73帖 沙尘暴の中で

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 「沙尘暴シャチェンバオ(砂嵐)、来る!」


 と言うと、建萍は宮城ゴンチョン跡の方へ向かって歩き出す。


「どうしたんや?」

「あれ。沙尘暴、大変ね」


 建萍が指差した南の方には、さっきは砂煙やと思てたもんが、いつの間にかカーテン状になってこっちへ向かって来てる。夏の夕立の雨みたいに、はっきりとその境界線が判る。その砂の境界線はこちらへ徐々に近づいて来てる。


 夕立なら雨が降ってる所が薄っすらと見えるけど、砂嵐はそのカーテンの中がまったく見えへん。


 魔力を伴って押し寄せてくる強大な大王が全てのものを飲み尽くしながら攻めてくる。


 そういった感じかな。

 初めての砂嵐。僕はその魔力に飲み込まれてた。

 幼い頃、台風がやって来たとき父や母は雨戸を閉めたり物が飛ばんように慌てたのに、僕はなんか楽しいものが来るみたいで思てワクワクしてた。その時と同じ感覚で僕は興奮してる。何がやってくるんやろう。


「シィェンタイ、早く、早く」


 建萍に腕を引っ張られる。


「大変、大変。急ぐね」


 建萍の表情を見ると、ほんまに厄介なもんが来るみたいで僕も少し慌てた。


「わかった。取り敢えず宮城ゴンチョン跡まで行こか」

「はい。急いで、早く」


 少し小走りで急ぐ。北の空はまだ青いのに、僕らの周りは夕方の様に暗くなり、ほんで向かい風がきつくなる。恐る恐る振り返ると、大王はもう直ぐそこまで来てた。


「シィェンタイ、我们ヲメン变得痛苦ビィェンデェァトクー。急ぐ」


 建萍はそう言うけど、僕は半ばあきらめてた。もう間に合わへんし、それより好奇心から砂嵐に飲まれてみてもおもろいかなと思てた。

 そやけど、建萍が執拗に急がすんで僕は後ろを付いて行く。


 僕らは宮城跡の手前で大王に飲み込まれてしもた。なぜか嬉しかった。

 そやけど喜んでたのも始めだけで、上からも横からも砂が降ってきて口や鼻に細かい砂が入ると辛い。息をすると肺まで砂が入ってきそうで、目を開けてるんも辛くなってきた。砂と一緒に飛んできたもんが当たると痛い。大王の力をちょっと甘くみてた。


 砂で宮城跡が霞んでくる。建萍はハンカチを口に当てて下を向きながら走り出す。


「シィェンタイ、急ぐ」


 強い風がと砂が吹き付け、建萍の声も聞き取れへんくらいうるさい。このままやと建萍の姿すら見失いそうやった。


「分かった」


 カメラが入ったサブザックが邪魔で動き辛いけど、僕も後ろから走って追っかける。

 建萍は宮城跡に入り、風除けができそうなとこを探してる。


 するとタオルで顔を隠して走る二人組が横から飛び出してくる。建萍はそれに気付いて立ち止まったけど、先頭を走ってた男は建萍には気付かずにぶつかり、よろけて倒れてしまう。

 建萍は助けよとして近づくと、その男はゆっくり立ち上がり建萍を下から舐める様に睨んだ。

 僕は、なんとなく「やばい」気がして急ぐ。その男は何か言うたけど、風の音がうるさくて聞こえへん。そして次の瞬間、その男は建萍の左足を蹴った。


 なにっ、蹴ったなっ!


 よろけた建萍をもう一人の男が今度は後ろから背中を蹴る。


 何すんねんっ!


 建萍は「キャっ」と言うて倒れてしまう。


「こらー! ちょっと待てやー」


 立ち去ろうとする男たちに僕は怒鳴った。


「お前ら建萍に何してくれたんやっ!」


 無視して歩いてる二人の肩を捕まえて引っ張る。

 30代前後の汉族ハンズー(漢族)のおっさん二人は、僕を睨み中国語で怒鳴ってくる。何言うてるか分からんさかい僕は日本語で、


「お前ら今、建萍を蹴ったやろ。謝らんかい、ボケっ!」


 と言うて睨み返す。


「お前は日本人か?」


 と後ろから蹴った男が英語で話してくる。


「そうや」

「そうか、では問題ない」


 と言うと再び歩き始めた。僕は再び肩を掴んだで引っ張る。


「何が問題ないや。おまえ建萍、蹴ったやんけっ。謝らんかい!」

「なぜ俺が謝らないといけないんだ。アイツが俺らに当たってきんだ。アイツは维吾尔族ウェイウーェァーズー(ウイグル族)や。维吾尔が悪い」


 何っ! ウイグルが悪いってどういうことや。蹴ったんはお前らやないかー。


 そう言うた男にむっちゃ腹が立ってきて、目の前まで凄みを効かせて詰め寄る。その男は後ずさりしたけど、もう一人の男が僕の前に割って入り、いきなり僕の胸ぐらを掴んでくる。


