ススト→カリマバード(フンザ)

139帖 氷河で出来たオアシスの村

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 スストの街に帰ってきた僕らは、一旦ホテルに戻り荷物の整理とコッヘルの洗浄を済ませ、ベッドに横になった。山行記録を整理して、暗くなる前には草雁父上のレストランに向う。


 お腹はあんまり空いてなかったけど、昼飯があの出来損ないの「炊き込みご飯」やったさかい、まともなカレーが食べたかった。


「おお、いらっしゃい。山はどうだった」

「いやー、めっちゃええ眺めでしたわ」

「僕らが登ってたん、分かりました?」

「ああ、ちゃんと見てたぞ。格好良かった。あははは」

「おおきにです」


 僕らは肉たっぷりのカレーを注文し、肉の旨味とカレーの辛さを楽しんだ。

 父上に、「明日スストを発つ」と伝えると、少し寂しがってくれた。明日の朝食を食べに来るからと約束して、その日はホテルに戻った。


 部屋に戻った僕らは、久しぶりの登山でめっちゃ疲れてたし、早々にシュラフに潜り込んだ。

 スストはええ人が多いええ街っやったなと、ここでの出来事を思い返しなが眠った。



 6月20日、木曜日の6時前。

 朝早くに目覚めた僕は、筋肉痛の足を解しながらまだ薄暗いスストの街を歩いた。まだ誰も居ない街は静かで、風の音と鳥の鳴き声しか聞こえんかった。

 イミグレーションの前のゲートまで行き、向こうは先週まで過ごしてた中国やなぁと、最後の別れを無言で唱えた。


 商店街まで戻り、バスのチケット売場の小屋に行く。営業時間は9時からやと確認してホテルに戻り、テラスに座って朝日が当たるジュルジュールピークの色の変化を楽しんだ。昨日登った山からの眺めも荘厳やったけど、僕はここからの眺めの方が気に入ってる。暫く眺めてから部屋に戻り、もう一回シュラフに入った。


 9時前に多賀先輩に起こされ、シュラフを片付けて荷物のパッキングをし、出発の準備をする。

 ホテルの受付のおっちゃんにお礼とお別れをして、9時過ぎにはホテルを出る。


 バスのチケット売場の小屋に寄り、ギルギット行きのバスのチケットを購入する。途中のガニッシュまでで15ルピー。ガニッシュでバスを降りたら歩いてカリマバード、つまりフンザの中心地まで行けるらしい。それまでフンザと言う街があると思てたけど、それはここら一帯の地域名みたいなもんで、その中心がカリマバードやと初めて理解できた。出発は11時やと言うってた。


 その後、草雁父上のレストランに行って朝食を頂く。ススト最後の食事はフンザスープとナンで締めくくった。

 父上は、バスが出発する時に呼びに来てくれるようにバスの運転手に頼みに行ってくれ、しかもチャイをサービスで入れてくれた。最後までええ人やったわ。


 バスの運転手がやって来て、いよいよお別れやって時に草雁兄さんも見送りにやって来てくれた。4人で記念写真を撮って、固い握手と最後のお別れをした。


 バスは日本製のワゴン車で、人と荷物でいっぱいや。ドアが締まり、エンジンを唸らせながらバスは動き出した。

 父上と兄さんは、見えなくなるまで手を振り続けてくれた。


 二度と来ることは無いやろ。


 さよなら、ススト。


 心温かい人々に感謝の気持ちを送った。


 ありがとう、ススト。



 快調に走るバスの乗客は、僕ら日本人2人を含めて10人。黒い顔のパキスタン人が3人と、白い顔のパキスタン人が5人。黒い顔のパキスタン人は、たくさんの荷物を屋根に積んでたし、多分商人かな。白い顔のパキスタン人は、頭に羊毛の帽子を被ってるから北部パキスタンの人や。


 バスでは僕の前に座ってる黒いパキスタン人がとにかくよく喋り掛けてきた。毎度の毎度の同じ質問。「何処から来たか」、「仕事は何か」、「宗教は何か」と聞かれる。

 この人からは初めて聞かれたけど、イミグレーションでも、ホテルでも、商店街でも同じ質問を何度もされてる。答えはパターン化してあるからいちいち考えんでもええけど、それ聞いてどうするんやろうと思てきた。

 逆に僕の質問には丁寧に答えてくれる。その人が分からん事は、周りのパキスタン人に聞いてくれた。


 まずはこの河の名前。フンザ川と言うらしい。フンザ川は下流でギルギット川に合流し、そしてインダス川に流れ込むらしい。インダス文明を起こした川の上流に居るかと思うと、少しワクワクしてた。


 バスは河の左岸を暫く走ると、小さなオアシスの村を通り過ぎ、今にも朽ちそうな橋を渡って右岸の西側を走る。

 フンザ川に注ぎ込む支流には大きな扇状地ができてる。大概、そういう所には木々が植えてられており、民家も存在した。その川の上流には「glacierグレイシャ(氷河)」があるらしい。


