第8話 ボールひとつの冴えたやり方

1.


 帰りのバスに乗るため、バス停まで歩く。しっかり腕にしがみついた深那美を引っ張りながら。

「うふ」

「気持ち悪いからやめろっつーの」

 彼女が時々見つめてほくそ笑んでいるのは、展望フロアで二人で撮ったプリクラ。それを見せつけられるたびに、思いっきりほっぺたをくっつけてきた彼女のいろんな柔らかさと良い匂いが脳内に蘇ってきて、俺の心の中は防戦一方である。

 純の声が聞きたい。あの日抱きしめた純の柔らかさと匂いを、もう一度体感したい。

 でも、その時俺が体感できたのは、エキゾーストノートの爆音と振動だった。

 振り向くと、後ろから迫ってきたそれ――暴走車は蛇行を繰り返し、ちょうどというか運悪くというべきか、俺たちのところに迫ってきた!

「危ねぇっ!!」

 俺はとっさに深那美を抱きかかえると、右へ跳んだ! といっても都合良く空きスペースがあるわけじゃない。民家の生垣に突っ込むしかなかった。

 跳んだ俺たちの足先を、暴走車がかすめていく。見送る暇もなく、生垣のチクチクが頭や首を刺激して、俺は小さく呻いた。

「くぅ……痛ててて」

「大丈夫か洋太?!」

 深那美の金切り声に、ドカンという衝突音が被さる。チクチクを避けて首をもたげた俺は、彼女と一緒に眼を大きく開くことになった。

「……なんだよ、あれ?」

 信じられないものが、そこにある。

 暴走車は、お屋敷っぽい民家の石垣に角から衝突して跳ね返され、停止していた。前が無残にもひしゃげたその車は、見覚えのあるもの。そう、あのラベルが貼られているヤン車だったんだ。

 そして、その屋根に乗っている有翼のヒトガタ。黒幕さんが高らかに笑っている。

 周囲から悲鳴が沸き起こる。俺たちと同じようにバスに乗ろうとしていた人たちや通行人がいるんだ。でも黒幕さんはそんなことお構いなしに、漆黒の夜空へ悠然と羽ばたき、飛び去ってしまった。

「……なにやってんだあの人」

 呆然から立ち直って起き上がった俺のつぶやきに、合いの手が帰ってこない。

「どうした深那美? どっか打ったのか?」

 彼女は相変わらず俺の腕にしがみついたまま。おかげで起き上がるのに難儀したんだけど、その眼はヤン車を見つめたまま動かない。

「なあ、どうしたんだって――「洋太君、あれ」

 深那美がかすかに震える指で指したのは壊れた車でも、運転席でぐったりしてるあのオッサンでもなかった。

 指していたのは石垣。それも、あの車がぶつかったところ。

 そこには、

『オレ-魂=カノジョ+愛』

 そうさ、ラベルが、石のデコボコした面に貼られていたんだ!

 思わず顔を見合わせて、ちょっと遠くから回り込んで、ヤン車のバンパーを確認したら、やっぱりそうだ。バンパーから無くなっていた。

 ラベルは何かに接触することで移動するんだ。それが分かって深那美の身震いが移った俺に、彼女の凛とした声がかけられた。

「洋太君」

「分かってる」

 もう、俺の魂がどうとかは吹き飛んでいた。

 これで、純の記憶を取り戻してやれる。それだけだった。

「家でメシ食ったら、集合な」

 意外にも、深那美は首を振った。

「夜また出てこれるの? お母さん、怪しみ始めてるんでしょ?」

 俺は少し考えた。パトカーと救急車のサイレンが近づいてきているから、ここで立ちすくんでいる時間はない。

 確かにお袋のこともあるし、地元民でもない俺たちが事故現場の周囲をうろつくのは、警察が引き上げたあとのほうがいい。

 でも、現場検証なんてすぐには終わらないだろう。

 じゃあ、早朝に来るか?

「明日は朝練だな……」

 それより前にここまで自転車で来て、また学校へ行く。

 だめだ、そんなに朝早く出る理由がない。

 俺は溜息をつくと、チリチリし始めた心中を隠すことなく、今考えたことを深那美に説明した。

 彼女は俺の焦りを分かってくれた。腕に手を添えて慰めてくれたあと、

「じゃあ、夕方の部活が終わってからここに集合だね」

「それしかないか……」

 未来への希望と、明日への焦燥。それが俺の中でぐるぐる回ってる。

 やっと、やっと解決への糸口が掴めたのに。


2.


