第4話 戦ってよ、現実と

1.


 明けて月曜日の朝。俺は市民病院の来診待合室にいた。

 先週予約した精密検査を、学校を休んで受けにきたんだ。

 大げさだなとは思うけれど、医者は訴訟を起こされたら大変だからな、という親父の言葉もうなずける。

 というわけで、待合室の妙に滑る合成皮革のソファで大人しく順番を待っているわけだ。

 スマホの音消して将棋でもしてる分には暇も潰せるし。そう思って、でもなんとなく身が入らなくて。ダラダラと指していた俺の耳がそのニュースをキャッチしたのは、やはり身に覚えがあったからだろうか。

『先週土曜日の夜9時前、猪矢道いのやみち市内にある広域指定暴力団、犀光会系の事務所前で発砲があった事件は、発生から2日経った今日も犯行声明などはなく、警察の捜査は難航しています。銃弾は事務所外壁の一部に撃ち込まれており――』

 マジで、この椅子はよく滑る。今まさに俺がずり落ちたんだから。

(あそこ、組事務所だったんだ……どおりで人通りが無いはずだよ……)

 昨日、俺と深那美は朝早くに集合して、ラベル捜索と処理をしていた。パトカーとよくすれ違うなとは思ったし口にもしたけど、深那美はなんにも言わなかったんだ。あの野郎……

 同時に一昨日のあの時の、屋内から響いてきた怒鳴り声も脳内で再現されて、俺はぶるっと大きく震えながらどうにか身を起こした。

 どきどきしながらこっそり周りを見回す。

 病気で辛そうな人やテレビに見入ってる人、スマホをいじってる人などなどがいるけど、誰も俺のカッコ悪いシーンは気にしてなかったようだ。ちょっとほっとした。

 ニュースはまだ続いていて、近隣住民の話では、発砲音の後、若い男女の叫び声が聞こえたらしい。

 ああ、胃がきゅっとする。120パーセント俺たちじゃんか。

 まさか、見られてないよな。

(しばらくあの辺りには近づけないな……)

 顔バレだけじゃない、声バレだってありうるわけで。

 また胃がシカッとしたところで、名前を呼ばれた。ソノ筋の方ではなく、女性の看護師に。


2.


 検査は半日かけてようやく終わって、昼飯も食べた俺は、純の病室の前に来ていた。

 土曜日に来られなかったから、検査ついでに面会に来ようと思ったんだ。

 これは、心に突き刺さった先日の記憶との対決だった。

 また『だれ?』とか『キモい』って言われるんだろうか?

 本当に、あの光の解放で、記憶が戻ってるんだろうか?

