みなさい」

「えっ、ええ」

「何も絨毯を買ってくれと言ってるんじゃない。少し話がしたいだけだ。ははは」


 警戒してる事はおっちゃんにはお見通しの様やった。それじゃってことで、僕は座り直してチャイを頂いく。濃いストレートティーは甘く、紅茶というより少し鼻にツンとくるハーブティーの様やった。天井の大型扇風機からは、涼しい風が送られてた。


「これは?」

「あはは。これはアフガニスタンのチャイだ」

「ってことは、おっちゃんはアフガニスタンから来たんですか」

「そうだ、アフガニスタン人だ。それにここで売ってるのはアフガニスタンの絨毯だ。他の物よりいいぞ」


 いろいろと見せてくれるけど、中国の新疆シンジィァンでウイグル族が売ってたものや、北部パキスタンのフンザやギルギットで売ってたものと比べても模様は格段に複雑で、しかも少し分厚く見えた。いいもんやと分かったけど、おっちゃんはこれを買えと言うてくる事は無かった。と言うより「買えるもんなら買うてみろ」みたいな感じ。よっぽど高級なんやと思う。

 そやから四畳半ぐらいの少し小さめの絨毯を指差し、これはいくらかと聞いてみた。

 返ってきた答えはなんと千二百ルピー。何日パキスタンで生活出来るやろうと思てびっくりしてたら、おっちゃんはずっと笑い続けてた。ほんまなんか、からかわれてるんか分からかったけど、僕らも苦笑いをするしか無かった。ほんでも、買おうと思たら買えるねんけどなぁ……。


 それからはいつも通りの身の上の質問攻めに遭うた。その時多賀先輩は、スストで大分懲りたんか自分の宗教の事を「buddhistブッディスト(仏教徒)」と答えてくれたんでホッとした。

 一通り話が終わると、隣にいた青年が、


「私の店にも来てくれないか」


 と言うてきた。


「何の店や」

「銀のアクセサリーを扱っている。是非見て欲しい」

「多賀先輩、行きますか?」

「まぁ行ってみよか」


 青年の店は同じく半地下の隣の店。絨毯屋より遥かに小さい店やったけど、品数は豊富やった。先日、Khyberカイバル Bazaarバザールで売ってたバッタモンより遥かに精巧で輝きも違ごた。これはほんまもんや。


「どうです。これなんかいいでしょう」


 と指にはめてきた。確かに格好ええけど僕は別に要らんしあんまり反応せんかったけど、多賀先輩は何となく欲しそうな雰囲気やった。


「これはアフガニスタンの職人が一つ一つ手作りで作ったものだ」


 それならといろいろはめてみた結果、多賀先輩は60ルピーの指輪を購入した。多賀先輩がそこまですると僕も欲しくなってしまう。


「あなたはどれにします」


 と聞いてくるし、僕は日本に居る美穂へのお土産にできたらと思い女性用の指輪が欲しいと言うた。いくつか出してきた中で、シンプルでしかもエスニック感が漂うものを選んで値段交渉をする。その結果は10ルピー負けてくれて40ルピーで購入出来た。なんの保証書もないけど、アフガニスタンにも入ったことやし、ええ土産になったと思て店を出た。


 やっぱり外は暑い。日差しがきつくて頭もクラっと来そうやったけど、なんとかコピー屋に辿り着いた。流石にこの暑さでは客は来うへんのやろ、店主は昼寝をしとった。申し訳ないが起きてもらって僕らは無事に山中くんに借りてたイラン情報をコピーすることができた。


 次に僕らは、明日からのバス旅での行動食を求めバザールへ向かう。流石にバザールは日陰になってるんでそこそこの人通りはあった。僕らは果物や飲料水を確保してホテルに戻る。


 シャワーを浴びてゆっくりしてたら、山中くんと南郷くんがヘトヘトになって戻ってきた。

 かなり苦労したらしいけど、有力な情報を掴んだと自信満々やった。早速、明日から始まるクエッタ直通ルート攻略の作戦会議になった。



 つづく

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