第7話 警官にマカロフをぶっ放す方法は、まだ発明されていない。
1.
親から帰って来いって言われたからって小学生みたいなカッコ悪い言い訳をして、自転車を目いっぱい漕いでやって来たカフェ・ゴエティア。
俺は、目の前に広げられた地図の前で、茫然自失だった。
ラベルの所在地を示す赤丸の一つが移動していたんだ。
それだけじゃない。なんと、場所もあろうに警察署の上に移動しているなんて。
では、警察署のどこにあるのか。それは深那美が確認していた。
いくら深那美でも、警察署に潜入したわけではない。その発見には偶然が作用していた。
買い物の帰り道、コンビニに立ち寄った彼女に少し遅れて、警官2人が入ってきた。
コンビニの店主と立ち話を始めた2人を何気なく眺めた彼女は、息が止まりそうになったという。
なぜなら例のラベルが、1人の背中に貼られていたのだから。
呆然から立ち直った彼女の懸命の観察で、
「権藤、って人なのは分かったけど……」
「どーしよう……」
ゴンドウでもエンドウでも、んなことはどうでもいい。
どうやって、警官にマカロフをぶっ放しゃいいんだ?
「移動したのはどこにあった奴だ?」
深那美が黙って差し出した写真は、とあるお宅の玄関。おしゃれなポーチにべったり貼られていたものだった。
「あーこれか……」
近所で1つ処理したけど、もう1つがここでがっかりしたやつだったな、確か。
俺たちがイスにへたり込んだのが合図になったのか、ゴエティアの店員さんが飲み物を運んで来た。慌てて地図をたたんで、澄まし顔を作る。
ついでに、ほかの席を見ないようにする。例の男、6人に増えてるんだよ。ちゃんと色違いで。
そういえばあの人たち、俺たちが何を話していようと知らんぷりなんだけど、聞こえない振りをしているだけなんだろうか。それも相まって、気味が悪い。
でも深那美は相変わらず気にしていないようだ。俺を真っ直ぐ見すえて、
「まあ、待つしかないでしょ」
「待つって、なにをだよ」
彼女は苛立つ俺に答えず、ゆっくりとマンデリンをすすった。
「どうすりゃいいんだ……なんで勝手に移動するんだよ……」
「てことはさ、また移動するかもってことじゃん? 今度はこちらの都合の良い場所に」
「そりゃそうだけど……」
ポジティブだな。そう嫌味を言おうとして、
「待てよ……?」
首をかしげる俺。深那美がカップを置いてこちらを見た。
「なに?」
「福来さんも背中。警官も背中。なんで常に背中に移動するんだ?」
「警官が女の人だったら分かるけど」
それ、なんの意味があるんだ? 分かりかねて見つめる俺に、深那美はにやりと笑った。
「洋太君みたいな女の人の背中フェチってことじゃん? ラベルが」
「誰が背中フェチだ!」
「ああ、違ったね」
にんまり。かつジト目。器用だな、こいつ。
「オシリスキーだったっけ?」
「お前……言ってて恥ずかしくないの?」
「否定はしないんだ」
「違うから」
変えよう。どうもこの話題は分が悪い。
「ああそうそう、明日から純が夕方5時ごろ電話してくるって言ってたから」
効果はすぐに現れ、深那美のにんまりは消えた。
「そ、そう……で、あの……」
「分かってるよ。飯は食いに行く。約束だから」
明らかに安堵した笑顔を見て、ちょっと胸が締め付けられ――なんでだ?