「なぜ维吾尔を蹴ったらダメなんだ」


 何でて……、お前ら……。建萍を、何もしてへん子を蹴り飛ばしたやないか。


「悪いんはお前らやろっ!」


 僕の怒りは限界を超えた。僕は、掴まれた拳を握り手首を返すと肘を押さえ、そいつの身体を前のめりにさせて押さえつけた。そいつは痛がってたけどまだ、


「アイツが悪い。维吾尔は悪い」


 と言うてるさかい、僕は躊躇わずそいつの横腹を蹴る。


「うっ」


 と言うて咳き込んでる。その隙きにもう一人の男は僕に殴りかかろうとしてたけど、睨みつけると尻込みしてたじろぐ。もういっぺん言うたら息ができんようにしたろと思てた。

 更に手首を締め、肘に体重を乗せるとその男は大声で言い放つ。


报警バオジン向警察シィァンジンチャ通报トンバオ!」


 まだ何か言いよると思てもう一発蹴ろうとした瞬間、建萍が声を上げた。


「やめて!」


 と僕には聞こえた。


「やめて……」


 ハッとして、押さえてた手を離す。

 その隙きにそいつは逃げる。捨て台詞を残して砂の中へ消えて行った。砂の向こうからまだ何か言うてたけど中国語やし分からんかった。


 そうや建萍は……。

 僕は建萍に駆け寄り、肩を抱いて起こす。


「大丈夫か。痛いとこ無いか」


 建萍の身体の砂を払う。そやけど払えども払えども砂は容赦なく降ってくる。建萍は下を向いたまま黙ってた。


 とにかく建萍を立たせ、風を遮られるとこまで連れて行く。

 遺構の陰で土塀にもたれると建萍は座り込んだ。僕は隣に座り、俯いてる建萍の肩を抱きしめる。建萍は身体を小刻みに震わせて泣いてた。


「大丈夫か。痛ないか?」


 僕が問いかけても泣いてるだけやし、砂を払ったり背中を擦ったりした。すると建萍は顔を僕の胸に押し付け、声を出して泣き始める。

 僕は何も言えんかった。グっと抱きしめるしかできんかった。その間も砂はどんどん降ってくる。


 どれくらい経ったやろか。建萍は泣き止んだんやけど、まだ身体は震えてた。

 暫くすると建萍はゆっくりと顔を上げる。涙の跡に砂がこびり着いてて、それを手ぬぐいで拭うと、建萍は小さな声で話し始める。


「汉族、嫌い……」


 中国語で話してたと思うけど、なんとなく言いたい事は分かった。


「维吾尔族もいや……」


 しっかりと僕を見て話してる。


「なんでや?」


 暫く黙ってたけど、ボソっと言う。


「日本人に、なりたい……」


 そう言うとまた顔を僕の胸に埋め、また震えて泣きだした。

 僕は建萍をしっかり抱き、背中を擦りながら建萍が言うた言葉の意味を考えてた。


 汉族は嫌い……。確かに漢族が中国を支配してる様に思う。政府の要人はみんな漢族やったと思う。それにチベット自治区の同じ少数民族のチベット族も政府側の漢族に迫害を受けてると聞いた事もある。ウイグルもそうなんやろか。そやけどウイグルも嫌やなんて、どういう事やろ。建萍のお父さんは漢族で、お母さんはウイグルやて言うてたのに……。それに、日本人になりたいって……。


 もっと建萍と話したかったし、もっと詳しく聞きたかった。聞いたところで僕にどうにかできるんやろかと言う疑問も湧いてくる。それを考えると、僕も辛くなってきた。


 暫くすると、


「シィェンタイは、次は何処へ行くの?」


 と聞いてくる。僕はちょっと焦ったけど、ゆっくりと返事をする。


「次は、喀什カーシー(カシュガル)やな」

「そうなのね。それなら、いつまでトルファンに居るの?」

「えーと……、明日まで。明日の10時のバスで喀什に向かうんよ」

「えっ、明日……。明日の10時ね。もう行ってしまうのね」


 なんでやろ。建萍は中国語で僕は日本語で話してるはずやのに、お互いに理解して会話してる。


 あれ! 砂嵐の音も聞こえへん。


 頭がボーッとしてるんやろか。そやけど建萍の声は聞こえる。

 建萍は顔を上げた。もう泣いてはなかったし、少し笑顔になってる。


「いつ日本に帰るの?」

「まだ分からん。決まってへんのよ」

「そうなの。だったら8月25日までトルファンに居て」


 8月……。


 僕は返事が出来ず黙ってしまう。ほんでも建萍は話しを続ける。


「それなら8月25日にまたトルファンにもどって来てね」


 8月25日? 古沢さんもなんか言うてたな。


「その日から、トルファンでは葡萄祭があるのよ。葡萄の収穫祭ね。街中がお祭りで盛り上がるのよ。みんなで歌を唄ったり踊ったり、美味しいものを食べたりするのよ。それはとても楽しいわよ」


 だから8月25日なんや。そやけどそんな先の事分からん。それに、そん時僕は何処に居るんやら? 3ヶ月先の事やなんて自分でも分からんし、それに帰って来れるかどうかも分からへん……。


 建萍は更に話し続ける。


「お祭りの時にね、結婚式があるの。その時にね、結婚式を挙げると幸せになれるのよ」


 と言うと、建萍は軽く微笑んだ。

 僕は辛くて目を建萍の顔から反らしてしもた。そやけど建萍は優しい声で、


「8月25日に来てね。待ってるわ」


 と言うて立ち上がる。

 服の砂を払い、バッグからスカーフを出して鼻と口を覆う。そして優しい目で僕を見つめると、


「行きましょ」


 と言うて、再び砂嵐の中へ歩き出した。



 つづく

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