137帖 ケルン
『今は昔、広く
小休止が本休憩になってしもたけど、僕らは再び
そこからは更に傾斜がきつくなる。そやけど獣道があるちゅうことは、まだここより上で放牧してるということや。
羊に負けでたまるかと思たけど、一歩づつしか足は出せんかった。大分空気が薄い気がする。それに、やっぱり僕自身の体力も落ちてきてる。息が上がると共に、太陽の直射日光が体力を奪っていった。
漸く急登が終わると、動物の鳴き声が聞こえてきた。登り終えた所は牧草地が広がっており、山羊がそこかしこで草を食んでる。その中に杖を持った少年が座ってた。
「おお、ペーターやんけ」
「ええ?」
「アルプス少女に出てくるペーターやがな」
「ああ……」
羊毛の帽子は被ってるけど、まさしくペーターや。10歳ぐらいの少年はびっくりした様な目でこっちを見てきた。
「アッサームアライクン」
と言うと、小さな声で返してくれた。
「アッサームアライクン」
少年は恥ずかしそうに目をそらし、ウルドゥー語で山羊に声を掛けると坂を下って行ってしもた。その後を、山羊達は器用に坂を降りて行く。最後に残った仔山羊が僕らの方をじっと見つめてた。
何を思て見てるんやろう。そのつぶらな瞳がめっちゃ可愛らしかった。
「こっちにおいで」
と声を掛けたら、プイッと向きを変えて坂を下って行ってしもた。下から少年の大きな声が聞こえてた。
小休止の後、放牧地を進む。その先は岩場になり、草も無くなった。
ここから先は砂漠みたいに岩と砂しか無かった。一歩を出す時間が長くなり、呼吸が苦しくなってくる。多賀先輩は、昨日までヘタバッてたんが嘘の様にスタスタと登っていくし、付いて行くんがやっとやった。
風は冷たいのに日差しはやけに熱い。サングラスをしてても照り返しがきつかった。
凡そ10分おきぐらいに僕の足は止まってきた。1分程息を整えんと苦しい。
そやから徐々に多賀先輩との距離が空いてきて、追い付こうと思て下を向いて必死に登るんやけど足は前に出んかった。
そん時、
「荷物、持ったろか」
と言う多賀先輩の声が聞こえた。
僕の初めての本格的な登山は大学1回生の冬合宿やった。いきなりの冬山。場所は南アルプスの仙丈ヶ岳。
丁度、森林限界を出たとこで天候が荒れ、吹雪になった。多賀先輩はOBとして随行してくれてたけど、この雪では遭難して死んでしまうかもと不安になってた。不安と疲労で僕の体力は限界やった。
そん時も多賀先輩は、「荷物、持ったろか」と言うてくれた。結局、荷物を持ってくれたんは別の先輩やったけど、その時の敗北感は僕の心にずっと引っ掛かってた。
そやし僕は大きな声で、
「いや、大丈夫っす」
と言い、渾身の力を振り絞って多賀先輩に追いついた。
「小休止っ!」
立ったまま、水と行動食を摂った。スストの街は遠く、かなり小さくなってた。その代り、スストの裏山で見えへんかった遙か東の白い山々が見えてた。
「遠くの高い山はK2ですかね」
「そうかぁ。こんなとこから見えるんやろか」
「いや、なんとなくです。見えたらええなーて思てただけです」
「ははは」
「そやけど、その近くにはガッシャーブルムに、マッシャーブルムも見えるはずですわ」
「ほんまに見えるかぁ」
山の特定で休憩時間を稼ぎたかったけど多賀先輩は無情にも、
「ほな行こか」
とまた登りだした。
「もう行くんですか」
思わず言うてしもた。
「止まってたら寒いやんけ」
確かに、気温は10度を下回ってた。僕には気温より太陽の日差しの暑さの方が気になってた。
1時間近く無言で登ると稜線に出て、
「よーし、アンザイレンや」
多賀先輩の掛け声で僕はザックからザイルを取り出し、壁の上の岩に投げてみた。なかなか上手いこと引っかからへんし、何度か投げ直すと腕が疲れてきた。
「貸してみぃ」
多賀先輩が投げると一発で引っかかった。身体にザイルを巻き、僕が確保すると多賀先輩は壁を登り始めた。
手を掛けるとこや足場は容易に見つかったし、多賀先輩は難なく壁を登り終えた。
今度は多賀先輩に確保して貰い僕が登る。多賀先輩とは別ルートで登ってみる。始めは傾斜も緩く、順調に登れた。「こっちの方が楽そう」と思て右へトラバース気味に進むと、その上はオーバーハングやった。それでも3点でちゃんと確保できたし、意外と簡単に登れた。
いつものことやけど、登ってきたルートを覗き返すと身体が震えた。
「落ちたら即死。遺体は発見できんやろな」
かなりビビってしもた。そやし、そのままアンザイレンでその先のガレ場を登る様にお願いした。
浮石もあったけど、落石も起こさずに何とかガレ場を通過できた。下を見返すとやっぱり目は眩んだ。
「これが最後やったらなぁ」
と思いながら、20メートル位の岩場を登り終えると、風が強く吹いてた。
視界は360度。そこは山頂やった。
風の音で大きな声で喋らんと聞き取れそうにない。
「やったー! 来ましたね。山頂です! 現在時刻、11時56分です!」
遠くまで、雪が付いた頂きが連なって見える。雲ひとつ無い空。絶景やった。
疲れは吹っ飛び、気分は爽快。しんどかったけど、我慢して登ってきて良かったと達成感と充実感に満たされる瞬間や。
北はこないだまで居てた中国。その隣は国内でゴタゴタしてるソ連。西の方はアフガニスタンかな。行けるんやった行ってみたいな。そして南東はインドやネパールやな。
360度見渡して、ふと多賀先輩を見ると、折角登頂出来たのに喜びもせんと下を向いてた。
「くそー」
「どないたんですかー」
「これ見てみぃやー」
多賀先輩が指差したんは小さなケルンやった。ピラミッド状に高さ20センチほど石が積まれてた。登頂した記念に誰かがケルンを作ったんやろ。
「俺らが初登頂やと思たのにぃ」
多賀先輩はホンマに悔しそうやった。
「まぁええですやん。そやけど見て下さい。めっちゃ眺めええですやん」
そう言うと多賀先輩は気を取り直し、水を飲みながら周りの景色を眺めた。
リュックを下ろし、僕も水を出して飲んだ。
よく見ると北にはムスターグ・アタやコングールの頂が、南西にはバツーラ山群が見える。
「あれはウルタル(七千三百八十八メートル)ですかね」
「えっ!」
風で声が聞き取れんかったと思て、もう一回大きな声で言う。
「あれ、ウルタル! 去年、日本人が登ってた」
「お、おぅ」
「ほんなら南の単独峰はナンガ・パルバット(八千百二十五メートル)とちゃいますかね」
「ああ、それっぽいな」
聞こえんのと違ごて、多賀先輩はどうも分かってへんみたい。まぁそれはともかく、この360度の景色はいくら眺めてても飽きひんかった。
間近で見る、ジュルジュールピークは下から見るより一層迫力がある。
「そやけど、この山は何ちゅう山ですかね」
「前穂やんけ」
「ああ、そうでした」
ここから西に伸びる稜線のキレットの先に更に高い山頂が見える。
「そしたらあれが奥穂(北アルプスの奥穂高岳・三千百九十メートル)ですか」
「そう言うことや。ここがパキスタンの前穂や」
まぁ……、そういう事にしときますわ。
つづく
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