俺は残りのカフェオレをぐいっと飲み干すと、帰ると言って席を立った。
夕飯を終えて、お袋に純の記憶が少しずつ戻ってきていることを話した。
「まあ! 良かったわね。お母さんも心配事が減って」
「いや、まだ完全じゃないんだけど」
あらそうなのとお袋は首をかしげた。
「古い記憶から順番に戻ってくるものなのね、記憶喪失って」
「ん? ああ、そうみたい」
問題はここからなんだけど。俺は心の中でつぶやいて、はっと視線に気がついた。
親父が俺を見つめている。その目には何の感情も浮かんでいないように見える。
「んだよ親父」
と言って、失敗を悟った。まるで何か隠してるように見えるじゃん。
「将棋をやろうじゃないか」
「え?! お、おう」
また性懲りもなく挑んでくるとは。
「なあ親父、そんなに俺に金を恵みたいわけ?」
おまけに几帳面に棋譜まで取ってさ。細かい人だとは思ってたけど、ここまでとは。
親父はふっと笑うと、
「ま、生前贈与みたいなもんだからな、小遣いってのは」
「セーゼンゾーヨ? なんだそれ?」
生きているうちに財産を渡しておくことらしい。それを聞いて、お袋が短い悲鳴を上げた。
「ちょっとお父さん、縁起でもないこと言わないでよ」
「何を言う。長幼の順を守って死んでいくんだ。めでたい限りじゃないか」
納得しないお袋がブツブツ言い、将棋盤の上で駒を並べるパチパチという音と不協和音を奏でた。
2.
水曜日の夕方。約束どおり、深那美の家に飯を食いに来た。今度は門の前で足が動かなくなるなんてこともなくなって、
(あれきっと、俺の心と体が抵抗してたんだよな)
一人で納得して、ドアチャイムを押した。下ごしらえがあるからって、深那美は先に帰ったんだ。
チキンカツを揚げてくれるってよ。めっちゃうれしい。
室内からぱたぱたと駆けてくる音に続いて、ドアが開いた。
「おかえり!」
「あ?! お、おう、ただいま……ってちげーし」
おお膨れる膨れる。くやしいけど、かわいい。
「いいの! ゴッコなんだから!」
「ゴッコかよ」
今度は、じっと上目使い。潤んだ眼で見るなっつーの。困るんだよ、それ。
「ゴッコじゃなくても、いいの?」
「ただいま戻りました!」
ビシッと敬礼してやった。
「うむ! ご苦労!」
深那美も答礼したところで限界が来て、2人で爆笑。そのままリビングへ案内された。
「んじゃ、今から揚げるから、もうちょっとだけ待っててね。あなた」
(ほんとにゴッコをやる気かよ……)
「ん? ダーリンのほうが良かった?」
「洋太君でお願いします」
すっと無表情になった深那美は、両手を上げてワキワキし始めた。おまけにジリジリとソファの角に俺を追い詰めてくる。
「んじゃ、今から洋太君を揚げるから、もうちょっとだけ待っててね」
「釜茹でかよ!」
『あなた』で妥協して、チキンカツは滞りなく揚げられた。
「んん、うまい」
「でしょでしょ! ソースはどうかな?」
「んー、もうちょっと塩味が欲しいかな」
と答えると、彼女は手元にあった小鉢を取り上げた。
「あ、じゃあこのわたし特製煮込み汁をちょっと加えて」
「何が煮込んであるんだよおい」
「いいからいいから」
なにやらドロッとした物を入れたら、格段に旨くなった。
「良かったー! 揚げ具合とかはどう?」
正直に言って、お袋のより上手い。そう褒めると、満面の笑みになった。
「そかそか、うれしいな。あの日から1週間、練習に練習を重ねた成果だよ!」
「揚げに揚げまくったんだ」
「うん! あなたの・た・め・に」
ここで茶化したくなったのは、このまま引きずり込まれたくないという心理が働いた結果だろう。
「なるほどな、それで最近顔がテカテカしてると思ったんだ」
「! いやぁ!」
ばっと両手で顔を隠してそむける女子高生に追い討ちだ!
「深那美?」
「……な、なに?」
「太ったんじゃね?」
「それがねぇ、そーでもないんだよ?」
こやつは俺の意表を突いた。なんと、長袖Tシャツのすそをまくり上げて、お腹を見せたのだ!
