第5話 浸食される日常

1.


 39.3℃。

 それが、火曜日の朝の現実だった。

 お袋が慌てて作ってくれたお粥だけもそもそと食べて、部屋にのっそりと戻る。

「昨日の病院でなにか拾ってきたんじゃないかしら」

 とかお袋が言ってるが、応える気力もない。

 またベッドに潜り込んで、医者に行く時間まで一眠りだ。

 風邪は毎年引いてたけど、高熱を出すなんて何年ぶりだろう。頭が働かなくて思い出せない。

 その重い頭で、純のことを思う。

 もう起きたのかな……

 いや、まだだな。掛け布団に潜り込んでるし。

 病室の中を見回すと、いたるところにあのラベルが貼られていた。

『オレ-魂=カノジョ+愛』

 誰だよ、こんなふざけたことした奴。

 純のお母さんの声がして、掛け布団をめくってみると、そこに横たわっていたのは、手を胸の上で組んだ親父だった。

 目を閉じてうっすら笑顔を浮かべたその気色悪さに目を背けた先に、ぬっと差し出されたもの。それは、あの黒光りするマカロフ。

 差し出したのは、

「さ、洋太君」

 純だった。

「撃って撃って撃って撃って撃って撃って撃って」

 純の笑顔での催促が怖い。なぜかお袋を探して辺りを見回すと、

「撃つのはラベルじゃないぞ」

 ベッドからの親父の声に驚いて振り向いたら、そこに寝ていたのは、今度は深那美だった。しかも小学生の時の、オトコオンナの姿で。

 わけが分からないまま、その寝顔に銃口を向けて――

「洋太! 起きなさい。病院行く時間よ?」

 お袋に揺り起こされて、寝汗をびっしょりとかいた俺は悪夢からようやく帰還したのだった。


2.


 診察と検査の結果、インフルエンザではないことが判明してほっと一安心。だるさ全開の体をなんとか動かして、また自宅に戻った。

 登り階段のつらいことと言ったら、部活の合宿並みだった。玄関を開けることすらおっくうで、はあはあと息が切れるし。

 そういえば、こないだ階段を登った時も、息が切れてたな、俺。

 思えばあの時から体調が悪化し始めていたんだろうか。

 またお粥をもそもそと食べ、良い顔をしないお袋に10分だけと釘を刺されながら、ツレと連絡を取る。

 週末、遊びに行かないかっていう誘いが来ていた。

 ラベルの処理をしたい。でも、いい加減深那美以外の奴にも付き合わないと。

 でも、あと3週間。

 考えが全くまとまらない。とりあえず保留にして、深那美からのメッセージに目を通す。

 能天気な文面のあと、熱で休んでビックリしたこと、任務はちゃんと果たすからの最後に、『お大事に』と結ばれていた。

 純と、話したい。

 彼女ならこういう時、どんな言葉を掛けてくれるんだろう。

 それが知りたい。

「さ、もう寝なさい」

 促されて渋々、『また寝る』とメッセージを入力して、俺は部屋に戻った。

 それからどれだけ眠ったのだろうか。

 重いまぶたを開けて、枕元の目覚ましを見ると、もう5時前だ。

「ああ、5時間くらい寝たのか……」

 そうつぶやいた時、俺の耳は玄関での会話を捉えた。

「あの、どちら様?」

「お久しぶりです。籾井深那美です」

 ! 深那美?!

