21帖 ミョンファちゃん

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 ミョンファちゃんが冷麺を運んで来てくれる、ミョンファちゃんに会える、と思てたのに、運んできたのはおばさんやった。


 残念――。


 そやけどそんな思いは、次の瞬間にくつがえった。

 ちょっとけわしい口調やったけど、あの透き通る天使の様な声が聞こえてくる。


「お兄ちゃん、今、向こうのお店は忙しいんだからね、自分で取りに来てよね!」


 という様な事を朴君に、いや、お兄ちゃんに朝鮮語でつぶやく声やった。

 ミョンファちゃんはふくれっつらで、そしてお兄ちゃんをにらみながら、水が入ったコップを二つ運んで来てくれた。

 その表情は、何とも言いがたい可愛らしさがある。


 僕の視線を感じたんか、ミョンファちゃんはこっちへ振り向く。一瞬、僕と目が合うて、僕はドキッとした。

 するとミョンファちゃんは、ハッとして下を向く。そして慌ててテーブルに水を置きながら、


「ど、どうぞ、ごゆっくり」


 と、日本語で言うてくれた。

 それだけ言うと、やっぱり下を向いたまま急いで隣の店に戻ってしまう。

 僕は頭が空っぽやって「ありがとう」の一言も言えんかったわ。


 ドキドキしてる。なんやこの感覚は――。


 水を一口のみ、息を整える。そやけど目が泳いでるのが自分でも分かった。


 あかん、なんか言わな。多賀先輩が、ニヤニヤしてこっち見てるわ。


「ぱ、朴君!」


 しもた! 声が裏返った。


「今……、ミョンファちゃんに……怒られてたん?」

「そうです。僕は、妹にいつも怒られます」


 朴君は平然とシシカバブーを焼いてる。


「でも、可愛いからいいやん」


 実のお兄さんに何を言うてるんや、僕は。


「可愛くないですよ、ほんとうに」

「そんなことないで。めちゃ可愛い……で」

「じゃあ妹に言っておきます。喜びますよ」

「えっ!」


 それは……ちょっと……、恥ずかしい。


「そや、ミョンファちゃんも日本語喋れるんか?」


 多賀先輩、ナイス切り返し。


「日本語、少し喋ります。私より下手くそです」


 結構上手やと思うけどなー。もっと喋ってみたら分かるやろ。

 おお、そうや。もっと喋ってみたい!


「でもミョンファは英語も話しますよ」

「ということは、全部で四つの国の言葉を話せるってことか?」

「そうですね。日本語は私と同じ。おじいさんに教えて貰ったのです。英語は学校で習っただけ。でも話せます。僕より頭はいいです。ははは」


 なるほどミョンファちゃんは凄いなあ。そやし朴君はいつも怒られてるんや。妙に納得して笑ろてしもた。お陰で落ち着いてきたわ。


「ところで、日本人のお客さんはよく来るんですか?」

「あなた達が初めてですよ。それで、初めて日本人のお客さんが来たということを昨日の夜、おじさん達と話しました。ミョンファもかっこいい日本人のお客が来たと言っていました」

「その人って冷麺を食べてた人やろ」

「そうです。二人で冷麺を食べてた。その中の一人が、最近人気の中国人ロック歌手に似ていると言っていました」

「実は昨日、朴君の店に来る前に隣で冷麺食べたんやで」

「そうしたら、あなた達のことを言っていたと思います。とても格好良かったと言っていましたから」

「ロック歌手やったら俺のことかなぁ。ギター持ってきたらよかったなあ」


 そうやろなー。僕より多賀先輩の方が格好ええと言えばそうや。

 それに多賀先輩は、俳優の安倍寛に似てるしなぁ。


「いえいえ違います。シィェンタイさんの方でしたよ」


 えっ何! 今、僕の方、と言うた、よね。まさかぁ?


「僕? 僕は日本ではあんまり格好良くないんですけど……」

「シィェンタイさんの顔は、中国では格好いい顔です。女の子に人気がある顔ですよ。ロック歌手にも似ていると思いますよ」


 まじか。ほんまに僕なん? どうしよう、なんか嬉しいやん。

 そやけど、まさか中国ではモテ顔やったなんて思わんかったわ。


 もしそれがほんまやったら、ミョンファちゃんともっと喋りたいな。朴君、いや、お兄様に頼んでみよかな。


 冷麺を食べたせいもあるけど、なんか体が火照ほてってきたような気がする。


 すると他のお客さんが入ってきたんで、朴君は応対しに行ってしまう。


「よかったやんけ北野。ミョンファちゃんに気に入られとったとやないかぁ」

「いやーホンマですかねー、僕なんか……。それやったら、また明日も来てみましょか」

「まあ俺はええけど」


 多賀先輩はニヤニヤしてる。僕の心の中を読まれてるようで恥ずかしかったわ。


 お店の方はどんどんお客さんが入ってくる。繁盛してるみたい。

 店も混んで来たし、冷麺も食べたし、僕らはお金を払ろて店を出た。


 そやけど、どうしても気になったんで、僕は隣の店をちょっと覗いてみる。


 店はお客さんでいっぱい。奥の方からミョンファちゃんの朝鮮語の声だけが聞こえてる。店に出て来るかなーと思ってたけど、やっぱり出て来んかったわ。


 でもそれが、ちょっと安心した。

 もし出てきたらなんて言うたらええんか分からんかったし、それを考えるだけでまたドキドキしてきた。


 ほんで待っててくれた多賀先輩の所へ行く。


「どうやった。ミョンファちゃんに会えたけぇ」

「居ましたけど、忙しそうでした」

「それやったら、昼飯時が終わるまで居ったらええやん。俺は行きたいとこ色々あるし、一人で行ってくるで」


 僕はまだ体が火照ってる様な感じがするし、なんか頭が痛い様な気もしてる。


 熱が出てきたんかな? 体もしんど・・・なってきた。


「いや僕は、旅館へ帰りますわ。なんか熱っぽくてしんどいですわ」

「それはミョンファちゃんのせいと違うんか?」

「ア、アホなこと言わんとって下さい。朝から喉も痛かったし、風邪引いたかもしれませんわ」

「分かった分かったぁ。そしたら先に戻って寝とけよ」

「はい」


 僕と多賀先輩は、駅で別れる。


 僕は地下鉄を乗り継いでなんとか宿に戻ってきたけど、かなりふらふらやった。まだ昼間やけど寝ることにした。



 つづく

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