 翌日の夕方。俺は結局、部活をサボる道を選んだ。

 またラベルが移動するんじゃないか。

 授業を受けてるあいだに、昼飯を食ってるあいだに、あるいは放課中に。

 そう思うと、もう気が気じゃなかったんだ。

 その結果、地図を広げて確認するために再々トイレに駆け込むのを繰り返すことになってしまった。我ながら肝っ玉がちっちゃいとは思うけど、やめられない止まらない。

 おかげでクラスメートから下痢じゃないかと疑われたのを逆に利用して、体調不良で部活を休むことに成功したわけだ。

 そうちょっと得意げに説明しても、深那美は渋い顔だった。

「もー、サボっちゃダメだよ!」

「しようがねぇだろ? 気になって勉強も手につかなかったんだから」

 そう言いわけしても、まだちょっとむくれてる。なんでそんなに嫌なのか、よく分からない。

 その点を素直に訊いてみたら、大げさな答えが帰って来た。

「バイトが終わっても、洋太君の人生は続くんだから」

「……ほんとかよ」

 つい疑問を口にしてしまった。ヤバイと思ってそっと彼女を盗み見る。俺と並んで自転車を押すその姿には、気にした様子もない。

(聞こえないふりか……?)

 疑ってるうちに、問題の場所まで来た。昨夜の事故の痕跡は、ヘッドライトのカバーらしき透明な破片があちこち見られるほかは、跡形もない。石垣って頑丈なんだな。

 自転車をその前に止めて、じっとラベルを見つめる。

「さ、洋太君」

「おう」

 取り出だしたるは、Myサッカーボール。昨日帰宅したあと、深那美と一緒に考えた推測を検証するんだ。

 対戦校所有のサッカーボールにラベルが貼られていた理由。それを深那美は、俺たちの学校にあったはずのもう一つのラベルにボールが接触したからではないかと考察した。

 もしそれが正しいなら、俺のサッカーボールにラベルを移し取ることができるはず。

 このバイトを始めて再々思うのだけど、こうやって待機してる時って、意外と人通りが途切れないんだよ。絶妙な距離を置いて走ってくる車や自転車とかが連なってたりして。

 今回もそれは例外ではなく、歩行者や自転車が視界から消えるまで、ちょっと立ち止まってスマホを2人で眺めてる振りをする。白い息を吐きながら、これ幸いともたれかかってきて、

「近い、深那美近いって」

「んーん、何を今さらサラサラ。ありがとね」

「なにが?」

「昨日、助けてくれたじゃん」

 潤んだ目で俺を見上げてくる深那美は頬を桃色に染めて、傍から見ればまさにカノジョだろう。

「うふ、抱きしめてくれたんだもん。もう昨日は寝れなかったんだよ?」

「いや、まあその……」

 そんな俺たちの脇を通り過ぎるオバチャンの顔には、『なに人目もはばからずいちゃついてやがるんだ』って書いてある。にらんだらさっさと行っちゃったけど。

「ふう、やっといなくなったぞ……なに嗅いでんだよお前は!」

「一日ぶりの洋太成分」

 おもむろに引き剥がして、サッカーボールを手に取った。

「んもぅ……まず、ゆっくりと押し付けてみて」

「おう」

 移動しない。

「じゃあ次に、手元に跳ね返ってこない程度にぶつけてみて」

「おう」

 これも移動しない。

「じゃあ……洋太君、人が来た」

 って言われて俺がとった行動は、その場で自分のボールをつらつら眺めることだった。

 自転車のオッサンが不審そうに横目で見ながら通り過ぎていく。そりゃそうだよな。

(ぐう、気まずい……早よいなくなれ……)

 幸いにも声をかけられることなく、オッサンはすぐそこの角を曲がって行った……よし、再開だ。と思ったら、

「そこの不審者、ちょと来なさい」

「誰が不審者だ」

 深那美に呼ばれて近づいた俺はいきなり両腕を掴まれ、くるっと回れ右をさせられた。

「はい、洋太君」

「なんだよ」

「蹴って」

「お前を?」

「不審者から暴漢にジョブチェンジする気? ボールだよ」

 なるほど。次はこちらに跳ね返ってくるくらいの衝撃を与えたらどうなるか、ってことだな。

「うらよっ」

 これでも小学校以来のサッカー小僧。跳ね返りが歩道を越えない程度に加減して蹴ったボールはラベルに見事命中した。

 石垣の複雑な表面のせいで起こったイレギュラーバウンドも、繰り出した足で我ながら惚れ惚れするくらいナイストラップ。軽く真上に上げて、すとんと手元に戻すことに成功した。

 パチパチパチと深那美の喝采をBGMに、俺は達成感でガッツポーズをした。元の石にはラベルがなく、手元のボールにしっかり張り付いていたんだ!