 でも、純のお母さんに面会を告げるメールを送ったら、返事は良い感じの文面だった。

 なんせ『期待しててね』なんて書いてあったんだから。

 行くぞ、俺。

 精密検査のことも、発砲事件のこともとりあえず頭から追い払って、俺はドア脇のチャイムを鳴らした。

 返事を待って、入室する。

 そこにいたのは、お母さん1人だった。そしてもう1体、ベッドの掛布団に包まって、唸り声を上げている生き物がいる。

「……なにしてるんだ? 純」

 掛布団は盛大に震えて、のちピタリと静止した。

 しばらく黙って見つめていると、我慢しきれなくなったお母さんが吹き出し始めた。するとその笑い声がまるで呪文のように、掛布団の端に小さな丸い穴を作らせたじゃないか。

「……や、やあ、洋太君。ひさし、ぶり……」

 もうだめだ。俺も笑い出してしまった。なんかの小動物みたいに穴の中から顔をのぞかせる純がおかしくて、その赤面がかわいくてかわいくて。

 そして、思い出してもらえたことが純粋に嬉しくて。

 純もついに降参して巣穴から出てきた。こちらは照れ笑いを浮かべている。

「ごめん、洋太君。あたし、ひどいこと言っちゃったんだよね?」

「それは記憶が無いの? それとも、言った言葉がひどいかどうかなの?」

 お母さんの鋭いツッコミが決まって、赤面する純。俺はそんな赤面に笑いかけた。

「大丈夫だよ。きっとほら、意識が戻ったばかりで混乱してんだし」

「洋太君……」

 涙ぐむ純の肩に手を置く。すると、びくっと身をすくめられた。こっちもびっくりしてぱっと手を引っ込めると、

「あ、あの……ほんとにあたし、洋太君と付き合ってたの?」

「ああ、そこはまだなんだ……あ、そうだ! 写真、見る?」

 その時、お母さんが動いた。

「直正君、ちょっと廊下に出ましょう」

 わけが分からないまま腕を取られて引っ張られていく俺の視界の隅に、純の姿が映った。

 ベッドに半身を起こしてうつむき、小刻みに身体を震わせている、パジャマ姿の17歳が。



「まだね、未来写真はダメなの」

「未来写真?」

 そ、とお母さんはうなずいた。

 俺とのツーショットだけでなく、ある時点以降の写真やメールを見せると、パニック症状を引き起こすのだそうだ。

 俺が前に面会した時よりは、ようだ。なんせ面会ができたんだから。名前だって、かつて出会った最初は『ナオマサクン』って呼ばれてたんだから。

 そのことを指摘すると、お母さんは同意してくれた。

「お医者様も、珍しい症例だって首をひねってるんだけどね……」

「すみませんでした。気をつけます」

 頭を下げると、逆に恐縮された。

「いいえ、私のほうこそ、メールの返信に書いとくべきだったわ。ごめんなさい」

 そう言って、柔らかく微笑むお母さん。その顔は純にそっくりだった。

「しっかりしてるわね。そういうところを純が好きになったのかな?」

「ああええと、親父もお袋も礼儀にうるさくって……」

 照れて下を向くと、俺の手をお母さんは両手で握ってくれた。

「これからも、時々でいいから会いに来てあげてね。記憶が無いからって、縁がなくなるわけじゃないもの」

 どういう意味だろう。困った顔を読まれて、お母さんはまた笑った。

「記憶なんて、ううん、思い出なんて、また作ればいいのよ」

「あ、はい!」

 うなずくと、お母さんの顔が少し怪訝そうに変わった。

「あの、なにか?」

「ううん、このあいだお会いした時より疲れて見えて……」

 いろいろ悩み事がありまして。そう言おうとするのをやめて、曖昧に微笑んだ。

 そこでお母さんとは別れた。

 エレベーターに乗って、中で小さくガッツポーズをする。何度も、何度も。

 彼女の記憶が段階的に戻っていることは、俺が説明できる。

 俺が光を解放するたびに、彼女の記憶が徐々に戻るんだ。

 昨日、がんばって1つ解放したんだ。

 残るラベルは、あと8つ。

 だから、病院を出たところでタイミングよく飛んできた深那美からの呼び出しメールも、気持ちよく読むことができたんだ。


3.


 カフェ・ゴエティアは、先日のすかした男と、その色違いヴァージョンかと目をこすってみたくらいオリジナリティの無い男がいるだけだった。

 こっちのことなんて気にもしないでノーパソをカチャカチャやってるのが、なんかむかつく。

 そして席に座って早々、深那美はハイテンションだった。

「今日はねぇ、洋太君にダ・イ・ジ・なお話があるんだよぉ?」

「んだよ、普通に話せ」

 ふふふと笑って、幼馴染は爆弾をぶち込んできた。

「今日のお昼休みに、クラスの女子5人に体育館裏へ呼び出されました」

「……ハ?!」

 思わず上ずった声を出してしまった。

 でも、不穏な話題なことくらい、『体育館裏』というキーワードだけで簡単に察せられるじゃん?