「ほら、すっきり」
白く、かといって透き通るほどでもない、健康的な肌――なんて評論してる場合じゃなく、俺は慌てて眼をそむけた。
「見せなくていいから」
「えーつまんない。男子的にはウレシハズカシじゃないの?」
「べっつに」
目を元の位置に戻すと、深那美は自分のチキンカツを平らげていた。紙ナフキンで口を拭いて、いたずらっぽい目つきに変わる。
「一緒にお風呂に入ると、もっといろんなところが見られるよ?」
「えーと……ごめん、もう入ってきたから」
「隙間風ゴッコ?!」
そう叫んだ深那美は、乗ることにしたようだ。紙ナフキンの端を噛みしめて、悔しそうに身悶えし始めたではないか。
「誰? 誰なの?」
その言葉を聞いて一瞬、なぜか頭がズキッと痛んだが、芝居を続けよう。
「す、純のところで……」
おいお前、なんでそこで立つ? つかお前、包丁持った手ぇタオルで縛ってってオイ!
「病室は0728号室だったよね?」
「マヂやめろ、マヂで!」
右手に縛り付けられた包丁が、彼方の純から目の前の俺に向けられた。
「じゃあ、お風呂入って」
「いやいやいやいや、落ち着け深那美」
「ちぇー」
心底残念そうに武装解除する妻(ゴッコ)を眺めて息を吐きながら、俺は思った。
こいつと付き合う奴は大変だろうな、と。
同時に、どっと倦怠感がぶり返す。
思わずついた溜息を、深那美は聞き逃さなかった。
「あなた、大丈夫? 気分悪いの?」
もう『あなた』にツッコむ気も失せて、俺はうなずいた。
「なんかさ、時々ぐわっと押し寄せてくるというか、一気に力が抜けちゃうっていうか……」
「いつから?」
ちょっと考えて(それも少し辛いのだけど)、
「ここ2週間くらいかな……」
「ふーん、ラベルの処理を始めた時くらいからか……お医者さん、行った?」
もうちょっと続いたら行くつもりだと告げると、
「洋太君」
「お、おう」
ゴッコは終わりらしい。深那美は俺の腕を優しく取ると言った。その顔には心配があふれている、大人びたものだった。
「ソファで少し休んで、今日はもう帰って。で、ゆっくりお風呂入って、しっかり寝て。いい?」
「……うん」
ソファにだらしなくもたれかかった俺に、水を持ってきてくれた。
「ごめんな……」
「なーに言ってるの!」
仁王立ちして、深那美のお説教が始まる。
「夜更かししすぎなんだよ。だりぃならとっとと寝ろっての。このままじゃ、倒れちまうぜ。バイトどーすんだよ? 純チャンの記憶、取り戻したいんだろ? つか日曜日、タワーパーク行けなくなっちゃうじゃん!」
俺が少し呆然としてしまったのは、倦怠感のせいじゃない。
「……お前、なんか昔のお前みたいだったな、今」
そう、小学生の頃の彼女は、以前にお袋が言っていたとおりオトコオンナだった。男みたいな髪型、男みたいな口調、男みたいな乱暴者で。
指摘されるまで気づかなかったのか、深那美は突然赤面し、なおかつクネクネまでしだした。
「いやぁん、洋太のエッチ」
「意味分かんねーし」
でもなぜか、不意におかしくなって、俺は笑った。笑われたと思ったんだろう、深那美は俺をにらみつけたが、我慢し切れなくなって笑い出した。
ひとしきり笑い合って、ああ、なんだかすっきりした。
「じゃ、帰るぜ」
ふるふる。深那美はちょっと悲しげに首を振った。
「違う」
「え?」
深那美は立ち上がった俺に近寄ると、にっこり微笑んだ。ジャージの襟を直してくれながら、
「いってらっしゃい、あなた」
正直に告白すると、ドキッとした。
「復活したのかよ……いってきます」
俺はしようがないなあという顔で、でもいたってまじめにあいさつを返すと、家を出た。
ぶんぶん両手を振る深那美の、切なげな顔をなるべく見ないようにして。
彼女の背後の2階に続く階段を、視界に入れないようにして。
3.
