61帖 きつね娘

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 目が覚めると部屋には僕一人だけやった。

 昨日の夜、多賀先輩は「明日は朝から買い物に行く」と言うてたわ。なんでも明日の日曜日に汉族ハンズー(漢族)の青年と艾丁湖アイディンフー(アイディン湖)に行ってバーベキューをするらしい。その買い出しに朝から歩き回るとの事。


 6月1日土曜日、11時半。昨日はなんやかんや言うて一日動き倒してたんで僕は今まで寝てた。そろそろ起きよかなと思たけど、特に何かしたい訳でもなかったんでそのままベッドで横になってる。

 窓の外は今日もいい天気で日差しがきつそうや。


 ぼーっとしてたけど、なんか胸騒ぎがしてくる。嫌な予感。

 時計は間もなく12時になろうとしてた。


 そうや! 昨日の女の子が掃除に来るかも知れん。昨日も12時前に来とったわ。


 急にやってきては僕の心をかき乱し、ほんでまた急に去って行く。そやし昨日の一件以来僕は「狐娘」と名付けてる。狐娘の話は昨日の夜に多賀先輩にも話してある。多賀先輩は「可愛かったらええやん」と言うてたけど、あんなに積極的に来られると僕は困ってしまう。ちょっと苦手なタイプかも知れん。


 とにかくここはすぐに立ち去った方が無難や。急いで靴を履き部屋を出ようとしたけど、時既に遅し。


「お掃除しますねー」


 みたいなウイグル語を言うて狐娘が入って来た。


 遅かったー。


 僕は挨拶だけして部屋を出ようと試みたけど、服の袖を引っ張られて足止めされる。


「Can you speak English?(英語は話せる?)」

「A little……(少しなら……)」


 日本語はあんまり話せへんけど、英語は分かるみたい。そういえばこのホテルには欧米系の旅行者がいっぱい泊まってる。街では時々日本人を見かけるけど、このホテルでは見かけへん。僕らもそうやった様に日本人はここが高いと思てるから寄り付かんへんのや。

 ここで働くには英語が話せるのが条件やろう。そやからこの狐娘は英語が話せるんやと思う。


「これからどこか行くの?」

「えーっと……」


 どこ行くのか考えてへんかったんで、すぐに答えられん。


「ちょっと話をしましょうよ」


 と言いながら狐娘は掃除を始める。

 困ったなあと思いながらも、取り敢えず断る理由も無いんで靴を脱いでまたベッドに座る。


「あなた日本人でしょ?」

「そうやけど」

「仕事は何してたの?」

「今年の春、大学を卒業したところやけど」

「へー、そうなの。すごいねー」


 やっぱり昨日みたいに楽しそうに掃除をしてる。そして昨日と同じ鼻歌を歌いながらシャワールームを洗浄に行った。

 鼻歌が止まったかと思うと何か言うてきた。ほんでもそれは水の音で聞き取れへんかったんで、僕はベッドから降りてシャワールームを覗きこむ。

 

「なんて言うたん?」

「結婚はしてるの、って聞いたの」


 なんで中国の人は、こうも同じ質問ばかりしてくるんやろ?


「してへんで」

「そうなの。どうしてそんな歳なのに結婚してないの?」


 またその話か。そやけど僕が何歳か知ってるんか? ああ、宿帳を見たんかな?


「相手が居らへんからや」

「ふーん、そうなんだー。うふふ」


 なんか意味ありげな笑い声が聞こえてきたぞ。


 僕は戻ってベッドに座り直す。


「あなたは、多賀ドゥォフゥァ? それとも北野ベイイェ?」

「僕の名前はベイイェやで」

「そうなのね。ベイイェなんだー」


 シャワールームの掃除が終わって、僕の方にまっすぐ歩いて来る。


 えっ、何々。何が起こるの?


 狐娘は、僕の目の前に立って笑顔で、


「また後でお話しに来てもいい?」


 と聞いてくる。ちょっと焦ってしもたがな。

 昨日、狐娘を見たんは朝の掃除の時だけやったから、もう来うへんと思て軽い気持ちで、


「ええで」


 と答えといた。


「ありがとう」


 と言うて掃除道具を持って部屋を出て行く。


 なんなんやろこの子は? 取り敢えず早くどっかへ行ってしまお。


 僕は急いで靴を履き直し、そっーと部屋を出て行った。


 ホテルを出ると気温は高いし日差しはきつい。どこへ行く宛てもなかったけど、まずホテルから離れる。

 通り歩いてると小さな移動式の屋台でナンを売ってたんで、1個買うて食べながら歩く。


 ちょうど昨日見つけた葡萄棚の通りに来たんで、ベンチに座り残りのナンを食べる。なんとなくここは落ち着く。ナンを食べ終わって喉が渇いてたけど、買いに行くのが面倒くさいんで我慢した。