 そしてやっぱり、ただの世間話ではなかった。

「お題はねぇ、洋太君に手ぇ出すな、だったよ? よっ、ハーレム野郎」

「んなわけねーし!」

 でも、まさか……どの子かな……

「妄想してる顔、マジキモい」

「してねぇ! んで、なに言われたんだよほんとは」

「ん? ああ、お題はマジ」

「そっちはマジかよ……」

 土日に街中を2人でうろついた(日曜日は一緒の時間は少なかったけど)のを、女子の一人にばっちり見られたらしい。

「大丈夫か?」

「ん? なにが?」

 俺は深那美の姿をつらつら眺めた。どこか破れてたり、手の甲とかに傷でもあるんじゃないか。そう思ったから。

 意味が分かったんだろう、深那美は嬉しそうに笑った。

「心配してくれたんだ」

「ああ、まあな」

「わたしがあんな泥人形に負けると思う?」

「おま……! まさか」

 小学生の時の記憶が、ふと蘇ったのはその時だった。こいつと殴り合いになった奴が言っていたんだ。

 『深那美のパンチは痛い』って。

 ゴツいわけでもないから、なにかコツがあるんだろうけど。

 でも、どうやら思い違いだったようだ。深那美はうっすら笑みを浮かべると、首を振ったのだ。

「お話し合いでカタがついたから、ダイジョーブ」

「……ああ、腕をひねったり、襟をねじり上げたり」

「洋太君の星では、そういうのを話し合いって言うの?」

「俺をエイリアンみたいにいうな! お前が小学生の時言ってたんじゃん!」

 そして明かされた話は、俺を呆然とさせるに十分なものだった。

「わたしね、説明したの」

「なにを?」

「わたし、年明けからいなくなるから。だからって」

 運ばれてきたカフェオレも、運んできた女性店員の後ろ姿も見る余裕が無い。

「あと3週間。だから、洋太君との思い出をいっぱい作りたいの」

 しんみりした気分のままうつむいて、目の前のカフェオレが立てる湯気を見つめる。そんなセンチメンタルな時間は、短かった。

 ふと目を上げると、広がっていたのだ。深那美の顔に、あの笑顔が。この悪魔め。

「洋太君に見せたかったなぁ。みんな目ェウルウルさせて、がんばってって言う子やら、一線は越えちゃダメだよとか言っちゃう子とか」

「おい」

 思わず制止して、俺は深那美をにらみつけた。

「どっちなんだよ」

「なにが?」

「いや違う、どこまでが嘘なんだよ」

 悪魔的笑顔は変わらない。

「全部ほんとだよ? いなくなるのも、思い出作りも」

「……いなくなるって、どういうことだよ」

 んふふ、と鼻で笑って、深那美はカプチーノを一口すすった。

「乙女の秘密、でございます」

「ふざけんなよ!」

 静かな店内に響き渡るのも構わず、俺は机に両手をつくと、身を乗り出した。

「引っ越すなら引っ越すって言えよ! わざと大げさに言って、俺やみんなの反応見て楽しんでるだけだろ!」

「うん!」

 全力で肯定されて、

「でも、いなくなるのは現実なんだよ、洋太君」

 戦ってよ、現実と。

 そう言われて言葉に詰まったところで、話題を微妙に変えられた。

「というわけで、3週間限定ながら、わたしと洋太君は公認カップル――」

「ちげーし」

 でも、否定が弱まっていることが自覚できる。彼女の顔を正視できないんだ。

 ほんとにいなくなっちまうのか、3週間で。本当に……?