「まあ! すっかり女の子らしくなって!」

「えへへへ。あのー、洋太君のお見舞いに来たんですけど」

 上げるな、お袋。そいつを家に入れるな、お袋。

 俺の発した声は弱々しく、玄関のお袋どころか部屋の扉にすら響かなかった。

「洋太、深那美ちゃんがお見舞いに来てくれたわよ」

 笑顔のお袋は彼女を俺の部屋に通すと、お茶お茶とつぶやきながら出て行った。

「おかまいなく~」

「……なにしに来たんだよ」

 深那美はそれに答えず、ベッドの脇に俺のイスを引っ張ってきた。それにちょこんと座ると、にっこり。

「んもぅ、わたしに言わせるの? それ」

 そうか、そもそも話題を振っちゃダメなんだ。でも、時既に遅し。

「彼の看病イベント発動じゃない!」

「カレじゃねぇし」

 目を背けてつぶやく俺をさっくり無視して、深那美は室内をぐるりと見回した。そして、スンスン。

「……なんだよ?」

「んー、洋太成分が充満してるね、ここ。みなぎる~」

 そう言って、深呼吸まで始めた。

「……お前、怖い」

「ふふ、そんなこと言いながら、気になってるくせに」

「なにをだよ」

 思わず反応してしまった俺。しまったと思う間もなく、また深呼吸を繰り返す女子高生に目がいってしまった。

「ほら、胸見てる。イヤラシイ」

「帰れよもう……」

 そこへお袋がお茶を運んできて、俺の命令は台無しになった。

「年明けにお引越しされるんですって?」

「ええ、いなくなるんです。父や母はもういませんし」

「あら! ああそうよね、あちらでの準備もあるものね」

 俺は今、ふてくされて壁のほうを向いている。だから2人のことは耳でしか感知できないのだが、2人ともどうやらニコニコしているようだ。

「純ちゃんも早くよくなって、お見舞いに来てくれるといいのにね。彼女なんだし」

 ますますいたたまれない俺は、ごゆっくりという言葉を残して退場していったお袋を扉越しににらむことしかできない。

 そんな俺に、深那美が顔を近づけてきてささやいた。

「お母さん、怖えー」

「なんでだよ?」

「分かんないの? お母さん、あたしにさりげなく純チャンの存在っていう釘をぶっすり刺してったんだよ?」

 なるほど、女の代理戦争をお袋が買って出たってわけっすか……ていうか、近い! 顔!

