110帖 カシュガルに朝吹く風
『今は昔、広く
パリーサが鼻歌を鳴らしながら僕の肩に座ってる。重たくはない。なんでかと言うとパリーサには翼があって向かい風を受けるとその揚力で身体が少し浮くさかいに体重は感じへん。
僕らは国境を越えパキスタンに入ってた。
「とうとう来たね。パキスタンに」
「そうやな。そやけどこの尾根を曲がるとイミグレーションやで。どうする? パスポートは無いやろ」
「大丈夫。私には関係ないわ」
そう言うとパリーサは翼を広げ、空高く舞い上がった。
「パリーサ、どこいくねん」
パリーサは「ふふっ」と笑らうと、尾根を越えていってしもた。
僕は重いリュックを上下に揺すりながら尾根の向こうを目指して走る。息が切れそうやったけどパリーサを追っかけて走った。
「そんなん一人で行ったら危ないやん。またパキスタン人に捕まってしまうで」
と思て走るけど、パリーサの姿は見えへん。どこまで走っても居らん。
なんとか尾根を回り切ると、道の真ん中に一枚の白い羽が落ちてた。パリーサの羽根や。
「何処いったんや、パリーサ。パリーサ!」
「シィェンタイ……」
パリーサは僕の胸の中に居った。ゴソゴソしながら布団から顔を出してきた。部屋の中はまだ暗く髪の毛が顔に架かってよう分からんけど、パリーサの青い目だけは光ってた。
そやんな、夢やんな。
「どうしたのよ。何度もキックされたわ」
「ごめん、ごめん。夢の中で……、パリーサが飛んで行くから走って追っかけててん」
パリーサはケラケラ笑ろてたけど、嬉しそうやった。
「それで、私は捕まえられたの?」
と聞いてきたさかい僕は夢の話をした。始めは笑ろてたけど、最後は神妙な顔をして、
「放したらダメだよ」
と囁き、グルっと回って背中を向ける。
「どう。翼はある?」
僕は丁寧に背中を擦る。
「ここに生えてるで」
僕は冗談ぽく言うと、
「それじゃぁしっかり掴まえてないと飛んでくよ」
と言うさかい、後ろからパリーサをしっかり抱きしめた。パリーサはクスクス笑ろてる。
「ほんとにシィェンタイは面白いね」
ちょっと小馬鹿にされてる様やったけどそれを嬉しく思てた。
僕はパリーサのお腹をくすぐると「キャッ」と小さく唸る。するとまた僕の手を掴み、胸に押し付けてきた。その柔らかい感触で僕の身体から力が抜けていく。パリーサもおとなしくなった。
僕はそのまま目を閉じ、パリーサの身体と鼓動を感じとってた。
気が付くとパリーサは服を着替え、髪の毛を括ってた。僕はベッドで肘を付き、こっそりと眺める。括り終わると耳に銀色のピアスを付け、昨日バザールで買うた黄色いスカーフで髪の毛を覆ってる。
僕が見てるのに気が付くとハッとして、少し恥ずかしそうにベッドにやって来た。
「どう、似合うかな?」
「似合てるで」
と言うたものの、黄色いスカーフに淡い黄色のワンピースはええねんけど、紺のスラックスは少し浮いてる気がする。
「そやけど、そのスラックスは合わんで」
「そうなの」
と言うとパリーサはスラックスを脱ぎだした。ワンピースの裾からパリーサの細くて白い素足が出てきた。日本のアイドルみたいな雰囲気でめっちゃ可愛いかったけど、下着が薄っすらと透けて見える。
「やっぱり、履いときぃ」
と言うと、僕も起きて着替えた。
6月10日の月曜日。あれ! まだ9時半やん。つまり
「なんでこんなに早よ起きたんや」
「朝の
「散步かぁ……。まぁええわ、行こか」
「うそうそ。お腹が空いたのよ。朝ごはんを買いにいきましょ」
そう言えば、何時も朝昼兼用の昼食と晩飯の一日2食や。間に
もう陽は昇ってたけど、カシュガルの標高が高いせいもあるんやろう、やっぱり外の空気は冷たい。風が吹くと寒く感じる。
その代わり澄んだ空気のお陰でムスターグ・アタがはっきりと見える。山頂付近はすごい風が吹いてるんやろう、頂からは白い雲が伸びてる。青と白のコントラストが綺麗やった。
僕らは南に向って早歩きで身体を温めながら通りを進んだ。
通りは朝の匂いで満ちてる。パンを焼く香ばしい匂い。いや、ここはカシュガルやからナンを焼く匂いや。それと御飯を炊く時にする様な、もしくは何かを蒸す様な匂い。食欲がどんどん引き出されていく。白いご飯と漬物、味噌汁が恋しくなってた。
何となく、交差点を左へまた左へと曲がって行くと、あの
広場の脇の歩道には車輪が付いてる移動式の屋台があって、ヨーグルトを小さな口広の瓶に入れて売ってた。
「パリーサ、食べる?」
「うん。トルファンではこんなの見たことないわ」
「ええ。ヨーグルトは無いのんか?」
「ちがうの。この
そうやな。思わず苦笑い。売り子の
ビニールを取ってパリーサと同時に食べた。
「うーん。美味しいね」
「ん……」
日本のヨーグルトみたいに酸味も甘みも無かったけど、前に食べた山羊のヨーグルトの様なクセも無かった。ほんでもお腹には良さそうな感じがしたんで、僕はもう一個買うた。
僕らが食べてる間にも3つ4つと買うていく人が何人もおって、結構売れてるみたい。カシュガルの朝食には欠かせへんもんなんやろか。
2個目も食べたけど、やっぱり普通やったわ。そやけどなんかええ感じ。ビフィズス菌が生きてるっちゅう感じがするし、明日も買いに来よ。
そやけどこれだけではお腹は膨れへんし、広場の反対側にある店に入る。店の入口からは湯気が出てて、見た目にも食欲をそそる。
そこで蒸したて熱々のゴシマンタ(羊肉の肉まん)を注文した。僕は欲張って2個注文したけど正解やった。ピリ辛で酸っぱいタレを付けて食べるとむっちゃ美味しい。玉ねぎの甘みも絶品で、僕は2つともペロッと食べてしもた。お腹もいっぱいで少し苦しいぐらい。
表へ出てみると、通りは通勤の人たちが右往左往してる。バスやトラックも頻繁んに走ってる。学校へ向かう少年少女達も可愛らしかった。中には服が汚れててゴム草履しか履いてへん如何にも貧しそうな少年も居ったけど、顔はハツラツとして元気そうやった。
広場横のちょっとした公園では、ここでも汉族のおじいちゃん達が
「彼は一ヶ月ほどトルファンに居たわ」
パリーサが勤めてるホテルに先月まで居って、やっぱり汉族の恰好をしてたらしい。人民の恰好をして人民のやることを真似するんやったら新疆やのうて北京とか上海へ行ったらええのにと思てしもた。
太极拳を終えたおじいちゃん達は、ベンチに腰掛けお茶を飲んで休憩し始めた。
「もう終わりかしら」
「そうみたいやな。ほんなら僕らも行こか」
「うん!」
僕とパリーサは公園を後にする。
日差しは暖かく、風はひんやりして気持ちよかった。
つづく
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