118帖 溶解

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 空から降ってくる砂を眺めてた。


「こりゃ無理やなぁ」

「そうだね」


 ちょっと残念そうなパリーサ。


「パリーサも楽しみにしてたんか?」

「そうだよ。だってシィェンタイと一緒に行くんだよ。楽しみに決まってるじゃない」

「そっかぁ……」


 あんまり興味は無いと思てたけど、楽しみにしててくれたんや。どうなんやろ、この「砂の雨」は何時まで降るんやろか。止むんやろか?


 僕は雨で遊びに行けへんかった子どもの時の記憶が蘇ってた。特別、何処かへ行くわけでもなく、ただ広場で遊びたかっただけやけど、早よ止んでくれへんかと思いながらずっと窓の外を眺めてた。


 そん時と同じ様に、ただ呆然と窓の外の「砂」を見てた。霧雨の様に細かい砂が空から舞い降りて、雪の様に道路を埋め尽くそうとしてる。目の前の窓の棧にも少しずつ積もってきてる。薄っすらと砂が溜まると、時折吹く強い風でまた何処かへ飛んでいく。溜まっては飛ばされ、溜まっては飛ばされる、そんな自然のシステムが面白い訳でもなかったけど、僕はボーッと眺めてた。


 気が付くと隣にスカーフをはずしたパリーサが立ってた。僕はパリーサの肩を抱き寄せ後ろに回り、両手でパリーサを抱えて一緒に延々と降り続く砂を眺めた。ただ眺めてるだけで溜息しか出てこんかった。


「多賀先輩はもう帰ってるんやろか」

「帰って来たらここに来るんじゃない。だから、まだだよ」

「そうやな」


 僕らは視線をホテルの前の通りに向ける。霞んでよう見えへんかったけど、時折傘を差して歩いてる人の姿やライトを付けて走り去るトラックが見えた。


 砂の雨は止むどころかさっきより酷くなってきて、視界は更に遮られてきた。時計を見ると、もう既に8時を過ぎてる。


「あっ、見て見て。あれ……ナガオカさん」


 パリーサが指差す方に赤い傘を差す人が立ってた。ベージュのスラックスから長岡さんやと分かった。この砂の中、わざわざ来てくれたんや。


「長岡さんやね。そしたらパリーサは先に降りて長岡さんのとこに行ってくれる。僕は、6階に行って多賀先輩が居らんか確かめてから行くわ」

「うん。分かったわ」


 パリーサはスカーフを被り直し、カバンを持って部屋を出た。僕も一応、今日の装備を入れたリュックを持って6階に向かう。


 6階のドミトリーには昨日から泊まってる欧米人と日本人青年だけで、まだ寝てた。多賀先輩の荷物は一昨日のままやった。

 1階まで降り、受付の汉族ハンズー(漢族)のおっちゃんに喀拉库勒湖カーラークーラフー(カラクリ湖)の観光について聞いてみた。やっぱり「今日は行っても何も見えない」らしい。


 外へ出てみると、風も結構きつかった。強風に乗って降ってくる砂は頬に当たると少し痛いくらい。パリーサに先に行かせて悪かったなと思いながら、二人のところへ駆け寄る。


「おはようございます」

「おはよう。今日は無理じゃのう」

「ですよね」


 砂が目に入らん様に風下を向いて喋った。


「山へ行っても何も見えんそうですわ」

「ほうなんじゃあ。しゃーないし諦めよか」

「ですけど……、取り敢えずどっか店に入りましょか」


 こんな砂の雨の中で話すんは耐えられん。僕ら三人は近くの点心ディェンシン屋に入った。こんな日はあんまり出歩かへんのやろ、客は僕らだけやった。

 長岡さんもまだ朝飯を食べてへんかったから、適当に注文して食べながら話し合った。と言うても中止は決定的事項や。

 そやし僕は昨日の晩飯の代金の事を聞いた。


「ほいじゃが俺も酔うてたしわからんよー」


 と誤魔化してくれたけど、長岡さんが全部払ろてくれたと思うし丁寧にお礼を言うといた。

 ほんで話しはまた山の事に。来年の四姑娘山スーグーニャンシャンの登山計画を詳しく聞かせて貰ろた。なんでも難関未踏峰ルートの南壁に挑むと言うことで、僕はかなり興奮してた。


 ふと横を見ると、パリーサは僕のメモ帳に暇そうに絵を書いてた。山の話で盛り上がって、ちょっと放置してしもてた。

 そやけどその絵には、険しい山とそれを登ってる人が描かれてた。僕はびっくりして、パリーサに聞いた。


「パリーサ、僕らの話の内容が判ってそんな絵を書いてるんか?」

「いいえ、二人の日本語は全然分からないわ。でも、なんとなく頭に浮かんだのよ」


 僕と長岡さんはその絵を見て感心してた。パリーサはその絵を長岡さんに褒められて嬉しがってる。

 僕も長岡さんの真似をして「ぶちうまいのう!」と褒め讃えたけど、よく見ると登ってる人の服装はウイグルの民族服を着てた。そりゃ登山服とか装備とか知らんやろなぁと思たけど、僕らの話に合わせて登山の絵を書くやなんてホンマに不思議な子やとちょっと感動してた。

