49帖 文盲と写真と整理整頓身嗜み

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 ボコ!


 思いっきりお尻を蹴られた。


「そろそろ起きんかい」

「ええ、何時ですか」

「もう12時半回っとるわ」

「あれま」


 5月29日、水曜日。

 どうやら昼過ぎまで寝てたみたい。僕は座席の下から這い上がってシートに座る。


「Good afternoon!」

「おはようございます」


 教授は笑ろてた。

 窓から外を見ると、どこを見ても岩と砂ばっかりやった。とうとう砂漠地帯に来てしもたみたいで、僕は砂漠を見るんは初めてや。


巴丹吉林バダンジーリン砂漠』


 今まで砂漠と言うと砂だらけのイメージを持ってたけど、実際のところは砂よりも岩の方が多い感じでそれが見渡す限り続いてる。ここで人間はほんまに住んでいけるんやろかと疑問に思う。


 暫く見てるとポツポツと建物が現れてくる。歩いてる人も居る。こんなとこで生きてる人間って凄いなと思う。


 列車は減速し、12時51分に嘉峪关ジャーユーグァン(嘉峪関)に到着する。

 こんな所に大きな町があるやなんて、んー不思議や。

 そう言えばここ嘉峪关は「万里の長城」の最西端の街やったわ。昔は軍事的にも重要な拠点やったらしい。

 そやけど、ここから日本海まで城壁が続いてるかと思うと「万里の長城」ってなんか感動する。北京からだけでも二千7百キロもある。これを作った昔の中国の人って凄いと思た。


 この駅ではかなりの乗客が乗ってくる。40歳ぐらいのおっちゃんがぼくら3人のボックス席に座ってきた。


 列車が動くと直ぐに砂漠に出る。すると遥か彼方から延々と続いてる構造物がある。


「もしかして、あれが万里の長城?」

「そうですあれが万里の長城の端っこですよ」

「結構崩れてんな」

「誰も使いませんしね。風化してボロボロになってますね」


 僕はカメラを構える。

 確かに今は誰も必要とせんし、そしたら直しもせんわな。写真で見た北京付近の万里の長城とは比べ物にならんくらいボロい。ただ単に土を盛って作った様にしか見えん。それに所々途切れてる部分もある。その一ヶ所をこの線路が通ってる。


 僕はシャッターを切りまくる。今にも朽ちてしまいそうな建物が何千年と佇んできた長い時間のその一部分を切り取って記録する様に撮る。二度と無いその一瞬こそが僕が生きている証拠やと思てる。