 急いで出てきたし観光マップも何も持ってきてない事に気付き、これでは動きようがないんで仕方なくベンチで横になる。

 時計を見ると、もうすぐ12時半や。


 どうしよう? またバザールへ行こかなぁ。それとも街をぶらぶらして路地裏でも探検してみようか。きっと誰か声をかけてくれるやろ。


 そうやって時間を潰して、昼飯時になったら建萍ジィェンピンの店に行こうと考えてた。

 そしたら、僕の名前がどっかから呼ばれた様な気がした。


「シィェンタイ!」


 やっぱり呼ばれてる。

 起き上がって周りを見てみると、こっちに向かって建萍が歩いて来てる。


你好ニーハオ(こんにちは)」

「こんなとこで何してるの?」


 みたいなことを言うてきたんで、ここで寝てたとジェスチャーで表す。建萍は笑ろた。白い歯が綺麗や。


 そして僕の横に座る。腕と腕が触れるぐらいの距離で座ってきたんで、そんな事をされるとちょっとドキドキするわ。

 メモ帳とペンを出してくれと言うてきたけど、今は持ってないと伝えると、建萍は困った顔をしながら考えてる。


今天ジンティェン(今日)、どこ、行く?」


 と日本語混じりで聞いてくる。ちょっとは日本語が使えるんや。

 僕はどこも行かへんと言うと、後でお店に来てくれみたいな事を言うてる。建萍は今からお店に向かうとこやったんやな。


 それから建萍は中国語でいろいろ話しかけてきた。そやけど何を言うてるか全く予想がつかん。「メイメイ」がどうたらこうたらとか、「チーズー」がどうやとか、「ジェフン」はどうやとか聞いてきたけどさっぱり分からん。

 言葉が通じへんというんは、めっちゃもどかしいもんやと改めて思たし、コミュニケーションって大変なんやなと感じた。


 また建萍は自分の左手に字を書いてくれるけど、何て書いてあるんか分からへん。二人共、ちょっと諦めムードになったわ。

 建萍は時計を見て「そろそろ行くわ」みたいな感じで立つと、


一会イーフゥイ儿见ェァージィェン(また後でね)」


 と笑顔で言うて歩いて行った。


 木漏れ日と涼しい風に当たりながら、僕はまた横になる。何しよかなーと考えてたら、ウトウトしてし暫く寝てたと思う。


 そうや。洗濯しよっ!


 と思て起き上がった。急に起きたんで頭がフラフラするけど、歩いてホテルに戻る。


 僕が泊まってる部屋は別館なんで、一旦新館に入りフロントで鍵を貰う。そして新館を出て旧館に向かうんやけど、その時にあの狐娘に見つかってしもた。

 旧館の陰から僕の方へ向って狐娘が走って来る。


「帰って来たのね」

「うん」

「これからまた観光に行くの?」

「いや、今から洗濯をしよと思て」


 と英語で話す。


「それなら、私が手伝って上げるよ」

「ええよ。自分でやるから」

「手伝うよ」

「そやかて仕事があるやろ?」

「問題無いよ」

「なんで?」

「もう仕事は終わったよ。午前中だけだから」


 時計を見るともう2時を過ぎてたし、そう言われると断る理由が無くなってしもた。

 黙って部屋まで行くと、狐娘も付いて来る。

 多賀先輩はまだ帰って来てへん。なんでこういう時に居らんのやと恨んだ。


 狐娘はシャワールームに行き、バケツに水を入れ始めた。やる気満々やん。そして一旦部屋を出て行く。


 僕は自分の洗濯物を出し、ついでにベットに脱ぎ捨ててあった多賀先輩の服も持ってシャワールームへ行く。そしたら狐娘が石鹸ともう少し大きめのバケツを持って戻って来る。


 僕は洗濯物を一旦水に浸し、持ってきてくれた石鹸を塗って洗う。狐娘も隣で同じ様に洗いだす。

 なんか申し訳無く感じてついつい話しかけてしもた。


「名前は何て言うん?」

「パリーサよ」


 パリーサかぁ。性格がサッパリしてると言うのは関係無いわなあ。


「歳はいくつ?」

「17よ」

「へー」


 若い……。建萍より年上やと思てた。それにしても洗濯の手際がええ。慣れてる感じやなぁ。


 僕は自分のジーパンを洗ろてたんやけど、何回洗ろても汚れが取れへん。擦れば擦るほど泥水が出てくる。2週間も履いてたからな。

 きれいにならんなぁと思て困ってたら、パリーサが「私がやる」と言うてきた。任せてみると手際よく、しかもしっかりと汚れを落としてる。思わず見とれてたら、


「ベイイェは、これやって」


 と馴れ馴れしくシャツを渡される。なんやこいつ、と思いながらもこっちのバケツで洗うと、これもやっぱり汚れが酷くて出てくるのは泥水やった。


「ベイイェは、いつまで吐鲁番トゥールーファン(トルファン)に居るの?」

「えーと、火曜日かな」

「そうなんだ。それから何処へ行くの?」

喀什カーシー(カシュガル)やで」

「へー、喀什へ行くんだ」

「行ったことある?」


 なんか情報でも教えて貰えるかな。


「無いわよ」


 無いんかい。


「それで喀什へはどうやって行くの」

汽车チーチェァ(バス)や」


 途中まで列車も走ってる事が分かったけど、もう切符を買うのは面倒くさい。


「それが一番いいね」

「やっぱり」

「いくらするの。喀什まで」

「53元やったわ。安かったで」

「でも大変よ。何日もかかるって言ってたわよ」

「3日で着くらしいで」

「あら、そうなのね」


 そんな会話をしてたら、全部洗い終わる。すすぎをしてから搾ったけど、ジーパンはしぼりにくいんで二人で両端を持ってねじる。少し水が出てきて、更に力を入れようとしたらパリーサが、


「干しとけば乾くよ。だから、それ以上搾らなくてもいいんだよ」


 と言うてる。そやし、搾るのは適当にして洗濯物を持って部屋を出る。


 旧館裏の南側へ連れて行かれ、洗った服を干す。パリーサのお陰で、あっという間に終わった。そやし、


「今度お礼をするわ」


 と言うたら喜んでた。

 そろそろ家に帰ると言うんで、もう一度お礼を言うて別れる。


 日差しはきついし風も吹いてる。直ぐに乾きそうや。



 つづく

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