80帖 砂の丘

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 シャワーの水音が聞こえてる。僕は多賀先輩のベッドの上で毛布を掛けられて寝てた。

 多賀先輩が戻ってきたんやろか。

 

 薄っすらと目を開けて時計を見ると、6月6日木曜日の6時57分。

 余りにも寒くて僕はもう一回、毛布に潜る。あと1時間でバスは出発や。


 今日は喀什噶爾カーシェーガーェァー(カシュガル)に到着する。今日の夜はゆっくり寝られるかなと期待し、意を決して起きる。

 起き上がって目の前の僕のベッドを見ると、そこには昨日パリーサが着てた服が脱いであった。

 シャワーを浴びてるんはパリーサや。僕は慌ててもう一度毛布を被る。


 やば!


 昨晩パリーサは泣いたまま寝てしもて、僕もそのままやった。と言うことは多賀先輩は戻って来てへん。

 毛布の中で、僕はドキドキしながらパリーサがシャワーを終えて服を着るのを待つ。


 水音が止み、足音が近づいて来ると心臓がバクバクしてくる。布が擦れる音がして、暫くするとパリーサの声がした。


「シィェンタイ、起きてね」


 僕はたった今目が醒めました、みたいなフリをしながら起きる。


「おはようパリーサ。良く眠れた?」

「うん、よく寝られたわ」


 パリーサはベッドに腰掛け濡れた髪をタオルで拭いてる。その仕草はやっぱり女の子や。髪を後ろで纏め布を被ってるとこしか見たことなかったけど、髪を下ろしてる姿は、その肌の白さと彫りの深さが際立ってより一層綺麗で大人らしく見える。


 昨晩は、どうしようもないねんけど、結果的にパリーサを悲しませてしもた。そやし何か言わなと思てパリーサを見てたら目が合うてしまう。


「何を見てるの」


 その声は、いつものパリーサの明るい声やった。


「いや、綺麗やなーって見てた」

「そしたら结婚ジェフン(結婚)してよ」


 やっぱまだ言うかぁ。


 また昨晩にたいな事になったらお互いに辛いし、なんて言うたらええんか返事に困ってた。


「大丈夫よ」


 と言うて笑顔を返してくる。何がどう大丈夫なんか分らず考え込んでると、


「さあシィェンタイも準備して。行くわよ」


 と言い、さっと髪の毛を束ねピンクのスカーフを被ると部屋を出て行った。

 その立ち振る舞いは、昨晩泣いて寝てしもた少女ではなく、何か吹っ切れた大人の女性の気配を感じた。


 そんなパリーサの態度に、僕は初めて惹かれてしもた。なんか奇妙な感覚やったわ。


 荷物をまとめてると、多賀先輩が眠たい顔をして戻ってくる。


「おはようございます」

「あーねむた」


 と、あくびをしながらリュックを開ける多賀先輩。


「昨日はどやったんですか」

「うん。殆ど寝てないわ」

「林さんと、うまこと行ったんですか」

「そりゃ……まぁ、あれやな。ははは」


 詳しくは話さへんかったし、僕も聞かんかった。大体想像はつくわ。


「そやけど北野はどないやったんや。向こうの部屋でパリーサに叩き起こされたけど、めっちゃ機嫌良かったやん。うまいこといったんか?」

「何を言うてるんですか。そんな場合と……ちゃいますわ」

「そやかてニコニコしとったで」

「そうですかぁ」


 パリーサの中で何かが変化したんかな。もしかして諦めたんやろか? それやったらええねんけど……。


 そう思うとちょっと寂しい感じもしてきた。


 僕は昨晩の事を掻い摘んで話し多賀先輩がどう反応してくれるか期待した。そやけど、多賀先輩は着替えながら、


 「ふーん」


 と相槌を打つだけやった。

 ほんで最後に、


「ええんちゃう」


 と、どっちでも取れる言葉を言うて、多賀先輩は荷物を担ぐ。


 要するに自分で決めろ、って言うことやな。


 僕も荷物を担ぎ廊下に出る。廊下では、パリーサと林さんが待ってた。


「ほな行こか」


 と、多賀先輩が言うと林さんは横に並び、二人で歩いて行き、その後ろをパリーサは僕には目もくれず付いて行く。

 僕はその後をトボトボと歩いた。


 日の出前の旅社の外は寒くて暗い。まだ人影は疎らで、エンジンがかかってるのは僕らのバスだけや。バスに乗り込むと足が不自由なおじいさんも既に座ってて、僕が最後やった。

 社長が人数を確認し終わると直ぐにバスは出発する。動き出すとその振動のせいもあって眠気が襲ってきた。僕はパリーサの後ろ姿を見ながら眠った。


「おい、朝飯やぞ」


 と言う多賀先輩の声で起きる。ドライブインに停まったバス中にはウイグルの女性達とおじいさんと僕だけ。

 僕はパリーサに、


「朝飯は何を食べる?