次の日、例の女子、福来さんがあいさつもそこそこに絡んできた。昨日、純のお見舞いに行ってきたのだそうだ。
「いやあもう、桃色桃色で」
「なにが?」
福来さんは次に、俺をひじで小突き始めた。
「純ちゃんがね、ずっと直正君の話ばっかするんだよ。あの例の未来写真? そんな話、こっちからする暇もないくらい」
女子3人で行ったのだけど、純の一方的なおしゃべりに、みんな呆れてしまったらしい。
「ま、熱でうなされてるうちが花だね、って結論に達しましたよ まる」
「あーそう、そりゃお疲れ様……」
なんとなく後ろめたい気持ちになるのは、同じ時間に深那美の家で夫婦ゴッコをしてたからだろう。
そんな俺の肩に、福来さんの手が置かれた。
「大変だね、直正君」
「ん、そう?」
「うん、ありゃ浮気したら絶対藁人形ルート一直線だよ」
「……やめてくれよ」
俺はその手の話が好きじゃないんだ。カッコ悪いから誰にもばらしてないけど。
でも、福来さんはにやりと笑う。しまった、ばれたか?
「大丈夫。深那美っちのことは話してないから」
「な、なんのことかな?」
ごまかしても無駄だった。
年明けに引っ越す深那美の思い出作りの話は、体育館裏から速やかにかつ密やかにSNSプラス口コミで拡散したらしい。
そしてそれはサッカー部のツレたちにも伝わり、女子からの、
『いらんことしたら、あんたら、分かってるだろうね?』
という台詞with肩叩きによって誓約と化した――
「……怖ぇ」
何が怖いって、女子の肩叩きじゃない。どちらかというと純に同情的だったみんながそこまで深那美に協力的、っていうのが怖い。
(それであいつら、このあいだニヤニヤしてたのか。それにしてもあの悪魔女子、体育館裏でなにしたんだ……?)
めまいがして伏せていた顔を上げると、福来さんがキラキラする目で俺を見つめていた。こころなしか、顔が近い。
「で、どこまで進んだの? 思い出作り」
「……深那美の家で飯食わせてもらいました」
きゃー、なんて大声出すなよ福来さん! みんなの注目浴びちまったじゃん!
「で、で?」
「なんにもしてねぇよ。俺は純一筋だっつーの」
また、きゃー! 引き寄せられてきた女子多数にばらされて、思わず赤面してしまった。
「くぅーあたしもそう言ってくれるカレシ欲しいー!」
福来さんが発した心の底からの叫び。それがほかの女子に伝染しそうだったので、俺は話をそらそうとした。
「んじゃ、合コンしない? 紹介するけど」
「サッカー部のアホどもは嫌」
はい坂部(外14名)消えた。めっちゃ真顔で言われてフォローもできず、
「ほかの学校ならいいの? 連絡取ってみるけど」
オッケーオッケーと盛り上がってる福来さんに思わず、
『ご褒美に君のコートちょうだい』
って言いかけて、すんでのところで思いとどまった俺であった。
そんな変態的なことをさらりと言うには、時の流れが羞恥心を摩滅させるまで待たなければならないのだろう……なんてね。
それにしても、いくら黙認されてるったって、深那美あいつとタワーパーク……いいのか? 俺。
てなわけで、日曜日の夕方。タワーパークにバスで来た俺と深那美は――少なくとも深那美は、デート感を満喫していた。
なんたって、
『星巡るクリスマス 恋人たちのタワーパーク』
だぜ?
