144帖 ウルタル
『今は昔、広く
6月21日、金曜日。
7時に横山くんと雨森くんを見送った後、僕らは食堂へ向かう。
「アッサームアライクン」
「アッサームアライクン」
「今日のカレーは何ですか?」
「ベジタブル」
無口なおっちゃんの答えはその一言やった。カレーとナンとチャイを頼み、僕は山岳写真集をめくった。
「ウルタル、ウルタル……」
あったあ!
そう思いながら、写真集を多賀先輩に見せた。
「多賀先輩、これがウルタルですよ」
「どれ」
と多賀先輩が写真集を覗き込んでたら、オーナーのじいさんが料理を運んで来てくれた。
「アッサームアライクン」
「アッサームアライクン」
「山を見に行くのかね」
「ええ」
「これは『
「そうやったんですか! 因みに何て人ですか」
「同じ日本人なのに知らないのか」
雑誌に載ってたかなぁ。
「確か……、ハセガワだったかな」
「長谷川かぁ」
残念ながら「長谷川」と言う登山家は僕の記憶には無かった。
「ああ、長谷川恒男や。雑誌で見たわ」
多賀先輩は憶えてるし、なんか悔しい。
「そのハセガワが、今年も登りに来るぞ」
「へー、そうなんや」
「会えるかな」
「秋に来るらしい」
「そうなんやぁー。秋まで居てよかなぁ、パキスタンに」
「まだまだやぞ」
「そやけど見てみたないですか、ほんまもんの登山隊を」
「そーやなー、まぁその間にパキスタン周っといたらええしな」
「でしょ」
「さー、お上がり。焼き立てのナンが冷めてしまうぞ」
「はい、いただきます」
相変わらずヒィーヒィー言いながらカレーを食べ、チャイで辛さを中和する。
食べ終わった後は、部屋に戻り氷河のトレッキングと言うことで、サブザックでの軽装の準備をした。
多賀先輩と部屋を出て、道路を上がる。これがなんともきつい坂道で、50メートル程歩いた所にある売店で早くも小休止。いや、行動食の買い出しや。
ビスケットとパックのジュース、ミネラルウォーターに、日本から持ってきたカートンが心元なくなってきたんでタバコも買うた。
タバコはまさかの日本の銘柄。こんな所で売ってるとは流石は日本たばこ、と思いきや表記は全て英語で、側面には「Government of Afghanistan」と書いてあった。日本からの援助物資でタバコが送られてるんは容易に想像できたけど、パキスタンの北部で売られてるちゅうことは「横流し」されたもんなんやろか。日本で買う半分ぐらいの値段で買えた。
買いもんで息が整ったんでペースを上げて登る。
大きくて立派な高そうなホテルを横目にどんどん登って行くと、お土産屋さんがあった。また後で買いに来ようと思て、その前を通過。
二手に分かれてる道の右に入って少し行くと、学校らしき建物に遭遇する。石積みの壁で覆われてて、入り口は木製のドアでしっかりと閉められてる。授業中なんか、小学生らしき声が響いてた。門の形もドアの形もイスラム様式で興味深い。写真を撮る振りをして休憩し、また歩き出す。
更に傾斜は急になり、普通の登山道と大して変わらん。そこを登り切ると
「中へ入ってみます」
「そうやな、面白そうやん」
門に近づくと、中に人の気配はするんやけど、ドアは閉まってる。壁に「ようこそ、バルティットフォートへ」と言う日本語の看板があったけど、その上に張り紙がしてあった。
「多賀先輩、今、修理中で入れへんみたいですわ」
「なんや、折角来たのに」
「まぁしゃーないですわ」
「ほんなら、先、急ごか」
お城をグルっと回り込む感じで歩き、裏手にでた。一旦下がったあと道は細くなり、本格的な登山道の様相を呈してきた。
谷間に入り、右手下方に氷河から流れてくる濁った川を見ながら慎重に足を運ぶ。足を踏み外すと20メートルは滑落しそう。
上流からは、氷河で冷やされた冷気が舞い降りてくるけど、僕らは汗だくになりながら進んだ。
更に道は細くなり、幅が30センチ程になった。
道の左側には用水路があって、氷河から引いてきた水をカリマバードの村へ供給してる。もちろん水は灰色に濁ってた。めっちゃ細かい粒子が流れてるんやろう、シェラカップですくったけど沈殿する様子は無かった。
たまに光でキラっと反射するんは黒雲母なんやろう。そやけど、その粒子すら見えへん。
沈殿槽でも沈殿せんやろから、そのまま村の上水道に供給されてるからホテルの水道の水も濁ってたんや。
用水路の観察も終わって、再び歩き始める。岩を一段づつ登り、高度を上げていくと、少し広くなった所にケルンがあった。誰が置いたんか判らんけど、木札には「elevation 3,000m」と書いてある。
「もう三千メートルまで来ましたで」
