127帖 多賀先輩の異変

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



「多賀先輩、時計は3時間戻したって下さい」


 最後にそう言うてから1時間くらい、僕らはお互いに何も喋らんと椅子に座ってるだけやった。多賀先輩は隣の椅子に足を預け、僕は座ってる椅子に足を載せ体育座りで山々の姿をただ眺めてるだけやった。いつの間にか隣で燥いでたオーストリアの家族は消えてた。


 この一ヶ月の旅の思い出が頭に浮かんでは消えていく。楽しかった事も辛かった事も、映画のダイジェストを見てるように頭の中を流れた。

 そのダイジェスト映像は、国境を越えた辺りが最後やった。


 見終わった僕の身体に残ったんは、何とも言えんような気怠さや。身体が重かった。ほんまにしんどかった。別に体調が悪い訳ではなかったけど、この姿勢がしっくりしてるせいもあるけど、なんや身体を動かしたなかった。


 太陽が傾き、スストの村の裏手にある標高5,4千メートルの山の陰に入ると、風が少し寒く感じるようになる。


「多賀先輩、どっか行きませんか」

「どっかって、何処へぇ」


 カラコルムハイウエイの両脇にあるバザールの様な商店街以外に特に行くとこは無い。

 また暫く沈黙が続いた。


 陰に入ってからは気温がどんどん下がっていき、耐えられへん様になった僕らはやっと部屋に戻ることにした。そのとき僕は多賀先輩の異変に気が付いた。


 顔が青黒い。


 目も虚ろやった。ただ落ち込んでるだけやったらほっとくけど、こんなに生気の無い多賀先輩は見たこと無いんで心配になって声をかけた。


「しんどいんですか?」

「うん、そやなぁ。なんか身体がめっちゃ重いわ」

「高山病ですかね?」

「うーん、わからん。そやけど身体が思うように動かんわ」

「ほんなら水でも買うてきましょうか」

「すまんな、頼むは。俺はちょっと寝る」


 そのままシュラフに入って寝てしもた。失礼して多賀先輩のオデコを触ってみたけど、熱はなさそうや。もちろん恋煩いでもなさそう。

 多賀先輩の身体に何が起こってるんか分からんかったけど、結構きつそうやった。


 僕は部屋を出て、草雁兄さんの店に向かう。ホテルを出て店まで歩いて5分ぐらいやけど、僕の足取りも重かった。多賀先輩ほどでは無いけど、空荷で歩くのも辛かった。


 店に着くと、草雁兄さんは笑顔で迎えてくれた。


「ホテルはどうでしたか?」

「ああ、中々ええ眺めで気に入りました」

「それは良かった」

「ありがとうございました」


 僕はペットボトルのミネラルウォーターとトレペ、チョコレートとパックのフルーツジュースをそれぞれ2つずつ買うた。念の為、ここスストの標高はどれくらいか聞いてみた。


「凡そ二千七百メートルです」


 そんなに高くはないか。それぐらいやったら日本でも山の上にテントを張って何日も生活してる。そしたら何やろ?

 一気に標高を下げた事が多賀先輩の身体に影響してるんやろか。それか阿图什アェトゥシェン(アルトゥシュ)でのバイトで疲れが溜まってるんやろか……。


 そんな事を考えながらホテルに戻ると多賀先輩はぐっすり眠ってた。そやし起こさんとこ思て、さっき買うたもんをそっと枕元に置いといた。


 僕は旅の記録を付ける。喀什噶爾カーシェーガーェァー(カシュガル)からここまでの記憶を紐解いて、汚い字やけど詳細に記録した。

 記録の最後は


「多賀先輩の身体に異変が起こるけど、何かは不明」


 と書いといた。


 僕は、荷物の整理をしてからカメラを持ち、またテラスに出る。陽も大分傾き、さっきまでの尖った白い山頂ピークは少しオレンジ色になってる。もう少ししたら綺麗なオレンジ色になりそうや。

 それまで時間を潰す為、僕はテラスを出てホテルの回りを歩き、気になったもんの写真を撮る。ハイウエイや商店街の様子。ホテルの外観や、その後ろの更に高台になったとこにある住宅地。明日にはここを出ていくし、パキスタンに入った記念と記録の為に写真を撮りまくる。

 最後に、すっかりオレンジ色になった山頂の写真を撮る。山頂の雪にオレンジの光が映え、青い空とええコントラストをなしてた。



 部屋では、多賀先輩は起きて水を飲んでた。


「どないですか?」

「さっきより、ちょっとましかな」

「どうしたんですか。風邪ですか」

「いやー、何か疲れがどっと押し寄せてきた感じやわ」

「そないに疲れてたんですか」

「そんなことは無いと思うねんけど……。しんどいわ」

「ほしたら晩飯はどうします」

「そやなぁ、晩飯は食うわ」

「食べたら元気になりますよって」


 それから暫くして、また草雁父上のレストランへ向かった。多賀先輩の足取りはまだ重かった。


 今度は晩飯にカレーを頼んだ。種類が幾つかある中で、僕らは初めて食べる本場のインドカレー……、いやパキスタンカレーに「ダル」を選んだ。ダルカレーは、パチンコ玉大の豆が入ったカレーのことでスパイシーでめっちゃ辛かった。ライスは別の皿で出てきた。


 実は、僕は辛いカレーが苦手や。母が作るカレーはジューシーで甘かった。特にとうもろこし入りカレーがお気に入り。とうもろこしがより一層カレーを甘くしてた。

 そやし、カレーちゅうもんはそんなもんやと思て生きてたから、日本でもレストランで出るカレーは辛ろて殆ど食べたことが無かった。そやけど唐辛子の辛さ、例えばキムチなんかは平気で食べられる。


 とにかくパキスタンのカレーは辛い。坂本くんや唐崎さんも言うてたけど、これからパキスタンではカレーが主食やし、この辛さに耐えな生きて行けへん。「まぁいつかは慣れるやろ」と思い、頑張って食べたけど、やっぱり僕には辛すぎた。直ぐにチャイを注文して口に含み、甘さで辛さを中和させる。

 多賀先輩も少し元気になったみたいで、この辛いカレーを喜んで食べてた。



 ところが、ホテルに戻ると多賀先輩の表情は一変した。


「気持ち悪い!」


 と言い残し、トイレに駆け込んで行く。多賀先輩が戻ってきたんは結構な時間が経ってからやった。同じもんを食べた僕は平気やったから食中毒とかとはちゃうと思うけど、戻ってきた多賀先輩はぐったりしてた。


「あかん、しんどいわ」


 今まで多賀先輩から聞いたこと無い弱気な口調でそう言い放つと、直ぐにシュラフに潜り込んでしもた。


 その夜、多賀先輩は何度がトイレに駆け込んでた。この調子やと明日の移動は無理そうや。スストでもう一泊せなあかんなぁと考えてた。



 つづく

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