77帖 パリーサの青い目は

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 6月5日、水曜日。人の気配で目が覚める。同室で別のバスのおっちゃん達は荷物の準備を終え部屋を出て行った。

 時計を見ると北京時間の8時前。僕は多賀先輩を起こし、


「先に荷物をバスまで持って行っときます」


 と伝え、部屋を出る。朝の库尔勒クーミィラ(コルラ)の写真を撮りたかったからや。

 部屋を出ると、晩飯を食いに行った時と同じ場所に、眠たそうな顔のパリーサが立ってた。


「お、おはようさん」

「おはよう」

「早いな。何時から立ってたんや?」

「30分ぐらい前だよ」

「なんでそんなに早いの?」

「だって、置いて行かれたら嫌だから……」


 信用されてないわ。


「置いてかへんて。心配せんでええて昨日言うたのに」

「……」

「昨日はちゃんと寝たか?」

「少しは、寝た……」


 初めての旅の夜で緊張して寝られんかったんか、手で口を覆い大きなあくびをしてる。なかなか可愛いしぐさもするんやと思てしもたわ。

 一緒に外へ出て、昨日乗ってきたバスを探す。

 思った通り、旅社リュジェァの外は寒く、靄がかかってた。登山用の防寒シャツを着込んでて正解やったわ。


 太陽は昇ってると思うけど曇ってて見えへん。そやけどその朝靄の中の喧騒を僕は早く写真に収めたいと思てリュックを置く為にバスを探す。


 ターミナルのバスは昨日の夜より倍ほど停まってたし、バス待ちの人もやっぱり増えてる。なるほど、库尔勒から先は鉄道はない。ここから先へ行くにはバスしかないし、列車で来た人もここからバスに乗る。その分、バスターミナルは人とバスでごった返してた。

 それに加えいろんな民族が入り混じって、シルクロードの中継地の朝にはふさわしい・・・・・情景が出来上がってる。


 バスは、昨日停まったとことは全然違うとこに移動してる。既に助手の漢族のおっちゃんはバスの中で待ってたけど、乗客はまだ一人も居らん。

 バスに荷物を置いて、また車外に出るとパリーサも付いてきた。


 朝靄でくすんでる街。

 旅の行程を話す人。大量の荷物をバスに積み込んでる人。バスの窓を拭いたり、エンジンルームを覗き込んでる運転手。世間話をして笑ってる人たち。眠たそうにあくびをしてる人。荷物に腰掛けて寝てる人。


 被写体はなんぼでもあったし、面白い写真がぎょうさん撮れた。

 もっと面白そうなもんは無いかとファインダーを覗いてると、その中にパリーサの横顔が入ってきた。まだ少し眠たそうな空ろな目で何処かを見てる。


 そんなパリーサの表情は、オアシスの朝の風景に溶け込んでなかなかええ味を出してた。絞りを開放してシャッターを押そうとした時、僕に気付いてカメラに目線を合わせてくる。パリーサの青い目は一瞬鋭くなり、何かを訴えてる様やった。


 僕はドキッとした。身体が一瞬固まってしまう様な衝撃に見舞われ、思わずシャッターを押す指が遅れる。それでもシャッターをなんとか押したんやけど、そん時にはパリーサは既に笑顔で手を振ってた。


 あのドキッとした「目」の写真は多分撮れて無いと思う。もし撮れてたら最高の写真やったやろに、惜しい事をした。


「ねー。もっと写真を撮ってよ」

「そしたら、さっきの目をしてくれる」

「さっきの目?」

「どっか遠くを見てて、ほんでカメラに気付いてパッとレンズを見た時の目や」

「そんなことは分からないよ」


 やっぱり。


 シャッター押すんを躊躇った僕が悪い。しょうがないんで適当にポーズを取らせて数枚撮ったけど、わざとらしいポーズとその表情は、なんとなくムカついてきた。あの目のパリーサに、いつかまた会えたらええなと願う。


 そんな事をしてたら、バスの中から助手のおっちゃんが手招きをしてくる。バスに乗ってみると、多賀先輩や他の乗客はもう座席に座ってる。そやけど、あの大家族はまだ乗ってへん。そやのにもう出るんかと思てた。


