124帖 パキスタンのイミグレーション

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 国境を越えてからのバスは速い。殆どが下りで、ヘアピンカーブ以外のカーブはほぼ減速なしで曲がっていく。カラコルムハイウェイのパキスタン側は中国側と違ごて未舗装で、センターラインは無い。カーブを曲がる時はそれがブラインドカーブであっても道路の真ん中を思いっ切り越えて走り抜ける。

 僕は心配になって運転手に話しかけてみる。


「こんなにはみ出て危なくないのんか?」

「大丈夫! このバスしか走ってない」


 信じられへんけど、それ以上何も言えんかった。それより早く国境の街に着いて欲しかった。僕のバス酔いは酷いさかい、早くバスから降りたかった。


 それを堪える様に車窓から遠くを眺める。遠くと言うても、高い山々の谷間を走ってるんでそんなに視界は無いけど、時折、雪を抱いた尖った山頂ピークが見えると、「格好ええなあー、何て言う山やろ」と考えてバス酔いを誤魔化してた。


 左手の谷底に河が見えてきた。中国の塔什ターシェンクー库尔干ルェァーガアン(タシュクルガン)と同じ青灰色の水が流れてた。これが日本の様に清流やったらもう少し気分も変わってくるんやろうけど、濁った水では余計に心が重くなってしまう。

 日本の清流は沢山の木々、森のお陰で水が澄んでるんやと改めて考えさせられた。この辺の山々には緑は無い。たまに草が生えてるとこがあるけど、その量では濁った水を濾過できへんわな。

 木々が沢山あるところでは水も澄んでるやろけど、僕らが進んでるこの辺ではまったく見当たらん。気温が低く雪と高い山々が見えるだけで、ここは砂漠の風景と根本的に変わらんと思た。


『砂漠の中にただ高い山があるだけ』


 これがこの風景を見て感じた僕の結論や。

 ほんでも河の支流が合流してるところや、谷間にあるほんの少しの平地には草木が細々と生えてる。


 大きな尾根を回るとそこに開けた平地があり、緑もある。砂漠の中のオアシスみたいな感じや。そういう所には数件の集落があって、「どうやって暮らしてるんやろう」と思てると、あっと言う間に通り過ぎるほど小さなオアシスやった。


 それから川に沿って1時間ぐらい走り、橋を渡って川の東側の大きな尾根を回り込むと、視界が大きく広がった。今まで谷底の狭いところを走ってたんで、気分も明るくなった。


 あの時、夢で見た風景に似てる。何処からか白い翼を広げてパリーサが舞い降りてきそうな錯覚に囚われた。思わず窓から空を眺めたけど、そんなことがある訳は無かった。


 谷間に広がる平地には緑が生い茂り、人々が暮らす家も見える。河の向こうの高台にも集落があり、畑も見える。ここが国境からの最初の街、「ススト」やと分かった。

 バスは、踏切の様なゲートの前で一旦止まる。詰所からダークブラウンのパキスタンの民族服シャルワール・カミーズを着て頭にはベレー帽、肩にはライフルを携えた兵士が出てきた。運転手がバスのドアを開けると、その兵士はバスの中に乗り込んできた。

 何が始まるんやろとドキドキしてると、乗客を見回すだけで直ぐにバスを降りた。ほんでその兵士はゲートを開け、左に入るよう指示をした。

 僕らはバスごとイミグレーションの敷地に入る。


『Welcome to Islamic Republic of Pakistan』


 その看板を見て、ほんまにパキスタンにやって来たんやと実感した。

 敷地には、これから中国へ向かうバスやトラックが停まってて、大勢のパキスタン人が屯してる。


 僕は荷物を持ってバスを降りると、少し足元がふらついて転けそうになる。バスに酔ったんと、中国と違ごて全く縁もゆかりも無いこのパキスタンでこれから過ごしていくんやちゅう不安感が軽い目眩を起こしてたんやと思う。

 それでも荷物を持って係員に導かれるように中に入った。英語の書類に辞書を駆使しながら記入し、オーストリア人家族の後に並ぶ。僕らの番になり、書類とパスポート、それと北京で手に入れたビザを渡すと、中国出国の時と違ごてリュックの中身まで丁寧に調べられた。