ここは市北部のだだっぴろい公園の中心に高層タワーを配したスポットである。
ただの公園ではなく、四季折々に絡んだイベントが常時開催されている場所でもある。
で、12月ということで、クリスマスというのは分かる。でもさ、『恋人たちの』って。
いやいやいやいや、これご家族連れはどーすんだ?――なんて意味のないツッコミ(深那美の醸し出すデート感につい水を差してみたくなったんだよ)をしてみたら、
「うふふ、あなたったら」
深那美が気味の悪い口調で、さりげなく手をつないできた。
「未来の家族のことまで考えてるなんて、わたしうれしいですわ」
「……お前のキャラ設定はなんなんだよ」
今日の深那美は、一言でいうならキメてきていた。活動的な部屋着とはまったく違う、清楚ないでたちで。
青いリボンも品良く髪に結ばれて、軽い風になびいている。そのリボンがふと垂れた時、深那美の顔がこちらを向いた。
「ねぇあなた」
「それまだ続くのか?」
こくりとうなずくと、彼女は手をつないだまま、俺の前に回り込んで止まった。
「似合うかな? これ」
「うん、似合うよ。ていうか、正直かわいい」
「ほんと?!」
うおお、飛び跳ねてるよこいつ。
「てか正直、びっくりした」
「なにが?」
小首を傾げるさまも、衣装が違うとまったく印象が変わって見える。
「お前の普段の言動からは想像もつかない格好してきたからさ」
「なるほどギャップ萌えに弱いんだね、メモしなきゃ」
「萌えてねーし。つかほんとにメモるなよ」
スマホにメモ入力したせいで離れた手が、また俺の手を握ってきた。ぎゅっと、意外に強い力で。
振りほどく、っていう選択肢は頭になかった。そんな思い出、深那美は欲しくないだろう。
だから園内を、そのまま手を繋いで歩いた。真冬ゆえ花は数えるほどしかなく、その代わりにイルミネーションが煌めいている。
それらはいろいろな星座や天の川に見立ててあって、なるほどだから『星巡る』なのか。
5分くらい歩いて、異変に気づいた。いや異変っていうほどおおげさなもんじゃないんだけど。
深那美がキレーとかカワイーって言わないんだ。イルミネーションが瞳に反射して綺麗だけど、その瞬く光に関心がない。
俺はどうしても聞きたくなって、口を開いた。
「なあ、どっかほかのところ行くか?」
「ん? なんで?」
「いや、だって……こう……」
ふふ、と微笑む深那美は意外なことを言った。
「わたしは、あなたとこうやって手をつないで歩いているのを楽しんでるの。タワーパークとかイルミネーションなんて、どうでもいいの。それこそ、地獄だって」
少しだけ傾けた顔。ちらりと流し目をされて、心臓が思わず跳ねる。
「わたしと一緒に、地獄の果てまで行ってくれる?」
「ごめん、無理」
素直に言って、あっさり笑われた。
「だよね。だから、ここにしました。地獄じゃあクレープも売ってなさそうだし」
「ああ、売ってないだろうな」
「じゃあ――」
にんまり、いつもの彼女が戻ってきた。なぜか、ちょっとうれしい。
「あれ買って。一緒に食べよう」
と誘導されたのは、パステルカラーが冬には似合わない屋台だった。
「この寒空にクレープっすか……」
「じゃあ、隣のたこ焼きも追加で」
「取り合わせ悪っ!」
深那美だけでなく、クレープ屋さんにまで笑われてしまった。
近くのベンチに腰掛けて、クレープからほおばる。
そういや、純ともクレープ食ったな。あれは……アレ?
(いつだったっけ……?)
食いかけのクレープを持ったまま、星空を見上げる。まるでそこに答えが書いてあるかのように。
いつだ?
「どーしたの? あなた」
「あ、ああ、うん……」
正直に話そうとして迷った。純絡みの話なんて、今は聞きたくないだろう。でも、
「純チャンのこと?」
彼女のほうから振ってきたのを幸いと、クレープの記憶が日付と結びつかないことを説明した。
ひどい話だよなと笑ってごまかそうとしたのに、彼女は乗ってこない。
「そう……やっぱり……」
「やっぱり?」
深那美は一瞬だけ悲しげな顔をした。目を閉じて首を2つ振ると、
「クレープ」
「は?!」
「それ、いらないならちょうだい」
「ダメだ」
拒否されても引き下がらない深那美の額にチョップを――
「……う」
突然、あの倦怠感が襲ってきた。しかも、今までのとは違う強烈なやつが。
視界が歪む。クレープも俺のひざも、一緒くたに。
止まらないのは、冷や汗。止まったのは、呼吸。
ダメだ。これ、俺……
その時、脳内に声が響いてきた。声というか、
(歌……? 深那美……?)
