136帖 アプローチ

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 6月19日、水曜日。

 今日はスストの西に聳える推定標高三千三百メートルの山へトレッキングや。もちろん山の名前は判らん。もしかしたら無名の山かも知れんけど、それでも初のトレッキングとあって昨日の夜からちょっと興奮気味やった。


 6時に起床し、薄暗い朝靄の中、リュックを担ぎホテルを出発した。冷たい空気の中を歩いてるんは僕と多賀先輩以外に誰も居んかったし、それがめっちゃ心地よかった。

 ゆったりとした登りのカラコルムハイウェイを北へ進むと、それでも息が上がってきた。ここは既に標高二千七百メートルやし、僕らは黙って歩き続けた。

 徐々に河がこのハイウエイに迫ってくる。


「河とか、この朝靄とか……。なんか、上高地を歩いてるみたいやな」

「なるほどね。ほしたら……、この河はあづさ川ですか」

「そうやな。ちょっと濁ってるけど……、そういうことにしとこ」

「ほんなら……、これから登る山は何にしますのん」

「えー、穂高(北アルプス・三千百九十メートル)に……、しよか」

「そうーすか。奥にもっと高い山がありますし……、前穂(前穂高岳・三千九十メートル)ぐらいにしときません」

「まぁ、ええけど」


 20分程で河を渡る吊り橋に到着した。


「よし、河童橋で休憩や」

「これが河童橋やったら……、アプローチまでまだまだですね」

「まあ、ええがな」


 上高地の梓川に掛かる吊り橋に見立てたこの端の袂で最初の休憩をとる。最初の休憩までが一番しんどい。一旦休憩すると、その後は楽になる。

 河の激しい瀬音が頭の中に響いてた。


 朝飯代わりに、日本から持ってきたカロリー補給食とカシュガルで買うた干し葡萄、それと多賀先輩が阿图什アェトゥシェン(アルトゥシュ)で手に入れてきた乾燥イチジクを食べる。

 干し葡萄はパリーサと一緒にバザールで買うたもんや。「喀拉库勒湖カーラークーラフー(カラクリ湖)で食べる予定やったのになぁ」と思てたら、パリーサのあの可愛い笑顔が頭に浮かんできた。そやけど、そんな感傷に浸ってる間も無く、


「ほな、行くで」


 と出発の合図が掛かった。

 吊り橋は、軽自動車なら楽々通れそうな幅はあったけど、歩いてるだけで上下に激しく揺れた。それを面白そうに渡ってたら、向こうから第一、第二村人がやって来た。


「アッサームアライクン」


 二人は親子やろ。顔は似てる。シャベルと鍬を担いでたし、これから農地にでも行くみたいや。


「どこから来たんだ」

「日本からや」

「おお、ヤパンかぁ。そのカメラで写真を撮ってくれないか」

「ええよ」


 僕は首から下げてたカメラを構えた。二人は横に並び、気を付けの姿勢で立ってる。写真を撮ると、


「ありがとう」


 とだけ言うて行ってしもた。


「どうするんですかね」

「何がや」

「写真は撮ったけど、欲しくないんですかね」

「ははは、よー分からんな」


 吊り橋を渡り終え、左に曲がって暫く歩くとポプラの様な木の林と数件の民家がある。どの家も朝飯の支度中なんか、排気口から煙が上がってた。

 道は徐々に細くなり民家の庭先を通っていく。ある家の軒先では、小さな女の子が器に入った白い粉を棒で混ぜてる。僕らを見つけると驚いた表情をして固まってしもた。大きなクリっとした透き通った目と茶色の髪が印象的や。

 僕はニッコリ笑って挨拶をした。


「アッサームアライクン」

「アッサームアライクン」


 少女は可愛らしい声で小さく返してくれた。

 僕はカメラを持ち、


「写真をとってもええか」


 と言うと、少女は立ち上がり、両手でボサボサの髪の毛を整えて気を付けの姿勢をした。

 表情は緊張してたけど、小さいのに目つきは鋭かった。将来は美人さんになる予感がする。

 シャッターを押し、


「おおきに」


 と言うと、器を持ち慌てて家の中へ入ってしもた。


 民家の間を抜けると道は再び広くなり、林を抜け暫く農地の横を歩く。畑には小さい白い花を付けた作物が風に揺れていた。


「これ、何やろ。蕎麦かな」

「まさか、こんなとこで蕎麦は無いでしょ。もし蕎麦やったら食べたいですけど」

「ほんならなんや」

「たぶん……、葉っぱの感じからしたらジャガイモとちゃいますか」

「こんなとこでも栽培できるんや」

「元々南米の高地で作られてたさかい、ここでも出来るんとちゃいます。商店街でも売ってたし」

「なるほど」


 推定ジャガイモ畑を過ぎると少し下りになり、小さな川の橋を渡るとまた坂を登る。登り切るって東を見ると、川向こうにスストの街が見えた。出発してかれこれ1時間以上経ってる。


「えらい遠回りやったな」

「ですね。そやけどそこの村の人も大変ですね。街までめっちゃ遠回りですやん」


 林の中にある2つ目の村に入った。河と平行やった道は右に曲がり、傾斜はキツくなってきた。民家の間を抜けると、そこは森林限界やった。これより上は放牧地みたいに背の低い草しかなかった。

 幅20センチくらいの獣道みたいなところを一歩一歩ゆっくりと登る。道の所々に丸い糞が落ちてる。しかもまだ新しい。この上で放牧でもしてるんかな。


 狭い急坂を登ると少し平地があり、そこで小休止。水と行動食を摂りながら眼下に見えるスストの街を見てた。目測やけど200メートルは登ってるやろ。


「多賀先輩。オペラグラス、貸して下さいよ」

「おお、ええぞ」


 僕はオペラグラスて街を覗いてみた。イミグレーションには、中国からやって来たバスや、これから中国へ向かうトラックが停まってる。そやけど人の姿は無い。

 そこから右へ右へと視界をずらす。商店街では店開きの準備をしてる人がちらほら。

 商店街の一番端っこの草雁父上のレストランが目に入った。店の前には、背の高い男が立ってる。


「あれ、草雁兄さんとちゃいますか」


 僕はオペラグラスを多賀先輩に渡した。


「どれや」

「右の方ですわ」

「おお。そやな、兄さんや。こっち見てるぞ」

「ほんまですか」


 僕らの服装もリュックも目立つ色やし、もしかしたら見つけてくれるかも知れんと思て、頭に被ってた赤いヘルメットを大きく振ってみた。 


「あっ、兄さんが手を振ってるぞ」

「ええ! 向こうから見えるんですかね」

「そうちゃう」


 僕は着てた黄色いウインドブレーカーも脱いで振ってみた。


「振ってる振ってる。向こうから見えてるで。父上も出てきたわ」

「マジっすか。ほんなら帰ったら店に行ってみましょう」

「おお。そやけど目ぇ、ええんやな」

「そら、あんなに澄んでますからね」


 根拠はなかったけど、澄んだ瞳の兄さんやったら見えてもおかしないと確信してた。

 帰ってからの楽しみができたわ。



 つづく

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