 パリーサがバスに乗り込むと動き出し、ほんで直ぐに旅社の前まで止まる。そこでおじいさんとその家族を乗せ、改めて出発した。もちろん言われる前に自ら進んでおじいさんの乗車を手伝った。


 库尔勒から新たに乗ってきたウイグルのおっちゃんら2人を入れたら、バスは満席になる。予定の7時より10分も早くバスは出発した。


 煤で汚れた工場の横を通り、並木道を抜け、また砂漠の中の道を走る。

 右手には高い天山山脉ティェンシャンシャンマイ(天山山脈)、左手には荒涼とした砂漠は広がってる。


 天山山脉から延びてる尾根を登り、峠を越すと日本の北アルプスを思わせる様な非常に険しく切り立った山の頂きが目の前に見える。


 あれは未踏峰やろか?


 格好ええ「壁」もあって、登ってみたいという衝動に駆られる。そんな山々を見て楽しんでたら雨が降ってきた。砂漠で3回目の雨や。

 気温がどんどん下がってるみたいやし僕は窓を閉める。それでも寒く感じてくる。


「パリーサ。寒くないか?」


 一応聞いてみる。


「ええ大丈夫よ。ありがとう」


 僕はリュックからウインドブレーカーを出して着込む。これで寒くはない。


 小一時間ほど走ると、バスは小さなオアシスのドライブインへ入って止まる。朝食タイムや。

 またパリーサの分を買うてこなあかんなぁと思いながら食堂へ入り、羊肉の塊が載ってるポロを注文する。パリーサの分をバスに持って行った後、僕らも食べた。食べてる間に雨は止んできた。

 朝食後、バスは山と砂漠の境目をひたすらまっすぐに走る。


 2つ峠を越え、カーブが続く急な下り坂を下り終えたかと思たらバスは急に停まった。

 そして直ぐに動き出し、左へ曲がりながら道を外れ、道の無い南の砂漠の中へ入って行く。バスは左右に大きく揺れだし、僕は何事ぞと思て窓の外を見る。


「おおっ。なんやなんや」


 寝てた多賀先輩はびっくりして起きた。


「なんや雨で氾濫した川が、道を分断してるみたいですわ。そこを迂回して、今砂漠の中を走ってます」

「大丈夫かこれ?」

「分かり……、ません」


 バスがひっくり返りそうなぐらいの凄い揺れ。しっかり掴まってんと座席から振り落とされそうや。


「シィェンタイ、あれ見て。キャッ!」


 僕の方を振り向いたパリーサは窓で頭をぶつけてる。

 遥か前方にはバスやトラックが思い思いに道なき砂漠を南下し、道を分断した川を迂回してる。どんどん南下して行くと、川の水は砂の中に消え、バスは轍にそって右に曲がる。

 その時、大きく揺れたかと思うとバスはスタックして停まってしまう。何度か車体を前後に動かし脱出を試みる。少し動いたけど再びスタックし、ついには完全に動かん様になってしもた。


 助手のおっちゃんの掛け声で、足が悪いおじいさんを残して乗客は皆バスを降りる。男達は後ろへ回り、合図に合わせてバスを押す。2、3回とやるとバスはスタックから復帰した。再びバスに乗ると、おじいさんは笑顔でみんなを迎えてくれた。


 遠くの方でもスタックしたバスを押してる光景が見え、まるでバスによる砂漠ラリーの様やった。未だスタックしてる他のバスを追い抜くと、小さな歓声が聞こえてくる。そやけど大型のトラックに抜かれると残念そうな声がバスの中に漏れてた。レースを楽しんでる様やった。


 ところが、暫く行くとまたスタックしてしまう。そんな事が3回もあって、その度に後続のバスに抜かれていく。


 このバスの運転手は下手くそか?