続いて、パッチンと脳内で何かが弾けた。指を鳴らした時のような音が。
そして俺は、現実世界に引き戻された。呼吸が回復して、まさに生き返った気がする。
「大丈夫、もう大丈夫」
荒い呼吸を落ち着かせ、折り曲げていた身体を起こしざまに振り向くと、深那美がそうつぶやいていた。その顔は大人びて、ぱっと見はまるで別人のよう。
「……深那美、お前、今なにした?」
額の汗をハンカチで拭かれて、振り払う気力も無い。
でも、彼女は薄く笑うだけだった。
やっぱり、こいつは怪しい。
今突然そう思ったわけじゃない。ちゃんとわけがあるんだ。
4.
水曜日の夜、ある夢を見た。
深那美の家のリビングで、俺は突っ立ってる。手にはマカロフ。
リビングの壁には、これでもかっていうくらい、
『オレ-魂=カノジョ+愛』
のラベルが張ってある。
「分からん奴だな」
ふいに親父が目の前に現れて、時々やる、人を見下したような態度を取った。ご丁寧にメガネまで光らせて、
「撃つのはラベルじゃない」
「うっせぇ!」
俺はマカロフを両手で構えて、撃った。背後からの声に煽られるように。
「撃って撃って撃って撃って撃って撃って」
いつのまにか、ラベルは6枚――ちょうど今、残ってるラベルの枚数――になっていて、俺は全てに命中させた。
そこに、背後にいたはずの純がやって来た。誰か女と会話をしている。俺の頭の上を、よく聞こえない会話が飛び交っている。
頭の上?
そう、俺の体は削れていたのだ。胸の下辺りまで消え失せてしまって、動きたくても動けない。マカロフから手も離れない。
そんな状況で焦る俺に、純が笑いかけた。
「ありがとう、洋太君」
ちょっと待てよ純。俺、こんななんだぜ?
「ラベルの処理をしているのだから、仕方ない仕方ない」
純の顔は、いつの間にか黒幕さんに変わっていた。ものすごい圧迫感をなんとかしようと、俺はマカロフを黒幕さん目がけて撃った。
でも、無駄だった。撃つたびに、どんどん体が削れて――
そこで、目が覚めた。
「……ふう」
ベッドに起き上がった俺は、目を閉じて気を落ち着かせようとした。
その時、ふっとまぶたの裏に浮かんだんだ。
『オレ-魂=カノジョ+愛』
脳内に電流が走って、悪寒が止まらなくなった。
俺がラベルを処理すると、彼女プラス愛、つまり純に記憶が戻っていく。俺との愛の記憶が。
どうやってラベルを処理する? マカロフで撃って、光を開放して。
その銃弾は、深那美が用意している。どうやって?
俺マイナス魂。つまり、俺の魂を銃弾に変えてるんじゃないか?
どうやってかは分からない。でも、そういう観点で記憶を手繰ってみると、深那美は俺に銃弾を手渡す前に、俺に触れている気がする。
「てことは……」
あと6枚。俺の魂が削られて、さっきの夢みたいに。
時々襲ってくる倦怠感もこのせいなのか?
深那美の心配も、演技なのか?
俺は、俺は、どうすればいいんだ……?
考えても考えても、ちっとも結論にたどり着かない。そこから一睡もできず、木曜の朝を迎えたのだった。
俺が追憶から戻ると、たこ焼きは半分なくなっていた。
「はいあなた、あーん」
「……お前なあ」
内心の動揺を悟られないように大口を開けて、たこ焼きを一口で食べる。まさか今そこで買った物に、変なものは入れないだろう。
定番の泥ソースに花がつおの乗ったたこ焼きはほどよく冷めていて、ためらいなくモグモグできた。そのままクレープの残りに移る。
「あ」
俺の顔を見つめていた深那美が短い叫び声を上げると、手を伸ばしてきた。
思わずぎゅっと眼をつぶる俺。その口元がくすぐったくなって、彼女の意図をやっと理解できた。
俺の口の端に付いた生クリームを小指ですくって、舐めたのだ。
「うふふ。子供みたい」
ぺろ、と小指の先を回る彼女の小さな舌先が妙に艶かしくて、俺は目をそらした。
違う。それだけじゃない。
なんでそんないい顔で笑うんだよ、お前。気にしてビクビクしてる俺、めっちゃカッコ悪いじゃん!