 その時。

「おい! 今ボール蹴ったのはお前か!」

 角からすごい勢いで走り出してきたのは、さっき通り過ぎたオッサンだった。このお屋敷の住人だったらしい。

 ここで深那美が前に出てきた。いかにもすまなそうな顔でペコペコしだしたんだ。

「ごめんなさい! 彼に試合の時のシュート見せてって言ったら、ほんとに蹴っちゃって」

「すいませんでした!」

 乗るしかない、このでまかせに。

 平身低頭したら、意外にあっさりと許してくれた。男は馬鹿だからしようがねぇ、すぐ女の口車に乗りやがるだって。

 ぐうの音も出ず(いや嘘なんだけど)もう一度謝って、すごすごと退散した。でも、見知らぬ大人に怒られた嫌な気分も、一歩進むごとに抜けていき、自転車を押す手に力がこもる。

「黒幕さんが言ってた、ヒントをやるってこれのことだったんだなきっと」

「思いっきり目撃されてるんだけど、いいのかな? あれ」

「警察に証言しても信じてもらえないんじゃね?」

 それを聞いて、深那美は悪い笑顔になった。

「ああ、そっか。『意味不明な供述を繰り返しており』だね!」

 思わず吹き出すと、二人で笑い合いながら自転車に飛び乗った。ラベル移動に成功した場合の目的地を目指すために。

「俺たち、都市伝説の誕生を目撃しちゃったんだな」

「そーそー、きっと来年の春くらいには尾ひれがついてさ、ネットのどこかで語り継がれるんだよ」

 そんなこんなを掛け合いしながら到着したのは、タワーパークの東に広がる森だった。大きな川と堤防のあいだに挟まれた一帯は未整備で、うっそうと木が茂っている。

 市内各所銃撃事件の余波で、警察の巡回はまだ継続されている。うかつな場所でラベルの処理ができないため、人家から遠いここを候補に選んだんだ。具体的な場所の下見をしたのは深那美だけど。

 用心して少し離れたところに自転車を止め、歩いて森へ向かう。

 深那美が振り返らず、真剣な声で言った。

「いい? 洋太君」

「んだよ?」

「この道筋、ちゃんと覚えて」

 なぜだろう。でも、答えは帰ってこなかった。

 しばらく砂利道を行くと、冬枯れの草地を過ぎて、下枝が生い茂るゾーンに分け入る。こういう時に、深那美は本当にためらいがない。準備も万端だし。

(ごついブーツだなおい……)

 ただのスニーカーを履いてきた俺に道を作るため、ザクザク突き進む女子高生。藪が行く手に立ち塞がっても怯まない。もちろん『いやぁん』なんて声は出さない。

「よぉし死ねぃ!」

 ごついナイフを振り回して薙ぎ払い始めたのだ。

(またセーラー服の下から出した……)

 実はミリタリーグッズのベストか何かを下に着てるのか?

 そんな疑問をよそに俺たちは前進し、ついにある地点で立ち止まった。周囲を見回しても、外が見通せない場所で。

「はい、洋太君」

 差し出されたマカロフと銃弾を目の前に、思わずつばを飲み込む。

(こいつ、いつの間に……?)

 石垣の前で絡んできた時に、俺の魂を削ったのか?

 それともさっきコケそうになった時、掴まれた手からか?