 そんな事を感じられるんが旅やし、それが快感で旅はやめられへん。

 あっという間にその風景は消え去った。


「どこから来たんですか?」


 写真撮影が終わると、先程乗ってきたおじさんが話しかけてくる。


「僕は北京です。これから乌鲁木齐ウールームーチーに帰ります」

「そうですか、あなたはどこから?」

「僕らは日本リーベンから来ました」

「えっ、日本ですか。どこにあるかわかりませんが、もしかして外国ですか」


 おかしなことを聞いてくるおっちゃんやなぁと思た。


「はい、海の向こうの島国です」

「私は日本がどこにあるかわかりませんが……、ずいぶんと遠くから来られたんですね」


 日本がどこにあるのか知らん人も居るんや。


「名前は何と言うんですか」

「僕は多賀ドゥォフゥァ浩二ハオアール、28歳です」

「僕の名前は北野ベイイェ憲太シィェンタイ、24歳です」

ニィゥ民新ミンシンです。22歳です」

「なるほど。私はファンソンシィァンです。27歳になります」


 へーそうなんや。四十歳ぐらいのおじさんやと思てたけど、ほんまはむっちゃ若いやん。ものすごく日焼けしてて顔はシワだらけで、どう見てもそんな歳には見えんかったわ。


「ファンさんの名前はどんな字を書くんですか」


 とノートとペンを渡してみる。


「私は字が書けませんので牛さん、書いてください」


 ファンさんは工作証を見せて、それを教授がノートに書き留める。


ファン宋祥ソンシィァン


 という字らしい。


「中国では字が書けない人がまだまだ居ます。特に樊さんの様に農民の人は字が書けない人が多いです。そして貧しい人も多いです」

「そうなんや。字が書けへん人がいるんや」


 僕は中国の現実を目の当たりにした様な気がした。

 更に教授は、


「中国では一番金持ちが商人と政治家で、次が学校の先生とか公安とかの公務員です。そして一番貧しいのが中国で最も多い樊さんのような農民です。文盲率が高く自分の名前すら書けない人も多いです。しかし彼らがこの10億人の中国を支えているのです」


 と説明してくれる。

 そう言われると僕は樊さんが10億人の代表の様に思えてきて、凄い人やなあと思てしまう。


「樊さんは何を作ってるんですか?」

「私は哈密ハーミーの近くに住んでいますが、そこは瓜が名産です」


 なるほど「ハミウリ」と言うのは聞いたことがある。先日食べたメロンもそうやった。

 この後も色々と樊さん仕事つまり農業の話を聞かせて貰う。僕の実家も農業をやってるんでそ、の違いなんかも話して盛り上がってしもた。


「そしたら写真でも撮りましょか」

「みんなで記念写真を撮りましょう」

「あの、お願いがあるんですが」

「何なに?」

「私が一人だけ写ってる写真も撮って欲しいんですけど」

「ああ、ええっすよ」

「そしてその写真を私の家に送ってください」

「分かりました。じゃあ後で住所を教えてください」


 多分貧しくて、カメラとか持ってないんやろうな。


 写真撮影会が始まる。

 樊さんはあまり写真を撮ったことが無いらしく、初めは緊張してた。そやしみんなで樊さんを笑かして、なんとか笑顔の写真を撮る。

 住所を聞いたけど、やっぱり字が書けへんので工作証を見せてもらって写す。中国の教育はどうなってるんやろうと少し興味を持った。


 窓を全開にしてたけど、とにかく暑い。日本のジメジメした暑さではないんで不快感はないけど、地面で加熱された熱風が時々窓から入ってくる。超大型ドライヤーで熱風を浴びせられてる様な感じや。気温は27度ぐらいやけど、暑くない所がないんでどうしようも無い。


 太陽は少し傾いてきたのに暑さに変わりはなかった。

 4時14分、列車は疏勒河シュラフェァに到着。駅の留置線にはなんと蒸気機関車が待機してる。どうやら機関車の交換が行われるみたいや。僕はカメラを持って先頭まで行く。

 兰州ランチョウ局のディーゼル機関車が切り離され、代わりに乌鲁木齐ウールームーチー(ウルムチ)局の蒸気機関車が連結された。蒸気機関車に引っ張られる客車は初めて乗るんで少し楽しみやった。


 ほんで自分の車両に戻ってみると、なんだか慌ただしい様子やった。

 乘务员チォンウーユェン(車掌)のフゥァンさんが、口煩く荷物の整理を促してる。かなり細かい指示が出てる様や。

 その黄さんをよく見ると綺麗にお化粧をしてた。めっちゃベッピンさんやけど、今はごっつー厳しい顔をしてる。

 どないしたんかなと思て教授に聞いてみる。


「何かあったんですか?」

「綺麗にしなさい、徹底的に荷物を整理しなさいと言う事らしいです。その辺に掛けてる洋服も全部片付けないと駄目らしいですよ」


 なんか知らんけど綺麗にしなあかんみたい。そのうち他の車輌の乘务员も応援に駆けつけ、手荷物の片付けや点検を始める。床掃除の係の人も来て綺麗にしてくれる。

 更に、乗客の身嗜みまでしっかりする様に黄に言われる。


 ボタンも全部閉めろって、中学生やあるまいし……。


 一体どうしたんや、何が起こるんやと僕らは少し緊張してた。



 つづく

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