「早いな」
「まぁバルティットフォートで二千五百位ですからね」
「そんなにあったんか」
「あっ、あれみて下さい」
「おおー」
背後の真南には、高く聳える
「めっちゃ格好ええですやん」
「そやな。これ見れただけで、ここへ来た価値あるやんけ」
「ですよねー」
ディランを眺めながら僕らは水を飲み行動食を食べる。写真を取り終わると、また歩き始めた。
そこからは徐々に足場が悪なってくる。それでも横に用水路があるし、それに沿って岩場を登っていく。これは登山道や無いでと思たけど、先頭を歩く多賀先輩は歩みを止めへんかった。
左の眼下には、谷底の岩やと思てたのんが、実は砂や石や岩が載っかってる氷河やと気付いたんはもう少し登ってからやった。
「多賀先輩、あれ見て下さい。谷の右の斜面」
「おお、なんや」
「あっちが登山道とちゃいます」
「ほんまやな。どこで間違えたんや」
「さっきのケルンから、谷を渡るんやったんとちゃいますか」
「そやな」
「どうします。戻りますか」
「こっから戻ったらめっちゃ時間掛かるし、トラバース(横断)しよか」
「ほんならザイル出しますで」
「よし、アンザイレンでいこか」
ザイルを出し、お互いの身体を結ぶ。ほんでまず谷底目指して50メートルほど下った。
ここからが問題。氷河をトラバースするんやけど、クレバスがあると危険やし慎重に歩く。氷河はそれこそ水と同じ灰色に汚れてたけど、所々コバルトブルーに光ってた。そういうとこはクレバスか氷が薄くなってる部分やし、なるべく避けながら進んだ。幅は7,80メートルぐらいやけど、トラバースに20分位かかってしもた。
反対側の斜面に取っ付くと今度は直登。岩登りの要領で3点支持で一人ずつ登る。途中落石もあったけど、無事登山道に復帰できた。登山道と言うても一歩間違えると谷底に落ちそうなくらい狭い。そうやしアンザイレンのまま進むことに。
そのまま進むと、左手に氷壁が見えてきた。登山道は岩場になり、そこを登り切ると氷河の上に出て、そこで道は無くなってた。ただ氷河の上に人が歩いた跡があったんでそこを進み、尾根を回り込むと……。
「北野、あれ
「ええ、あっ! あれですわ」
目の前に、雪を抱いたウルタルの尖った頂上が現れた。それは太陽の光を浴びて輝いていた。
「なんと」
「ですよね」
僕らは暫く口を開けたまま仰ぎ見てた。空ひとつない青い空に、その頂上からは白い雪煙が舞い上がってるんが見えた。
「来ましたね」
「来たなぁ」
「ほんまですね」
「ほんまやな」
僕らは話になってない言葉を交わすしか出来んかった。ウルタルの頂きは、僕らを放心状態にさせてた。
僕らの技量では決して登ることが出来へん山やけど、数キロ先にその山が見える。ほんまになんとも言えん光景やった。山を見てこんなに感動したんは初めてや。多賀先輩も多分そうやと思う。そやかて、僕ら二人は暫く絶句してたから。
ウルタルを十分堪能した僕らは我に返った。
「ほな飯にしよか」
「飯は持ってきてませんけど」
「なんでもええがな、行動食でも食べよ。このまま帰るんはもったいない」
「了解です。チョコレートとビスケットやったら余ってますし」
僕ら二人は氷河に落ちてる落石に座り、行動食を食べながらウルタルを見てた。
その後、「山の天気は変わりやすい」ていうのんは良う分かってるけど、それを改めて体感させられた。座って10分も経たんうちに稜線を越えてきた風が雲を作り、そして山頂を隠してしもた。そのうち雲は山頂を覆い尽くし完全に見えんようになってしもた。
「一瞬でしたね」
「ほんまやな。金払ろてないし、ここまでとちゃうか」
「えっ!」
「いや、金払ろたらもっと見せてくれるんかなぁと思ただけや」
「ああ、なるほどね」
多賀先輩の感性に時々付いていけへん様になるけど、僕自信はなんとなく「山は生きもんなんや」と思てた。
雲はこの谷にも侵入してきた。谷の両脇の山のすぐ上まで雲で覆われてくる。そやけどそれより下に雲が来ることは無かった。
ただ、冷んやりとした空気が乾いたなま温かい風に変わってきてた。
天候が荒れたら敵わんし僕らは下山を始める。バルティットフォートの手前まで戻ってくると太陽の日差しを再び浴びることができた。南に見えてたディランはもう雲の中やったし、僕らはそのままホテルまで戻ることにした。
ここまで降りてくると、暑くて汗が滲み出ててた。
つづく
※1991年の10月にウルタルで亡くなった長谷川恒男さんのご冥福をお祈りします。
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