 スタックから復帰したバスは進路を北へ取り、舗装道路目指してスピードを上げる。スピードを上げた分だけ揺れは激しくなり、前のシートにしがみ付いてんと振り落とされそうや。


 右に左に進路を変え、バスはやばそうな所を回避しながら走ってたけど、それでもスタックした。タイヤが空回りする音が聞こえる。バスは左に傾き、完全に止まってしもた。

 皆で外へ出て、男たちで押してみたものの、タイヤの半分以上が砂に埋まってお手上げ状態やった。助手のおっちゃんや乗客は、タイヤ回りの砂を手で掘り出し始める。そんな手で掘っても時間が掛かるだけやと思て僕は車内に戻った。


 まさかこんな場所で使う事になるとは……。


 僕はリュックの底の方から、山道具屋で緊急用にと思て買うた折りたたみ式アルミ製のスコップを取り出す。それを持って外へ出て、石混じりの砂を掘り出し始める。


 それを見てた他の乗客は、もっとタイヤの前を掘れだとか、横も掘った方がええだとか言うてくる。


 うるさい外野やなぁ。


 終いには、僕のスコップを、


「10元で売ってくれ」


 とか言い出すおっさんもおったけど、


「200元ならええよ」


 と言うと黙ってしもた。因みに日本円で6000円位で買うたと思う。


 そしてバスは無事スタックから脱出し、みんな拍手をした。

 ほんでバスに乗り込むと、ドライバーは助手の漢族のおっちゃんに変わってた。

 このおっちゃんの方が運転が上手いみたい。その後は一度もスタックもせず、川の迂回を始めてから1時間半ほど掛かってなんとか舗装道路に戻る事が出来た。


 バスはスピードを上げ、トラックや他のバスを追い越して遅れた時間を取り戻してる。そやのに快調に走るバスを大型バスはいとも簡単に追い越していく。向こうの方がエンジンの性能は良さそうやし、乗り心地も快適に見える。値段はなんぼやねんと疑問に思た。


 その後真っ直ぐに延びた道をひた走ると、やがて小さなオアシスに入り、そこのドライブインで昼飯休憩になる。

 昼飯にはパリーサのリクエストでスユックアシュという汁そばを注文する事に。多賀先輩は一緒に乗ってた漢族の女の子といつの間にか仲良くなって、その子と二人でテーブルに座わり筆談で喋ってた。


 そう言えば、スタックした時に話し掛けてたな。


 その子は、一般的な汉族ハンズー(漢族)風の地味な服装やけど表情はきゃぴきゃぴしてて、多賀先輩の好きそうなタイプやと思た。


 僕はパリーサへ料理を運んだ後、一応気を使こて多賀先輩とは別のテーブルへ行く。運転手のおっちゃん達に相席をお願いして、スユックアシュを食べた。

 めっちゃ辛かったけど身体は温まり、寒い天気には丁度良かった。


 食べてる時、またいつもと同じの質問をされたんでそれに答え、また僕からもいろいろと聞いてみる。


 今朝みたいな道の分断はよくあるのかと聞くと、めったに無いけどたまにあるらしく、先週から雨の日が多かったから今日のそれは特に酷かったらしい。

 それと助手やと思てた漢族のおっちゃん、実はこのバスの持ち主、つまりこのバス会社の总经理ゾンジンリー(社長)やと分かった。運転手のウイグルのおっちゃんは見習いやそうで、確かに社長が運転してからは速くなってた。

 今は会社のバスはこれ1台しか無いけど、金が貯まったら大型のバスを買うたり、2台、3台と増やしていき会社を大きくしたいと言うてた。頑張れおっちゃん!


 ほんで今日は何処に泊まるのか聞くと、阿克苏アークェァスー(アクス)と言うオアシス都市で泊まるらしい。これから6時間もかかるて言うてたし、まだまだ先は長そう……。


 昼食後、バスはまた猛スピードで走り出す。もちろん運転は社長や。社長の運転はなんか安心できた。安心すると眠たくなって僕は窓にもたれて寝てしもた。


 お祈りの為に停車したり、トイレ休憩を挟みながら幾つものオアシスや峠を越える。太陽が沈み、辺りが暗くなると日没後のお祈りのために停車した。もちろん何も無い砂漠の中で。

 僕もバスを降りて、身体をほぐしながら空を眺める。気付くと、パリーサが黙って僕の横に立ってる。パリーサの青い目は、夜空を見つめてた。


 雲の切れ間から、漆黒の闇に鮮やかに光る星が見えてる。


 阿克苏までどれぐらいかかるんかと社長に聞くと、


「あと1時間だ」


 と自信有りげに言うてた。



 つづく

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