131帖 ローソクでディナー
『今は昔、広く
夕方から雲が出てきて、
「あの山は何ちゅう言う山ですか?」
「どれだ」
「あれです。今、雲が掛かってるやつです」
「ああ、あれか。あれは『ジュルジュールピーク』だ」
「ジュルジュールピーク……」
「そうだ、六千メートル以上あるぞ」
ジュルジュールピーク。あんなに魅力的で六千メートル以上ある山やのに聞いたこと無い。それくらいの山やったら普通にゴロゴロしてるんやろか。それとも地元の独特な言い方なんやろか。
従業員のおっちゃんは、そのジュルジュールピークを越える雲の流れを見て、
「もうすぐ雨が降るな」
と独り言の様に呟いてる。
「えっ、雨ですか」
「そうだ。今夜は気をつけろ」
へっ? その時は、何に気をつけるんか良う分からんかった。
おっちゃんはテーブルや椅子を重ねて片付けだし、僕もそれを手伝った。
程なくして、このホテル周辺にも白い
近くの山の稜線を越えて降りてきたり、谷から浸入してくる白い空気の塊はまるで生き物の様に蠢いてる。瞬く間に視界は無くなりポツポツと雨が降り始める。
山の頂上に立ってるみたいで爽快やった。
そうや、雨の北穂高岳(北アルプス・三千百六メートル)の山頂に居った時もこんな感じ。そん時も視界は全く無く雲だけが流れ、立ってると次第に服が濡れていった。
次第に雨はキツくなり僕は部屋に退避した。多賀先輩はベッドに腰掛け、暗い中で本を読んでる。ちょっとは機嫌も体調も回復したみたい。
「北野、晩飯どうする?」
「今、雨降ってきたましたよ」
「そうなんか、どおりで暗いと思たわ」
まだ5時前やけど、窓の外は夜みたいに暗い。風も強くなり、雨風が窓を叩く音が聞こえてくる。
「もう外へ出んほうが良さそうですね」
「そやな。ほんならこのホテルで食べよか」
「そうですね」
「そやけど、アイツら居ったらなぁ……」
また宗教論争になるやろなと思たし、
「ほんなら僕、見てきますわ」
と言うて僕はホテルのレストランに行ってみる。レストランと言うても、さっき喋っとったロビーで注文し、そこで食べるんやけど。
薄暗いロビーには従業員のおっちゃん以外は誰も居らんかった。試しに「注文した料理を部屋で食べてもええか」と聞いて見ると、それは全然問題ないとのこと。
メニューを確認するとカレーの一択。ただダル(豆)、チキン、マトン、ベジタブルが選べるだけやった。値段も5ルピーから8ルピーと格安やった。サイドメニューには、チャイとフライドポテトがある。
あれ、あのオーストリアの家族が食べてたもんは載ってない。特別オーダーやったんかな。
「やっぱり欧米人は金持ち」
なんて思いながら部屋に帰り、多賀先輩に注文を聞く。多賀先輩は、チキンカレーを食べる言うてるし僕はマトンカレーにする。チャイと二人で半分ずつすることでフライドポテトも頼むことに。
ロビーに戻って注文すると、なんと部屋まで持ってきてくれるて言うてた。
部屋で待つこと20分。従業員のおっちゃんは折りたたみ式の小さなテーブルをベッドの間に置き、白い布を敷いて料理を置いてくれた。スプーンとホークもお皿の横に並べてくれる。何にも無いただ寝るだけのホテルやけど、おっちゃんには一応ちゃんとしたホテルやと言う気概を感じた。
本来ならここパキスタンは「チップ不要」らしいけど、丁寧な給仕に敬意を表して僕も多賀先輩も1ルピーずつ渡す。
おっちゃんは黙ってそれを受け取ると、丁寧にお辞儀をして出ていった。
部屋中にカレーのスパイシーな香りが広がると、急に食意欲が湧いてくる。銀色の器にカレー、お皿にライス。フライドポテトは、じゃがいもを8等分に切ったもんを素揚げにして塩が少々振ってある。チャイは小さな銀のポットに入ってて、一人2杯づつは飲めそう。
「なんかリッチな気分やな」
「そうですね。ここまでしてくれるとは思てませんでしたわ」
確かにこんな
