カリマバード(フンザ)
141帖 桃源郷
『今は昔、広く
無口なおっちゃんに僕らはホテルの食堂に通された。大きなテーブルが2つありざっと20人ぐらいが座れそうやけど、裸電球が怪しい光を放ってた。
壁には本棚があり、そこにある本の殆どが日本語の本。ボロボロの週刊漫画誌は結構古そうで、年号を見ると既に3年も経ってた。
小説もかなり沢山置いてあるし、有名な日本人山岳写真家の写真集もあった。全部このホテルに泊まった日本人が置いていったんやろう、流石は日本人が定宿にしてる事はあると感心してた。
机の端っこにはノートが置いてあって、これも日本人が置いて行ったんか日本の有名なメーカーの青い大学ノートやった。何が書いてあるんかと思てそのノートを取りに立とうとしたら奥からおっちゃんが現れ、無言で宿帳を渡された。
宿泊の手続きを済ませると、おっちゃんは徐ろに口を開いた。
「何泊するんだ」
「えーっと、取り敢えず2泊で」
「20ルピーだ」
20ルピーを払うと、「ついてこい」と言わんばかりに食堂を出て行った。
一旦ホテルを出て道路を渡る。別棟が3つほどあって、その隙間を通り抜けると、なんと見事に視界が広がった。
「多賀先輩!
「おおー、ええ眺めやんけー」
別棟の前には視界を遮るものは無く、見渡すかぎり高い山々が広がってた。眼下には、のどかな村の林や畑が見える。林は果樹園やろか、青い実が付いてる。めっちゃ爽快な眺めや。
そんな眺めを楽しんでると、おっちゃんは部屋の南京錠を開け、無言で中へ入れと促してきた。
部屋の中は8帖ぐらいの広さで、小汚い毛布が2枚敷いてある木製のベッドが2つあるだけ。東側の窓からは、さっきのラカボシやディランが目の当たりにできた。
「OK?」
と本日三言目を言うてきたおっちゃんに、
「OK、OK。いい感じや」
と言うと、ニヤっと微笑みドアを締めて部屋を出ていった。
僕らは取り敢えず荷物を整理し、シュラフを出して横になる。
「ああーあ。汚いけど、ええ眺めですね」
「おお、めっちゃええ眺めや。これやったら無理してでも早よにここへ来といたら良かったわ」
「まぁ、それはしゃーないですやん」
ベッドに寝そべりながら窓の外の景色を眺めてた。
「そろそろ買い出しに行かへんか」
「はっさんの店ですか?」
「おお」
「いいですけど……」
そう何回も車で送って貰う訳にもいかんやろから、往復は多分歩きや。車酔いは治ったけど、まだ足腰の筋肉痛は治ってないし、しんどいやろなと考えてた。今日はもうゆっくりしたいし、できれば買い出しは明日にしてくれたら……。
そやけど多賀先輩が再度催促してきたし、まぁどれ位の傾斜でどんだけの時間や疲労が掛かるか試しといてもええわと思て、起きて靴を履き靴紐をしっかりと縛った。
ホテルの本館まで出て、道路を右に下る。暫く下ると道路は右に曲がってるけど、「to
ほんまの登山道みたいな小道を降りていく。砂と瓦礫だらけの道はめっちゃ歩きにくい。そこをスキーの要領で半ば滑りながら降りていくとアッという間に麓のガニッシュに着く。登って来る人とは一人も擦れ違わんかった。足の砂埃を払ろて、はっさんの店に入った。
店にはっさんは居らず、はっさんのお父さんが店番をしてた。僕は特に買うもんは無かったけど、夜食用にパックのジュースとチョコレートを買う。
多賀先輩の買い物が終わってから、二人でフンザ川の橋まで行ってみた。
川は灰色の濁流で、それを見てても面白ない。多賀先輩はそのまま橋を渡ってスストの方に向って上り坂を登って行くし、僕も後を追う。
暫く行くと多賀先輩は振り返ってカリマバードの方を眺めてた。
「あれ、見てみ」
追いついた僕もカリマバードの方を向いた。
「おお、ええ眺めですやん」
狭く急な谷間からめっちゃ大きな扇状地が広がっており、その上にカリマバードの村が形成されてる。村の背後には5,6千メートルはありそうな山が聳えてる。
「絶景や。日本では絶対に見られん光景ですね」
と僕は感動してしもた。
扇状地の一番高い所にはお城の様なもんが建ってて、その下の村の所々に緑の林が見え、その間に白い壁の家がある。幾つかの家からは白い煙が上がってた。なんとものどかなで、まるでお伽噺に出てくる様な風景やった。
「なんか『桃源郷』って言われるんが分かるなー」
「そうですねー。春にピンクの花が咲くそうです。そしたらめっちゃ綺麗らしいですわ。まさしく桃源郷ですね」
花はもう咲いてないけど、それでもこうやって眺める価値はあった。
「カメラ忘れてきたなぁ」
「ほんまや。僕も買いもんだけやと思て持ってきてませんわ」
ここへ来るんはしんどいけど、また来て写真を撮ろうと思た。
暫く眺めてると、さっきまで陽が当たってたのにアッという間に山の陰に入ってしもた。
「そろそろ帰りますか」
「そやな」
僕らは来た道をガニッシュまで戻り、そこから登山道を登り始める。
めっちゃ急な登山道は一歩ずつしか足が出せんかった。陰になって涼しくなってきたのに、汗はめっちゃ流れる。
「この道……、リュック担いで登ってたら……、途中でくたばってましたね」
「ほんまやな……。八ヶ岳(主峰の赤岳・二千八百九十九メートル)の直登ルートより……キツイぞ」
「いや、僕はそこ……登ってませんけど」
「そうか。そやけど……、はっさんに感謝やな」
「ほんまですね」
下りは5分少々で降りれたのに、登りは30分以上掛かった。
「簡単には……、『桃源郷』には辿り着けませんね」
「桃源郷とは……、そういうもんや」
「なるほど……」
登り終えた頃には村は少し暗くなって、東の空に白い月が見え始めてた。
ハーハー言いながらホテルの別館に戻って来ると、部屋の軒下のベンチに2つの人影があった。
「こんにちは」
日本人のバックパッカーや。
「こんにちは」
「今日、着いたのですか?」
「はい、さっき着いたとこです。ほんで今、下の店に買い出しに行って来たとこです。めっちゃしんどかったですわ」
と言うと、二人は顔を見合わせて少し笑ろてた。
「えっと、ここから50メートル程上がった所に売店があるんですけど」
「まじすか。それは知らんかったわぁ」
先に言うて欲しかった。
「フンザは初めてですか?」
「はい。まぁパキスタン自体、初めてですわ」
「それはお疲れ様です」
「いやー、参ったなぁ」
「えっとー、6時から夕飯タイムになりますけど、一緒にどうですか?」
「いいすねー」
「はい、是非お願いします」
「じゃーまた後で」
一旦別れて、僕らは部屋に入った。
「そやったんや。上に店あったんや」
「ははは。そやけど、ええ景色見れたがな」
「ですよねー」
という事で、無駄足やなかったんやと納得してた。
つづく
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