143帖 中段構え

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



「アッサームアライクン」


 その老人は親しげに握手をしてきた。


「その人はこのホテルのオーナーですよ」


 と雨森くんが教えてくれた。


「アッサームアライクン」

「ようこそホテル・フンザへ。元気かい?」

「ええ、元気です」

「おお、いいことだ。それと……、フンザはいいとこらだから、ゆっくりしていってくれ」

「はい、ありがとうございます」


 この白髪のじいさんがオーナーで、無口のおっちゃんは雇われてるホテルの従業員とのこと。


「明日の朝、食事に来るか」

「はい、朝食は食べます」

「では、待ってるよ」

「はい、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 僕らは食堂を出て部屋へ向かう。街灯は無かったけど、月明かりでほんのり明るかった。別棟の隙間をでると、ラカボシやディランの山々がシルエットとして浮かび上がってた。背景の漆黒の闇に数え切れんほどの星が輝いて、まるでプラネタリウムか写真集を見てる様に綺麗やった。


「綺麗ですね」

「そやな」


 暫く多賀先輩と静かに眺めてると、欧米系の二人がホンマに酒に酔ったように大声を上げながら食堂から戻って来て、折角の静寂が台無しになってしもた。

 その二人は頻りに何か言うてたけど、そいつらの英語は聞き取れん。何かを言うては笑い、涎を垂らしながら喋ってきた。それは不快以外の何でも無かった。


「中、入ろや」


 と多賀先輩が言うてきたんで僕はそいつらを無視して多賀先輩に従った。



 部屋に入ると裸電球をつけ、ベッドに座った。さっき食堂から借りてきたあの「情報ノート」をめくってみた。


「はは、結構面白いこと書いてますわ」

「そうか。ほんで明日どうする?」

「ちょっと待ってくださいよ」


 僕は「フンザ」って書いてあるカリマバードの地図のページをめくった。


「えーっと、ホテルから上に登っていくとBaltitバルティット Fortフォートって言うお城が有りますわ。ほんで、その先にUltarウルタル氷河がありますで」

「おお、ええやんけー。ほな明日行こか」

「了解です」


 多賀先輩はシュラフを毛布の間に挟み、寝る準備をしてた。


「ええ、もう寝るんですか?」

「おお。北野は何すんねん」

「このノートを写してから寝ますわ」

「おっしゃ。ほんなら頼むで」

「はいー」


 リュックからノートを取り出し、暗い電球と窓から差し込む月の明かりで「情報」を自分のノートに写し始める。電球より月の明かりの方が色温度が高いんか、ハッキリと見えた。

 外では欧米人が相変わらず訳の分からん歌を陽気に歌って騒いでる。


 ノートには、カリマバードの他、GulmitグルミットPasuパスーGilgitギルギットの村の情報や、トレッキングコースが詳細に書かれてた。何故かネパールのPokharaポカラの地図と情報も書かれてる。ポカラから来た日本人が書いたんやろ、僕も行くチャンスがあったらネパールに行って本場のヒマラヤを味わってみたい。その日が来るのを楽しみに、一応それも写しとくことに。


 外で騒いでた欧米人は段々エスカレートしてきて、空き缶や瓶を叩きながら歌いだした。ちょっとうるさいなぁと思てたら、雨森くんの声が聞こえてきた。続いて横山くんも英語で何か言うてる。