自分に腹が立ったので、このデート本来の目的に立ち返ることにした。
「おら貸せ」
深那美の手から爪楊枝をもぎ取ると、たこ焼きを一つ舟から取り上げた。
「あ……くれるの?」
「ん、あーん」
ぱくり。
「一口で食ったな?」
コクコクモグモグ。小さな口を思いっきり広げて捕食したそれを、目一杯ほっぺたを膨らませて噛んでいる。しばらくしてやっと飲み込むと、
「だって、ちょっとだけ齧ったって汚いじゃん。爪楊枝から落ちちゃうし」
そんなこんなでお互いに食べさせあってから、またそぞろ歩きを再開する。
「風、無くなったねー」
「うん……あ」
のぞきこんでくる深那美に、ヤン車のラベルを処理しに行けばよかったと思い付きを説明した。
「ダメ」
「なんでだよ」
「今日はデートの日ですことよ? あなた」
にっこり笑う彼女のかわいさに、つい意地悪をしたくなってしまった。
「お澄まししてるつもりか?」
「もちろんでございますわ」
「青海苔ついてるぞ」
「お前もな、洋太」
「キャラ、ブレブレだな……」
5.
顔を洗いがてらに公衆トイレに立ち寄って、ついでに、
「今度はコーヒー?」
「いいでしょ? 別に」
特段おしゃれでもないカフェテラスだけど、気にしないようだ。紙コップだし。
そのことを指摘したら、鼻で笑われてむかつく。
「洋太君はちっさいねぇ」
「っせぇな。むしろお前が気にしろよ」
「なんで?」
「フツー気にするだろ? おしゃれなカフェで、おいしいスイーツ食べて……」
反応は、胡散臭そうな目つきであった。
「で、SNSが毎日食べ物の記事と写真で埋まるんだ。メンドクサ」
またちょっとむかっと来て、しばらく黙ってコーヒーをすする。お澄ましキャラに戻ったのか、目を閉じてゆったりもたれている彼女は、さっき垣間見えた大人の表情だった。最近、妙に大人っぽく見えるのは、気のせいだろうか。
「なあ、そういえばさ」
今、訊くべきじゃない。でも、なんとなく間が持たない。俺は彼女のプライバシーに踏み込んだ。
「どこに引っ越すんだ? そろそろ教えてくれよ」
促しても、深那美はしばらく動かなかった。やがてゆっくりと眼を開けると、一語一語を区切って答えた。それも真顔で。
「じ ご く」
「小学生かよ!」
「さっきもそう言ったじゃん」
「……もういいよ」
飲み終えた紙コップを握り潰して、立ち上がった。まじめに訊いたのに、くだらない冗談で返されて、腹が立ったんだ。
「帰ろうぜ」
「やだ」
(こいつは……)
ほんとにかわいくない。おまけにどういうつもりか、立ち上がって一方的に言ってきたんだ。
「タワー登ろ」
拒否の印に首を振る俺の腕に、深那美はすがってきた。予想外の行動に固まる情けない俺を潤んだ瞳で見上げ、懇願してくる。
「お願い。今日でおしまいにするから」
「な、なにを?」
際どい会話で周りの注目を集めていることに気づいていないのか、哀願は続く。
「バイト以外であなたを引っ張りまわしたりしないから。お願い」
「……分かったよ。行こうぜ」
注目の視線から逃れるため? 違う。
彼女の真剣なまなざしに、これ以上拒否できなかったんだ。
だからそのまま、つまり彼女を腕にすがらせたまま、展望フロア行きのエレベーターに乗った。
エレベーターの中はぎゅうぎゅう詰めだった。彼女の体が俺の腕に押し付けられてくる。
(柔らか……いやいや、落ち着け俺! 純のことを考えろ純のことを)
一緒にすし詰めにされているカップルや親子連れの目は一様に、狭苦しいことへの苦痛から逃れるために、エレベーターから見える夜景に目を凝らしている。俺もそれにならった。ならわざるをえなかった。深那美が俺の顔を見つめていたから。
振り向いちゃダメだ。ダメだ。ダメなんだ。
長く長く、エレベーターはいつまでも昇り続けている気がした。
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