 だめだ、やっぱり怖い。純のためなんてカッコつけても、やっぱり怖いものは怖いんだ。まだ死にたくない。

「どうしたの?」

 そう訊いてくる深那美の顔は、木々の影で薄暗くて表情が読めない。それが俺の心に言い知れぬ圧力となり、ついに俺の疑問は声となって搾り出された。

「……その銃弾、ってさ」

「うん?」

「俺の、魂なのか?」

 深那美の答えは簡潔だった。

「違うよ」

「……信じて、いいんだな?」

 うなずく彼女を信じ切れなくて、でも信じたくて。その逡巡で少しだけ彼女の手元を見つめたあと一歩近づいて、銃と弾を受け取る。その時初めて、顔を伺えた。

 表情は、ついさっきの簡潔な答えから推測したとおり、硬いもの。その唇が動いた。

「わたしを信じて。わたしは、洋太君に幸せになってほしいの」

 彼女の目をじっと見つめて、俺は手を差し出した。

 嘘をついてる目じゃない。そう信じたから。

 あるいは、そう信じないと銃弾が受け取れない、つまり純の記憶が取り戻せないから。

 マカロフと銃弾を半信半疑の手に乗せられた瞬間、

「う……」

 またあの倦怠感が襲ってきた。目をきつく閉じ、心の中で笑う純に語りかける。

 負けない。負けないぜ、俺。

 絶対にお前の記憶を全部取り戻してみせる。

 だから、俺に力を貸してくれ。

 俺に力を貸してくれ、純。

 ゆっくりと眼を開けると、倦怠感は薄らいでいた。

 深呼吸を1回して、マカロフに銃弾を装填。遊底スライドを引いて薬室チャンバーに銃弾を送り込む――このあいだマカロフのことを調べた時に、用語も覚えた。我ながら、ちょっとカッコいい――と、ボールに歩み寄る。

 片膝を突いた地面は、思ったより湿っていた。学生服のズボン越しに湿りを感じながら、引き金を引く。

 そして打ち上がって頂点で飛び散る、あの光。

「よし」

 倦怠感は消え、かといって以前のような高揚感もなく。

 俺は残照すら消えた木陰をしばらく見つめていた。



 戻り道。ああそうそう、と深那美がまたセーラー服の下に手を突っ込んだ。今度は何が出てくるかと思ったら、

「はい、消臭スプレー」

「……ほんと、4次元ポケットみたいだな」

 頭の中で、あのおなじみのファンファーレが鳴るのがおかしい。

 親父に硝煙臭いと言われたことを話したら、マカロフを撃つたびに出してくれるようになったのだ。

「んもぅ、自分で処置しなさいよね」

 そうブツクサ言いながらも、深那美は少し楽しそうに俺の全身に散布してくれた。

 これでよしとスプレーをしまって、

「では、改めて」

「なんでくっついてくるんだよ!」

 俺の腕に腕を絡ませて、体を押し付けてきたのだ。

「んふ、消臭したことだし、今度はあたしの移り香をだね」

「やめろ、マヂで」

 でも、もうがっちりホールドされて振りほどけないことは経験済みである。蹴り飛ばす気はさらさらない。あきらめて、このまま歩かざるをえなかった。

 少し雑談をしたあと、これからもここで処理することに決めて、

「んー残りのラベル、どうしよっか?」

「部活があるから、一日に1件だな」

「そーじゃなくて」

 何を言い出したのか分からなくて、深那美を見つめる。

「またボール蹴りこむの?」

「当ったり前じゃん」

 俺は笑った。

「お前と俺がボール蹴りをしてました」

「ほうほう?」

「そのうちお前に煽られて、先日のシュートを再現しちまいました」

 深那美は爆笑した。

「そかそか、つい蹴っちゃったらしようがないねぇ」

「だろ? しようがねぇだろ?」とにやりとする。

「まったく、男はバカだねぇ」

「ああ、バカだよな」

 でも、森を出て、自転車に向かいながら彼女がつぶやいた一言を、俺は聞き逃さなかった。

「ほんとに……オトコってバカなんだから……」

 お前はどこでそうつぶやける経験をしたんだよ。

 そう問いただしたかったけど、藪蛇感がしたので黙って自転車にまたがった。


3.


 前言撤回。今日は純の面会に行く日だった。

 そして俺は、病室の入り口で信じられないものを見たんだ。

 戸を開けた俺の目に入ったのは、ベッドを降りて丸イスに座り、こちらに正対している純。

「あ、いらっしゃい! 見ててね、洋太君」

 横でお母さんが腕に手を添えて介助したが、純はすぐに独り立ちした。

「おお! 立てるんだ!」

「うん! 待っててね」

 それから、ゆっくりと、そして少しぎこちない歩みが始まる。

 たった5メートルくらいだけど、額に汗を浮かべて真剣な表情でこちらへやってくる、やってくる、やってくる、キター!