 その後静かになったけど、暫くするとまた欧米人の歌声が聞こえてきた。ケラケラ笑う声が不快やった。

 すると直ぐに横山くんが出てきて、文句を言うてる。今度はかなり激しい口調やった。


 僕はノートを置き、窓から外を覗いてみる。

 欧米人は軒下のベンチに座りながらなんと焚き火をしてる。雨森くんも出てきて激しく言い合ってた。


 これはやばいぞ。


 そう思た僕は靴を履き直して外へ出てみた。部屋の外はかなり涼しくなってきてる。急いで横山くんたちの傍に駆け寄った。


「どうしたんですか?」

「こいつらが騒いでいるんですよ。僕らは明日の朝早いから静かにしてくれって言ったのに」

「それは困るな」


 欧米人は、笑いながら聞き取れん英語で何か言うてる。スラングが入ってるし、変な英語やけど馬鹿にされてるんは分かった。そやし僕は日本語で、


「静かにしたれや。この人らはもう寝るんや」


 と言うと、「楽しんむんは自由や」みたいな事を言い返してきよった。何遍かやり取りがあったけど、そいつらはヘラヘラ笑らうだけで全然静かにせえへん。そのうち焚き火の炎が周りに草にも類焼し始めた。これはヤバイと思て僕は足で火を消した。

 そんな僕の行動に文句を言うてきたけど、


「火事になったら危ないやんけ。周りは燃えるもんばっかりやぞ」


 と言い返しながら足で火を消す。

 横山くんや雨森くんらも一緒に消してくれた。するとその欧米人の一人が雨森くんに向って唾を飛ばしてきた。顔に掛かった唾を拭いてる雨森くんを見て、僕は怒りが込み上げてきた。


「何すんねんコラー!」


 思わず僕は声を荒げてしもた。欧米人は一瞬怯んだけど、またケラケラと笑いながら立ち上がり、フラフラしながら僕に近づいてきた。

 これはヤバイと思た僕は、


「かかってくんのかぁ」


 と言いながら軽く拳を握り、中段構えをした。


「北野さん、もういいです」

「そやかて、こいつらふざけとるで」

「そんなんじゃないんですよ。こいつら」

「えっ?」


 冷静やった横山くんが僕の前に立って、流暢な英語で欧米人に話掛ける。流石は文学部英文学科や。言いたい事をスラスラと英語で喋ってる。僕は中段構えを解いてそれに聞き入った。


「北野さん、すいません。巻き込んでしまって」


 と、頭を下げてきたんは雨森くん。


「いや、唾かけるやなんて酷いやん。一発食らわしたろか思て」

「でもこいつらには無駄ですよ」

「えっ?」

「こいつら、ハシシやってますね」

「ハシシ?」

「ええ、大麻みたいな物です」

「へ? そんなん持ってんのか、こいつら」

「パキスタンだったら簡単に手に入るそうですよ。この辺の山奥でも栽培してるって聞いた事があります」

「そうなんや。やばいやん」


 それがどういうもんか判らんかったけど、なんか怖なってきた。


「こいつら、ラリってますわ」


 まぁラリってるやつらやったら何とかやっつけられそうやけど、刃物とか出してきよったらチトまずいな。


「2対3やし、なんとかなるやろ。なんやったら多賀先輩も呼んでくるで」

「いえ。もう大丈夫でしょう。相手にしないほうがいいと思います」

「そやかてなぁ」

「僕の事だったら気にしないで下さい。ただ、早く寝たいだけなんで」

「そうか」


 その後、横山くんの説得の甲斐あって欧米人は部屋の中に戻って行き、事無きを終えた。


「ごめん、もうちょっとで大袈裟になるとこやったわ」

「いえいえ、来て下さって助かりました。向こうも人数で負けてるから引き下がったみたいです」

「そうか」

「はい、ありがとうございました」


 二人は僕に頭を下げ、「明日、早いんで」と言うて部屋に戻って行った。


 僕はタバコに火を付け、星を見ながら煙を吹かした。村の下から吹いてくる涼しい風がその煙を空高く舞い上げていった。

 東の空には、サソリ座が顔を出してきてる。天の川のハクチョウ座も大分高くなってきてた。


 今頃、日本は鬱陶しい梅雨や。「もうすぐ夏が来るんかぁ」と思いながら僕は部屋に戻る。


 部屋では多賀先輩がイビキをかきながら寝てた。



 つづく

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る