 どう切り出したらいいのか分からない俺は気後れし、またしても会話の主導権を握られた。

「純チャンの面会、行ってる?」

「ああ、今日行ってきた」

 今までに起きた出来事を話してやると、深那美は満足そうにうなずいた。

「よしよし、順調だね」

 そしてカバンから取り出したのは、今までのバイト代未払い分だった。

「はいこれ」

 ありがたく受け取る。でも、なんつーか、

「思いっきり銀行の封筒なんだけど……ん? てことは」

 俺は封筒をカバンにしまいながら、カプチーノをすする深那美に問いかけた。

「黒幕さんに会ったんだ」

「え? うん、会ったよ」

「じゃあ、あの疑問って教えてもらえたのか?」

 なぜ、市外の高校サッカー部所有のボールにラベルが貼られていたのか。

「それがね――」

 深那美は、困ったような顔をした。

「自分たちで謎を解きたまへ、だって」

「マジかよ」

 補足説明によると、基本的にラベルがこの市内から出ることはないらしい。

「てことは、あの消えた赤丸は?」

 そう、疑問はもう一つあった。13枚あるラベルを、土曜の午後の時点で2つ処理して、残りは11枚のはず。なのに、赤丸は10個しかなかったのだ。なぜなのか。

「ああそれ、特別サービスって言って教えてくれたよ。やっぱし車だって」

 市内在住の人が使っている車であるため、先日はたまたま市外に出かけたのだろうとのことだった。

 ほっと一息、カフェオレがうまい。

 でも、納得がいかないことはまだたくさんある。

「なあ」

「ん?」

「そもそも、あの黒幕さんって、ナニモノなんだ?」

 ヒトでないことは分かる。背中に羽が生えて、空が飛べる人がいるわけがない。いくら俺がその手の知識の少ないアホたれでも、そんなことくらいは知ってる。

 じゃあ、アレはいったいなんなのか。

「知りたい?」

「お前は知ってんのかよ」

 うなずいた深那美は、しかしとぼけた。

「光を全て解放した時に、教えてあげる」と。


4.


 今日は市の北部を自転車で回ってみることにする。

 そっち方面は、俺たちには土地勘が無い。2人とも市内で生まれ育ってるけど、行ったことのない場所って結構あるもんだな。

「んー、どーやって探そうね?」

 深那美の懸念は、地図が大まか過ぎることだ。市街地は詳細な奴が吹き出しで掲載されてたけど、それ以外の地域はそうは行かないんだ。

 というわけで、ハイテクの力を使おう。

 スマホのナビアプリを起動して、目標地点をできる限り赤丸があると思われる場所に設定した。

「えーと、こっちか。よし、出発だ」

 もちろん、スマホを見ながら運転はせず、時々停車して確認しながらの探索のため、あまりスピードは出ないのだけど。

 しばらくクネクネしたのち、ひたすら真っ直ぐと分かって自転車を走らせる。意外と強い向かい風がコートの隙間から侵入してきて寒い。思わず震えていると、

「ねーねーよーたくーん」

 と後ろから間延びした声が飛んできた。

「んだよ」

「せーみつけんさ、どーだったのー?」

 結果は後日だと告げると、後ろからまた飛んでくる。とんでもないやつが。

「でもさー、こかんはつぶれてなかったんだねーよかったー」

 なんで女子高生が前から来るタイミングで、それ?

 クスクスヒソヒソに耐えるため、歯を食いしばってペダルを踏み続ける。

 脇をすれ違う時、『カノジョ』という言葉が聞こえた。

(カノジョっつうより、チジョに近い気がするけど……)

 そこで、アプリの確認をするために停車する。ふと振り返ると、痴女はにんまりしていた。

「……んだよ?」

「べつにぃ」

 カノジョと認識されたのが嬉しかったのか?