 そういう所にできた村を2つ程越えると、右手に高い瓦礫の土手が見えた。目を凝らしてみるとその向こうには泥で汚れた雪か氷の様なものが見えた。チラチラと青い光も見えてる。


「あれは氷河か」

「そうだ。氷河だ」


 前の席の黒い兄ちゃんは、地元の白いパキスタン人にウルドゥー語で話し、


「あれは、Baturaバツーラ氷河だ」


 と教えてくれた。


 これが有名なバツーラ氷河かぁ。


 確か全長60キロで、極地以外では最長やったと記憶してる。雑誌で見たことがある所に今自分が来てるかと思うと感慨深いもんがあった。ただ、雑誌の写真の様に全容は見れへんから残念やったけど、もしチャンスがあるならトレッキングしてでも見てみたいと思う。


 また手前の瓦礫の土手がモレーンで、その奥から水を引いてきて村ができてる。カレーズの代わりに氷河の水を用いたりっぱなオアシスなんやと再認識する。


 その小さな村を一瞬で通り過ぎ、尾根をぐるーーーと回り込むと、一際大きなオアシスの村に入る。

 前の座席の兄ちゃんは慌てて周りの人に聞き込み、


「ここはPasuパスーと言う村で、その奥がパスー氷河や」


 とモレーンの奥を指差してた。という事は、手前の山の向こうには、七千六百メートル級のShispareシスパーレが聳えてるってことや。


 すげー!


 山は見えんかったけど、写真を思い出して感動してた。

 暫く進むと今度は氷河のすぐ脇をバスが通過した。モレーンの一部が崩壊し、フンザ川まで水が流れてる。でこぼこの泥々の道を進む時に一瞬、奥の氷河が見え、たぶんシスパーレやと思う白くて格好いい山頂ピークも見える。白い雪が太陽に照らされ輝いていた。

 この氷河はGhulkinグルキン氷河というらしい。という事は、この先にはUltarウルタルがあるはず。見えへんかなぁと期待してたけど、尾根の陰に入ってしもた。


 たった1時間ほど走っただけで、雑誌で見て憧れた山や氷河が次々と現れてきて気持ちはどんどん昂ぶった。

 逐一、多賀先輩にも報告する。「なるほどー」とは言うてるはくれるけど、カラコルムの山々に余り興味が無いのんか、僕ほど感動してる様子はなかった。



 Gulmitグルミットと言う大きなオアシスで昼食休憩になる。やっぱりこの村も、氷河の影響でできた大きな扇状地の上に作られてる。ドライブインの小さな食堂では何も食べんとチャイだけ飲んだ。

 店の裏手はフンザ川。氷河がから流れ込んでくる泥水の影響やろ、スストで見たときよりも水は濃い灰色に濁ってた。


 グルミットを出たバスは壊れそうな橋を渡り、川の左岸を走る。高い山々に挟まれた大きな谷を小さなワゴンのバスは、クネクネした道を猛スピードで走る。車酔いの酷い僕はだんだん気持ち悪なってきた。氷河や山や周りの景色を見る余裕など無くなってしもた。ただ、「早よ着いてくれ」と祈るばかりやった。


 バスは高度を下げ、これまた朽ちかけた橋を渡ると右に左に大きなカーブを曲がる。


「もうあかん」


 と思てたら道沿いの商店街の前でバスは急に停まった。


Ganishガニッシュだ」


 運転手の声に促され、僕ら日本人2人はバスを降りる。代わりに2人のパキスタン人を乗せて、直ぐにバスは発車した。


 やっと着いた。


 リュックを道路脇の小屋に持たれかけて、背伸びをする。


「ここがフンザか」

「いやフンザはフンザですけど、ここは麓のガニッシュちゅうとこで、確かこの丘の上がフンザです。僕らが『フンザ』って言うてるとこは、Karimabadカリマバードって名前の村らしいですわ」

「ほんなら、ここから登って行くんか」

「ですよねー。めっちゃ急登やないですか」

「まぁ、ほんなら行くか」


 と、リュックを担ぎだした多賀先輩に声を掛けた。


「ああ、ちょっと待ってください」


 僕はまだ車酔いで気持ち悪かった。


「ちょっと休憩してもええですか」

「まぁ、ええけど」


 僕らは小屋の横の果物屋兼雑貨屋で、スストでも売ってたパックのフルーツジュースを買うて飲んだ。冷えててめっちゃ美味く感じた。

 僕はタバコを吹かし、これから登らなあかん山道を溜息を漏らしながら眺めてた。


 ほんまにキツそうな坂。道幅が1.5メートルほどの急な坂道を、生活道路としてカリマバードに住んでる人達が使こてる様には見えんかった。ちょっとした登山道や。


「どれ位、登るんですかね」


 と多賀先輩と思案してたら、さっきの店の奥から若い兄ちゃんが出てきた。


「アッサームアライクン」

「アッサームアライクン」

「あなた達は、ヤパンですか」

「はい、そうですが」


 親しげに話しながら笑顔で近づいてくる兄ちゃんはちょっと怪しげやった。僕はまた、上海での出来事が頭に浮かんでた。



 つづく

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