 俺は重い頭と身体に鞭を入れて、逃げるように上半身を起こした。まだ結構けだるく、ふぅと大きな溜息をつく。

「はい、もたれて」

 ベッドの柵と俺の背のあいだに枕をあてがってくれた。

「ああ、ありがと……おい」

「なぁに?」

「それはなんだ?」

 彼女が大きな布袋を提げて部屋に入ってきたことは、さっき見えてた。今その口が開けられて、どうやらクーラーバッグであることも分かった。

 問題は、そこから取り出した物体にあった。どう見てもそれは、プラスティック製の小ぶりな青いバケツだったから。

「えへへへ、わたし特製、お砂場バケツプリンだよ」

「いらん。マジいらん」

「お砂場未使用だから、大丈夫だよ?」

「そういう問題じゃねぇ……」

 気分が悪くなってきた。うなだれて荒い息を繰り返す俺の口元に、銀色のスプーンが差し出される。

「だいじょぶだってば。はい、あーん」

 その時、俺の腹は主に対して反乱を起こした。ぐーと鳴いて、かたくなに閉じた俺の口が見かけだけの抵抗であることを暴露したんだ。

 ベタ過ぎる展開に、怒る気力も無い。

「はい、あーん」

 俺は黙って、プリンを食べさせてもらった。

 うまい。けど、素直になれない。

 きっと不機嫌そうな面してるんだろうな、俺。ちょっと申しわけなくなるけど、でもこれ以上俺の日常を浸食されたくない何かを感じる。

 一口食べた深那美が、

「うーん、上出来!」

 と朗らかに叫んで、また一匙こちらにくれた。

 それを飲み込み、湧いた疑問を口にする。

「それ、まさかこうなると思って作ってたのか?」

 一瞬きょとんとした深那美は、続いて大笑いした。

「そんなわけないじゃん! 今度のお休みの時に、洋太君と一緒に食べようと思って、試しに作ってみたんだよ」

「……そんなに持つの? このプリン」

「だ か ら 、お試しだってば」

 そう言って、身を乗り出してくる。またあの、揺れのない瞳で。

「どう、かな?」

「あ、ああ、うんまあ……うまいよ」

 にんまり。

「よし、これを持って日曜日は一緒にバイトだね?」

「お、おぅ……ちょっと待てよ。日曜日は部活のツレと遊ぶ予定が」

「ツレと純チャン、どっちが大事なの?」

 また来たよ脅迫。こういう時の深那美は本当にかわいくない。『悪魔的な笑み』から笑いを抜いた雰囲気なんだ。

 でも、彼女はすっと身を引いた。表情も穏やかな笑みに戻っている。

「ま、いいよ。今度の日曜日は許してあげる」

「……なんでお前に許してもらわなきゃならないんだよ」

 チッチッチッ。ほんとにかわいさゼロで指を振られた。

「分かってないなぁ。わたしが銃弾を供給しなかったら、マカロフはただの鉄の塊なんだよ?」

 つまり、こいつのいうことを聞かないと、俺は純の記憶を取り戻せないということか?

「この悪魔め……」

 起き上がっているのがだるくなって、寝転ぶ。そんな俺を、深那美は真剣な顔で見下ろしていた。

 気詰まりな沈黙が流れる。やがて、ぽつりと彼女はつぶやいた。

「洋太君――」

「ん?」

「今の言葉、忘れないでね?」

 それだけ言うと、ぴょこんと立ち上がった。椅子をまた引きずって戻し、部屋を出ながら振り返って、

「あ、そうそう。2つ見つけたから。よそん家の中じゃないやつ」

「! マジ?」

「うん! だから早く風邪、治してね」

 深那美は足取り軽やかに、ほのかに香る良い匂いを残して帰っていった。

「そっか……」

 なんか、大げさだけど生きる気力が湧いてきた気がする。

 湯飲みを下げに来たお袋が、不思議そうな顔をして訊いてきた。

「帰り際に深那美ちゃんがヨウタセイブンとか言ってたけど、どういう意味かしら?」

「気にしなくていいから……」


3.


 次の日、無事に熱が下がって登校した俺は、校門の近くでクラスの女子に話しかけられた。同じクラスの福来さんだ。

 純の記憶が戻りつつあることについてだった。

「誰から聞いたの?」

「深那美っちからだよ」

 俺からの情報として、ここや隣のクラスに流れているらしい。

「ねぇねぇ、お見舞い行ってもいいのかな?」

「ああうん、喜ぶと思うよ。でも……」

 怪訝そうな女子に、例の『未来写真』の件について話しておく。

「へー、そうなんだ。気をつけなきゃ」

 純のお母さんに連絡するから、日時が決まったら教えてもらうことにした。

 そして俺は、次の瞬間息を飲むことになる。

 クラスメートにあいさつを繰り返す福来さんの背中に、あのラベルを見つけたのだから。



「うわあほんとだ」

「だろ?」

 1時限目が終わるのももどかしく、俺は深那美にメッセージを飛ばした。放課後まで待って、福来さんがコートを着て出てきたところを見張っていた彼女の開口一番がそれだったんだけど。

「見事にブラのホックの位置に。さすが洋太君」

「……なんで余計な情報を俺に吹き込む?」

 廊下で長話もできず、とりあえず別れて教室に戻った俺は、心の中で頭を抱えて席に腰を落とした。

 いくらなんでも、クラスメートの背中にマカロフをぶっ放すわけにはいかない。たとえ弾がでないにしても、あの光が打ち上がるわけで、騒動が持ち上がることは目に見えてる。いやその前に、発砲の音でそりゃもう大騒ぎだろう。

 それよりもなによりも、あんなところに今までラベルなんてなかった。

 ……いや別に、あの子の背中に常に注目してたわけじゃないんだ。でも、あんなものはなかった。

 なぜ? やっぱり、ラベルが移動している?

 どうする。どうにもできないけど、どうする?