 そう訊くのもなんとなく怖くて、俺はアプリとにらめっこ。

「えーと、この先の信号を渡って左折……おい」

 近づいてきた深那美が、俺の腕につかまってスマホを覗き込んできたのだ。

「あの地図もこうやって拡大とかできるといいのにねー」

 ワイプで現在地を確認していた深那美が、すっと俺を見上げてくる。

 その瞳は揺れることなく、真っ直ぐに俺を見つめていた。まるで、言いたいことを言えない代わりに、訴えかけるかのように。

 籾井深那美。

 あと3週間で引っ越してしまう、俺の幼馴染。

 そこまで考えて、俺は逃げた。

「さ、行くぞ」

 前を向いて進むという言いわけを使って。



 そこから4回アプリを確認して、該当の地区をしらみつぶしに探し回った結果、

「……なあ? 女子高生」

「なぁに? 妄想ハーレム男子」

「ちげぇっつぅの」

 そりゃ、ちょっとだけ期待したけどさ。

 俺は横で腹ばいになっている深那美を見下ろして、小声で質問をしてみた。

「こんな場所に身を投げ出すって、女子高生的にはどうなんだ?」

「別にいいじゃん。フィールドジャケットの厚地は伊達じゃない!」

 ここは、川の堤防。それを下ったところにある草地というか藪というか、とにかく枯れたセイタカアワダチソウがたくさん茂ってる場所だ。

 正直言って寒い場所である。そこに身をかがめるだけでも嫌な感じなのに、この女子は腹ばいになって、50メートルほど向こうに立っている一軒家を眺めているのだ。

 俺たちと一軒家のあいだには、幅の広い用水と田んぼがあって、近づくには遠回りをしないといけない。そして深那美はその一軒家の敷地内にラベルを見つけていた。

 家の裏手に設置してある、プロパンガスのボンベに。

 だけど、俺が眼をこらしてみても、

「……ほんとにあれ、目標か?」

 ガス会社が貼ったシールにも見える。遠すぎるのだ。

「もーしょーがないなぁ。はいこれ」

 起き上がってもぞもぞした深那美から手渡された小ぶりな双眼鏡。それを目に当て、しばらく探すと、

『オレ-魂=カノジョ+愛』

「おーあったあった……ちょっと待て」

「なぁに?」

「この双眼鏡、今どっから出した?」

 正座した彼女がここ、と指差す場所を見て、思わず軽くのけぞってしまった。

 そこは、セーラー服の上着の中だったのだから。

 どおりで生温かいはずだよ、と考えて、余計なことがつい頭をよぎってしまう。それを隠すように、別の質問をぶつけてみた。

「お前そういや、マカロフもそこにしまってあるよな?」

「うん」

「どーなってんだ、セーラー服ん中って……」

「脱がしたことないの? のぞいたりとか」

「ねーよ!」

 ふふん、と深那美はなぜか誇らしげな顔になった。

「乙女のセーラー服の中はね、いろんなことになってるんだよ」

 そう言って立ち上がるとコートの前を払い、中腰で一軒家への接近を開始した。

(なんつーか、ほんとに慣れてるな、こいつ……)

 サバイバルゲーマーなんだろうか。注意して観察してみると、草地なのに足音もほとんど立たない。どことなく、ネコ科の動物のような足運びだ。遮蔽物の陰をするすると縫って、スカートの端をひらひらさせながら接近するのを後ろからついていく。

 目標の一軒家の垣根まで来た。裏手へは垣根伝いに回りこめばいい。車を1台やり過ごして、

「届くよな?」

「無理。当たらないよ、あの距離。そんな訓練してないじゃん」

 確かに、垣根のこちら側からガスボンベまでは、一番近いところからでも10メートルくらいある。

 せっかく見つけたのに、どうすりゃいいんだ。

 その時、途方に暮れる俺たちに声がかかった。

「どちら様? うちに何かご用?」

 家から年配の女性が出てきたのだ。話し声を聞かれたのだろう。

 焦る俺。焦らない、深那美。警官に見つかったときと同じく、今回も彼女のほうが先に口を開いた。

「友達を訪ねてきたんです。斉藤さんっていうんですけど」

「斉藤さん? ああ、あそこの角を曲がった3軒目が斉藤さんだよ。女の子でしょ?」

「はい」

 俺たちは難を逃れた。

「お前、ほんと口からでまかせ上手なのな」

「うん!」

「ほめてねぇし。でも」

 怪訝そうに見上げてくる彼女に、素直になれた。

「ありがとな。こないだの警官の時も」

「あ……うん!」

 笑顔が弾けた時、ちょうど夕陽が東の端に沈んだ。


5.


 もうすぐ夕飯よと呼ばれて、食卓の定位置に座っていると、遅れて親父がやって来た。そして、何かを焼くジュージューという音をBGMに、俺の胃は突然のストレスにさらされることになった。

 座って開口一番、親父は俺を見すえてこうつぶやいたんだ。椅子の背にもたれて、偉そうに小首を傾げて。

「なかなかに詩的な表現だな」

「? は?!」

「叙情的というべきか」

「意味分かんねーし」

「どようびのはっぽう」

 胃を押さえるのをこらえて、意味が分からないで押し通そうとする俺。

「硝煙臭い高校生男子」

 我慢しても、顔の筋肉がひくつくのを抑えられない。耐えろこらえろ俺。

「お前――」

 ここで親父はのっそりと身を乗り出してきた。俺が今まで見たことのない光を、レンズ越しの眼に宿して。

「土曜の夜、どこに行ってた?」

「……市営グラウンドで自主練」

 自主練があったこと自体は嘘じゃない。部活のメニューだけでは不足だと思う部員がSNSで連絡を取り合って、市営グラウンドの使ってないスペースで自主練習をしているんだ。