「洋太君!」

「わあっ! とっ!」

 最後の30センチだけ横着して、純は俺の胸に倒れこんできた。驚きながらもしっかりと抱きとめて、久しぶりの感触に酔う――ことはできなかった。

 純は痩せていた。もともと肉付きのいいほうではない彼女の今は、顔から推測していた以上に肉が落ちていたんだ。

 そして、嗅いだことのない匂いがする。それが安物の、つまり病院のシャンプーの匂いであることを察したのは、しばらく経ってからだった。

 でも、そんなことは別にいい。純が、歩けるまでに回復していたんだから。

 その時、ベッドの辺りからわざとらしい空咳が聞こえて、俺は現実に引き戻された。

「そういうことは、私のいないところでやってくれないかしら?」

「俺のいないところでもな」

 ベッドの向こうに、知らない男性が座ってこちらを見ていた。呆れたという顔をしている。純のお兄さんだと紹介された。

 慌てて純をベッドに連れて行くと、自己紹介をした。

「ふーん。なんかイメージと違うな。ま、よろしく」

 頭を下げ合って、俺も丸イスに腰を下ろした。

「あの、イメージと違うって、どんなイメージだったんすか?」

 そう訊いてみると、お兄さんはきょとんとしたあと、言いにくそうに答えた。

「いや、本人を前にして言いにくいんだけど……」

「大丈夫っすよ。もしあれなら、直しますから俺」

 断言してもなお言いよどむお兄さんは、俺ではなく純をちらっと見てから、ぽつぽつ話し始めた。

「いやその……細かいことにこだわる奴だなとか、そこでほかの女の存在出すかとか……」

 ……俺、この人と初対面だよな?

 そんなことお兄さんにだけじゃなく、純にもしたことがないのに。

 彼女が、俺の手にそっと自分の手を重ねてきた。次いでその顔は、お兄さんに向けられた。

「お兄ちゃん、あたしの彼に変な言いがかりつけないで!」

「……うひゃーそりゃ失礼しました」

 お兄さんはおどけたが、一瞬だけあっけに取られていたのを俺は見逃さなかった。彼の目が純を見つめて大きく開かれていたことも。

 なんだろう。もやもやする。

 でも、彼女の冷たい手にさらに重ねて暖めてやると、今度は逆に真っ赤になって照れだすのがかわいくて。

 俺は看護師長さんが面会時間終了を告げに来るまで、ひたすら彼女を甘やかし、お母さんとお兄さんに笑われ続けたのだった。



 次の日の放課後。北風に向かって、含み笑いが放たれた。

「んふふ」

「んだよ気持ち悪ぃ」

 深那美が意味深な笑いを繰り返すのには、なかなか慣れない。

「だって、今日は部活がない代わりにボール蹴りをして、森まで走って、それから家でご飯。なかなかハードなスケジュールじゃない?」

「……家でメシを省けば楽になれるぞ?」

「だいじょーぶ。今日はチキンカツカレーだから。カレーは作ってあるし、カツは仕込んであるし」

 なんてのたまう、深那美。意味不明の振り付けまでしてクルクル回ってる。

 チキンカツカレー……くそっ、なんて魅惑のメニューを……!

「この悪魔め……」

「んふふふ。ま、悪魔じゃなくて魔女なんですけどね」

「魔女?」

 俺の問いに答えず、深那美は自転車にまたがった。

 少し道に迷って、まず到着したのはプロパンガスのラベルだった。アリバイ作りと通行人に不審に思われないため、深那美とパスをしあう。

「ていうか、こんな枯れ草たっぷりの堤防でパスしてるわたしらって……」

「そこは深く考えるなよ」

 そう言われると、通行人の目が気になってしようがないじゃないか。

 そんなこんなで5分ほど蹴り合って、時は来た。

「洋太君、やっておしまい」

「そこはがんばってとかじゃねぇのかよ」

「がんばってぇようたくぅーん」

「かわいく言ってもかわいくねぇから」

 でも、女の子からの声援ってのは、悪くないよな。

 気合いを入れて、シュート! じゃねぇ、だ!