「旅の目的は何だ?」

「観光や」


 パスポートとビザをじっくり眺めた後、係員はギョロッとした目で僕を睨み、質問してきた。


「お酒は持ってないか?」

「持ってない」


 僕は係員の目を見て答えた。平静を装ってたけど、ほんまはドキドキしてた。

 もしかしたらシュラフ(寝袋)の中に小瓶のウイスキーが入ってるかも知れんと急に思い出したからや。シュラフは、今年の正月に北アルプスに登った時のまんまやった。確かシュラフの中で酒を呑みながら寝た記憶がある。その後、小瓶を出した記憶は無い。

 一応「持ってない」と答えたけど、是非入っててくれと願ってた。なんせここはイスラム教の国。酒が売ってない国や。もし残ってたら貴重な酒になる。後で確認しよと思てたら、次の質問が返ってきた。「よかった」と、ちょっとホッとした。


「女性の写真やビデオテープは無いか?」

「無い」

「アイドルは持って無いか」


 アイドル? 思わず日本の可愛い歌手の顔が何人か思い浮かんだけど、そんなグッズは持ち歩いてないし奇妙な事を聞くんやなと思て首を傾げてたら、係員は面倒臭そうに次の質問に移った。


「薬は無いか?」

「これだけや」

「これは何だ」

「胃腸薬と解熱剤や」

「OKだ」


 流石イスラムの国や。聞かれる項目が変わってる。変わってるちゅうてもまだ中国しか知らんかったけど。

 僕はガイドブックに載ってる女性の写真があったけど、大丈夫やろと思てその辺は黙ってた。それよりトルファンで買うた短剣の方が心配やったけど、それも難なく通過した。

 僕はそれで済んだんやけど、多賀先輩は結構時間が掛かってる。横から覗いてたんやけど、どうもあの林さんから貰ろたであろう写真が引っかかってるみたい。素肌を露わにした写真もあって疑われてる。多賀先輩は、「She is my wife」と言うてたけど信用して貰えへんみたい。挙げ句の果てには2,3枚没収されてた。それでもなんとかお咎め無しに入国を許された。


 部屋を出てその前の石段に座る。


「くそ! あのボケカス」


 正面には雪を抱いた高い尖った山頂が悠々と聳え立ち、それを眺めながら多賀先輩は怒りを声に出してた。顔も怒ってたけど、割とすぐに機嫌を直した。


「残念でしたね。折角の思い出が……」

「ええねん」

「そやかて、結構可愛く写ってましたやん、林さん」

「そやねんけどな。ホンマはもっと凄いのがフィルムに収まってるさかい……」

「ええ! 林さんの写真、そんなに撮ってたんですか?」

「そうや。へへへ」

「ちょっと、何やってたんですか阿图什アェトゥシェン(アルトゥシュ)で。どんな写真、撮ったんっすか」

「へへへ、それは秘密や。凄いぞー!」

「見たいなぁ」

「日本に帰ったら見せたるぞ。1枚千円で」

「そんな、アホな……」


 多賀先輩のスケベな表情を見て、僕は頭の中で想像してしもた。林さんのチャイナドレス姿や水着姿、果ては生まれたままの素肌まる出しの姿まで思い浮かんでしもた。えへへ。


「ほな、行こか」

「ほなって、これからどないします?」

「取り敢えず腹減ったしな、飯や。飯食ってから移動手段を探そか」

「そうっすね。ほんなら、次は『フンザ』まで行くちゅうことでええですか?」

「うーん、そうやなぁ。取り敢えず……」


 リュックを背負ってイミグレーションの敷地を出る。いよいよ本格的にパキスタンを歩き出す。ここスストでもそこそこの標高があるんやろ、足取りは重かった。

 無事パキスタンに入国出来たのに、リュックがやけに重たく感じる。全く知らんパキスタンという国への不安感が重く乗り掛かってた。


 陽はまだまだ高く、きつい日差しを投げ掛けてくる。僕らは未舗装のハイウェイを南に向かって歩いた。



 つづく

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