 その後もパリーサには悪いけど山の話は続いた。


 山の話が終わると明日の予定の話になる。


「明日もう一回みんなで喀拉库勒湖に行かん?」

「すんません。僕らは明日、カシュガルを出るんです。バスも予約してて……」

「ああ、そうじゃったのぉ。スマンのぉ」


 そしたら今晩は「お別れ会」をしようという事になる。


「寂しゅうなるのぉ。じゃけぇそん時は是非、多賀くんも一緒がええの」

「そうですね。何とかして掴まえときますわ」


 夕方6時に、いつもの利民饭店リーミンファンディェン(利民飯店)に集合という事で僕らは店を出て、一旦長岡さんと別れた。長岡さんは傘を差し、颯爽と砂の中に消えて行った。



 砂はまだ激しく降ってる。地面には5ミリほど積もってて、歩くと足跡が残るほど。散歩に行くわけにも行かず、僕らはダッシュでホテルまで戻った。

 そやけどこのダッシュは失敗やった。髪の毛は勿論、首や口、鼻の中まで砂が入ってきて気持ち悪かった。ホテルの入口で一応砂は払ろたけど、なんぼ払ろても頭から砂が出てきた。


 僕は部屋に戻ると直ぐにシャワーを浴びる。交代でパリーサも浴びた。シャワーの後は、いつもやったらTシャツ短パン姿で窓を開け、冷たく乾いた風を浴びて涼むんやけど、今日は無理。相変わらず砂が降ってるし、窓を開けたら砂が吹き込んで大変な事になりそうや。

 もうすぐ10時やというのに夕方の様に暗い。


 パリーサがシャワーから出てきた音がした。


「今日はどこへも行かれへんなぁ」


 外を見ながら独り言の様に言うてると、突然、僕は後ろからパリーサに掴まれた。腕が僕のお腹に回ってきて背中には柔らかい感触がしてドキドキしてきた。


「シィェンタイの心臓、ドキドキしてるね。うふふ」


 パリーサの笑う声がすると僕の心臓は更に激しく鼓動した。

 我慢できず振り返ってパリーサを見る。


「パ、パリーサ。それ……、なんて格好してんのや」

「えへへ。どう、シィェンタイ。私、charmingチャーミングですか。妖媚イャォメイ?」


 チャーミングかイャォメイか知らんけど、僕は思わず、


sexyセクシーやん……」


 と言うてしもた。

 目の前に立ってるパリーサは、この前「日曜バザール」で買うたシルクの布を身体に巻き付けてるだけの姿やった。上手いこと巻いてるけど、左の胸から肩にかけてと右足の太ももが露わになってる。濡れた髪がパリーサの妖艶さを更に引き立ててた。


 そんなパリーサを僕はそっと抱き上げる。シルクの滑らかな肌触りとパリーサの柔らかさが伝わり心地よかった。


 部屋は薄暗いのに、パリーサの青く透き通った瞳はいつもより輝いて見える。そのままベッドまで行き、二人で横になる。


「今日は、どこへも行けないね。ふふ」

「そうやな」

「それなら……、ずっとこのまま私の傍にいてね」

「分かってる。今日はずっと一緒や。離れへんよ」


 パリーサは僕の目を見てニコニコしてた。

 優しく素敵な笑顔――。このまま離れたくなかった。

 そやけど……、明日になったらお別れやと、パリーサの笑顔がもう見られへんと思うと、僕は辛くなってきた。


 今日までパリーサと過ごした日々の思い出が一瞬で頭を巡った。パリーサの泣いてる顔、笑ってる顔、悩んでる顔、物思いに耽ってる顔。どれもが愛おしく思えて、別れたくないという気持ちと複雑に混ざり合って感情が高ぶってきた。僕の目には涙が溜まってきてる。

 僕の心を読み取ったんか、パリーサは呟く。


「明日でお別れだね」


 僕らにはもう時間がない。


 パリーサを想う気持ちが頭のてっぺんを突き抜けた。思考回路が停止し、訳が分からん様になってパリーサを強く抱きしめる。


「昨日の夜の様にしてください」


 と言うとパリーサはそーっと目を閉じる。何をしたんか未だに思い出せんかったけど、パリーサの望むことなら……。

 目から涙が溢れそうで返事ができんかった僕は、それを誤魔化すように細くて柔らかそうなパリーサの唇に、僕のそれをそっと重ねた。パリーサの身体から力が抜けていく。


 柔らかくて吸い付くようなパリーサの肌に身体を合わせ、僕は体中でパリーサを感じ取ってた。


 言葉なんて要らんかった。見つめるだけで考えてることが通じる。

 お互いに気持を伝え、受け取り、確かめ合う様に僕らは身体を寄せ合って何時間も過ごした。


 たまに喉が渇けば二人でお茶を飲み、汗をかいたら二人でシャワーを浴び、お腹が空いたら喀拉库勒湖に持って行くはずやった「おやつ」を二人で食べた。


 ホンマに外が暗くなるまで一日中ずっと離れずに、お互いの心と身体を寄せ合って過ごした。

 身も心も溶けて混ざり合い、僕らはひとつ・・・になってた。



 つづく

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る