 プロパンボンベは、ボンと心臓に悪い音を発した。ついでに隣にくっついてるボンベにも振動が伝わって、ヂィィィィンンなんて音を発してる。

 ボールは跳ね返ったが、生垣を越えられず、敷地内に落ちてしまった。

 俺は慌てて土手を走った。家の近くに到達するまで待てず、演技ではなく、ちょっと裏返った声が出る。

「すいませーん! ボール入っちゃいましたー」

 そう、これは不法侵入できない俺たちの、高校生という身分を利用した侵入行為だった。

 案の定、家の人が出てきた。このあいだも会ったオバチャンだ。

 素直に2人で平謝りして、ボールを返してもらう。

「あんたらなんであんなとこでボール蹴ってたの?」

 というオバチャンの疑問を半笑いでごまかし、全速離脱に成功したのだった。

 深那美の声は、弾んでいる。

「うまくいったねー」

 彼女の弾む声に返す俺の声も、跳ねている自覚がある。

「ああ、この手であと4つ」

「えー3つでしょ?」

 あれ? 俺、数え間違いした?

「おまわりさんにボール蹴りつけるの? ゆうしゃが あらわれた!」

 俺、前を走っててよかったなぁ。ド忘れしてたもんだから、赤面しちまったぜ。

 例の森に向かってペダルを漕ぎながら、俺は純のことを考えていた。

 昨日の純は、本当にかわいかった。今までがかわいくなかったわけじゃない。でも、眼を覚ました時の言葉が『キモい』だったから、昨夜のはにかむ笑顔も、お兄さんに挑む横顔も、格別に感じられたんだ。

 ヤケにならなくてよかった。なんたって、『あたしが倒れてから、ずっとここに通ってくれたんでしょ?』って訊いてきた時の顔ったら、もう!

 すれ違う自転車乗りや散歩の人の目つきに気づいて、俺の思考は中断した。

 よく分かるぜ。バカ面してるんだろうな。

 そんなこんなで森にたどり着いた時には、日は暮れていた。早速、中に分け入る。

 といっても、このあいだ深那美がつけた道があるから、分け入るというより踏み込む感じか。初めて入った時の不気味な感じはやや薄らいで、でもやっぱ暗い森の中は嫌な感じだ。寒いし、踏みつける足元の諸々は湿っているのが感触で分かるし。

 昨日の場所で、またマカロフと銃弾を渡された。

 いつ銃弾を作ったんだ? 今日、深那美に触れられたこと、あったっけ?

「どしたの? さあ」

 受け取ってまた倦怠感に耐える。がんばれ、俺。

 ラベルを処理すると、俺はマカロフを返した。

「あと4つ」

「うん。あ、これバイト代」

 相変わらずの封筒を受け取り、カバンにしまう。

「さ、カツカレーカツカレー」

 さっさと帰ろうとしたが、深那美にぶつかってしまった。

「どうした?」

 と顔を上げた時、俺の眼は信じられないものを見た。

 目の前に、1人の男が立っていたんだ。

 スキンヘッドに三白眼、ぶっとい金のネックレス、俺は生涯着ることはないと確信できる某世界的鼠のプリントされたジャージ上下。

 つまり、いかにもその筋なヤーさんだった。

 周りに汚い髭を生やした口が歪み、ドスを利かせた声が放たれる。

「おうお前らか、チャカ鳴らして回っとるのは! ああ?!」

 チンピラだ。下っ端だ。でも、それはそれなりの迫力ですごまれて、返す言葉が出ない。

「ジャリが! ああ?! チャカ出せや!」

「バッカじゃないの?」

 オマエコソ、バッカジャナイノ?!

 俺の思考がカタカナに切り替わっても、深那美の切りつけるような口調は変わらない。まさか反論してくるとは思わなかったのだろう、ヤーさんが口をあんぐりと開けた。

 そのヤニ臭そうな空間に向かって、深那美の第二撃が放たれる。

「チャカ出してもいいけど、撃つぞ? いいのか?」

 ヤーさんは慌てて、自分もズボンの腰に挟んでいたピストルを抜いた。

 木漏れ日、いや月の光で黒光りする銃口が俺たちに向けられて、ますます足がすくんで動けない。

(ヤベェ、ヤベェって、これ……どうする、どうする、どうする?)