 そこまで思い悩んで、俺はふと首をかしげた。今朝読んだ新聞の紙面を、唐突に思い出したんだ。

 それは例の組事務所前発砲事件の続報、というか経過の取りまとめの記事だった。

 なんとなく対面の親父の視線を感じながら、さりげなく読んだんだけど、そこにはこう書いてあったんだよ。

 『事務所の外壁から採取された弾丸を鑑定した警察は、発射した銃の特定を進めています。……』

 おかしいじゃないか。俺たちが撃った弾丸は、ラベルのみを破壊し、貼ってあるものには傷をつけないはず。

「……別人の、ていうか別のマジチャカの弾丸?」

「マジなんだって?」

 びっくりして見上げると、サッカー部のツレが怪訝そうな顔で立っている。

 適当にごまかすと、彼は用件を切り出してきた。

「今度の日曜、結局どーすんだ?」

「ああ、行く行く」

 深那美のお許しももらったし。

「ところでお前さ、丹波さんのお見舞いって行ってるのか?」

 一昨日行ってきたことを話すと、なぜか驚かれた。

「んだよ」

「いや、勇気あるなって思ってさ」

 意味が分からない。眼で促すと、驚いた表情のまま、こんなことを言い出した。

「だってお前、籾井さんとも付き合ってんだろ?」

「付き合ってねぇよ」

 即座に否定して部活に行こうとすると、別の男子からメッセージが来た。

『今日、部活休みだってよ』

「マジかよ」

 そのリアクションは俺とツレから同時に出たんだけど、イントネーションの違いが見事に出た。

(やったぜ、これでラベルの処理に行ける)

(ちぇっ、顧問の奴、またなんか用事かよ)

 心の声を表現すると、こうなるだろうか。

 違いの分かる男たちは、お互いに顔を見合わせた。こいつには俺の思考――ラベルがどうとかは分かんないと思うけど。

「うれしそーじゃん、洋太」

「まあな。じゃ、俺は帰るぜ」

 遊ぼーぜとかなんとか言い出したのを振り切って、俺は自転車置き場に駆け出した。


4.


「うわあほんとだ」

 まさか俺が、さっきの深那美と同じ台詞をつぶやくことになるなんて。

 昨日彼女が見つけた2つのラベルの内1つは、田んぼが広がる地域のど真ん中にある電柱に貼られていた。ゆえに一応周りの視線を気にしつつ、マカロフで射撃。光の解放に成功していた。