 もちろん昨夜、俺はそれに参加していない。『最近、付き合い悪いよな』なんて言われながら。

「証言できる人間がいるか?」

 だから、いるわけがない。

 でも俺は、だてにこの家で17年生きてきたわけじゃない。

 親父がこういう物言いをしてくる時、対処法は一つ。

「あなた、洋太に変な言いがかりはやめてください。さあお待たせ」

 お袋が助けに来てくれるまで凌ぐのだ。今回もそれは成功し、親父の眼の光は消えた。

 食事中は日常会話に終始し、食器を洗いに行くのかと思いきや、お袋が俺の横に移動してきた。

「ねぇねぇ、純ちゃんの具合はどうなの?」

 午後に深那美にした説明をまたすると、お袋は首をかしげた。

「大変ねぇお母さんも」

「そうかな? 徐々に記憶が戻ってきてるんだし」

 お袋は俺の反論を聞いても首を振る。

「だって、勉強も遅れちゃうし、しばらく寝たきりだとリハビリも大変だし。お仕事はしてらっしゃるのかしら?」

 そこはよく知らないが、確か保険の外交員とか純が言っていた気がする。

 結局お袋は大変ねぇと連呼しながら流しへ向かい、俺は風呂に向かった。何か言いたそうな親父を避けるように、いそいそと。

 湯船に浸かって、昨日や一昨日より充実感がないことに気づく。

「ああそっか、今日は解放してないや……」

 あのガスボンベ、どーしよっかな。

 あれ以上近づくには、不法侵入だよな。

 でもなぁ……

 解決策も思いつかず、頭と身体を洗ううち、ふと疑問が湧いた。

 急いで流して湯船に浸からず、風呂から出たところで台所のお袋に呼びかける。

「このマンションって、プロパン?」

「違うわ、都市ガスよ。なんで?」

 そりゃ突然息子からそんなこと質問されりゃ、ね。

 適当に言い繕って、質問に移る。

「プロパンのボンベって、補充しに来るの?」

 お袋の回答は明快だった。

「違うわよ。業者さんが定期的に交換に来るのよ」

 ……やばい!