 ヤーさんはすっかり動転してしまった俺など無視することにしたようだ。深那美に向かって唾を飛ばした。

「っせぇこのジャリ! うら、チャカ出せや!」

「ああ、もしかして、このあいだの事務所に銃弾撃ち込んじゃった人?」

 深那美の言葉に、回らない頭の中でふと思い至った。

 弾丸が出ないはずのマカロフで撃ったところに、銃弾がめり込んでいたことを。

「おう! てめぇらがそこらで撃ちまくってるおかげで迷惑なんじゃ!」

 その時やっと状況が飲み込めて、体が動くようになった。

 深那美を護らなきゃ。

 でも、前に進み出ようとした俺を、深那美が手で遮った。そうして次に彼女がしたことは――

「♪あるーひ もりのなか」

 ……こいつはなにやってんだ?

「♪ヤーさんに けりいれた」

 透き通るような――まるで脳に直接響くような――歌声に続いてパッチン、と指が鳴らされた次の瞬間、深那美の身体が前に弾け跳んだ!

 いや、弾け跳んだんじゃない。踏み込んだんだ!

 それから枯れ葉を蹴散らしての右ハイキックが繰り出され、ヤーさんの首にダイレクトヒットした鈍い音が聞こえるまで、1秒とかからなかったように思う。

 ヤーさんは失神したのか、前のめりに倒れ伏してピクリとも動かない。それを呆然と見つめる俺は、どうにか言葉を搾り出した。膝が小刻みに震えるのを自覚しながら。

「や、やったのか……?」

「当たり前じゃん」

 そうこともなげに言い放つ深那美は、不敵な笑顔を見せて続けた。

「だから言ったろ? わたしが泥人形なんかに負けるわけないって」

 それからすぐに、いつもの朗らかな笑顔と女言葉に戻った。

「さ、これは片付けておくから、先に家帰って待っててね、あなた」

 渡されたのは、深那美の家の鍵。どうやら夫婦ゴッコの始まりらしい。

「さ、早く。あ、できればカレーを温めておいてほしいな」

 黙ってうなずいて、早足で自転車へと急ぐ。

 このあいだタワーパークでものすごい倦怠感に襲われた時のことを思い出した。頭の中に歌が聞こえてきて、続いて指の鳴る音がして、回復したんだった。

(あれも、さっきあいつがしたことと関係があるんだろうか?)

 でも、あのヤーさん、明らかに自分からいってた。まるで彼女の足に吸い寄せられるように。

 あいつ、本当に……?

 それ以上は想像したくない。なぜなら、俺はその女の子の家にメシを食いに行くわけで。

(もしかして、ヤバイ……?)

 俺は、つくづく危機察知能力が無いな。そう痛感したんだ。

 お宅訪問のことじゃない。本当に残念ながら。

 考え事をしながら自転車へと向かう俺を、左からいきなり車のヘッドライトが照らしたんだから。

 まぶしさに手で光を遮る俺。おかげで、車から降りてきた人をどうにか見分けることができた。その正体は、さっきの男とどっこいどっこいの格好をした、ヤーさんだった。

「おうこら! どこいくんだ! あぁ?! ヒロセはどうした?」

 くそっ、また足がすくんじまった。カッコ悪ぃ……つか、ヤベェ……

「シカトこいてんじゃねぇぞこら! あぁ?!」

 口がすっかり重くなってしまった俺を勘違いして、石を蹴り上げて俺を威嚇するヤーさん。その単純な暴力に、俺はすっかり怖気づいてしまった。

 もつれる舌で、

「な、ななななかに、森の中にいます……」

 言ってから、しまったと気づいた。森の中には深那美がいる。こいつがそっちに向かったら、深那美が危ない。

「あああでも、突然叫んで倒れちゃって……」

「倒れた? どういうこった?」

「そう、倒れたんだ」

 声と姿、どちらが先だったろうか。深那美が森から姿を現した。

 そしてヤーさんの声より先に、歌が始まる。

「♪もーりへーいきーましょーお やーくざーさん」

 指鳴りの音とともに、ヤーさんは脇目も振らずに森の中へと走って消えた。

 俺は大きく息をついた。安堵と、やっぱり深那美はというあきらめと、2つの意味を籠めた盛大な溜息で。

 一方の魔女は、柔らかい微笑みで俺を見つめていた。

「さ、あなた。先に帰って」

 笑みが、近づいてくる。

「2階には、上らないでね」

 微笑の圧力から逃げるように、俺は一目散に自転車を目指したのだった。

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