 問題は、もう1つのラベル。さっきの台詞をつぶやかざるを得ない案件だ。

 それは実に分かりやすい所に貼ってあった。

 一体何年前の、どこの国の車なのか、知識のない俺にはさっぱり分からない。

 ただ分かることは、いわゆる『ヤン車』だということ。

 それのバンパー、しかも前の右角に貼られていたのだ。

 車は道路脇に止められていた。原付免許すら持っていない俺でも、違法駐車であることは一目瞭然である。

 つまり、車相応のヤンチャな人が持ち主と推定できるわけで――

「ああ?! んだおめぇら」

 来たよ早速。

 結構ガタイの良い、30代後半に見える男。金髪ロンゲはところどころ地肌が見えていて、苦労してるのか遺伝なのか。

 んなことはどうでもいい。俺はいたってマジメな声を作った。

「いえなんでもないです」

 定番というかそれ以上言いようがない言葉で逃げようとしたが、待ったがかかった。

「この傷、おめぇらが付けたんか? ああ?」

 ドアに引っかき傷がついているような仕草をして吠えてるんだけど、どこにあるのかさっぱり分からない。ていうか、俺たちはそもそも手の届く距離まで近づいていないし。

 これも否定すると、もう一度すごんだ後、ぶつぶつこぼし始めた。

「ちっ、他人の車を傷つけやがって、どいつもこいつも……」

 ほかに傷がないか、舐め回すように点検を始めたので、これ幸いと早足で離脱した。

 ありゃ神経質だから薄くなってんだな、髪の毛。俺も気を付けなきゃ。

 なんてことを考えたあと、白い息を吐きながら深那美にぼやく。

「そんなに大事なら、路駐しなきゃいいのにな」

「分かってないなぁチミィ」

 深那美は地図を広げながら、知った風な口をきいた。

「あの人たちはね、『イカす車』が好きなんじゃないの。『イカす車を転がしてる自分』が好きなの」

「お前はどこでそういう言葉を覚えてくるんだよ」

 そう言いながら、地図をのぞき込む。

 ここから比較的近い赤丸を調べて、ナビアプリに入力。さっそく出発した。

「あの車は夜やるしかないよなー」

「そーだねー」

「帰りがてら寄ってみるか」

 そのままアプリを頼りに走ること15分。信号待ちで止まった時、深那美が自転車を寄せてきた。声が妙に低く、目の光は妖しい。

「気づいてる?」

「? なにが?」

 深那美は目を左右にすっすっと動かすと、声をさらに低めた。

「パトカーの巡回といっぱいすれ違ったじゃん。で、そのうちの1台がついてきてる」

「! 偶然同じ方向に向かってるだけとか?」

「可能性はあるよ。でも、このままついてこられると、探しにくいね」

 信号が青に変わったけど、渡らず待つ。パトカーはすーっと俺たちの脇を通過していった。助手席の警官がこちらを凝視していた気がするけど、にらみ返すのも視線を避けるのもだめだと思って深那美の顔を見ていた。

 大きく溜息を一緒について、笑い合う。でもすぐに、彼女の顔が変わった。

「洋太君、大丈夫? 調子まだ悪いの?」

「ん? ああ、なんとなくまだだるいかな」

 実はここ数日、寝起きからいまいち優れない。だから熱が出たんだろうけど。

 心配顔に無理に笑いかけて、俺は探索続行を選択した。

 日曜日にできないからな。



 結局、ラベルは2つ発見できた。ただし、2つとも住宅の敷地内にあって手出しできない。

 そして、例のヤン車。これには参った。近づくことすらできなかったのだ。

 あのオッサンが見張っていたわけじゃない。周囲に人影はまったく無かった。

 チャンスだと勢い込んだ時、鳴り響いたのだ。

 キュイキュイキュイキュイキュイキュイキュイキュイ!

 車の防犯センサーが作動したらしい。そして近くのアパートからあのオッサンが飛び出してきた。

「くそっ! どこだ! 出て来いや!」

「……俺たちじゃないよな?」

「離脱するよ」

 わけが分からないまま、結局これも、後日。

 なんだか1つ処理した喜びよりも、疲労感のほうが多い午後だった。

 風呂に浸かっても、出るのは一言のみ。

「なんかいい方法、ねーかなー……」

 ヤン車から離脱したあと、少し時間があったので、例のカフェ・ゴエティアでお茶をした時の会話を思い出す。

 訪問販売の人に化けるとか、サッカーボールが入っちゃったテヘ、とかいろいろアイデアは出たけど。

「問題は射撃だよなぁ……ばれるよな、絶対」

 いくらユニットバスの天井に話しかけても、帰ってくるのはいつも水滴ばかり。

 ごめんな、純。情けない俺で。いっそのこと不法侵入してでも強引に処理して回れる度胸が俺にあればいいのに。

「あ、そうだ、明日面会行こう……」

 今日1つ解放したから、記憶も少し取り戻せたはずだもんな。

 そう思うと俄然元気が湧いてきて、純のお母さんにメールすべく急いで風呂を出る。

 身づくろいして部屋へ直行しようとした俺は、リビングでの夫婦の会話を聞きとがめた。

「いやねぇ、発砲事件なんて」

「これで計4ヶ所か。ちょっと多いな」

「しかも例の事務所とは関係ないところで撃った音がしてるんでしょ? 私、怖いわ」

「大丈夫だよのぞみ。外出する時にさっさと家に帰ってくれば――」

 それ以上は聞かず、俺は部屋に飛び込んだ。

 動悸を鎮めるのに、思ったより時間がかかる。

「それでパトカーが回ってたんだ……」

 急いでスマホでニュースを漁る。さすがにトップニュースになるほどの重要度ではないようだが、市内で複数の発砲と思われる音が通報されていたこと、今日午後3時過ぎが最新の通報であったことが報道されていた。