 俺は服を着るのもそこそこに、深那美と作戦会議をするべく部屋へとすっ飛んでいった。



『なんで? 逆にチャンスじゃん』

「なんでだよ」

 焦って電話したのに、深那美の声は至って平静だった。

『あのお宅に侵入してマカロフぶっ放せないじゃん? それなら業者が回収した時を狙って――』

「授業中でもか?」

『……おぅふ』

 なんだよそのリアクションとツッコミを入れ、土曜日に回収があることを祈るしかないね、という話になった。

 正直、くやしい。ラベルのありかが分かっているのに。しかも、次はどこのお宅に行くか分からないんだ。その思いからか、ちょっと震えが来る。

『明日はどこ行こうね』

 彼女の声はまったく焦っていない。明日は部活があるからダメだと答えると、彼女が独りで探すと言ってくれた。

 頼むと言った後、ふと疑問が口を突いて出る。それはずっと心に抱いていたものだった。

「お前はさ」

『ん?』

 俺はベッドに寝転んで、天井を見上げた。

「俺のこの、バイトっていうか、手伝ってなんになるんだ?」

『そりゃあもう、洋太君のためならエーンヤコーラ、だよ?』

 そう茶化す声は、冗談ともつかない色が混じっているような気がする。

 俺はまた逃げた。決定的な一言を言われるのが怖くて。

「本音は?」

『娯楽』

 この野郎。

「そういえばさ、お前のそのピストル、なんでそれにしたんだ?」

 実は気になって、ネットで調べてみたんだ。その結果、マカロフよりも、もっと女性向けの小型のやつが世の中にはいっぱいあることが分かった。

 そういうのにすれば、俺に頼らなくてもよかったんじゃないのか。

 対する深那美の答えは、単純明快にして頭が痛くなるものだった。

『だって、マカロンみたいでカワイイ、って思ったから』

「……たった1文字でエライ違いだな」

 正直言って、手の小さな深那美ではもてあますだろうに。今日の午後、俺の腕に乗せてきた、あんなかわいい手じゃ――

『どうしたの? 洋太君』

 呼びかけられて、俺は赤面のままぶっきらぼうになった。

「もう切る。じゃな」

 それから慌てて付け加えた。我ながら小心者である。

「明日、頼むぜ」

『 Sir, yes sir 』

 あの服装といい、実はミリオタなのか?

 こういう時のうまい返し方を知らない。変に気取って外したらカッコ悪いので適当に返答して、通話を終えた。

 タイミング良く、お袋の呼ぶ声が聞こえる。コーヒーが入ったみたいだ。

 両方のほっぺたを叩いて気合を入れ直す――なんでそんなことをしなきゃけないのか、自分でも分からない――と、リビングに行った。

 コーヒーのいい香りがするが、ここで『俺、ブラックで』なんて中2病は卒業している直正洋太(17)である。お袋に勧められるままに牛乳を入れて、席に座った。

 学校のことや部活のことなんかを話しているうちに、ふと、深那美のことを訊いてみたくなった。

「なあお袋、籾井深那美って覚えてる? ほら、小学校の頃俺がよくつるんでた」

「籾井……ああ、あの男の子みたいな女の子?」

 的確すぎる表現に吹いて、うなずく。

「そいつが今同じ学校にいるんだけど、年明けから引っ越すみたいなんだ」

「あらそう、お仕事の関係かしらね……1月からっていうと、もしかして海外勤務だったりして」

 海外という言葉に、心臓が跳ねる。そんなこと、考えてもみなかった。

 てっきり日本のどこかだと思ってたのに……あいつがなんだか消えてしまうような物言いと表情をしていたのは、そういうことだったのか。

 気がつくと、お袋の楽しそうな顔にのぞきこまれていた。

「あらあらまあまあ、純ちゃんだけじゃなかったのね。おぬしもワルよのぉ」

「ちっげーし! 俺は純だけだっつーの!」

 言った瞬間大後悔。お袋は涙を流すほど大笑いし、俺はまたも敗北の苦いカフェオレを飲む破目になった。

 しばらくして、やっと笑いの収まったお袋が、目尻から涙を拭いながら言った。

「いいじゃないの、それだけはっきり断言できるなんて。やっぱりお父さんの子ね」

「親父? かんけーねーって」

 なんとなく、不愉快だ。

 でも、お袋はそんな俺の思いや態度なんて関係なく、馴れ初めの時のことをしゃべりだした。大学の時、サークル仲間の前で、断言したんだとさ。

『この子は俺のカミさんになる子だから』

 って。

「お父さんはもててね、ライバルがいっぱいいたのよ」

「マジ?」

「ええ、みんな今どうしてるのかしら。良い人見つけてるといいんだけど」

 あのクソ親父がねぇ。似てるなんて絶対に言われたくないのに。

 苦いものを無理やり飲み込んだような顔をしていると、お袋に笑われた。

「大丈夫よ」と。

「? なにが?」

「お引越ししちゃっても大丈夫よ。今はメールとかもあるんだし。連絡なんていつでも取れるじゃない」

 いや、そのことでこんな顔してるわけじゃないんだけど。

 そう言おうとして、でもお袋の言葉に納得して、すると突然くしゃみが出た。

「あらいけない、もう良い子は寝る時間ね」

「子ども扱いすんな」

 お袋の心配をあしらって部屋に戻り、布団に潜り込んだ。でも、結局ツレとの交信で夜遅くまで起きていたんだ。

 お袋に相談して安心した自分と、親の言うことなんか聞けるかという反発心を抱えた自分と。2つがせめぎ合いながら。

 俺の自堕落は、痛い現実となって翌日に跳ね返ってくることになる。

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