そやけど部屋を見渡すと、壁は壁紙も無く板まる出しやし、灯りは暗い裸電球が一個あるだけ。それにこのディナーの二人分の総額は24ルピー。日本円で170円程度。それでも「リッチな気分」になれるとは、金銭感覚が日本と大分ずれてきてる証拠や。
「ほな食べよか」
「いただきます」
長粒種のライスにカレーを掛けて食べてみた。
うーん。味は草雁父上のレストランよりは落ちるけど、電球一個だけの暗い部屋で食べるんは中々面白かった。
それにしても辛い。めっちゃ辛ろて舌や喉が焼ける様や。急いでチャイをカップに注いで口の中に含んで中和させた。やっぱりまだ辛いカレーは慣れてへん。
そん時やった。ただでさえ暗かった電球が、力なく光を出すのを止めてしもた。
「あれ、停電か?」
「ですかねー」
窓の外は視界が無いしと思て廊下に出てみたけど、廊下の灯りも消えてた。
「やっぱり停電ですね」
「まじか」
「ランタン出しますわ」
そうか。さっきおっちゃんが言うてた「今夜は気をつけろ」の意味はこれやったんや。
僕はリュックの中のランタンを探る。手探りでは分からんし、雨蓋に入れといたヘッドライトを出して電源を入れる。その灯りを頼りにリュックの中を弄ってたらドアがノックされ、おっちゃんが入ってきた。
お盆の上には、ガラスの器に入ったローソクが幾つも灯ってた。おじさんはそれを一つ、僕らのテーブルに置いて部屋を出ていった。
「しょっちゅう停電すんのかな。このローソク、結構使い込まれてますね」
「ほんまやな。そやけど、中々ええ感じやんけ」
「小さい頃の台風の時みたいですわ」
「そやな。昔はよう停電しとったな」
僕はヘッドライトを消し、ロウソクの灯りで食事を進めた。
「なんか、テントの中で食べてるみたいですね」
「うん、これで酒があったら最高やねんけどな」
もしかして、多賀先輩は僕がウイスキーを持ってること知ってんのか。別に飲んでもええけど、パキスタンの旅はまだまだ長いし、ここで飲み干すんはもったいない。多賀先輩は酒豪や。そやし、150ミリリットルぐらいのウイスキーやったら一瞬で飲んでしまうんとちゃうやろかと心配してしもた。
以前、厳冬期の仙丈ヶ岳(南アルプス・三千三十三メートル)登山の時、ただでさえ荷物が多い冬装備やのにリュックから一升瓶が出ててきてびっくりしてた。「やっぱり山では酒が無いとな」と言い、それを一晩で飲み干した程や。
そやしバレてへんかドキドキしながらカレーを食べてたら、話題は変わった。
「なんか昔見たフランス映画みたいやわ」
「何がですか」
「こんな暗い中、ロウソクの灯りでこっそりディナーを食うシーンや」
「へー。えーっと、なんちゅう映画っすか」
僕は話を合わせる。ちょっと不自然やったかな。
「うーんと……、タイトルは忘れたな」
「ど、どんな内容ですのん」
「第二次大戦中の……、フランスのレジスタンスの話や。ナチスに身を隠して地下でこっそりディナーを食べるんやけどな、こんな感じやったわ」
「なるほどね」
「ただ、綺麗な女の人と食べてるシーンやったけどな」
「ふーん。なんとなく分かりますわ」
ホンマは分からかったけどね。
「これで雷でも光ってくれたら映画そのまんまやねんけどなぁ」
「ふーん」
もうその話に興味はなくなってしもてたし、残念ながら雷は鳴らんかった。
チャイを飲んでくつろいだ後、ヘッドライトを付けてロビーまで食器とテーブルを返しに行く。従業員のおっちゃんも受付でロウソクの下で食事をしてた。
食器等を返却すると「寝る時にはキャンドルの火を消してくれ」と言われ、僕らは「おやすみなさい」と言うて部屋へ戻った。
部屋に戻ったけど、何もすることは無かったし直ぐに寝る。
結局、停電は朝になるまで解消されんかったみたいや。
つづく
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