「3時過ぎ……俺たちだな……」

 通報場所は報道されていなかったが、まさかあんな田んぼのど真ん中での音を誰かが聞いていたなんて。

「ぐ……」

 胃が痛い。見られてるかもしれないって事実が、こんなに重いなんて。

 胃薬を飲みに行く前に、荒くなった息を整え、脂汗を拭う。

 こんなカッコ悪い姿、純どころかお袋にだって見せたくない。

 その時、部屋の扉がノックされた。

「入るわよ?」

 お袋だった。床に膝を突いている俺を見て、声が上ずる。

「どうしたの? また熱が出たの?」

「あ、ううん、急に胃が痛くなって……」

 なんとか立ち上がって洗面所に行こうとしたが、お袋は俺に用事があった。

「洗濯物、出してもらいにきたんだけど」

「え? 今日はないけど……」

「あら、今日部活なかったの? じゃあどこ行ってたの?」

 ギクッ

 落ち着け、俺。

「坂部たちと遊んでたから……」

 あらそう、とあっさり納得してくれたお袋を押しのけていきたい気持ちを我慢して、一緒に洗面所へ行った。

 胃薬を飲んで、純のお母さんにメールして、課題を済ませて。

 静かな夜のひと時を、玄関のチャイムが乱した。

「まさか……」

 深那美か? こんな夜まで、侵蝕しにきたのか?

「こんばんわー、宅配便デース」

 似ても似つかない男声で、思わずほっとしてしまった。お袋を制して、親父が出たようだ。

「ああ、ご苦労様」なんて偉そうに応対している。

「えらく大きな物、買ったわね」

 お袋の声には不審さがありありと感じられる。俺も興味が湧いて、リビングをのぞきに行くと、

「……将棋盤?」

 そう、厳重な梱包の中から出てきたのは、将棋盤だった。それもちゃんと足の付いた、立派なやつだ。

 親父はうなずくと、驚くべきことを言い出した。

 ネット将棋では緊迫感が無いから、俺に対局しろと言うのだ。そりゃ俺も将棋は好きだけど、

「嫌だね」

「俺に勝ったら小遣い増額」

「ぐ……」

 これは胃ではなく、弱点を突かれた痛みの声だ。

 何度も言うけど、俺の小遣いは少ない。上の兄と姉に仕送りをしているからというのが理由だ。

 俺にお金がないわけじゃない。あのバイト代が結構な額になっているんだから。

 だからといって派手に使えば、お袋に出所を問われるだろう。チビチビ使えと深那美からも忠告されてるし。

 よし。こっちも将棋アプリで磨いた――週1、2回しかやらないけど――腕を見せて、増額ゲットだぜ!

 喜んでというのはカッコ悪い。渋々といった顔で、俺は駒を並べ始めた。



「くそっ、ケチ親父……」

 俺は部屋に戻ると、枕に八つ当たりした。

 勝負にはなんとか勝ったのだが、100円しか増額してくれない。

『当たり前だろう。いっぺんに増額したら、お前は対局しなくなる』

 完全に考えを見透かされてくやしい。

 でも一つだけ、収穫があった。

 対局中に思い出して、さりげなく訊いてみたんだ。

『今日の帰り道で、路駐してあった車が急にキュイキュイ言い出したんだけど、なにあれ?』

 親父の回答は明快だった。振動を感知するタイプのセンサーを感度マックスにしてるんだろうと。

『この北風だからな。迷惑な話だ』

 てことは、無風の日にいかなきゃいけないってことだ。それを深那美にメッセージで送ろうとして、純のお母さんから返事が来ていたことに気づいた。明日は4時以降なら大丈夫とのこと。

 どのくらい戻ったのかな、記憶。

 明日はもうちょっと、長く話せるといいな。

 笑顔も、はにかんだようなやつじゃなくて。

 俺は以前の、弾けるような笑顔を思い出しながら、お休みとつぶやいた。

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