138帖 多賀先輩の優しさ

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 絶景を楽しんでたら強風で汗が冷えて寒なってきた。ウインドブレーカーを着ながら多賀先輩に相談する。


「そろそろ昼飯にしませんか?」

「そうやな、腹減ってるしな」

「そしたら、用意しますわ」

「ええ、ここで食べんのんか」

「駄目ですか?」

「ちょっと下ってから食べへんか」

「ちゅう事は、奥穂は行かへんのですか」

「時間的に無理やろ。テント有ったらビバークもできるけど」


 僕自身まさかこんなに時間が掛かると思てへんかったし、それにテントは重いさかいホテルに置いてきた。

 そやから、ここより高い「奥穂」は断念するしかなかった。もう二度と来れんかも知れんしめっちゃ残念やけど。


 ガレ場から壁の下まではアンザイレンで慎重に下る。そこまで来ると風はマシになってた。牧草地の上の岩陰で、多賀先輩はリュックを下ろした。この風が吹かへん岩陰で昼食や。


 食材の準備をしてると、多賀先輩が携帯コンロに火を付けてくれる。この辺は何も言わんでもお互い何をせなあかんかは分かってる。

 僕は大コッヘルに米と具材とコンソメを入れ、水を多めに入れて火に掛ける。水気が無くなったら完成や。

 炊けるまでの時間、僕はリュックからあの「白いラベルの小瓶」を出した。

 一人ではこんな素晴らしい景色は見れんかったし、多賀先輩に感謝してる。その感謝の意味を込めて、僕は多賀先輩にウイスキーの小瓶を差し出した。


「おお、ええもん持ってるやんけー」

「どうぞ。これしかありませんから大切に飲んで下さいね」

「ええんか?」

「どうぞ」

「ほんなら……」


 多賀先輩は小瓶を受け取りキャップを開けるとまず香りを楽しんで、それから自分のマグカップに注いだ。

 僕もシェラカップに2口分ほど注いでからリュックに大切にしもた。


「くーっ。この感じ、最高やね。よう持ってたなぁ」


 僕も口に入れる。何とも言えん刺激と苦味が口に広がる。


「ええ、シュラフの中に埋没してました。今年の正月のままやったんですわ」

「北野、ええ仕事するやんけ」

「いえいえ、忘れてただけですわ」


 満足そうに味わってる多賀先輩の顔を見て、僕は嬉しくなってきた。

 そうしてるうちに、コッヘルがぐつぐつ言い出した。標高が高いと気圧も低く、すぐに沸騰する。ええ感じで煮えてきたところで少し弱火にする。米は洗って水を吸わせといたから、多分もう大丈夫。後は野菜が煮えるのを待つだけ。



 その間、日本で登った山の思い出を語り合うてた。

 話題は自然と去年の穂高連峰夏合宿の事に。僕の現役隊が先に入山し、1日遅れて多賀先輩らのOB隊が入山した。金は無いけど暇がある現役隊は、朝もゆっくり起きて、のんびり登ってた。

 それに対して社会人OB隊は休暇が少ない人が居たんもあったし、強行日程で僕らに迫ってきた。

 僕らが北穂高岳から涸沢岳の間にある岩場で渋滞に巻き込まれグズグズしているうちに、OB隊は涸沢カールでの幕営と言う当初の計画を切り上げ、北穂高岳山荘まで行ってしもてた。僕らが1日半掛かったところを1日で登ったことになる。

 その日の夜の無線連絡でOB隊の多賀先輩から突拍子もない提案が舞い込んだ。


「下山して河童橋を渡るまでにOB隊が現役隊に追いついたら、松本でやる打ち上げ代はお前ら持ちな」


 金の無い僕ら現役はこれにはビビってしもた。断れへんかった僕らは、明日の奥穂高岳山頂でやる予定やった流し素麺パーティを延期し、とにかく追いつかれんように急ぐことにした。途中の前穂高岳のピストンも取り止め、下山することに集中した。

 次の日、無線の定時連絡の度に差が縮まってくるんが分かると、恐怖感が募ってきた。岳沢からは、ホンマは危険なんやけど下りを走った。梓川沿いの平地になってからも、見えない恐怖に脅かされ小走りに進んだ。

 結果は、追いつかれること無く河童橋にゴールでき、松本での酒盛りは先輩OBらの奢りになった。



「それでも1時間後にはOB隊がやってきて、思わずヒヤッとしましたわ」

「ははは、俺ら無線で嘘を言うてたからな。奥穂やて言うてた時は、実はもう岳沢におったからな」

「やっぱり。僕らも『先輩らは絶対にホンマの事を言うてへんで。あれは嘘やで』って見抜いて必死に走ってましたからね」

「ちぇ、やるやないか」

「それぐらい読めますわ。そんな優しいOBちゃうでって……」

「アホか。俺らはな、初めから現役に酒を奢ったろうと思てあんなん言うてたんや」

「ほんまですか」

「ほんまやがな。ただ急がんと仕事に間に合わへんし、そやしああ言うてただけや」

「なんか信じられへんなぁ……」


 僕らは思い出話しを肴に、少量やったけど久しぶりの酒に酔いしれてた。


 そろそろ「炊き込みご飯」も出来た頃や。火を止め、蒸らしてから小コッヘルによそって多賀先輩に渡した。


「どないですか、味は」

「うーん、まぁまぁかな」


 僕も食べてみた。初めはコンビーフの塩っ気が効いてて美味いと感じてたけど、だんだんその油がしつこく感じてきた。想像してた味よりかなり厳しい。やっぱりコンビーフは要らんかったな。


「うまいな、山で食べる飯は」

「そうっすね」


 僕も多賀先輩も、それは無理やり言うてるてお互いに分かってた。顔を見合わせると自然に笑い始めた。

 それでもなんとか小コッヘルに4杯ずつ食べて完食。お腹いっぱいで動きたなかったし、あのコンビーフの油のせいでちょっと気持ち悪なってた。


 片付けを終え、リュックを背負うと多賀先輩が話し掛けてくる。


「吊り橋まで『しりとり』しよかぁ」


 また始まったわ。


「ええすよ。何掛けますのん?」

「ええーとな、今日の晩飯代や」

「分かりました」


 今喰ったばっかりで苦しいほど腹いっぱいやし晩飯のことなんか考えられへんかったけど、いろんなしりとりをしながら下山する。登りは5時間半ほど掛かったけど、下りは2時間弱で吊り橋に着いた。


 しりとりの結果は、僕の勝ち。貴重なウイスキーのお返しなんかも知れんけど、多賀先輩はワザと負けてくれたと思う。それと去年、松本で奢ってもろたこともホンマやったんやと思えてきた。


 そんな多賀先輩の然りげ無い優しさを感じて嬉しくなってしもた。涙が出そうになった僕は、スストの街まで多賀先輩に一言も喋られんかった。



 つづく

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