 って聞くと、


「林さんに頼んだから」


 と目も合わせず返してきた。


「そっかぁ。分かった」


 なんか寂しくなってしまう。

 僕はバスを降り、朝飯を買うて多賀先輩と同じテーブルに座って食べる。バスから戻って来た林さんは、多賀先輩の横に座り嬉しそうに食べ始める。

 僕は独りで黙って食べるしかなかった。


 昨日までは、パリーサの事がちょっと鬱陶しかった。そやけど、逆に相手にされん様になると寂しく感じてしまう。多賀先輩と林さんが仲良くなればなるほど、余計に自分が惨めに感じてしもた。

 昨日、涙を流したパリーサの気持ちに比べたら大したこと無いのやろけど……。


 太陽が登り、すっかり明るくなる。気温もどんどん上がって行くのに、なんでか僕の心は暗くて寒かった。


 天山山脉ティェンシャンシャンマイ(天山山脈)の麓を、左に砂漠を見ながら、真っ直ぐに伸びた道をバスはひたすら走って行く。

 およそ1時間おきに乗客が降りたり休憩する為にオアシスの街で停車する。停まるたんびに、何処からやって来たのか、おばちゃんのアイスキャンディー屋が車内に乗り込んでくる。値段を聞くと1本3マオから5角で、形や大きさや味で異なる。同じ様なもんでも人によって1角から2角ほど値段が違う時もあった。


 売りに来るたんびに、僕はパリーサに


「食べるか?」


 と聞いてみるけど、


「私は要らない」


 らしい。

 いつの間にか僕はパリーサに気を使こてた。表情は明るいのに言葉はそっけなく、淡々としてた。いつもと同じ英語で話してるけど、それは感じる事が出来る。鬱陶しく感じてた頃の方が良かったなと思てしもてた。


 ちょっと憂鬱な気分で何気なく外の景色を見てた。予定では、次のドライブインで昼飯やったのに、その途中の砂漠のど真ん中でバスは急に止まってしもた。

 社長と見習い運転手はバスを降りたんで、僕も外へでて見に行ってみる。二人はエンジンルームを覗いては困った表情をしてた。


 エンジントラブルや。


 エンジンルームから蒸気が上がってた。僕はエンジンルームを覗いてみる。なんとラジエターのキャップが割れ、そこから冷却水の蒸気が漏れてる。危うくオーバーヒートするとこや。


 社長は、今から街まで行って部品を買うてくるから暫く待ってて欲しいと言うてる。

 後ろからやってくるトラックを止めると、それに乗り込んで行ってしまう。いつ戻ってくるか見習い運転手に聞いたけど、それは分からんと言うてた。


 昨日と違い、雲一つない空。太陽はガンガン照りつけてた。幸い日陰に入れば風も吹いててそんなに暑くはない。乗客は外に出て、思い思いに過ごす。

 砂の上で昼寝をしたり、ぶらぶら散歩したり。土手を越えて行き、用を足してるおっちゃんも居った。ウイグルの女性はやっぱりバスの中で過ごしてる。


 カメラを取りにバスに戻ると、パリーサが僕を見てくる。僕は笑顔を返したけど、黙って僕を見てるだけやった。


 いつもやったら話しかけてくるのに……。


 カメラを持って外に出て、バスや辺りの様子を記録する。離れたとこにある岩陰では多賀先輩と林さんが楽しそうに話してた。ちょっと羨ましく思てしもた。


 道路の南側の、砂漠の中へ少し行ったところに砂丘がある。砂漠らしい砂丘で、その向こうにも広がってる様な気がして、僕はそこへ行って見る事にする。


 道路から離れると地面はホンマに砂だけやった。今まで見てきた岩と石が多い砂漠ではなく、細かい砂だらけ。軽登山靴を履いてたけど砂の上では無力やった。それに、近くに見えてた砂丘はかなりの距離があった。

 それでもなんとか麓まで辿り付く。登りに差し掛かると思ったより急で、足元の砂が崩れてなかなか登れへん。

 それでもなんとかてっぺんに着くと、目の前には予想していた以上に広大な砂の海が広がってた。今朝からモヤモヤしてた気分が一気に晴れた気がする。


 僕は思わす立ち尽くした。幾重にも連なり、どこまでも続く砂丘。思い描いていた砂漠のイメージを遥かに凌ぐ情景が目の前にある。地平線は蜃気楼で景色が揺らいで見えた。そのスケールが余りにも凄す過ぎて、僕は写真を撮るのを忘れてた。


 写真を撮りに行って、思い描いていた風景より凄いものに出会うとシャッターを切るの忘れる事がある。

 ただ今日の場合は忘れたと言うより、シャッターを切るのを躊躇ってしもたと言う感じや。それくらい強烈な印象やった。

 とうとうここまで来たな、って言う満足感も体中に漲ってた。


 横からの風が強く吹き付け、僕の足元を砂が流れていく。僕は足を踏ん張り、気持ちを切り替えてシャッターを切る。何回も切った。


 振り返ると500メートルぐらい離れたとこにバスが小さく見える。僕は写真を撮るのを止めた。

 砂の上に座り、この風景を目に焼き付ける事にする。


 風と砂が流れていく音だけが聞こえる。日差しはキツかったと思うけど、何も感じんへん様になってた。

 何も無い、砂だけでできた丘の風景やのに、何も考えられず、何も感じられず、時間も忘れ、ただひたすら眺める事しかできひん。

 雄大な砂漠の風景に、僕は飲まれてた。


 暫くすると、風と砂の音に混じって、「はぁー、はぁー、ふぅ」と言う声が聞こえてくる。


 振り返ると、そこには、砂丘を登ってきたパリーサの姿があった。



 つづく

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